第4話

文字数 2,319文字

 女の人は、とかく世話焼(せわや)きというか気の利く人間だった。3度の食事はきちんと用意してくれるし、こまめに俺の便の始末もしてくれる。この子はきっと、いい奥さんになるだろう。おかげで俺は何不自由なく過ごす事ができた。しかも、全然俺を捨てる気はないらしい。何だか俺は悪いような気がした。
 世話してもらっているうちにこの子のこともだんだんと分かってきた。名前は侑子(ゆうこ)というらしい。年は24歳。彼氏はいないらしい。派遣会社の社員をしているというのが分かった。派遣という職業柄、仕事の時間帯はバラバラで不規則(ふきそく)に家を空けることが多かった。休みの時でも欠員が出たときには、真っ先に電話がかかってくるようだった。侑子も律儀(りちぎ)に応対して急の仕事でもわざわざ出勤する。そういう時にも、きちんと自分が帰ってくるまでの分の俺のえさや水の用意をしてから出ていってくれた。
 現在、彼女は父親と2人暮しをしているようだった。母親は侑子が中学生の頃に他界してしまったらしい。父親は完全無職。まるっきり働く気がないという。昼間はよく家を空けるが、外で何をしているか分からない。働きに行っているということはないようだ。夕方に家に帰ってくると、適当に冷蔵庫をあさって飯を食べ、テレビを見ながら寝てしまう。煙草を吸うのはこの父親らしい。親子仲は悪く、2人はほとんど会話を()わさない。たまに会話をしたとしても、例のように険悪な雰囲気になるだけのようだった。

 侑子は仕事でしょっちゅう家を空けるけど、家にいるときはとかく俺に話しかけてくれる。仕事の失敗談でも、買い物で得した話でも何でも、「クラッシュ、聞いて!」と明るく打ち明けてくれるのだ。表面上は気丈(きじょう)に振る舞っているが、実は相当なさみしがり屋なんだろうなという気がする。話し相手が欲しかったのだろうか。
 俺は他に特にする事もないので、ひたすら侑子の話を聞いている。けれど、あまり内容には注意していない。それよりも声音(こわね)に注意を向けて、侑子の精神状態を洞察(どうさつ)している。俺は目が見えない分、耳がいい。ゆえに声色(こわいろ)で胸の奥に隠された感情を色々感じてしまう。人間は、言葉の上じゃ何とでも言える。だから、言葉の内容には表れない心理状態こそを感じ取るのが大事だと思っている。俺は声色でそれを聞き分けられる能力があるのだ。それは(けもの)に単純に身についている能力かもしれない。俺は獣が人間よりも劣等(れっとう)だとは思っていない。獣は言語をしゃべれない分、鳴き声の声色で相手に情動(じょうどう)の多くを伝える。つまり、獣は声音で人間なんかよりずっと直接的で嘘のないコミュニケーションを重ねてきたって事だ。それができずに言葉に頼って相手の本質や気持ちを理解しない人間とは違うんだ。
 なんで人間は言葉に頼るばかりで、声音や表情をきちんと手がかりにしねえんだ。明らかに本音ではない言葉にも、当たり前のように納得してしまうんだ。それは人間がほとんど自分の中の願望でしか物事を考えられないからだろう。そして、自分自身の中にある願望に()った形で他人の言葉を解釈するからだろう。自分に何らかの願望があれば、他人の言葉もその願望に添うように期待して解釈しているんだ。楽しくありたければ、楽しいように解釈する。面倒に巻き込まれたなくなければ、巻き込まれないように解釈する。愛されたければ、常に周りから気にしてもらっているように解釈する。憎みたければ、憎めるように解釈する。自分が嫌いであれば、周りに馬鹿にされてるように解釈する。真相はその通りでなかったとしても、自分の認識が先にあって、それに相手の言動をあてはめてより固定化した自分の世界を生き続けるだけだ。だから、誤解も起こるし、勝手なイメージを植えつけて相手のありのままの姿を認めようとしねえ。本当は、己の願望に対する執着(しゅうちゃく)を捨てて一面的な価値観を脱却(だっきゃく)しないと、他人の本当のあり様や望む事なんて見えねえんだけどな。
 とにかく、俺はいつも声のトーンを意識して聞いているし、自然なトーンと不自然なトーンを感じ取れてしまう。自然な感情のままに出した声か、心を(いつわ)って無理に出した声かが感じ取れるのだ。侑子がよく不自然に明るくしてるのが分かる。この子は決して元気で明るい子なんじゃない。元気で明るく振る舞おうと努めてる子なんだ。だから、心の無理が()けて耳に届く。それが妙に痛々(いたいた)しくてたまらなくなる。
 確かにこの子の環境は幸せとは言えないものだった。母親はとっくの昔に他界し、父親と2人でアパートに住んでいる。このアパートも、お世辞(せじ)にもいい環境とは言えない。部屋も広くはないし、日当たりもよくないようだ。隣には頭のおかしな男が住んでいて、時々訳のわからないことを(わめ)いている。それがたまにこちらの部屋にも響いてくる。不愉快(ふゆかい)な事このうえない。
 さらに、父親はろくに働かず、家計はこの子が支えている。
「本当は美容師になりたかったんだけどねえ。お母さんが死んでから、お父さんは働かなくなるし、それどころじゃなくなっちゃった」
侑子はぼんやりとした声でそんなことを言っていた。今は生活していくので精いっぱいだという。侑子は定時制の高校に通って、高校卒業後すぐに勤め出したらしい。親しい友達も少ないようで、普段あまり遊びにも出かけない。休日には、一人でテレビを見ながら裁縫(さいほう)をしたり小物を作っているようだった。
侑子は「私って貧乏性(びんぼうしょう)なのよね。趣味と実益が()ねられないともったいなくて」と笑っていた。
24歳のうら若い女の子がそんな生活を続けてていいのか、と心配になってしまう。それでさみしくないのか、と思う。けれど、今は自分の生活状況が恥ずかしくて出会いを求めるような気になれないらしい。
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