5 みんな誤魔化してる

文字数 1,316文字

 座席の間の狭い通路を、不気味に笑んだ骨盤が、体(つまりは巨大な骨盤そのもの)を斜めにして、クラゲみたいに進んでくる。
 骨盤の側面(顔にたとえるなら、耳からエラにかけてのあたり)には、細い腕が何十本も生えていて、それらが左右の座席をつかんで巧みにバランスをとっている。骨盤の下側には細い脚が何十本も生えていて、ばらばらに動きつつも着実に体を前進させる。
 まさしくクラゲ。あるいはムカデとかクモとか、エビとかカニとか、そんな感じだ。そして、どんどん近づいてくる。
 どうしよう。闘うと決めたのはいいけれど、具体的にはどうしたら。

 蛇!
 心のなかで呼んでみた。
 返事はない。どんなときも、一緒にいてくれると思っていたのに。それはあたしの思いこみ、勝手な期待だったのだろうか。
 心細くてたまらなくなった。
 骨盤に捕まったら、間違いなくあの部屋に引き戻される。あの部屋には〝昨日〟しかない。腐った過去にいつまでもあたしを縛りつける、暗くて臭くてさみしい部屋だ。
「助けて。あれは、おそろしいものなんです」
 おばさんに向けて、あたしは声を絞り出した。
 骨盤の思い通りに生きるなんて、もう厭だ。昨日になんて、戻りたくない。冬の湖の底にいるより凍える日々に、あたしはもう耐えられない。
「でも、あなたの家族でしょう」
 男の左の口がおばさんの声で言い、おばさんは、ゆで卵の顔を呑気(のんき)につやつやさせている。
 やっぱり、わかってもらえないんだ。あきらめの気分がじわじわ心に広がってきた。

 でも。
「違います。あれはあたしを、無理やり昨日に閉じこめるんです」
 あたしは心を奮い立たせて反論した。闘うと決めたのだから。
「親としてのお考えがあるのよ。あなたのためにしているんでしょう」
「そうだよ、家族を悪く言っちゃいけないよ」
 男の左右の口がいかにも良識ぶって戒めてきた。
 吐き気がして、言葉に詰まる。
 あれについて話すとき、あたしはいつも、とても困る。
 どんなに必死に説明しても、大人はみんな、まともに相手をしてくれないから。あろうことか面倒そうにあしらったり、逆に叱ってきたりする。
 あれは、あんなに奇異な生きものなのに、どうしてみんな、あたしの話をわかろうとしてくれないんだろう。親だというだけで、どうしてあたしより、あれが正しいと決めつけるのだろう。

 あたしはただ、あたしの明日に進みたいだけ。
 なぜ、それがいけないの?
 あれとあたしは別々の人間でしょ。
 家族って、そんなに尊いんですか。
 親って、そんなにえらいんですか。
 もしかして――。
 突如、あたしは(ひらめ)いた。
 みんな、わかっているから、わからないふりをしているんじゃないか。つまり、おかしいのはあたしじゃなくて、あれのほうだとわかっていて、だけどあれが異様だから、関わりたくなくて、みんな自分を守りたくて、親子の問題だからとか、家族の話だからとか、そんな言い訳をして、誤魔化(ごまか)して逃げているだけなんじゃないの。
 だとしたら、助けてもらえるわけがない。
 絶望という言葉はまさに、こんなときのためにある。
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