第41話 フォルテシモの「月光」

文字数 1,927文字

 課題曲はベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ、「月光」だった。
 この「月光」は、ハイドンが確立した通常の3または4楽章から構成されるピアノソナタと呼ばれる曲とは一線を画す異質な曲調だ。
 そもそも、この「月光」という題名は通称であり、本来は「チェンバロまたはピアノのための幻想曲風ソナタ」というのがベートーヴェンがつけた曲名だと言われている。
 幻想曲とは意味としては即興曲に近く、形式にとらわれない自由な曲という意味だが、通常のピアノソナタが第一楽章を軽快または壮大に、第二楽章はゆったりと、第三楽章がある場合は舞曲(ロンド)として、そして最終楽章を華やかな曲という形式で構成されるのとは違い、この「月光」だけは、ゆったりとしたフレーズが延々と続く曲となっていて、ピアニストがどのようにこの曲を解釈するのか、その表現力などを試される難曲でもある。

 もうひとつの課題曲であるハイドンは我ながら上手く弾けた。観客席の反応からも、いい出来だとわかった。
 さあ、あとベートーヴェンの月光。この曲が終わったら、まったく新しい音楽を音ちゃんと始めるんだ。考えるだけで胸がワクワクする。
 何気なく見た観客席の最前列に、両親と和音、その隣には石上の顔が見えた。
 さんちゃん、クラシックなんて聴かないのに、あそこにいるのはなんか変な感じ。あっ、いけない。集中、集中——

 詩は中空を見上げてから目を閉じ、大きく深呼吸をして鍵盤に静かに両手を置いた。
 いきなり頭の中で——「君に、届け」が鳴り出した。
 慌てて手を鍵盤から離す。もう一度大きく深呼吸をして、再び鍵盤に向かう。
 あれ? 私、何を弾こうとしてたっけ。
 頭の中が真っ白で。
 あっ、ベートーヴェンの、ベートーヴェンの……「悲愴」、じゃなくって。

 ピアノの前で西園寺詩が動かないことに、観客がほんの少し騒めき出した。

 そうだ。月光だ——

 唐突に鍵盤を叩き、詩の演奏が始まった。
 フォルテシモで始まる異質な「月光」が。

 ⌘

「まあいいのよ。どうせ最後のコンクールだったし」
 くるくる回る円卓に載せられた豪華な中華料理を頬張りながら詩が言った。その話題にそこにいるみんなが触れないようにしていた矢先のことだ。
「音ちゃん、食べてる?」
 話題を変えてみる。
「うん。もうお腹いっぱいになるくらい食べてるよ」
 そういう和音は、こちらから見ていても少食だとわかる。
「だいたい音ちゃんは食べなさすぎるんだよ。井坂先生が心配するのもわかるわ」
 保健の井坂先生は、あれから何度か「上杉さん」の健康状態を窺いに教室まで足を運んできた。
 あのとき保健室で先生が見たのは「上杉音」になった和音だったため、先生が来ると和音を机の影に隠し、「あれ、さっきまでいたんですけどお」などととぼけて詩が上手くごまかした。クラスのみんなは先生のいう「上杉さん」とは男子の上杉和音のことだとまだ思っているだろう。
「だって、お腹いっぱいなんだもん」
「まあまあ、詩さん。食事は無理して食べるものじゃないんですよ。楽しく食べることが大事ですから」
 ママが「無理しなくていいんですよ」と和音に声をかけている。
「それにしても石上君は豪快だねえ」
 パパが笑いながら言う側から、次々と石上のお腹に料理が収まってゆく。
「うまいっす」
「遠慮せずにどんどん食べなさい。音さんの分も片付けてあげてね」
 ママも目を細めて見ている。
「あざーす」
 この男は、まったく遠慮というものを知らない。
 おかげで、さっきまで少し暗かったみんなが、いつの間にか笑顔になっていた。

 月曜日の朝は——特に今日は憂鬱だ。
 あれからずっと「月光」が鳴り続けている。ピアノの前で、みっともなく慌てふためいて弾いたベートーヴェンを思い出して眠れなかった。
 なんであんな風になったのか、何が起こったのか自分でもわからない。ただ、あのとき何も考えることができなくなっていた。

 制服を着て、鏡の前に立つ。寝不足で青ざめた顔。
 ——ひどい顔ね
 そう言葉を投げつけた。

 朝ごはんも食べずに家を出た。詩が朝ごはんを食べないなんて、おそらく初めてのことだったので葉子さんがずいぶん心配していた。
「大丈夫だから」
 できるだけ元気に手を振って学校へ向かった。

「詩ちゃん、どうしたの。顔色悪いよ?」
 教室に入ると、和音が静かに近寄ってきて言った。
「何が? なんともないよ」
 詩はそう言って、和音の背中をポンと叩いた。
 不健康な顔色代表の和音にまで言われてしまった。気をつけなきゃね。
「ねえ、音ちゃん。今日から学園祭用の歌の特訓をするからね。学校が終わったら、毎日家に来て」
 そっとそう言うと、和音は小さく頷いて自分の席へ戻っていった。
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