第29話 時代錯誤

文字数 2,035文字

 石上のプレーからインスピレーションを受けた詩は、家に帰り着くとすぐにピアノの前に座り、コンクール用の曲と向かい合った。
 あのコートが静まり返った一瞬と、はじける歓声。
 もっともっと。強弱と間が圧倒的に自分に足りなかった。
 詩は時間を忘れて鍵盤に没頭した。

「お嬢様」
 インターフォン越しの葉子さんの声で我に返る。時計を見ると、もうすぐ夕方だった。
「石上様がいらっしゃってます」
 へえ、珍しい。さんちゃんが家に来るのは幼稚園の時以来だ。
 友達を選びなさい——
 玄関の扉を開けると、さんちゃんがポカンと口を開けて家を眺めている。
「なんか、幼稚園の頃より一段と家がデカくなってないか?」
「そんなわけないでしょ。どしたの? うちに来るなんて珍しい」
 幼稚園のあのとき、誰にそう言われたわけじゃないのに、「うちに呼んではいけないとのは、さんちゃんだ」と詩はなぜか勝手に思ってしまったのだった。なんでそう思ったのか、今の自分でもわからない。
「ん」右手で差し出したケーキの箱。「詩子んとこは、もっといいものを食い慣れてるかもしれないけど」
 左手に、もうひとつ箱を下げている。
「えっ、なに?」
「今日、応援に来てくれたお礼。ありがとな。勇気出たわ」
 それだけ言うと、石上がクルッと背を向け門の方へ歩き出した。
「あっ、さんちゃん。少しぐらい上がっていかない?」
 振り返った石上が驚いた顔をして少しためらったみたいだが、詩が大きく玄関の扉を開けると、いくら背が高くても当たるはずもない玄関の入り口を、石上は背を丸めるようにして入ってきた。

 詩の部屋へ入った石上は、借りてきた猫のようにおとなしい。葉子さんが出してくれた紅茶と、詩の父の外国土産のクッキーをポリポリ食べている。そういえば、幼稚園の時も外では賑やかなのに、家に呼んだらすごくおとなしかった記憶がある。
「どしたの。黙り込んでさ」
「いや、なんか圧倒されんだよな、詩子んち。それにここは女子部屋だしな」
 どうやら石上なりに気を使っているらしい。
「あっ、そうだ。ちょっと聴いてくれる?」
 詩はピアノの蓋を開けると、ひとつ大きく呼吸をしてピアノを弾きだした。
 石上は初めて聞くはずだ。
 弾いたのは、詩が作った「君に、届け」だった。

「どう?」
 一曲弾き終わって、石上に聞いた。
「よく知らないけど綺麗な曲だな。これもクラシックの曲なの?」
「違うよお。私が作った曲よ。ちゃんと歌詞もあるんだからね」
「へえ、詩子ってそんなこともできるんだ。さすがだな」
 感心する石上の正面のソファに詩は座った。
「この曲はね、秋の学園祭で私がステージで弾く予定の曲なんだけど、実はね、音ちゃんが歌うんだ。綺麗なドレス着てさ」
 パッと石上の顔に反応があった。なんてわかりやすい——
「つーことは、音ちゃんの格好になってドレス着んの? あの恥ずかしがり屋がよく引き受けたな。それに、学校の連中は知らないんだろ、和音のこと」
「もちろん、誰も知らないよ。ちょっとメイクとかして謎の少女って設定にするからね。それでさ——」
 ちょっと紅茶を含む。
「今日、音ちゃんに応援してもらって頑張れたんでしょ? じゃあ、代わりに今度はさんちゃんが学園祭に来てあげて。音ちゃん、まだすっごい恥ずかしがっててさ。だから、さんちゃんが来るって言ったら勇気出るよ」
「でも、かえって恥ずかしがらないかな」
「大丈夫に決まってるじゃない。彼氏が来て喜ばない女子はいない!」
 ニヤッと石上の愛想が崩れたが、ハッと顔が正気に返った。
「いやいや、俺たちは親友。マブダチ。彼氏彼女じゃない」
 手を顔の前でブンブンと振る。
「でも、音ちゃんになった時のあの子、めっちゃ可愛いでしょ? なんかさ、音ちゃんには『恥ずかしいから絶対言わないでえ』って口止めされたけど、本当はさんちゃんにだけは——実はまんざらでもなさそうなのよね」
 ちょっとからかってみたくて、生まれつきの小悪魔が顔を覗かせた。
「い、いや。そ、そりゃ俺たちは、と、友達だし。でも、男同士だし——」
 笑っちゃうくらい、さんちゃんが動揺してる。
「あら、私は否定しないよ。もう男女の間にしか愛が成立しないなんて、時代錯誤もいいとこよ。だかあさあ、もしさんちゃんが女子の方が好きな人だとしても、むげに断っちゃダメだからね。傷ついて泣くよ、音ちゃん。せめて、あの子の心だけでも優しく受け止めてあげてね、親友なら」
 いけない。頬の筋肉が痙攣して崩壊しそう。
「お、おう。当たり前だ。俺は親友としてこれからも大切にするからな」
 顔を真っ赤にして、石上が自分の胸を叩いた。
「これから音ちゃんちにも行くんでしょ、そのケーキ持って。いい? 今言ったことは音ちゃんには内緒だから、顔に出さないように気をつけてね」
 石上は勢い込んで立ち上がって、壁の鏡で自分の服装を整えて「じゃあ、行ってくる」と詩の家を出て行った。
 ちょっとからかいすぎちゃったかな——
 少し心配になった詩であった。
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