あとがきのようなもの

文字数 3,050文字


【IMAKIRIエッセイ】小学生の頃、1日1冊、本を読んだ。どうやら私の創作表現は、そこに根を張っているらしい。回り道をしたけれど、もう自分の言葉の感覚を信じて自由に書こうと原点回帰した話。

 小学1年生の夏からだった。私は父の命令で、毎日1冊、本を読まなければならなくなった。

 というのも、実は私は小学校に入る直前まで、読み書きがきちんとできなかった。自分の名前や、幼稚園で目にする「もも組」「さくら組」といった、よく接する文字が読める程度で、50音をきちんと習ったことはなかったのだ。
 小学校の入学時には、簡単な読み書きのテストのようなものがある。直前にそれを知った両親は、焦った。私の実家は、母が働いて家計を支え、無職の父が家にいるという家庭で、さまざまな認識が世間の常識とズレていた。彼らは他の親たちの助言はまず聞かなかったから、わが家が情報における孤島状態になっていたのは容易に想像できる。
「読み書きは小学校で教えるべきものじゃないのか!」
 父は怒った。
 しかし、彼がいくら怒っても、とにかくそのテストみたいなものは実施される。そこで父は、私に短期集中の猛特訓をし、私はなんとか50音文字を詰め込んで、小学校に入学した。

 そんなことがあったせいで、父は、私の学力が他の子と比べてどうかという点に執着していた。そこへきて、担任教師が夏休み前の家庭訪問で、「お子さんの学力はクラスで中の上くらいですね」と言い、火に油を注いでくれたらしかった。
「俺の娘が、クラスで中の上程度のわけがない!」
 父は怒った。猛烈に。
「これからは必ず1日1冊、本を読め」
 しかして、その命令が下された。
 盆も、正月も、日曜も、例外なく実行しなければならないルールだった。父は目をぎらぎらさせて、毎日、私を厳しく見張った。

 そんな状態だったから、読書を好きとか楽しいとか感じる余裕はなかった。むしろ面白くない(と当時の私が思う)本を最後まで読まなければならない日は、つまらなくて苦行だった。もちろん好みの物語の日は、ラッキーな気分にもなった。
 淡々と、1日も休まずに私は続けた。
 拒否不可能な命令とはいえ、「自分でやれると思って引き受けたのだから、絶対に挫折しない」という気持ちがあった(いま思えば、強情なことである)。
 私が挫折しないので、父も本を与え続けなければならない。
 まず、1年で365冊。2年生の夏を過ぎると、1日で読み切れる幼年向けの本はあらかた制覇してしまい、ぶ厚いグリム全集や海外童話のアンソロジーを、1日1話ずつ読み進めた。

 当時、出版されていた子供向けの物語は、アンデルセン、イソップ、グリムをはじめ、圧倒的に翻訳ものが多かった。日本の物語で記憶にあるのは、『花咲かじいさん』『ぶんぶく茶釜』といった昔話くらい。
「岩波の子どもの本」シリーズも、大半が海外の物語だったと思う。
 そして、それらに通底していたのが、キリスト教の思想だったと思う。

 3年生になると、全集やアンソロジーも読みつくし、ディケンズの『二都物語』(ジュニア版)といった長編を、1章ずつ読み進めるスタイルになった。
 さすがに父も疲れたのだろう。私が4年生になる前に、
「毎日の読書はもう義務にしなくていい。これからは好きなときに本を読め」
 と、ようやく解放してくれた。

 その頃には、私の本の好みは級友たちとかなり違ったものになっていた。日本産の物語の多くは、私にはどうにもしっくりこなかった。海外の物語のほうが、世界観や内包する価値観が魅力的に思えたし、私にとってはそれらがスタンダードだったのだ。
 本州とは風土の異なる札幌に暮らしていたせいで、東京や、東北以南の田舎のことが書かれていても、ぴんとこなかったというのもあるかもしれない。

 日本の文学で好きだったのは、詩だ。
 高村光太郎や宮澤賢治、中原中也が大好きで、暗唱できるほど読みふけった。彼らの詩には、なんとなく七音と五音のリズム感がある。
 自分では意識しなかったが、彼らの詩に触れるうち、私のなかの美しい言葉の基準にも、七音と五音に近いリズム感が定着していた。
 当然のように、私は自分でも詩を書き始めた。日記のかわりに詩を綴り、大学ノートを詩集にして、中学、高校と書き続けた。散文には苦手意識があった。詩のほうが自然に表現できた。

 それでも大学に入ると、散文の作品を書き始めた。詩では伝えにくいことも、散文ならば伝えられる。そんな可能性を感じた。
 その頃、大好きだったのは、サン=テグジュペリの『星の王子さま』や宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』。言葉もストーリーも美しい!
 自分が書こうと目指していたのも、そういう作品だった。

 大学在学中に雑誌の編集部で仕事を始め、記事というものを書くようになった。私はそれらの商業的な文章を、創作の表現とは一線を画し、「作品とは別もの」という感覚で書いていた。
 正しかったのかどうかは、わからない。でも私はまだ若かったし、自分の創作表現を守るために、必要なことだったのだろうと思う。

 でも、長くそうし過ぎてしまったらしい。ふと気がつくと、創作においてのびのび書けなくなっていた。
――私、何のために作品を書いていたんだっけ? 入賞するため? 認められるため? 作家と呼ばれるため? 違うよね。伝えたいことがあるから、書いていたんだよね?
 自問自答し、そんなことを確認した。
 原点回帰しよう、と、しみじみ思った。

 キリスト教の思想と、詩。
 それらが私の創作表現の原点であり、礎になっていると思う。はっきりと意識できたのは、ごく最近のことだけれど。
 省みればここ10年以上、「小説の書き方」や「新人賞を突破するには」といった情報に、ふり回されていた。役に立つ情報もあったけれど、ここまできたら、とらわれる必要はないように思えた。
 少なくとも創作表現では、自分の言葉の感覚を、尊重するほうが大切だ。もう50歳を過ぎたんだし、自由に書いていいじゃん。と、思った。

 そんなこんなでひさしぶりに、自ずと課していたさまざまな束縛から自由になり、詩的な表現を解禁して書いた散文が、『光る蛇【インマヌエル】』です。
 眠らせていた筋肉を目覚めさせながら、手探りで表現しましたが、書いていて楽しかった。次に書くものはもう少し、バランスをとって磨きたいと意欲が湧きました。
 この意欲は、健全。それがうれしいです。

 ちなみに、アダムとエバの有名な失楽園のエピソードで、エバを誘惑したとされる蛇の英訳は「serpent」。本作では、その蛇とは異なるという意を込めて英訳を「snake」としました。
 イエス様も「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイによる福音書10:16b)とおっしゃっているように、蛇は、良いイメージもある生きものなのです。

2019年4月 イースターを過ぎて 真帆沁

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