7 光る出口

文字数 1,192文字

 あれの太い腕が、あたしの左腕をものすごい力でつかんでいる。
 あたしは右手で、あれの太い腕をつかんで引きはがそうともがいている。両脚でじたばた骨盤(こつばん)()り、体をひねって抵抗している。
 でも、あれはびくともしないで、にやついている。
 絶望的な状況だった。だからといって、あたしはもはや絶対に絶望しないと決めていたけれども。
「あっ」
 運転手が短く叫んだ。
 刹那(せつな)、ものすごい急ブレーキがかかって、あれも、あたしも、他のお客も前のめりに吹っ飛んだ。金属をこすり合わせたようなかん高い音が耳をつんざき、エアブレーキが猛獣(もうじゅう)の息みたいに盛んに空気を吐き出した。

 骨盤は、中央の通路をぺらりぺらりと運転席のほうまで転がっていった。あたしは前の座席の背にぶつかって跳ね返った。のっぺらぼうのおばさんたちは座席を越えてもみくちゃになった。
駄目(だめ)だ。間に合わない」
 口惜しそうな運転手のため息が、マイクを通じて車内に流れた。
 あたしはバスの行く手を見やった。
 フロントガラスのその先に、光り輝く正方形が――大きさは、ちょうど車庫のシャッターくらいだ――ぱっくりと口を開けている。
 まるで、空間に突然開いた非常口だ。煌々(こうこう)と光を発し、バスの進路をふさいでいる。
 ぶつかる。
 いや、吸いこまれる。あと数秒の後には。

 次の瞬間、あたしは自分の左腕がなくなっているのに気がついた。
 左肩をよく見ると、ブラウスの(そで)が中身を失い、平たくなって()れている。
 患部は熱く、しびれていて、だけど血は出ておらず、痛みは不思議なことに感じなかった。
 運転席の近くで(あわ)れにひっくり返った骨盤が、か細い腕を総動員して、あたしの左腕を()き抱いている。ゾッとした。その姿は、あまりにも憐れだったのだ。
〝惜しむな、くれてやれ〟
 蛇はささやき、あたしは瞬時に同意した。
 あれが、あたしの腕を自分のものにするのだとしたら、気色が悪くて吐き気がする。
 だからこそ、あたしは惜しんじゃいけないのだ。手放せば、得られるもののほうが、きっと大きい。

 タイヤが激しく鳴っている。金属のきしむ音がする。誰かがうめき、他の誰かがわめいている。
〝信じろ〟
 蛇はささやく。
 なにを?
 問い返すうちにも正方形の光は迫ってくる。
 あたしは信じた。
 蛇と一緒に、光に向かっていくことの意味を信じた。その向こうにどんな世界があろうとも(実は光を通り抜けるだけで、一見なにも変わらないのだとしても)、それはあたしの明日につながっているのだ。そうでなくてはならないのだ。
 運転手はブレーキをかけ続けている。
 止まれないのは明らかだった。
 光る出口は厳然(げんぜん)とそこにあり、バスはぐんぐん近づいて行く。
(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み