2 あれの呪い

文字数 1,497文字

 絶対不可能だと思っていたのに、勇気を出して、本気になったら、案外あっさり脱け出せた。
 あれの目を盗み、こっそり部屋を脱け(鍵はかかっていなかった)、古びた暗い階段を、音をたてぬよう慎重に、息を殺して一段ずつ下り、身をかがめて廊下を進み、靴を履き、玄関の扉を開けて外へ出た。
 陽の光がまぶしかった。甘ったるくて熱い空気がむっと押し寄せてきて、くらくらした。騒がしい虫の音が耳に飛び込んできて、痛かった。
 だけどあたしは駆け出して、家から300mほど離れたバス停まで、一目散にやってきた。
 どこか遠くへ、〝ここではないどこか〟へ、あたしを連れて行ってくれるバスに乗るために。

 一方通行のまっすぐな道路沿いに、バス停はあった。
 あたしのほかにバスを待っている客はだれもおらず、ひょろりとしたポールのてっぺんにまるい頭をのせた標識塔が、焼けこげたような黒い影をアスファルトに落としていた。
 前に一度、役所へ何かの届を出しに行くとき、あれに連れられて、バスに乗ったことがある。
 あたしには、このバス停だけが〝ここではないどこか〟へと続く出口だった。
 とにかく、すぐにバスに乗らなければ。
 あれが追ってきたらと思うと、気が気ではなかった。
 だから、バスの姿が遠くから近づいてきたときには、ほっとした。四角い顔で、クリーム色に赤いラインの塗られたバス。
 どこまで行けるかなんて知らないけれど、考えている暇も、迷っている暇もない。
 来たバスに、早く乗らなくては。

 バスの巨体が目の前に停まった。
 激しく空気の抜けるような音がして、ドアが開いた。
 乗降口のステップは、高かった。
 力いっぱい踏み切って乗りこんだら勢いあまってバレリーナみたいにくるりと回って、踊ったようになってしまった。
 かろうじて転びはしなかったけれど、失敗した。目立ってしまって恥ずかしくて、自分がとてつもなく愚かに思えた。
 汗が出て、次にふるえがきて、あれの声が頭のなかで響き始めた。
莫迦(ばか)愚図(ぐず)、おまえなんて死んでしまえ」
 呪いの言葉を繰り返し、あれは毎日、高らかに笑う。
 周到に、あたしの(すき)をついてくる。
 呪いの言葉で連打され、あたしは身も心も小さく縮んで消えてなくなりそうになる。たったいまも、情けないことに、透明な鎖に縛られて、身動きできなくなっている。

 せっかく勇気を出して逃げてきたのに、ほんのちょっとのきっかけで、あれの呪いはあたしを捕らえ、やすやすと押しつぶしてしまうのだ。
 だから、決して逃げられない。わかっていたはずなのに。
〝真理だ〟
 なけなしの勇気が消えかけたそのときだった、耳元で、蛇の声がした。
〝真理をつかめ。それはおまえを自由にする〟
 咄嗟(とっさ)にあたりを見回して、姿を探してみたけれど、昼の光のなかでは、蛇は見えない。
 でも、一緒にいてくれた!
 目の前が、とたんに明るく照らされた。

 蛇は、そばにいてくれる――そう思うだけで、あたしが再び歩き始めのるにはじゅうぶんな元気が湧いてきた(真理と自由の関係は、よくわからなくても)。
 透明な鎖をぶっちぎり、顔を上げ、バスの奥へ進み入る。
 座席は半分くらい埋まっていた。立っている人はなく、座っているお客の姿はみんな薄闇をかぶっているみたいに判然としなかった。
 後ろのほうに二人掛けシートが空いていた。急いでそこへたどり着き、体を滑りこませると、臙脂(えんじ)色の座面がきしんであたしの体重を受け止めた。
 するとバスは、獣みたいに身震いしてから、発進した。
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