第34話 詩ちゃん、大事件です!

文字数 2,338文字

「背中のS字ラインを意識して、椅子には浅く座って」
 ロダンに着いてガーデンの椅子に座ると、和音は詩からそう言われ、あらためて背筋をピンと伸ばして待っていると、店の入り口に石上が見えた。
 ——音ちゃんはできるだけしゃべらないで
 小声で詩が言い、石上に向かって手を大きく振って呼び寄せた。
「ごめんね、急に」
「いや、暇だったからいいんだけどさ」
 石上がチラリと和音を見る。
「この子、なごみちゃんって言うの。よろしくね」
 詩の紹介に合わせて、和音はほんの少しだけ右に少し傾けて頭を下げた。長いストレートの黒髪が重力に引っ張られるように真下に垂らされた。
「あっ、石上です。バスケの試合を見てくれたんだって?」
 石上が少し気取って言ったが、和音は詩に言われた通りに少し声のトーンを落とし気味に、石上を一瞬だけ見て「ええ」とだけ言い、おもむろに右下へ視線を外した。
「なごみちゃんは恥ずかしがり屋だから。この間、バスケやってる時のさんちゃんを見てときめいたんだって。ねっ」
 詩がフォローを入れる。
「別に」
 和音はわざとぶっきらぼうな言い方をして、ショルダーバッグを手に立ち上がると、
「で、私と遊びに行くの? その気がないなら私、帰るけど」
と石上にいう。
「さんちゃん、お願い。一度だけデートしてあげて。なごみちゃん、こう見えてさんちゃんにベタ惚れなんだよ」
 和音にも聞こえる程度のわざとらしい小声で詩が石上に言う。
「まあ、詩子の頼みならな。今日だけだぞ」
 石上もわざとらしい小声で詩に言って、やれやれという感じで椅子から立ち上がった。
「で、どこに行こうって——」
 石上がそう言いかけたときには、なごみ——和音——がさっさと背を向けて店の出口へ向かって歩き出したのだった。

 石上は少し不機嫌そうだった。もともと優しい男なので、何かとなごみに気を使っているのだろう、色々話しかけてきたが、なごみはあえて「ええ」とか「はい」とか短い返事を返し駅前へ向かって歩き続けた。
「あのさ。まあせっかくのデートなんだし、もう少しお互いのこととかしゃべって——」
 石上が話しかけている最中、なごみは振り向かずに足をぴたりと止めた。
「ここ」
 なごみが小さな声で言い顎で示した先は、映画館だった。
 これは詩のチョイスだった。あまりにも長い時間しゃべっていると、さすがの石上も気がついてしまうかも知れない。二人だけの時間を作るなら、ペアシートのある映画館だ、という。
「映画か。しばらく見てないや」
「どうすんの?」
「まっ、行こうか」
 石上がそう返事をしたときには、何を観るか石上には聞かず、なごみはサッサと窓口でチケットを購入した。実は軍資金はこの計画を組んだ詩の出資だ。
「ペアシートでいいよね」
 右手の人差し指と中指でチケットを挟んで顔の前に上げ、石上に見せる。購入したのは話題の「円(まどか)」という恐怖映画だった。
「なんでもいいや」
 たぶん石上もいい加減うんざりしていたのかも知れない。どうでもいいや、そんな感じでチケットを一枚、なごみのその指から引き抜くと、先に歩き始めた。
 今度はその後ろを小走りになごみに変身した和音は追いかけ——石上の左腕に右手を通すように回して掴んだ。
 石上の「えっ?」という表情をして、少し恥ずかしそうに周りを確認する。そして今度はなごみの歩みに併せて歩幅を狭めた。
 これも、すべては作戦通りだった。「ツンデレ」の「ツン」も「デレ」がないと効果がないと詩が言った。「ツン」と「デレ」の使い分けが難しいと和音は思いながら、ここというところで腕を組んだタイミングはどうやら正解だったらしい。
 そして、また石上が話しかけようかというタイミングを見計らって腕を解き、ポップコーンが食べたいとポツリと言い、石上を置き去りにして、一人で次回の予告ポスターをプラプラと見く。
 案の定、石上はリクエスト通りにポップコーンと炭酸を買って両手に抱えて帰ってきたところで、入場が始まる。
 なごみが石上を見ずにスッと劇場へ向かい先にペアシートへ座ると、石上が少し遅れてやってきて隣に座り、なごみに飲み物だけを渡してポップコーンは自分の膝に抱え、なごみが食べやすいように差し出した。
 さすが石上君、少し機嫌が悪そうだけど、こんなときにも彼らしい——

 場内が暗くなり映画が始まった。会話を諦めたように石上はほとんどしゃべらずに、映画を観ている。
 さて、もう一度。
 スクリーンだけが明るい場内のペアシートで、なごみはそっと頭を石上の肩に預けた。石上の顔は見えなかったが、彼の左腕が置き場所を探しているのがわかったので、少し体を前に倒すと恐る恐るなごみの左肩に回ってきて、肩を抱かれる形となった。

 ここまではいたって順調だった。詩の言うとおり石上は「なごみ」という女の子が和音であるとは、どうやらまったく疑っていないらしい。
 石上の胸に耳を当てていると、彼の少し早い心臓の鼓動が聞こえる。
 他人の心臓の音って、こんなに気持ちいいって知らなかった——
 実際、映画などどうでもよかった。「なごみ」に扮した和音はもっと心音を聴きたくて、石上の胸に頭を寄せ、その肩を石上が思わぬ力でグッと抱き寄せた。
 肩を引き寄せられて反射的に和音が顔を上げると、そこには思っていたよりもずっと近いところに石上の顔があった。この体勢だとこんなに顔が近づくことを和音は初めて知った。
 それは二人が視線が絡まって2秒ほどだったか。石上の手が肩を離れたかと思うと、頭を引き寄せられ、そして少し石上が少し上から被さるように——和音はまったく抵抗する間もなく、その赤いリップを塗った唇を吸い込まれていた。
 上杉和音、十五歳の春——
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