第16話 《7月17日未明。ユーベルの寝室。ユーベル》
文字数 5,000文字
どこまでも続く雲海のなかを浮遊している。
ふわふわと快い夢見心地が、急速にいずこへか傾斜する。見えない糸につかまったように、ひきよせられていく。
その感覚がなんなのか、ユーベルは知っていた。ああ、また誰かの夢と同調しているんだな、と思う。
ESP協会ではランクづけしかしないが、じっさいのエスパーの能力は千差万別だ。ときとして、ひじょうにユニークなものがある。
ユーベルのこの力も、ESP協会のマニュアルからは外れた特殊技だ。睡眠中に、同じく眠っている人の夢をエンパシーでキャッチし、その人と同じ夢を見る。場合によっては、さらに別の人物にその夢をエンパシーで伝えて見せる。
つまり、Aという人の夢をB、あるいはC、D、E、Fなどの複数人物に、自分が夢の中継局となって配信する。
おかしな能力だが、ユーベルのエンパシー能力は覚醒時でも強すぎるのに、睡眠中にはその数倍、高まるのだ。睡眠中なだけに、ユーベルの意思ではコントロールしきれない。
共感する夢は特定の誰かということはなかった。一つ言えるのは、夢を見ている人物が強い感情を発するほど、その夢をひろいやすい。不安や悩みをかかえていて、助けを欲している人物など。
近ごろでは夢を無視する方法も少しずつおぼえてきたが、相手の意思力が強いと抗えない。
このときも、トリモチにひっついた鳥みたいに、ユーベルは誰かの夢のなかへつれていかれた。
目の前でタクミが笑っている。アンマンマン柄のパジャマを着て、アクビ。
「あ、マーマレードが切れちゃったよ」
「おれ、買ってくるよ」
「いいよ、いいよ。ほかにジャムないの?」
「カシスジャムはおれのだからね。タクミはパジャマだから、買ってくるよ。よつかどのとこのパン屋にも置いてあったよね?」
「うん。じゃあ、たのむよ。ベーコンエッグ作って待ってる」
タクミからプリペイドカードをもらって、玄関ドアをあけたところで暗転。
どこか知らない道を歩いていて、誰かに追われている。
すると急にあたりいちめんが火の海になった。逃げ場のない炎のなかで、ユーベルは悲鳴をあげた。
「——ユーベル!」
ゆりおこされて、ユーベルは目がさめた。
タクミが枕元に立っていた。ユーベルはしがみついた。
「大丈夫。大丈夫。ただの夢だよ」
タクミになだめられているうちに、しだいに落ちついてくる。
大丈夫。タクミのそばにいれば、大丈夫。タクミが守ってくれる。
でも、これも夢?
さっきの夢と同じアンマンマンのパジャマ。緑のサッカー生地のなかに子どもむけアニメのキャラクターが散りばめられている。
薄暗い照明にてらされるタクミの顔をじっと見つめて、ユーベルはその頬を両手でひっぱった。
「イテテ——痛いよ。ユーベル。何するんだよ。寝ぼけてる?」
「……夢じゃないんだ」
「やだなぁ。そういうのは自分のほっぺで試そうね。君がうなされてたから、起こしてあげたのに」
ユーベルの寝室のドアはあけっぱなしになっていた。まだ約束のパスワード式電子ロックはとりつけてもらってない。もっとも今夜みたいなことがあるから、タクミにだけはパスワードを教えておくつもりだが。
「おれ、また、やっちゃった?」
「火事の夢だろ? ビックリしてとびおきたよ」
じゃあ、やはり、今回も受信局はタクミになってしまったのだ。このごろはたいてい、同調した夢をタクミに送ってしまう。そのくせ、タクミの夢そのものは見たことがない。タクミの精神状態はつねに安定しているからかもしれない。
それにしても、今夜の夢は変だった。何が変と言って、誰か見知らぬ人の夢を見たはずなのに、夢のなかにタクミやユーベルが出てきた。
たまたま知りあいの見た夢だったのかもしれないが、それにしては夢の内容のどこに、その人物は恐怖をおぼえたのだろうか? 睡眠中のユーベルの精神をひきよせてしまうほど?
最初から火事の夢なら、その夢じたいが怖かったせいかもしれないが、そうではなかった。初めはごく日常的な風景にすぎなかったのだ。
「もう平気?」と、タクミがたずねてくるので、
「タクミがいっしょに寝てくれたら」と、ユーベルは返した。ほんとはとっくに平静だったのだが、こんなときしか共寝をゆるしてくれない。
「しょうがないなぁ。今夜だけだよ?」
しめしめ。タクミは泣き落としに弱いんだから。
ニンマリ笑ってしまいそうになるのをこらえて、ユーベルのベッドに二人で入った。ベッドはセミダブルだから、小柄なタクミとユーベルがならんで寝ころぶのは苦にならない。
でも、この状態でも、タクミは何もしてくれないのだ。ユーベルのことを夢におびえて夜泣きする小さな子どもだとしか思ってない。
(おれが女だったら押しまくっちゃうのにな。早く女になりたいなぁ。今、七月なかばだから、あと五ヶ月半)
それまでになんとか、あのオッドアイの再生医師を説得して、今の体を始末してもらうようにしなければならない。
そう思うと、少し
いつのまにか、ユーベルは眠っていた。今度はイヤな夢も見ず、めざめたときには朝になっていた。カーテンのすきまから朝日がさしこんでいる。
カーテンをひらくと街並みが一望できる。見ためだけは古い、偽物のヨーロッパの街。
のどかで穏やか。
地球の朝もこんなふうだったのだろうか?
ベッドではまだタクミがムニャムニャ言いながら眠っている。机上のデジタル時計は七時すぎだ。今日はとくに予定はない。のんびり寝かせておいてやろう。
ユーベルは壁に嵌めこみのクローゼットから服をとりだすと、流行の裾長Tシャツと、ひざ丈の綿パンに着がえた。裾長Tシャツを好きな理由は、男でもワンピースを着ているように見えるところ。ひざ丈パンツとあわせると、なおさらだ。嬉しいことにユーベルはプラチナブロンドなので、まだすね毛も目につかない。急速に身長が伸びているから、そのうちもっと男っぽく成長してしまうのだろう。しかし、今の服装が限界になる前には、あの新しい体が育っているはずだ。
ユーベルはぬいだパジャマをサニタリールームのウォッシャーのなかへつっこんだ。このアパルトマンは地階に巨大洗濯槽があって、各戸の入口から洗濯物を入れると自動で洗濯してくれる。革や絹のようなものでも的確な方法で洗ってくれるので安心だ。仕上がった洗濯物は自動で部屋まで戻ってくる。
今日は朝のシャワーは使わない。自分の体から、ほんのりタクミの匂いがして心地いいから。
ユーベルが身支度して待っていると、ようやくタクミが起きてきた。
「おはよう。タクミ。顔洗ってきてよ。ご飯の準備しとく」
「うん。ありがとう」
サニタリールームへむかうタクミを見送り、ユーベルはキッチンへ入った。卵のカラをかぶったヒヨコのキャラの焼き絵がつくトースターに食パンをほうりこみ、冷蔵庫からジャムをとりだそうとして、ユーベルはドキッとした。
マーマレードが切れかけている。マーマレードはタクミの必需品だ。ばあちゃんの作った柚子の甘煮を思いだすのだそうだ。
(あれ? おれ、なんでドキドキしたのかな?)
考えながらカシスとマーマレードの瓶をテーブルの上に置いていると、タクミがやってきた。
「気分よくなったみたいだね。ユーベル。よかった」
ニコリと笑って、一つアクビをする。
ユーベルの胸のドキドキはだんだん高まっていく。
タクミは気がついていないようだ。テーブルに皿を出しながら、マーマレードの瓶を見た。
「あ、マーマレードが切れちゃったよ」
ドキンとしながら、ユーベルは言ってみる。
「おれ、買ってくるよ」
「いいよ、いいよ。ほかにジャムないの?」
タクミは気がつかないのだろか?
この会話は、昨日、夢のなかでしたのとまったく同じだ。一字一句たがわず、同じセリフ。同じシチュエーション。
ユーベルは次に返ってくるタクミの答えを今この段階で完璧に知っていながら、夢のなかの自分のセリフを言う。言おうと思えば別の言葉も言える気がするが、なんとなく、そうするのは気持ちが悪い。
なんだというのだろう。この感覚。
「カシスジャムはおれのだからね。タクミはパジャマだから、買ってくるよ。よつかどのとこのパン屋にも置いてあったよね?」
「うん。じゃあ、たのむよ。ベーコンエッグ作って待ってる」
怖い——
似ているとかいうのではない。単語の一つずつまで同じ。デジャヴュというより、これはもう予知と言っていいような……。
なんでもない日常会話なのに、ユーベルは鳥肌が立った。
「どうかした? ユーベル」
「別に……」
これ、昨日の夢といっしょだよ。おれたち、芝居のなかの登場人物みたいに、そっくり同じセリフを誰かに言わされてるよ——そう言って泣きつきたいのに、言葉は出ない。
そう。きっと、誰かに言わされた、あやつられた、という感じがして気味が悪いのだ。
そのことを口にすると、もっと悪いことが起こりそうな気がする。だから、言えない。
「……なんでもないよ。気のせいじゃないの?」
「ふうん。そう?」
タクミに渡されたプリペイドカードをだまって受けとり、ユーベルは玄関ドアをあけた。そこで暗転したら悲鳴をあげていただろうが、じっさいにはいつもどおりの廊下があった。
表玄関の上の大窓から光がななめにさしこんで、エントランスホールはどこか遠い外国の駅舎のようにノスタルジックな顔を見せている。
(なんだ。どうってことないや。あんなのは、ただの夢)
恐怖心はとたんに消しとんだ。
ユーベルが廊下へ出るのとほぼ同時に、となりの部屋のドアがひらいた。朝からビシッとキマった漆黒のドレススーツを着て、映画スターみたいに押しだしのいい再生医師が現れた。アンマンマンのパジャマのタクミとは大違いだ。
「おはよう。ユーベル。出かけるのかい?」
「ジャムを買いに」
「よつかどのパン屋まで? では、そこまでいっしょに行こう」
ユーベルは答えず、男についていった。エレベーターに二人が乗ると、ドアがしまり動きだす。一階につくまでのわずかな時間だが、なんとなく気づまりで、ユーベルはたずねた。
「……仕事?」
医師はユーベルの姿を上から下まで、じっくり観察して、ニッと笑う。白銀の髪に黒いスーツで、キレイだけれど悪魔っぽい。やっぱり、この人は苦手だ。
「ああ、そうだよ。脳移植手術はデリケートなのでね。再生医師は少ないんだよ」
大変ですねとか、がんばってくださいとか、何か言ったほうがいいのはわかっているのだが、ラリック医師の視線に出会うと、何も言えないでうつむいてしまう。
通りへ出ると、通勤や通学の人影が見えて、ユーベルは少し安心した。
医師は歩きながら携帯パソコンでタクシーを呼んでいる。もうすぐパン屋だとユーベルは喜んでいたが、
「それで、君はどうするの?」
いきなり聞かれておどろいた。
「え?」
どうするって、ジャムを買ったら帰るよと答えかけたが、さらに思いがけない問いがなげかけられてくる。
「ご両親とは相談したの? なんなら私から話してあげよう」
ああ、そのことか。この人ってとうとつで、なんか、つかみにくい……。
「いえ、あの、ぼく……」
「おそらく、ご両親は保存しておくほうがいいと言うだろう。が、もしも経済的な理由でそれを望めない場合は、こうしないか? いったん私がポケットマネーで君の体を買いとり、保存しておく。のちに君がその体を必要としたときには、同額で私から買いもどす。君がどうしても不要だと言うのなら、移植用ドナーとして売却する。それなら君も私も損しない。悪い話じゃないだろう?」
悪くないどころか、うまい話すぎて怖いくらいだ。
だが、ユーベルは費用がないからいらないと言ったわけじゃないのだ。すてたいから、すてたい。それだけなのに。
「でも、そうじゃなくて、ぼくは……」
ラリック医師はユーベルのかぼそい反論なんて聞いてなかった。一方的に言って、さも問題は解決したというような顔をしている。
「では、そういうことで」
「ああ、ちが……」
医師は迎えにきたタクシーに乗りこんで去っていった。
(困ったな。どうしよう。やっぱり、タクミに相談しようか。でも、そしたらきっと反対される……)
ジレンマにおちいって、ユーベルは歯がみした。