4 笑う骨盤

文字数 1,120文字

 盛大に空気の抜ける音(エアブレーキというそうだ)をバスが発した。
 巨大な獣の鼻息を連想させるその音を繰り返し、スピードを落として、やがてバスは停止した。次のバス停に着いたのだ。
 降りる人はいないようだ。そのため、降車用のドアは閉まったまま、前のほうのドアだけが開いた。
 だれかが乗ってくる気配がしたと思ったとたん、不気味な音が車内に響いた。なにか、乾いた大きなものが強引にこすれるような音。
 まさか。

 心臓が破裂しそうに大きく打った。(いや)な予感で息が詰まる。恐ろしくてたまらないのに音の正体が気になって、発生源――つまり前方の乗降口――から目が離せない。
 まさか、あれに追いつかれた?
 もう?
 音の主はゆっくりとステップを上り、その姿を、並んだ座席の向こうに徐々に現した。
 やはり!
 あれだ!
 あたしを追ってやってきたのだ。つかまえて、連れ戻すために。
 あれの姿はのっぺらぼうのおばさんよりも、四つ目の男よりも異様だった。畳一枚ほどもある大きな骨盤に、か細い手足が何本も生えた奇妙な生きものである。
 その化け物が、通路に立ちふさがって、笑っている。
 目と鼻と口を象ったように骨盤に穴があいていて、それぞれの穴のまわりがぐにゃぐにゃ動いて表情をつくる。いまは笑顔だ。にっこりと。
 どでかい骨盤が、満面で、狡猾(こうかつ)に笑んでいる。さっきの男の(ずる)い笑いを彷彿(ほうふつ)させる。

 あたしは泣きたかった。
 笑う骨盤は、お祭りの屋台で売っているプラスチックのお面みたいだ。
 薄っぺらで中身がないのに、どうしてみんな、あれの言葉を信じるのだろう。心底疑問なのだけど、大人たちはいつだって、あたしの言葉より、骨盤の言葉を信じるのだ。
 あたしの逃亡――チャレンジ――は、たったのバス停ひとつ分であえなく終わってしまうのか。冷えた悲しみが、心を覆った。
 そしてあたしは、凍てつく冬の湖の底に沈んだ小石になる。

「まあ、ずいぶん極端(きょくたん)な人だわねぇ」
 おばさんの顔面が、眉根を寄せたふうに波打った。隣の男は左の口でおばさんの声を発し、右の口をぽかんと開け、四つの瞳で骨盤を凝視している。
 骨盤は笑いながらあたしを見ている。
 目の形の空洞が〝おまえは俺のものだ〟と語っている。
〝なぜなら俺は、おまえの父親だからだ〟と。
 降ります! 言いかけて、呑みこんだ。
 バスを降りてしまったら、骨盤の思うつぼだ。〝ここではないどこか〟へなんとしても行きたいのだから、降りてはいけない。
 降りたら終わりだ。降りずに闘わなくてはならないのだ。
 前方のドアは閉じ、バスは再び発車した。
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