第3話

文字数 1,338文字

中学校の頃、進学校で、秀才君たちがたくさんいて、その人たちは「将来が嘱望される」と友達からも言われていた。そういう人たちをしり目に、ぼくは不勉強を重ね、人生の意味とか自由の価値とかについてああだこうだと一人考えていたのだが。

いま、官僚になったりしているその人たちの人生と比べて、自分の人生は「客観的に見て」価値がないとか言われたりするのかな、とふと考える。フェイスブックでつながっても、ろくに絡んでもくれなかった人たち。

価値って何なのだろうと考える。するとわかるのだ、一番大事なのは、この自分にとって人生が価値あるものとなれているかだ、という事が。進学校の友人は、「日本のため」「社会のため」柱となって働く存在を「価値がある」と考えた。しかしその世界に身を置きながらぼくが考えていたのは、『自分の人生の価値を感じられるかどうか』という事だった。

確かに、世の中に出て働くことは、人生の価値を感じることと結びつきやすい。しかし同じ働くので、偉くなればなるほど、人生の価値を感じ取れるようになるかというと、あながちそうでもないだろう。人生の価値を感じ取るには繊細さがいる。そして休暇も必要である。自己表現や伴侶が必要な人もいるかもしれない。

朝起きると、横の路地で、いつも猫がすごい声で鳴いている。まだ子猫から育ち切っていないのに、一匹になってしまい、必死で生きようとして、餌を求めて泣くのだ。この猫に『人(にゃん)生の価値』を聞いてみたら、何と答えるだろうか?ただ、死に物狂いでその日その日を生きているだけなのかもしれない。

人生の価値を考えるのは、ぜいたくなことなのだろうか?

しかしぼくは学生のころ、あまり人生の価値を感じられていなかったと思う。人生に価値があるという事を実感してはいなかったように思う。ただ、授業が退屈で退屈で、それに何も分からなくて、やる気もなくて、そのくせ自分は偉くなるんだと無理くり信じていた。そしてゲームをする毎日。

そんな人生に、価値など感じられなくて当たり前だ!47歳の今、ようやく少しわかりかけている。人生の価値を感じるのはとても大事なことだけど、そのためには少しは動かなくてはならないのだ。周りと調和して(完璧な調和でなくともよい)、仕事や勉強や部活(何の部活もしていなかった)に打ち込んでみたり、そういうがんばりと、休息とのバランスの中でふと『感じる』ことがある。『こういう人生ならば、価値があるな』と。

そうした感情は、すぴりちゅある的にとても大事なものだとぼくは思う。人々のそういう気持ちは、この世界の成り立ちにまで大きく影響を与えるものなのかもしれない。生き物たちが生きる事を楽しむのを辞めた時、世界は崩壊するのではないか?世界は存在意義を失うのではないか?

ぼくは、横の路地の野良猫の「えさやりサン」になってしまった。春が来るまでに市役所でゲージを借りて、去勢をして耳カットをすませ、立派な地域猫になってもらおうと思う。生きるためにあれだけの大声で鳴く野良猫のことを、他人事とは思えないのだ。

そういう無駄な優しさもまた、すぴりちゅある的に大切なものだと思っている。そして人生の価値にも結び付いている。やさしさは、究極の性質だとぼくは思っている。



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