第10話 石鹸の匂い

文字数 1,887文字

「ねえねえ和音、もしかして彼女できた?」
 土曜日、和音が詩の家から我が家に帰ると、母から突然言われた。
 聞けば、少し前に買い物から帰ってくると、マンションの入り口に和音と同じ学校の制服を着た女子生徒がいて、急に何か思い出して、慌てたようにダッシュして帰っていったということだった。
「ひょっとして、和音に用でもあったのかなって思ってさ。あんたモテるの?」
 母はニヤニヤしながら顔色を窺うように覗き込んできた。
 ——やべえ。それ、きっと僕じゃん。
「へ、へえ。どんな子?」
 和音は極めて冷静を装いながら、かといって全く話題に乗らないのも不審に思われるので、さりげなく聞いてみた。
「後ろ姿しか見てないから。でも、背はあなたと同じくらいかな。ショートカットで……そういえば聖華の子にしては珍しく短いスカート履いてたねえ。なんか心当たりでもある?」
「あ、あるわけないよ。まだこっちの学校に友達なんかいねえし。うちじゃなくてどっか他の家なんじゃないの?」
 もう心臓バクバクで——
「まっ、そうかもね。——ん?」和音の背中を急に母が嗅ぎ始めた。「あなたの体から石鹸の匂いがしない?」
 うわ、鋭い!
「いや、あの、そ、そんなわけないじゃん。さっき石鹸で手を洗ったからなあ。アハ、ハハハハハハ」
「帰ってきたばかりで? ふーん、怪しいなあ、和音君」
 冷や汗がツーッと背中を伝う。追い詰められた和音。
「まあいいわ。ご飯できてるから、早く着替えておいで」
 もうこれ以上心臓がもたないよ……。西園寺さん、マジ恨むぞ。もう当分無視してやる!
 固く心に誓った和音であった。

 夜、和音が勉強をしてると机の脇に裏返して置いたスマホが震えた。
 (こんな時間になんだ?)
 学校に友達がいない和音は、もちろんグループトークなど参加してないので心当たりはない。
 手を伸ばしてスマホをひっくり返してみると、
 【西園寺詩さんからのトークが届いてます】
(今日は散々振り回されたもんな。ここは無視だな)
 だが、とりあえず何を言ってきたのかは気になって仕方ない。
(ひょっとしたら今日のことを謝ってるかも知れないしな)
 和音は、つい指で画面を弾いた。

《やっほー。今日は楽しかったあ! 写真、いっぱい撮ったから送るね。また2人で遊びに行こうね! あっ、それと昼に弾いた曲にタイトルをつけたよ。「君に、届け」ってことにしちゃった。歌詞とピアノ伴奏を添付しておいたから、練習しておいてね♡》

 って、全然反省してねえ……
 なーにが「やっほー」だ。そもそも「今日はごめんなさい」からだろ。この女、どんな性格してんだよ。悲しくなるね。
 しかも、「また2人で遊びに行こうね」だあ? 残念だね、行くもんか。
 曲なんか、まあ、曲に罪はないか。まあ、気が向いたら聞いてやるよ。

 和音はひとりでぶつぶつ言いながら、詩のトークに文句をつけながら、思わず返信を打ち込んでいることに気がついて、慌てて削除する。
 あっぶねえ。送信するとこだった——
 そうだ、「既読」をつけてしまったけど、返事をしなきゃいいんだな。ここは最初の予定通り無視一択だ。返事なんかしてやらないよ。
 音楽は——まあ、ちょっと勉強に飽きたから聞いてやるか。
 添付ファイルを開いて、再生してみる。
 詩が真剣な顔で——そう、ピアノを弾いてる時は心から楽しそうだ。その指からは魔法のような音が紡ぎ出されていた。
 ピアノを弾く西園寺詩は、悔しいが本当にかっこいいと思う。
 一度止まった動画を何度も繰り返し、和音はいつの間にか詩のピアノに併せて「君に、届け」を口ずさんでいた。

 月曜日は寝不足だった。
 いつものように時間ギリギリに教室に入った。だけど、いつもと違うことがあるとすれば、先週までは登校しても誰とも話さずに一直線に窓際の自分の席へ向かっていた和音が、今日は西園寺詩が気になって仕方ないことだった。
 和音は教室に入った時から、彼女がじっと自分を見ていることに気がついていた。席の前を通る自分を詩の目が追っているのがわかった。
 本当はそのつもりはなかったのに、昨夜は詩の送ってきた動画を何度も繰り返し見てしまった。悔しいが、とてもいい曲だ。
 だから、「おはよう。動画、観たよ」とぐらいは言ったほうがよかっただろうか。でも。
 先週まで全く話したこともない詩と和音が、突然教室で会話を交わすことにクラスのみんなはどう思うだろう。
 きっと驚くだろうね。

 昨日飲んだラテ、おいしかったね。
 とか言えたら、西園寺さんの言う通り僕は楽になるんだろうか。

 和音も詩と言葉を交わすきっかけを失ってしまっていた。
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