第27話 ワルキューレの騎行

文字数 2,281文字

 あっ、いたいた。
 詩が通路から下を見ると、最前列に和音が見えた。
 試合は第4クォーターが始まったところで、石上がいる修徳工業高校が少し負けていた。
 観客席の階段を駆け降りて、詩は和音の肩をポンと叩いた。
「あれ? 詩ちゃん、今日は来れないって言ってたのに」
「なんかねえ、課題曲の表現に行き詰まっちゃって。気分転換に勝手に練習をお休みしちゃった」
 詩は最前列の柵に両手を掛けて、和音の隣に立った。
 課題曲となっているバッハの平均律もベートーベンの月光も、それこそ小さい頃からどれだけ練習をしてきたかわからない。これ以上、どこを目指せば今までの自分を超える表現ができるのかわからなくなっていた。だから、一旦ピアノを離れてみようと思い、思いついてここまでやってきたところだった。
「さんちゃんは?」
「まだベンチ」
 和音が顎で指し示したベンチで、石上が座っていた。
「さんちゃーん、がんばっ!」
 詩がその背中に向かって声援を送ると、石上は試合に出られていないもどかしさなのか、振り向きもせずに左腕で控えめに小さく拳を上げた。
 また別の聖華女子が現れた——
 そんな感じでベンチにいる他の控えメンバーがチラリと詩と和音の方を振り向いて、その一人が石上の頭をまた叩いた。

 ゲームは一進一退。同点に追いついたかと思うとすぐに3ポイントシュートで引き離される。ファールを取って2本フリースローを決めても、1点差で足踏みを繰り返した。
 残り5分となったところで初めてウォームアップの指示が出たらしい。石上ともうひとり、ベンチサイドで軽く足踏みをしながらアップを始めた。
 お願い。さんちゃんを出して!
 詩の必死の祈りが通じたのか、アップを始めた二人が監督に呼ばれ、何か指示を受けてコートサイドの近くに立ち出番を待っている。
 コート内で笛が吹かれた。相手チームのファールだ。
 そのタイミングで修徳ベンチは選手を入れ替える選択をし、勢いよく石上ともうひとりがコートに入った。
「さんちゃーん」「石上君!」
 詩と和音が声を張り上げると、石上は今度はしっかりと右手の拳をを築き上げて応えた。
 残り時間は3分を切っていた。得点は4点差に開いている。
 修徳工業のフリースローから試合は再開された。
 ポイントガードの選手が1本目を決めてグータッチを交わし、2本目の体勢に入る。
 大きく息を吸ったあと、その手から離れたボールは願いも虚しく惜しくもリムに弾かれて横に跳ねた。
「あー……」
 応援席から大きなため息が漏れた瞬間、選手たちの中から猛然と石上がボールに突進した。石上は自分より大きい相手チームのセンターに負けじと、そのリバウンドしたボールをもぎ取ると、すぐさま相手の隙間から近くの選手にパスを出し、そのままその選手が切り込んで見事にレイアップを決める。
 得点した選手から、石上が肩を叩かれて派手なガッツポーズで応えた。これで1点差となり、一気に逆転の望みが出てきた。
 詩と和音も声を枯らして石上の名前を連呼した。

 どこかの誰かの音頭で修徳側の観客が一体となり声援を送る。
 Dフェンス、Dフェンス——
 一点差だ。ディフェンスを固めろ! そんな声援だ。
 そこからゲームが膠着した。相手も修徳も追加点がなかなか入らない。
 その中で石上は、さらに2本のリバウンドをもぎ取る活躍を見せるが、パスを受けた選手たちのボールが弾かれた。
「時間がない」
 和音が時計を見て言う。電光掲示板の表示はすでに1分を切っている。
「大丈夫。今日のさんちゃんはいい顔してる。ここからワルキューレの騎行が始まるわ」
「わる?」
 意味がわからない和音に聞かれた。
「ワグナーよ。ワルキューレの騎行、聞いたことない? ここから絶対逆転するから信じて祈って」
 勇ましいワグナーの名曲に乗って、さんちゃんの進撃がきっと始まる。さんちゃんは小さい頃から、ここぞという場面で結果を出してきた。

 そしてあと5秒を切ったところで、相手が放った3ポイントシュートがリムに弾かれて、そのボールを再び石上がもぎ取ったが、囲まれて動けない。
 あと2秒——
 相手ゴールまでが遠すぎる。
 あと1秒——
 体をクルリと回転させた石上が、相手選手の間をすり抜けたかと思うと、ボールを思いっきり相手ゴールの方向へ高く放り投げた。
 その瞬間、無情にも試合終了を告げるブザーが鳴った。

 だが、石上が投げたボールはまだ空中を飛び続け——場内にいた全員が思わず息を呑んで見つめる中、ボールはそのまま相手ゴールへ吸い込まれていった。
 ブザービート——
 それは修徳工業高校の大逆転劇だった。

 もう修徳側の観客席はお祭り騒ぎだった。詩と和音も抱き合って喜び、そこへコートから自チームさえも置き去りにして石上が一気に観客席にいる詩と和音のところへ駆け上がり、二人まとめてハグをした。
 詩と和音もしっかりと石上の汗臭い体に抱きついたのだった。

「そっか。ブザービートか」
 和音と帰る途中、詩はハッと思いつくことがあった。
「ブザービートがどうした?」
「メリハリよ、メリハリ。私のピアノに足りないものはこれだったのよ」
 石上が放り投げたボールが空中を散歩している間、あんなに大勢の観客がいた会場から一切の声が消えた気がしたのだ。そこはまるで音がない美しい世界のようだった。
 そして、ボールがゴールを揺らした瞬間、一気に歓声が沸き起こった。
 ただ鍵盤と楽譜を追いかけていた自分が見えなくなっていたものを、今日見つけた気がしたのだった。
 今日、無理にでも休んできてよかった。心からそう思った詩であった。
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