名も無き姫君

文字数 27,865文字

 ここは魔界。
 太陽の光とは無縁の暗い暗いどこまでも暗い闇の世界である。

 この世界に住む住民はどれも悪魔や怪物、到底人とは思えない者ばかりである。

 彼らは年がら年中争いばかり、ときには仲間とも殺しあう。

 魔界へ行けばあちこちに凄惨な戦いの跡を発見するだろう。

 彼らには人の常識というものが無いのである。

 しかし、そもそも人々の「常識」というものは生物全体にとっては異質な物である。

 彼らは決して悪ではない。

 この魔界という厳しい環境を生き抜く為にそう進化したに過ぎない。

 魔界はどこもかしこも常に洞窟の中のように暗い。そんな暗闇の中、騎士服を着た天使の一団が飛んでいる。
「おーい、フェキア!少しはペースを落としてくれよ、俺の事も少しは考えてくれ」
「ヒルフェット、あなたが鍛えてないのがいけないのよ」
「仕方ないだろ!男用の鎧は女用より重いんだ」
「あの子を見なさいよ!」
 女の騎士は地上で併走している鎧で全身を固めた騎士を指差した。
「あの子はあんたのより重い装備を着ているのに私と互角の走りをしているのよ。つまりあんたも出来るってこと」
「お前っ!あいつは比較にならないだろ!あいつはそもそも人じゃねえゴーレムだ!」
「どうしてゴーレムに出来ることがあなたには出来ないの?」
「出来るわけないだろっ!」
「はあっ、はあっ、フェキア様!ヒルフェット様!お待ちください」
 ヒルフェットの後ろからへとへとになった騎士が声をあげた。
「ほらな、もう大体の騎士はへたれてるぞ」
 フェキアははあっとため息をついてから翼を折り畳み手頃な地面に着陸した。
「総員、止まれ!」

「こっちもだヒルフェット隊止まれ!」

 ヒルフェットの後ろにふらふらと疲れきった顔の男騎士達が次々と降り立ち整列した。

「男なのに情けない」

「フェ・・・フェキア様」
「お待ち・・・ください」

 息も絶え絶えになりながら数十人の女騎士がフェキア達の元に集まった。

「お前の隊の女騎士も疲れてるじゃねえか。やっぱりお前が異常なだけだろ」
「分かったわよ、総員はぐれたものはいないな!?」

 隊からはぐれたものはいないかチェックを行う。

「総員、無事であります!」
「こちらも同様」
「それではフェキア隊とヒルフェット隊はここで休憩をとることとする」

「うえっ、ここでかよ」
隊の一人が声をあげた。

 周囲には血溜まりと魔物の死体が散乱し、腐臭が漂う森の中だった。とてもじゃないが休憩場所には適していない。
「こんな不気味で血なまぐさい所で休めるのか?」
 隊の騎士達がざわざわと抗議しだした。

「贅沢なこと言ってるんじゃない。ここから先どこへ行こうが光景は一緒だ、慣れろ。諸君がそんなに嫌と言うなら休憩は無しだ!さっさといくぞ」
「分かりましたっ!分かりましたって!ここで休憩しますよ」

一瞬にして騎士達からの文句は無くなった。

「ラングザムが暴れ出したぞ!」
「どうどう!どうどう!」
「そんなのじゃ抑えられないだろっ!はやくあれを用意しろ」

 休憩を始めた途端、荷車を運んでいたサイのような見た目の魔物が暴れ出し、隊員達は対応に追われていた。

 この魔物はラングザムという名前でこの瘴気漂う魔界においても生きる事が出来る貴重な魔物である。しかしこの魔物は気性が荒く、一日に何度も鎮静剤で鎮めなければいけなかった。

「わざわざあんな運用しづらい魔物を使わなきゃいけないなんて!こんな所さっさと出て行きたいわ」

「それは俺も同じ気持ちだけどよ。だからって急いで走ったって何も変わらないぜ。お前以外の奴らがついていけねえ」

「ヒルフェット隊、ラングザムの鎮静に成功しました」
隊員の一人が報告をした。
「OK、それじゃあ君達も休んでていいぞ」
「はっ!!」
隊員が去った後、フェキアは口をひらいた。
「今回は鎮静に結構時間がかかったのね」
「もしかしたら鎮静剤に耐性が出来始めたのかもな」
「だとしたら不味いじゃない!一刻も早く任務を達成しないと」
「そんな事言ってもな・・・今だに最低限のものすら確保できてないじゃねえか。このまんまじゃ任務失敗だけじゃなくみんなここでお陀仏さ。達成もせずに帰って何のためにこんな所に来たんだよって話なんだろうがみんな生きてりゃ損失も少ない」
「分かってるわ分かってる・・・撤退も視野に入れている。でもこれは天界の重大ミッションなのよ。そうおめおめとは帰れないの分かってる?ヒルフェット」
「分かってないね、お前が。そうやって任務に固執してたらそのうち死ぬ。俺の知り合いにもいた。お前も内心分かってるだろ?今回はイレギュラーだ。諦めるしかない」
「あなたに私の内心を見透かすなんて十年はやいわ」

 フェキア達が魔界に入ってからまだ二日しか経っていない。にもかかわらず既に数百数千の数え切れない程の死体を見た。どこもかしこも死体だらけ。まるで戦争が行われた後のようだ。

 しかしそんな魔界じゃ些細な事よりさらに不気味な事がある。

 それはこれまで一度も彼らは生きている魔物に遭遇していないという事だ。確かに魔物とは戦闘になりたくはないし本来は嬉しい事だろう。しかし、これほどおびただしい数の死体があって生きている魔物とは出会わないのは変な話だ。

 自分たち以外の生き物の気配すらしない。ここまで来るといっそなにか魔物が来て欲しいとさえ感じた。ここにいた魔物達は一体どこへ消えてしまったというのだ。
 まさか、ここにいた魔物達はみんな・・・

「お前の内心って・・・そりゃあ怖がってるんだろ?」

「なっ!」
 フェキアは図星をつかれむっとした。

「さっきからお前ちょっと虚勢張ってるだろ?部下の事考えりゃ隊を纏めるお前がしっかりしてなきゃいけないのは分かるがよ。」
「うるさいわね!怖がってなんかないわよ!ただ・・・ただここまで魔物とは会えないしこのまま天界に帰ったらどうなるか…ほんのちょっとだけ不安になっただけよ」
「・・・まあ、そうだな。さっきも言ったが一匹も魔物とは会えないしこれじゃあ召喚に使える有用な魔物を捕獲するっていう目的もずっと達成できないよな……仕方ないな」

 ヒルフェットは大きく息を吸った。
 次の瞬間、森に響き渡る大きな声で叫んだ。

「魔物ども出てこーい!」

 バシンとヒルフェットは頬を引っ叩かれた。

「なにを馬鹿な事してるの!?本当に来たらどうするの!?」
 いきなりの行動に思わず青い顔をしたフェキアはヒルフェットまくし立てる。
「いやだって不安だって言うからさあ」
「ほんのちょっと!ほんの少しだって言ってるだろ!ヒルフェット!」
フェキアはヒルフェットの頬をつねる。
「いたっ、馬鹿やめろ!これだからお前にはいつまで経っても男が寄り付かないんだ」
「うるさい!」
 この男は馬鹿だ。
 馬鹿だがこういう時には役に立つ。こういう行き詰まった場面で彼は場を和ませてくれるのだ。恐らく意図はしていないだろうが、私・・・ひいては隊員達の士気を支えている大切なこの隊の大黒柱なのだ。

 数十分後

「なにを見てるんだ?アル」
 ヒルフェットは写真を見ている隊員たちに話しかけた。
「いやあ、遠方の地の妻から写真が送られてきたんですよ!無事出産したって言うんで」
隊員の一人アルが話した。
「おおっ、そういえばお前の妻は妊娠してたんだな!この子の親になるのか?ちゃんとした子に育てろよ」
「言われなくても立派な子に育てあげますよ!このヒルフェット隊一の騎士アルの名にかけて」
「そういえば名は決まったのか?」
「ああ、もう決めているんです。名前は……」

 アルが子供に付ける名前を言おうとした時、何処からかきゃああという叫び声が響いた。

「どうした!?」
「フェキア隊の方からだぞ!」

ヒルフェット達は声のした方向に走り出した。


「なんだよ・・・」
 ヒルフェットはぽつりと呟いた。

「なにが起きたかと思って来てみれば」

 そこには大体2メートルくらいの大きさのヤスデがいた。
 既にガラム・・・重厚な鎧に覆われた騎士の姿をしたゴーレムに剣を突き刺され息絶えていた。

「ちょっと大きなヤスデじゃないか!こんなので叫び声をあげたのかフェキア」
「なに勝手に私が虫ごときに叫んだ事にしているのよ、叫んだのは私の隊の隊員よ」
「わざわざガラムに殺させるなんて、お前もしかして虫に触れられないのか?」
「違うわ、到着した時には既に叫び声に反応したガラムに殺されていたの」
「まったく、こいつも虫退治如きに使われるなんてなあ。戦闘用ゴーレムの名が泣いてるぜ」

 ガラムは魔物との戦いがあった時のために貸し出されたゴーレムだ。今の所魔物と会わないので一切出番が無い。移動の時以外で動いたのは今回が初めてである。


 フェキアは内心ほっとしていた。
 ただの虫ではあるが初めて魔界で生きている生物に会った。
 私が来たとき・・・剣を突き刺された後もぴくぴくと暫く動いていたので突き刺される前はちゃんと生きていたのは確かだ。
 こんな虫けらが生きているなら魔物も一匹二匹は生き残っているかもしれない。
 フェキアはなんとかモチベーション取り戻した。

「それでは引き続き魔物の探索を行う。召喚に使えるできるだけ知能が高く力も強い魔物を捕まえるのだ」
「そもそも魔物に会わないのですが」
「なんとかして探しだすんだ!草の根分けてでもな。兎に角、上層部になんとか誤魔化せるレベルでもいいから魔物を持ってくるんだ」
「フェキア様、誤魔化せるレベルってなんですか?」
「とりあえず魔物だ・・・なんでもいいから魔物を持ってくるんだ」
「やけくそだなフェキア」

 言い返す事が出来ない。確かにやけくそだ。しかし手掛かりが無いゆえにやけくそになるしかなかった。

 ヒルフェット隊とフェキア隊は別々に探す事にした。魔物に出会ったら色のついた信号弾を発射して他の隊に伝える事にした。

 フェキア隊は森を進んでいた。フェキア隊は安全確認の為先に進む先行部隊といざという時に先行部隊の戦闘を弓で支援する後方部隊で構成されている。
「フェキア様!あそこに開けた場所があります」
 遠くに木々が生えていない開けた場所があった。

「ここだけ不自然に木々が生えていないな」
フェキア隊は森の中にぽかんと開いた空き地に出た。

「もしかしたらなんらかの魔物の影響かもしれないな」
「ではここは脈があるということですね!」
「油断するなよ・・・敵がいつどこから来てもおかしくない、警戒を怠るな!」

 先行部隊が慎重に空き地に入っていく。フェキア達は後方の森の中で弓を構えながら息を潜める。

 その時だった。
 大きな地鳴りが鳴り響き地面が揺れた。

「地面が揺れる!」
「なにが起きたんだ!?」
「総員、落ち着くのだ!態勢を立て直せ!」

 次の瞬間、先行部隊の進んでいた道の地面が窪み、沈んだ。
 あっという間に地面はすり鉢状の穴になり、奥にいたこの災害を起こした元凶が大きな大顎をガッチンガッチンと音を立てながらせわしなく動かしていた。

「フェキア様、足が!」
「上へ行けない!」
「飛べばいいんじゃない?」
「あっ!」
 空へ飛んで逃れようとした隊員の一人は穴に潜む怪物が飛ばしてきた砂利にぶつかりバランスを崩し打ち落とされる。そのまま穴の中へと転がり落ちていった。
「ラァラ!」
「仕方ない、こうなったらあの怪物を倒すしかないな・・・!?」

 怪物の広げた穴がフェキア達のいた部隊の地面まで到達した。
 「くっ!!」
 足場が木々ごと一気に崩れた。フェキア達は空中へと即座に逃げるも、追い討ちとばかりに怪物が砂利を飛ばす。
「総員、構えろ!」
 フェキア達は矢を取り出し、弓に矢をつがえた。砂利の弾丸が飛び交う中、狙いを怪物の口に定める。
「総員、放て!」
フェキアの号令の下、一斉に矢が放たれ雨のように降り注いだ。



 フェキア達は勝利した。

 それだけでは無い。
 なんとか穴の中にいた怪物を引きづりだして捕まえる事に成功したのだ!
「フェキア様!やりましたね!魔物を捕まえることに成功しました!」
「うん_________まあ、なんとか」
「フェキア様、これって」
「うん_________あれだな、これはどこからどうみても巨大なアリジゴクだな」

 捕獲した怪物は巨大なアリジゴクの姿_________というよりアリジゴクそのものだった。魔界においては全ての生き物のスケールが桁違いだ。とはいえいくら大きくてもこれが役に立つとは思えない。上が求めるものはこういうものではないと思う。もっとも彼らも「取りあえず強そうな魔物」という曖昧すぎる指示だったので彼らも具体的なイメージは無いのだろう。こんな適当な命令に動員される一天使としてはいつかやつらの面をひっ叩きたい気分である。

「まあ、こいつに召喚の為の紋章を施して見つけました!って上層部に言えばなんとかなるんじゃないか」
「フェキア様、まるでヒルフェット様みたいです」
「どこが!?」
「いや、適当な所というかなんというか・・・フェキア様は早く帰りたいんですか?」

 図星をつかれた。

「いやいや、そうじゃなくてな。ああ、そうそう魔物の姿が一匹も見えないのでな。このまま探しても骨折り損だ。それに君らもここに長居したくないように感じたのでな。私は隊員の事を思って早めに切り上げようと思っただけだ」
「フェキア様、あれ!」
「なんだ!?」

 隊員の指差した先に赤色の信号弾が真っ直ぐにあがっていた。あれはヒルフェット隊のものだ。魔物を見つけたのか?

「総員、すぐに向かうぞ!」

「「はっ!!」」




「魔物を見つけたのかと思ったら・・・・・・お前という奴は」
「いやいやフェキア、これは一大事だろ!」
 地べたに座り込んでいるヒルフェットの目の前に一人の人間の女の子が倒れていた。
 緑色の髪にどことなく幼さを感じる小さな顔。手が全く見えないほど長い袖丈の白い服(デザインからして異国の服のように見える)を着ている。背丈的に10代の女の子といった所だろうか?

「こりゃあ子供だぜ、なんで魔界に女の子が倒れてるんだ?」
「分からないわよ、一体どこで見つけてきたわけ?」
「ここ、この道端に倒れていたんだ」
「もしや、魔物達の争いに巻き込まれたんじゃ!?」
隊員の一人が言った。
「そうなのかも・・・でもそれにしたって」
「あ・・・」
 女の子が声を出しゆっくりと目を開けた。彼女は青紫色の綺麗な目をしていた。彼女はぎょろりと目を動かしヒルフェットに焦点を合わせ目を細めた。

「違う、誤解だ!これはだな」
「女の子になにかしただろヒルフェット」
「なに言ってるんだフェキア!俺はなんの下心も」

 女の子はすくっと立ち上がった。
 ヒルフェット達の会話には心底興味が無さそうだった。女の子はすたすたとお礼も言わずに何事も無かったかのように森の奥へ歩いていく。

「お…おい!」
 ヒルフェットの声でようやく女の子は振り向いた。少女の顔は無表情でなんの感情も感じられない。
「えーっとお嬢ちゃん?少しいいかな?」
 女の子の顔に変化は無い。ただ黙ってじっとヒルフェットを見つめている。あまりにも反応が無いためヒルフェット達もどう会話を進めようか困っている。
「嬢ちゃんは人間か?」
「はい」
 反応はした。どことなく機械的な反応だったが。一応、外見通り人間らしい。
「嬢ちゃんの名前は?」
「しらない」
 ……もしかして誰かに捨てられた捨て子でこの齢まで生きてきた野生児なのかもしれない。この魔界を生き抜くのは相当だし果たしてそこまで生き残った彼女を人間と呼べるかは分からないが。
「あなたはどこに住んでいるの?」
 意を決してフェキアは少女に質問をした。二人の間に流れる沈黙、そして・・・。
「あそこ」
 少女が北の方角を指差した。
「えっと、その先にあなたの家があるの?」
「はい」
 ひとまず会話は出来るようで一安心。
「こんな森の中じゃ家の方角なんて分からないだろ?」
 ヒルフェットの問いに少女は首を横に振る。
「・・・森の中に住んでいるのなら遠くにいても自分の住処くらい分かるすべを身につけているかもしれませんよ」
「なるほどなっ!嬢ちゃん、お前すごい奴だな!」
 ヒルフェットのほめ言葉もスルーし少女は指差した方角へと進むが、なにか思いついたかのように立ち止まるとヒルフェット達へ首を回し。
「いえくる?あんないする」


 先頭に1人の少女、その後ろを無数の天使の軍団が追従する。この一場面だけを切り抜けばまるで少女が神話にでてくる天使長のようだ。

「ちゃんと杭は打ち込んでるな?」
「は、はい!もちろんです」
 適度な場所を見つけては手持ちの杭を打ち込み元のルートへと帰還する際の目印にする。かれこれ30分は打っては飛び打っては飛びを繰り返している。彼女の言う「家」とやらにいつ着くのか検討もつかない。周りは相変わらず荒廃した森ばかりだ。

 正直なところ、フェキアは反対だった。さっさと魔界から出たいと思っている。一応、魔物らしきものは捕らえたのだ。こんな所で寄り道はしたくない。
 しかし、ヒルフェット達はこんな所に少女を置いていくのは危険だと頑なに同行しようとした。少女が「おやしきにすんでる」なんて世迷い言を言ったのもあるだろう。天界の戦士たちはこの数日魔界にいたせいで安心して休める場所を求めていた。少女の言うことが本当なら人間が普通に住める場所があるということなのだから。
 だがこの野生児同然の少女の言動を真に受けるなど言語道断だ。しかし同意見の部下の勢いに押されフェキアは少女の言葉を信じ少女についていくことを受け入れるしかなかった。
 フェキアとしても魔界に人間がいる異常事態は天界に報告する必要はある。だから少女がどこに住んでいるのかくらいは知っておきたい。もっとも彼女の言うお屋敷などではなく獣の住処のような家モドキだった!というのがこの話のおちだと思ってるが。ヒルフェット達ががっかりする姿が目に見える。

 ・・・・・・それにしてもこの少女は怪しい。ただの人間の少女がこの世界で生きていけるか甚だ疑問だ。それにあの少女を見ているとどうにもフェキアの胸がざわめき不安になり落ち着くことができない。彼女の仕草、言動がどうにも気になる。
 さっきも彼女はきょろきょろと辺りを見回したりかと思ったら突如動かなくなった。ヒルフェットが慌てて話しかけるもぴくりとも反応しない。慌てて彼女の意識を取り戻そうとフェキアが彼女に触れようとした矢先、びくんと肩を震わせると彼女は何事もなかったかのように動き始めたのだ。
 時に彼女は木登りを始めることもある。彼女は自分たちと違って空を飛べないのだから仕方ないのだが木の縦縞に器用に足を掛けながら四つん這いでがさごそと高速で登る登り方に何故か嫌悪感を感じた。特にこの行動自体に不審な所は無いはずなのだが。
 とにかく彼女からなにか既視感のようなものを感じるのだ。
 例えるならそれは_________

「あれは!?」
 突然のヒルフェットの驚きの声が自分の意識を現実へと引き戻した。
「どうした?」
「嬢ちゃん……もしかしてあんたの家って……これの事か!?」
「はい」

 突如、目の前に広がる光景は暗暗とした魔界の景色に見慣れたフェキア達にとって衝撃的な光景だった。
 大理石で出来た立派なお屋敷が建っていた。今までそんなもの影も形も無かったように思えたが唐突にそれは現れた。昼も夜も関係なく暗闇だった外とは違い屋敷の中からは煌々と明かりが漏れていてまるで屋敷一帯が大きな太陽となっているようだ。

 フェキアの開いた口は塞がらなかった。横を見るとヒルフェットもただただ呆然とその光景を見つめるばかりだった。
 ヒルフェットも少女の言葉を真に受けてはいなかったのだろう。人間が魔界の森の中に捨てられていたという認識だったに違いない。見れば隊の何人かも同じ反応を見せている。フェキアの見立てとは違い冷静に考えたうえで少女を追うと思っていた天使ばかりだったのだろう。
 まさか言葉通り金持ちの持ってそうな大きな屋敷が現れるとは想像だにしてなかったのだ。今考えれば少女はパンイチという訳でもなくしっかりとした服を着ていた。魔界に偶然、こんな仕立てのいい服が落ちている事があるだろうか?拾い物でないとすればその服を作るかどこかから持ってくる人間はいるわけで。
「・・・・・・まさか本当に」
「フェキア、行くぞ!」
 少女が屋敷に向かって駆け出すのを見てフェキア達は急いで後を追った。


 屋敷の正門_________実際に入ったことは殆ど無いが外観は貴族の屋敷そのものだ。そして眼前に広がるは剪定された生け垣に美しく仕切られ、その中には色とりどりの花が飾られた壮麗な庭だ。絵画にでもなりそうな一帯の様子からはとてもここが魔界だとは思えない。

「なんだこれは・・・・・・」

 思わずフェキアとヒルフェットの声が漏れ出る。目の前の光景が信じられないとばかりだ。しかし周りの部下たちはこの状況に歓喜にわいていた。
 少しだけでもこの安全地帯で休めると考えているのだろう。同じく魔界で任務にあたったフェキアには彼らの気持ちも分かる。これは暁光だ。なんせここはこの狂気の世界には無いと思われていたオアシスなのだから。

 屋敷の扉が開き、何人かの執事らしき人物が歩いてくる。扉が開いたとき思わず癖で身構えてしまったが杞憂だった。出てきたのはモノクルをつけ白髪の老人、いかにも創作物に出てきそうな執事たちだ。少女は彼らの1人に抱きかかえられもう1人がフェキア達の前でお辞儀をした。

「ようこそ、お客人方。こんな地獄の底までよくおいでになりました」

 少女と違い流暢な言葉遣いの執事は朗らかな笑顔でフェキア達に挨拶した。
「私は天軍第7隊隊長フェキアだ。突然大軍で訪問してしまい申し訳ない」
 突然、こんな天使たちが群をなして姿を現したというのに優しい人達である。
「いえ、いいのです。それよりお嬢様から聞かせてもらいました。森の真ん中で気絶していたお嬢様を助けてくださったとか。こちらこそお礼をしたい」

「・・・・・・お礼にというよりお願いなのだがこの屋敷に一晩だけでも泊めてくれないだろうか?いきなり来てうえに無茶な頼みではあるが」
 執事はフェキア達の方ではなく連れているラングザムと捕まえた蟻地獄のような生物の方をちらりと見た。一応、上司たちへの言い訳用に捕まえていたあいつと暴走を定期的に起こすあいつだ。・・・・・・確かにこんな危険そうな魔物っぽいのを屋敷に入れたくはないだろう。万が一暴れられたら困る。
「申し訳ない。あれを入れるわけにはいきませんよね」
「いえ、構いませんとも。あれは我々で管理しましょう。こう見えて我々は魔界のスペシャリストなのであの程度のお世話、子供をあやすようなものです。あなた方に

ができるのであれば喜んで承りましょう」



 この館の内情が少し分かった。ここに館が建てられている理由は自分達に話す内容ではないのか断られてしまったが、この館の主と呼ばれる人物が建てたらしい。どんな理由であれこんな場所に家を建てようとするなんてそいつはそうとう酔狂な人だったに違いない。この館の者は皆、この館の主の家族であり協力しあいながら生活しているようだ。
 この館の主は「姫」と呼ばれているらしく、彼女は既に亡くなっているのだとか。今は自分達が助けたあの少女がその主に近い立場にいるらしい。少女は以前からここを離れ魔界を出歩いていたとのこと。その度に屋敷の人々は捜索を行う羽目になったんだと。
 全く迷惑な娘である。この魔界にこんな温室育ちの人がいるとは思わなかった。

 なんやかんやあってフェキア達は執事に館の中を案内して貰うことになった。
 しかし周りの彫刻やら家具を触ろうとしたり勝手に他の部屋を覗こうと扉を開けようとする部下たちに注意して回る執事には申し訳ない気分だ。育ちの悪い部下ですまない・・・・・・。
 フェキアが一喝したことで余計な動きをしなくなったがこっちは恥ずかしい気分で一杯である。小学校の遠足か?これ。

 長廊下を歩いているときだ。どこからか冷たい風を感じ、吹いてきた方向へ振り向いた。そこには窓のカーテンが半開きになっているのが見えた。ちらりと窓の外を見てみるとこの館の裏側の様子が見えた。その時、館の裏口から集団が次々と森の中へ消えていくのが見えた。館の正面とは違い暗闇に覆われ姿形がよく見えなかったがどうやらこの館にはフェキアの想像していた以上に人が住んでいるようだ。
「あれはここら周辺の魔物の狩りを行うワーカー達です」 
「ひゃっ!?」
 突然背後に現れた執事にフェキアは驚きの声をあげてしまった。カーテンを閉めながら執事は説明してくれた。どうやら彼らは周囲の森の魔物の掃討をしてくれているらしい。だからあの辺には魔物が生息していなかったのかとフェキアは納得した。そうでなければこんな大きい餌のような屋敷、建てた瞬間魔物の格好の標的になっていたことだろう。
 しかしあの魔界に生息する凶暴な魔物をよく一掃できたものだ。なんなら天軍でも即戦力になる人たちなのではないか?隙を見つけてスカウトでもしてみようかと考えていたところぷうんと鼻腔に伝わる匂いを感じた。

「おお・・・・・・」「まさか!」

 食堂には豪勢な食事が並んでいた。恐らくワーカー達が使う食堂だろうからかとても広い。大きな暖炉によって提供される暖かい光に包まれ居心地のいい場所だ。そんな中、所狭しと並ぶのは料理料理料理・・・・・・。
「_________いいのですか?」
 思わずフェキアは執事に尋ねた。
「ええ、構いませんともどうぞ入ってください」

 わざわざしてもらった恩を断るのも失礼だと思いフェキアは食堂へ入った。
 本当に色んな種類の料理がある。一体どこからこんなに持ってきたものか。
「フェキア様も早く来てくださいよ!」
 部下たち特に部隊の野郎共はもう用意された食べ物をありつこうとしている。この数日の食事が余程応えていたのだろう。それにしたって感謝の言葉くらい言ってから食え。
「俺の部下たちにわざわざありがとよ、嬢ちゃんにも後でお礼したいぜ」
 あのヒルフェットの馬鹿ですらやってるのに。
「お食事用意してくれて誠に感謝している。ありがとう」
「・・・・・・それではごユックリオスゴシヲ」
 執事はそう言うとそそくさと退室した。
「もういいですね!?フェキア様、ヒルフェット様」
 中を見ると普段以上に落ち着きのない部下たちが急かす。並んでいる料理のおあずけをくらっているのはしんどいだろう。ぐーと品のない音が鳴った。誰だと詮索しようとしそこでフェキアの腹の音だと気づいた。
「はっはっは、フェキアかくいうお前も我慢できなくなったな?」
「うっさい!」
 からかうヒルフェットに怒鳴り返すももう誤魔化すことはできないだろう。フェキアも内心、目の前の料理にありつきたいのだ。
「・・・・・・分かった。一同この館の人間に感謝しながら食べろよ」
「はっ!!!!!!」
 部下たちは待ってましたとばかりにご馳走に向かう。フェキアは一歩前に歩いた。
 _________足の裏に粘ついたなにかがくっついたような気がするが気のせいだ。よくできた料理へ前進する。ペタペタとガムテープの上を進んでいるような足の感覚があるがフェキアは気にしない。
 まずは近くにあったパンプキンパイを掴み取る。食器までは用意できなかったのだろう。手掴みで料理を食べることになるが食べれるだけでもありがたいので気にすることではない。
 どの料理も本当に素晴らしい。肉に魚に数多くの副菜にスープに飲み物にデザートまで。この人数でも食いきれるかどうか分からない。まるで夢のようだ。あらゆる料理がそこにはあった。どれも食器には入っておらず床に直に置かれているが問題はない。
 1人の天使が床に広がるスープの海を一生懸命屈んだ状態で舐めとっている。まるで犬そのものだがこの料理を食べるにはこの方法しかないのだから仕方ない。
 フェキアも手ごろにあったパンプキンパイを手にした。
「よう、フェキア。隣借りるぜ」
 ヒルフェットが隣に座った。
「なんの用?」
「いや、こっち側の方がいい料理が多いなと思ってな」
「なにそれ変な言い訳」
「とりあえずフェキア、お前も飲もうぜ。昔からの友人だろ?」
「・・・・・・はあ、気が抜けるわね。まあ、今晩くらいは私も飲みあかそうかしら」
「ははっ、その意気だフェキア!」
「はあ・・・・・・」
 フェキアはため息をつきながら手元に持ってきたパンプキンパイを口にした。_________今まで食べたどんなパンプキンパイよりも美味だった。魔界にずっといたせいだろうか?いつもより美味しく感じる。それともここのシェフの腕がいいからだろうか?分からない。だがこのごわごわとした食感、口の中にいつまでも残る南瓜の味わい、それは至福の料理だった。
「おいしい・・・・・・」
 フェキアはそうつぶやいた。


 夢だろうか?何故か私が花嫁衣装を着ていて式場に立っていた。周りには沢山の招かれた客たちがいた。_________大部分はフェキア隊とヒルフェット隊の隊員たちだが。豪勢な料理も並んでいた。ちょうど昨日の屋敷での料理と構成が似ている気がする。皿にきちんと盛りつけられてはいるが。
「よう、フェキア」 
 ふと、横から誰かが話しかけてきた。そういえば私は花嫁の姿をしている。ということはお相手もいるのではないか。内心、少しどきどきしながら相手の方を見る。
 そこには満面の笑顔を浮かべたヒルフェットの馬鹿がいた。


「______________そんなわけないでしょう!!!!」
 目が覚めた。と同時に思わず大声をあげてしまった。どれもこれもヒルフェットの奴が悪い。夢にまで出張ってくるな。
 ______まだ眠い。明日はこの屋敷を出て再び魔界の地に赴くのだ体力は回復しておいた方がいいだろう。二度寝しよう・・・・・・。


 最初の違和感は匂いだ。まるであらゆる肉が混ぜて腐敗させたかのような生臭くどこか粘ついた匂いだ。昨日今日に付いた匂いではない。長年充満していたことで染みついた死臭だ。一体どこからこんな匂いがするのだろうか?
 フェキアは起き上がり周りの様子を確かめようとしたが周囲は薄暗くよく見えない。どうにか周囲の様子を探ろうとした。________そして、2つ目の違和感に気づいた。


 それは周りから小刻みに聞こえてくる音だ。それは何かを打ち付けるような音だ。がちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがち音がする。
 しゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃく咀嚼する音がする。
 周りから感じる無数の気配、それらは蠢いていた。
 フェキアは足元に生暖かさを感じた。見てみるとそれはどこからか流れ出した鮮血から感じているようだった。意味が分からない。

 いよいよ、自分たちの置かれている状況を自覚する時だ。
 ああ、もはや寝たふりなど出来ない。何故なら飛び起きた時に大声を出してしまったからだ。もう周囲の目線が自分を補足しているのを感じる。闇に慣れると真っ暗だった周りの様子を把握できるようになった。しかしそれは幸か不幸か背けていた真実に向き合わされるということでもある。

 ここは食堂だ。最後の記憶は屋敷の人達が用意してくれたディナーを食べようとしてそこで記憶が途切れている。ここは間違いなくその場所だ。しかし、部屋の風貌は違う。全く違う。じめっとした地面は固くごつごつしている。壁や地面には苔むした箇所が所々にある。風通しは悪く湿った冷たい風が吹いている。
 洞窟だ。私たちがいたのはただの洞窟だったのだ。

私たちはここを食堂と勘違いしていたのだ。
 極めつけは地面に落ちている肉塊だ。土にまみれ腐敗臭が漂っている。とてもじゃないが食べられるものではない。これを食べるくらいなら投棄された残飯の方がまだ食べられるだろう。
「うううえっ」
 真実に近づいてしまったフェキアは思わず胃の中身をぶちまけた。吐瀉物は丁度、目の前にあるその物体達と同じものに違いなかった。つまり、自分達は気に触れていた。こんなものを豪勢な食事だと勘違いしていたのだから。
 口に残るのは苦味と酸味?いつまで口に留まり続ける嫌な味、じゃりじゃりとした気持ち悪い食感がいまだに口の中に残っている。間違いなくこれまで食べたものの中でも最も最悪な食事だった。
 恐ろしい真実はまだ続く。
 周りにいる部下たちは皆眠っている。周囲の異常にはまるで気づかずぐっすりと。ただ、何人かの部下は永遠に目覚めることはないだろう。
 ________虫が群がっていた。外観はサイズが人間の腕1本分程に大きくなった蛆虫と言えば分かりやすい。数は分からない。地面が見えない程無数にいるということは分かる。競うように肉を貪り喰らっていた。
 ある意味、最初に餌にされた者は幸運だったのかもしれない。蛆虫たちにあらゆる所から体に侵入され内臓から体を食われるという残酷な結末を知らずに逝くことができたのだから。犠牲者の1人の皮膚が食い破られて中から蛆が湧き出してきた。中身を粗方食べてしまい可食部が無くなってしまったのだろう。もう残っているのは骨と皮だけ外観は生前と変わっていないが中はもうすっからかんだろう。それでもなおこの虫達の腹は満たされないらしい。次の餌に向かって一斉に飛びかかっていく。
 しかし、悪夢はまだ終わらない。
 頭上から黄緑色の汁が落ちてフェキアの肩に当たった。上を見上げれば、天上に幾多の虫が這えずりながら天使の肉を捕食している。ゲジゲジ、蟻、蜂、ムカデetc・・・・・・勿論、サイズは魔界基準。天井に所狭しと並ぶ魑魅魍魎の数々にフェキアの意識は思わず飛びそうになる。いっそこのまま意識が無くなってしまった方がいいのではないか?これから自分の身に起こるだろう事を考えたらこのまま____。

 しかし、許されなかった。耐え難い激臭と脳裏に浮かぶ末路の光景が生物に備わっている危機感知能力がそれを許さなかった。

夢から醒めてしまった彼女に待ち受けるのは最悪の未来だ。
「あぁ・・・・・・」
 彼女に気づいた頭上の虫達がこちらを向いて近づいている。狙いは間違いなくファキアだ。意識が戻ってしまった彼女になにかされる前に食べてしまおうという算段なのだろう。なんて賢い化け物達だろうか?もう虫けらとは呼べない。魔界で遭遇したムカデも蟻地獄っぽい奴ももう馬鹿にできないだろう。
 汗がぶわっと吹き出した。上からも下からも盛大に漏らしていた。フェキアの顔面は涙と吐瀉物と恐怖でぐしゃぐしゃだ。もはや隊を統率していた指揮官の面影はまるで無い。
「死にたくない・・・・・・」
「こんなの嫌・・・・・・」
「ごめんなさい」
「助けて・・・・・・」
 必死の命乞いは知能は多少あるだろう奴らにも通じることは無かった。それもそのはず誰がこれから食卓で食べられるだろう食材にいちいち想いを馳せるというのだろうか?どれだけ切り刻まれる野菜が喚こうがどれだけまな板の上の魚が助命を懇願しようが耳を傾ける気など起きないだろう。そういうものだ。
「嫌だ嫌、嫌、嫌」
 死にたくない生への執着。それがフェキアにある判断を下させる。フェキアは最後に残された勇気を振り絞った。
 隣で幸せそうな顔で眠っていたヒルフェットの顔面をひっ叩いた。一発では起きなかったので何発も打ち込んだ。
「ぐおあっ!痛てえ!!」
 起きた様子を確認したらすかさず近くにいた部下もぶん殴る。これくらいしないとこの深い眠りから覚めることは無いだろう。
 彼女は選んだ。
 天国の夢から引きづり落とし、地獄への道連れを増やすことを選んだのだ。


 そこから先は悪夢だった。目覚めてしまった天使たちは混乱の極みだった。一人一人に話をつけ統率するべきだった。しかしそんな時間を悠長に待ってくれる程あちらは優しくはなかった。フェキア達を脅威だと判断した虫は次々と襲い掛かってきた。とはいえフェキア1人がターゲットだった時と比べると複数人になっていたために戦力は分散していた。
「・・・・・・やべえ」
 いち早く正気を取り戻し事態を把握したヒルフェットや何人かの部下は必死に応戦しようとし、初めて武器が無いことに気づいた。槍やら短剣やら杖やらそして身を守る鎧までその全てが無くなっていた。全てが泥沼、遅すぎた。


 眠っていた部下を次々と叩き起こす。自分の延命の為に。起こされた部下は悲鳴を上げ逃げ惑うかその場で崩れ落ち泣きわめくか。どちらにせよ虫に襲われる未来に変わりはなかった。今もフェキアの同期が大ムカデに捕らえられ幾多の虫に囲まれている。悲鳴があちこちで響き渡り誰の声だか判別することは困難だった。突如、隣から笑い声が聞こえた。1人の部下がその場にへたり込み笑っていた。発狂してしまったようだ。もう彼は笑うことしかできないのだろう。

 ここが一応食堂だったのなら自分達の入ってきた入口はあるはずだ。そこから脱出するしか助かる見込みは無い。もしその逃げ道も塞がれていたならもはや助かる道は無い。

「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい」

 後ろからずっと響いている叫びにフェキアは謝り続けるしかなかった。部下を見殺しにした挙句、尻尾を巻いて逃げ出している自分を許せなかった。数時間前偉そうに指揮官をしていた自分が腹ただしかった。
「仕方ない・・・・・・とはいえないがお前一人で抱え込む必要はねえ。俺も自分らが罠に嵌められたことに気づくことが出来なかった。俺も同じ罪を背負っている。だから、まずは生き残ることを考えて無事助かってからそれから懺悔しよう」
「ヒルフェット・・・・・・ありがとう」

 支えの彼がいたからこそ彼女は諦めずに進むことができた。そうして部下たちの屍を越えた先、彼女は見つけた。
「出口があった」

 虫の巣窟の中、唯一あった洞穴。大人1人がぎりぎり通り抜けられる穴だ。
 後ろを振り向く間も無くフェキア達は駆け出す。途中、フェキアを守った右隣の部下が闇に吸い込まれていった。彼は身を呈して彼女を庇ったのだ。だがフェキアは礼も別れの言葉も言えずに必死に前を向いて走るしかない。
 出口付近に待機していた虫が襲い掛かってくるのをヒルフェット達は素手で向かい撃つ。ムカデが顎肢を突き立てるのをヒルフェットは手で掴み、そのまま腕力に任せて真っ二つにムカデの体を引きちぎった。虫は怯むことなく死体を次々と襲い掛かってくる。素手で突破するのは困難だった。それでも止まる事は許されない。止まれば後ろから迫る有象無象に討ち取られてしまうからだ。だから、走った。
 粘液が身体に張り付き、虫の返り血を浴び、虫の猛撃によって体はすっかりぼろぼろになっていた。しかしその代償と引き換えにフェキア達は遂に出口から外に出ることに成功した。

「がはっ______」
 弾きだされるかのように外に飛び出したフェキア達は目の前の景色に愕然とした。
 そこは彼女達が屋敷の廊下だと思っていた場所だ。しかし今見えているのは似ても似つかない断崖に沿った道だった。ここは一つの岩山だったのだ。当然、窓も無く外からの山風が容赦なく中へ吹きつけていた。
「私たちはこんなのをお金持ちの屋敷だと思い込んでいたの」
 そうフェキアが呟いた時、彼女達は平衡感覚が揺らぐのを感じ思わず頭を抑えた。
「こ、れは?」
 目の前の視界がフェキア達が元々通っていたと思っていた廊下へと変換されていく。ただの岩が家具に洞窟の穴には扉が外の景色は壁に仕切られ窓とカーテンが付いた。こうして洞窟はあっという間に見たことのある館の廊下へと変貌した。
「______どういうこと?」
 メカニズムは分からない。だが、これによってフェキア達は騙されていたのだろう。この屋敷の何もかもが偽りだった。そう何もかも。つまり______
「フェキア!!」
 ヒルフェットの声に気づきフェキアは振り向いた。
 自分達の見た方角とは逆方向、廊下の反対側にそれはいた。
「コノママクワレテイレバヨカッタモノヲ」

 執事だ。だがいままでとは様子が違う。視界の中では彼はとても朗らかないい笑顔をしているように見える。しかし、幾ら外面で誤魔化しても殺意の交じった視線まで偽ることはできない。奴は既に戦闘態勢に入っていた。
「いくぞ、フェキア!」
 示し合わせたかのように執事とフェキア達は同時に動き出した。
 フェキア達は執事の来た方向とは逆方向に行く。執事はそれを追跡する。しかし、あちらの方が若干速かった。追いつかれるのは時間の問題だった。
 まだ距離はあるが確実に執事が追いついてくるとフェキアがそう思ったその時、2人の間にヒルフェットが割り込んでいた。えっ?と動揺する間も無かった。次にヒルフェットを見た時、彼は口から血を流していた。そして彼の腹にはなにかが突き刺さったかのように穴が開いていた。
「・・・・・・ヒルフェット!?」
「問題ないフェキア、傷は内臓までは届いてない致命傷は避けた!」
 ヒルフェットは腹に傷を負いながらも彼を刺したであろう凶器を掴み取ることに成功していた。
 これは山勘だった。失敗すればただの犬死になっていただろう。
 ヒルフェットは周囲の光景を一変する現象を目の当たりにしてからこれを見せているのが敵だとすればなにをするのかずっと考えていた。そうして考えついた答え、それは視覚に嘘の情報を与える事だ。目に見えるものは全て疑った方がいい。だから敵が現れた時もあちら側に注意を払いながらも死角含めた一見なにもいない場所の警戒もしていた。
 そして、敵に追われながらも彼は感じた。それは吹いてきた風だ。物が動くときは多少なりとも微風が発生する。それだけじゃないこの幻を見せる力は万能ではない。一度違和感に気づいてしまえばおかしな点がいくつも見つかる。だから彼は気づいた。これは長年、天軍の一部隊を勤めていたからこそ出来た芸当だろう。
「どりゃあああ!」
 力いっぱいに両腕を振るい襲い掛かってきたものを投げ飛ばす。方向は丁度窓側、幻で錯覚させられているが本来はそこを隔てる壁は無い。そこに投げ飛ばされれば谷底に真っ逆さまに落ちる。べちょっという嫌な音が谷に反響して響き渡るのを耳で確認した。どこまで偽りの感覚かは分からない。だがヒルフェットは確かな手ごたえを感じていた。
「全速前進!」
 フェキアの指示に従い全員が空へと飛翔した。幻とはいえ壁に勢いつけて飛び込むことに少しだけ躊躇したが止まれば殺されるのは確実だ。意を決してフェキア達は助走をつけながら壁へと飛び込んだ。
 彼女達は壁をするりとすり抜けそのまま空へ飛び出した。脱出に成功したのだ。
 翼があって良かった、フェキアは自分が天使であることに感謝した。

 脱出したことで幻を見せる術中から逃れられたのか屋敷に見えていた光景は様変わりして大きな岩山になっていた。自分たちはこれを立派なお屋敷だと思い込んでいたのだ。そう思うと身震いする。敵は間違いなくやり手だ。そう簡単には帰らせてくれないだろう。
 フェキアは地上のある一点を確認していた。屋敷には昨日来たばかりだ。しかし、こういった不測の事態に備え常に脱出ルートを確保しておけという先輩天使からのアドバイスが役に立った。彼女はここからでも魔界に帰還できるよう道すがら杭を打ち込んで目印にしていた。
「ここから真っ直ぐだ!」
 立派な正門だと思っていた場所______実際はただの荒れ果てた大地だった上空に到着する。ここまで来れば、と心が緩んだその時、後ろから羽音が聞こえた。後ろを振り返るとそこには蠅の姿をした追手が追いかけてきていた。空にいても追っ手から逃れることはできないということだ。
「______フェキア様」
 ここまでついてきた部下たちが声を漏らす。もう疲れていた。はあはあと荒い息を立てながらフェキアはそう思った。もうスタミナも呼吸も限界だ。なのにあちらのペースが落ちることは無い。もうここで追いつかれてしまうだろう。
「フェキア様、ヒルフェット様お逃げください、ここは私達が食い止めます」
 ここまで生き残りフェキアを守ってきた天使5人がそう呟いた。
「待って、あなた達5人でも到底あれには敵わない!時間稼ぎも禄にできるかどうか」
 幾らここまで生き残った精鋭でも死ぬのは確実だった。ここで彼らを置いていったらもう_________。
「フェキア様、我々は身を捧げる覚悟です。今まで不満やら文句ばかり言ってきましたがそれでも我々は心の中ではあなたをリーダーとして認めています。思えばフェキア様には色んな事で迷惑をかけっぱなしでした。その恩を今ここで返させてください!」
「・・・・・・なんで今になって」
「最後に言っておきたかったからですよ、フェキア様が後悔されないように」
「・・・・・・余計なお世話よ」
 後ろから迫り来る蟲、もう一刻の猶予も無い。
「ヒルフェット様、あなたはフェキア様をお守りください」
「・・・・・・ああ、分かってるさ。お前らの命、無駄にはしない」
「お別れの時くらい笑顔でお願いします」
「ええ、笑って見送る。私たちもここから脱出する」
「ご武運を」

 化け物達と対峙するのは5人、数的には有利な筈だ。にも関わらずだ、体の震えが止まらない。勝ち筋がまるで無いことを体が悟っていた。それでも先頭の天使は叫ぶ。
「いくぞ、フェキア隊最後の意地を見せつけてやる!」

「俺たちだけでも生き残る。そうしなきゃ囮になったあいつらが浮かばれねえ」
 フェキアとヒルフェットは飛び続ける。この巣窟からの脱出を目指す。しかしここは敵の陣地の中、しかも禄な装備もなにも無い状態でとり残されている。敵との遭遇が無いことを祈るしかなかった。


****************


 どれだけ飛んだことだろう?フェキアが脳内にある地図を頼りに進みヒルフェットが敵の索敵でサポートした。
 そして、見覚えのある場所が見えてきた。ヒルフェットとフェキアは覚悟を決めて飛び出す。そこはエントマリーと言われる少女と会った場所だった。いや、少女というのは間違いだった。奴の正体は_________。

 2人とも翼になにか違和感を感じた。すかさずなにかに引っ張られたかのように体のバランスが傾き、態勢を保てなくなった。
 翼を失ったことで為すすべなく2人は地上へと墜ちていく。
「がっ」「あっ」
 2人の天使は折り重なるように森に落下した。2人は呻き声をあげながらこうなった原因を探る。
 それはすぐに見つかった。羽に粘着質の糸がめちゃくちゃに巻きついていた。その糸はひとつひとつよく目を凝らさないと分からない程細かった。薄暗い魔界の中でこの糸の存在に気づくのは困難だろう。糸は上へと繋がっていて空に張り巡らされた糸に繋がっていた。
 そこは目に見えない蜘蛛の巣だ。逃げだした獲物たちを逃がさない為の檻。それはフェキア達がここに最初に来たときには無かったものだ。
「千切れねえ・・・・・・なんだこりゃあ!?」
 ヒルフェットは巻き付いた糸を力一杯に引っ張った。しかし糸はうんともすんとも言わない。続いて近くの手頃な岩を糸に叩きつける。しかし切れない。糸は見かけによらず頑丈なようだ。
「どうする?」
 打つ手なしのヒルフェットはフェキアに縋る。2人は焦っていた。冷や汗をかいていた。
「どうするって・・・・・・糸は切れないの!?」
「さっきやってただろ!駄目だった」
「燃やす、燃やせばいいんじゃない」
「燃料はともかく火種はどうすんだ?」
「せめて、もう少し余裕があれば_________!!」
「諦めたら終わりだろ。だが早く脱出しないと。とにかく後は後は」
 2人はパニックだ。それもそうだ。突然の状況、ただでさえ自分達が餌になるという極限状態に放り込まれたのだ。昨日までは幸せな時間だったのにだ。そんな中、起こった危機。
 2人は知っている。こういった糸の罠には足止め以外にも用途がある。
 それは_________。

 がさっがさがさ


 なにかが近づいてくる。
 糸は標的が掛かった時、揺れを伝えるセンサーの役割も担っている。それは確信を持って近づいてきている。隠れても無駄だ。無数に絡みついた糸を辿っていけば隠れ場所も容易に暴かれる。体は隠せても尻尾を隠さなければ意味は無い。そして、それはこれ以上2人にものを考える余地を与えさせはしない。
「ぎしゃああああ」

 巨体の蜘蛛の化け物が暗闇から姿を現すやいなや飛びかかってきた。体長は6メートル前後有り得ないサイズだ。
「ちくしょう!」
 ヒルフェットが殴りかかるがあまりにも身体が大きすぎてかまるで効いてない。あちらから見れば蚊に刺された程度の微々たる痛みでしかないのだろう。
 フェキアは身体こそある程度鍛えているものの戦闘能力は殆ど無い。ゆえにただヒルフェットの闘いを見ることしかできない。

 蜘蛛がのしかかって重圧をかける中、ヒルフェットはまだ抵抗していた。だがじりじりと押し負け押し潰されようとしている。
「ヒルフェット!」
 フェキアは自分の無力さを痛感し思わず叫んだ。叫び声は森中に響き渡る。しかし、助けはこないだろう。こうしてヒルフェットは無惨にも押し潰される_________ことはなかった。

 横の茂みから飛び出してきた何者かが大蜘蛛に突進してきた。大きな重低音が響き蜘蛛はひっくり返るように倒れた。
「_________ガラム!」

 自分達の軍隊に編成されていた鋼鉄のゴーレム。そういえばガラムはラングザムと一緒に外に置いていったままだった。だが起動はしていなかった筈なのに何故?

****************

 フェキアとヒルフェットを逃がす為迫り来る虫達の足止めを任されたしんがり達、しかし抵抗空しく彼らは地上で倒れていた。

「・・・・・・畜生」

 時間稼ぎも満足にこなせなかったことに腹が立っていた。空のみならず地上からも蟲達が群がる。自分達を食べようとしているのだろう。
 体はぼろぼろ、逃げることは叶わない。それでも、と最後まで抗う為立ち上がろうとした天使の1人、彼は気づいた。

「ガラム・・・・・・」

 目の前にあったのは停止している鋼鉄のゴーレムガラム、そして檻に閉じ込められているラングザムだった。幸運なことに不時着地点にはフェキア隊の物資があったのだ。
「よし・・・・・・」

 ガラムを起動させフェキア達を追うように指示しラングザムを解き放った。
 随分長いこと鎮静剤をうっていなかったラングザムはひとおもいに暴れ始めた。檻を開錠した隊員はそのままラングザムに突き飛ばされ、死んだ。
 ラングザムは蟲達を攻撃し始めた。次々と群れを蹴散らしているがそれも時間の問題だろう。しかしそれでも構わない。あの蟲達に一矢報いることができたのならそれで_________。

 やがて、その天使も事切れた。



 ガラムが現れたことで戦況は一変した。蜘蛛の化け物はガラムの体当たりで突き飛ばされ魔界に生える奇妙な形の木々をなぎ倒しながら横回転で吹き飛んでいった。
「助かった!」
 ヒルフェットは危うくぺしゃんこになりかけていた体を起こしガラムの方に駆け寄る。
「よく生きてたな!ガラム」
 ガラムは無反応だがどことなく嬉しそうにしてるとヒルフェットは感じた。仕草とかから何となくそう感じただけだが。ヒルフェットとフェキアに積極的にすり寄ってくるあたり人肌が恋しかったのだろうか?
 なにせここにはもう生きている人間はフェキアとヒルフェット以外_________フェキア達はにわかに悪寒を感じた。自分達は魔界をなにもかも舐めていた。昨日まで共にいた同じ釜の飯を食べた仲間があっという間に一晩にして消えた。

 _________いや、怯えたところで状況は変わらない。今自分達に出来ることはこの場を生き延び生還することそれだけだ。
「あああああああ!」
 びりびりびりびり翼が裂ける音がしフェキアとヒルフェットは強引に羽を根元から引きちぎり蜘蛛の糸から脱出した。痛みに悲鳴を上げそうになったがなんとか最小限の音量に抑えた。羽根が殆ど抜け落ちた翼はもう役に経たない。ここからは走って逃げるしかない。
 ガラムも加わったフェキア一行は蜘蛛が来た方向とは逆の方角へ向け走り出す。鬱蒼とした木々を抜け大きな砂地へと出た。既にここから元の道へと戻るルートは分かっている。そこまで戻れたら後は今まで進軍してきた道を引き返せばいい。幸い、魔界から地上に戻るのもここからなら1週間あれば行けるだろう。鍛錬を日々受けているフェキア達であればそれくらいの期間飲まず食わずで走り続けるくらいできる。疲れ知らずのガラムもいるのでいざとなれば彼に運んでもらえばいい。
 希望が見えてきた。この魔界にも光はあったのだ!

_________
_________
_________ ___

 足下の地面が沈み込んでいることにフェキアが気づいた。声をあげる間もなく陥没は広がり大きなすり鉢状の巣穴が現れ空を飛べないフェキア達は穴の中へ滑り落ちていった。
 そして捕らわれた者の行く先、巣穴の中央からはがっちんがっちんと聞き覚えのある音がしていた。
「_________っ!お前かあああ」
 フェキア達が捕らえていた蟻地獄似のモンスターだ。
「捕らわれた恨み晴らしにきたってかそう言いたいのかくそっ!」
 フェキアは歯噛みした。これがあの天使喰い虫どもの味方になる可能性は十二分にあった。もっと開けた場所は警戒しておくべきだった。

 もがけばもがくほど脱出できなくなる。しかしこの蟻地獄似の化け物はここぞとばかりに巣穴の奥から砂利を彼女らに飛ばしてくる。ここで一回でも攻撃を喰らいバランスを崩そうものならあっという間に穴に落ちあの大顎の餌食になるだろう。

「____ぐっ」
 フェキアとヒルフェットは飛んできた砂利に当たった。砂を吸い込んでしまい咳き込んだところに更に蟻地獄は攻撃を飛ばす。次に飛んできたのは先程のと比べて大きめの小石が多く含まれた殺傷性の高いものだった。二人とも顔とを手で覆い急所に当たらないように備えていたことで目に石が当たることは無かった。
 しかし、幾多の石礫の直撃は二人の重心をずらすには十分な威力を持っていた。そもそも足場が悪すぎる。踏ん張りも効かないこの場所ではどうしようも無かった。二人はあっという間に蟻地獄の下に転がり落ちる。
 同じく引きづりこまれる巣穴から力づくで脱出しようとしたガラムはそんな二人の様子を見て引き返した。彼にはこの二人を最優先で守るように指示されていたのだから当然の反応だろう。助けようと巣穴の主に対して剣を振るおうと間合いへと近づこうとするガラムの視界は集中は注目は当然、相対する敵の方へ向いていた。

 だから、巣穴の外にいた一人の影に気づくこともできなかった。











「____!?」

 ガラムの身体に無数に糸が絡まった。それらは次々とガラムの四肢の動きを奪うかのように巻き付いていく。必死に解こうともがけばもがくほど糸同士が絡み合いますます縛り上げていく。次に力を加えて強引に引きちぎろうとするもそれも出来ない。そうして抵抗している間に半透明だった糸が上流から絵の具を流しているかのように黒く塗りつぶされていった。そしてその現象はガラムの体にまで到達し、いよいよ彼をも真っ黒に染め上げようとした。糸を伝ってきたミクロサイズの蟻たちがパーツの僅かな隙間から次々とガラムの心臓部へと侵入したのだ。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオおおおおおおおおっOO@#&%W」
 ガラムの怒りの声は徐々に壊れた機械音となりあっという間にそれはただのノイズとなった。機関部のコアを壊されたことでゴーレムは機能停止に陥ったのだ。

「ガ、ラム?」
 巣穴に吸い込まれるがままだったフェキアとヒルフェットは目の前でガラムが崩れ落ちるのを呆然と見つめることしか出来なかった。そしてガラムの末路をしっかりと見る前に彼らは穴の底に到達してしまっていた。そして、状況を飲み込む間もなくフェキアの視界は暗転したのだった。

 フェキアが意識を失う寸前、巣穴を覗き込む少女の姿を見た。_________いや、あれは少女ではない。長い袖からは人を刈り取り切り刻めそうな大きな爪がその顔は可愛いがどこか人形のように無機質だ。魔界では人のふりをして襲いかかってくる生物もいるというのを聞いたことがあった。
 自分たちはまんまとしてやられた。気づくチャンスは数多くあったのに______。




















_________、_________。


 目覚めると目の前には純白の天井があった。フェキアはずきずきと痛む偏頭痛に頭を抱えながらもなんとか起き上がった。
 清潔感の漂う白ずくめの部屋そこの病院用ベッドに寝かしつけられているようだ。どうやらここは病室らしい。
「フェキアさん、大丈夫ですか?」
 傍にいた白いナース服を着た天使が話しかけてきた。たしか後輩で一時期自分の部隊に編成されていた。今は天界の救護部隊に所属していたはずだ。彼女が傍にいるということは自分は天界に戻ってこれたということだ。
「あ、ああ」
「意識は取り戻せたようですね。幾つか先輩に質問をしたいんですけどよろしいですか?」
「_________ああ」
 フェキアは曖昧な返事を返した。
「部隊壊滅の経緯をお伺いしたいのですがよろしいですか?思い出すのは辛いでしょうが話を聞かせてください」
「・・・・・・」
 腹がきりきりと痛んだ。結局、彼女の率いた部隊は皆帰ってくることはなかった。みんな残さずあいつらに食われたのだろう。
「____魔界にて虫の外見をした未知の生命体と遭遇。交戦するも全滅。その後、私とヒルフェットは辛くも彼ら追っ手から逃げ切りこの場所まで戻ってきた。奴らは狡猾で私たちはその罠に愚かにも引っ掛かったしまった。____全ては私の責任だ。生き残ってしまった私の____」
「先輩・・・・・・」
 重苦しい空気が病室に流れる。とはいえ事実だ。私は魔界で出会ったあの少女のような化け物に疑いを持っていた。最初から彼女についていく判断をしなければ。
「もうやめましょうこの話は。処分の方も天位議会に掛け合っている最中ですし場所が場所だけに大きく責められることはないと思いますよ。____命を懸けた先輩の部下もそんな先輩の姿を見たくはないでしょう」
 なんの慰めにもならない。むしろ責めてほしい気分だ。とにかく暫くは職務も出来そうにない。体も心に引きづられ微動だにしなくなっている。いつまでもこのままなのだろうか時間が解決してくれるのだろうか?これから私はどうなるのか。フェキアの行く末は分からない。
「ああ、そうだ!先輩に渡したいものが」
 そんな状態を気遣ってか後輩は片手に提げたハンドバッグをごそごそと漁りなにかを取り出した。
「じゃあああん!!先輩の大好きなパティシエシュクレのシフォンケーキですよ!」
 場の空気を和ませようと後輩が取り出したのは自分の好物のお菓子だった。____食欲はないけどわざわざそんな気遣いをしてくれた後輩にありがとうと言おうと顔を上げ____。
「おえええええ」
 シーツに嘔吐した。ぼとぼとと吐瀉物がシーツを通じて床に流れ落ちていく。
「せ、先輩!?うぅ、逆効果でしたか!?すいませんすいません!」
 彼女は驚き、慌てて吐瀉物を拭こうとハンドバッグからタオルを取り出した。
「わ、私に謝る必要は」
 彼女が謝る必要はない。ただ、料理を見るとあの晩餐の光景が脳裏によぎり拒否反応が出てしまうだけなのだ。あの日食べた料理すべては生ごみ以下の代物だった。今も胃の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれている感覚がある。とてもじゃないが消化しきれない量だしあそこで食わされたものが消化できるものなのかすら分からない。この調子だと点滴で生活する羽目になりそうだ。
 そういえば、あの夜自分の置かれてる状況にも気づかず吞気にヒルフェットと結婚するなんて馬鹿馬鹿しい夢を見ていたな____。
「私のことなら大丈夫だから____。ヒルフェットの方は大丈夫なの?」
「あちらも先輩と同じような容態と聞いています。詳しいことは分かりませんが」
 シーツの汚れを一生懸命拭き取りながら後輩は答えた。

 ヒルフェットも自分のような状態になっているのか。あの快活で常に五月蠅かった彼からはとても想像できない。仲間が全滅した後も勇敢で上手く立ち回っていた彼も。でも仕方ない。あんなことを経験しては誰だってそうなるに決まっている。あんな悪夢を経験したら誰でも。____それでもあの悪夢を抜け出すことが出来たのだ。彼のお陰で。だから立ち上がれるようになったらもう一度会おう____。
「うっ________」
 頭痛の痛みがまたぶり返してきた。吐いたせいだろうか?
「先輩、吐きますか?」
 何処からかバケツを後輩が持ってきてくれた。感謝してもし切れない。もし復帰できるようになったら彼女にお礼の一つ二つはしてやりたい。
 軽く2、3回バケツに吐き出した後、どうにか吐き気は収まった。
「また気持ち悪くなったらここにしてくださいね」
 後輩はそう言うとバケツをもう一つベッドの横に置いてくれた。
「それじゃあ、また来ます先輩」
 そう言うと後輩はシフォンケーキを包み紙に戻し立ち去る。
 頭痛がまた酷くなる。今までに比べてより一層激しく痛む。頭を抱えこみ喉から熱いものがこみ上げる感覚を覚え次の嘔吐に備えバケツに顔を突っ込んだ。
「あ、____え?」
 口から吐き出されたものを見てフェキアは啞然とした。

 ____沢山の蛆虫だ。大きな蛆虫がバケツの中を跳ね回っていた。そして、彼女は気づいてしまった。
 ____私はどうやって助かったんだろう?
「あ、ちょっと待って!」
「先輩?」
 フェキアの呼び止める声に病室を出ようとした後輩が振り向く。
「私はっ____」




**************************************************************************************************************************************************************************************_____________________________________________________________________________________________________________________________________________________。




 ____目の前にはさっきまでは生きていて会話していた肉塊が散らばっていた。さっきまで真っ白で汚れ一つ無い清潔だった空間は血と大量の虫で溢れかえっていた。
 フェキアの身体はすかすかで全身穴ぼこだらけだ。そう、彼女の全身は虫の住処になっていたのだ。意識があり生き永らえていたのは体内の虫が臓器の代わりを果たしていたからにすぎない。
「は、ははは____」
 フェキアは笑うしかなかった。自分はもう死んでいたのだ。奴に捕らわれた後、自分達は虫達の苗床にされた。しかし奴らはそれだけでは終わらせなかった。奴らは彼女らには仲間がいるのではないかと考えそいつらも餌にしてしまおうと考えた。奴らはどうすれば天界まで行けるか考えた。考えた結果、私とヒルフェットが利用された。自分達はそいつらを天界まで運ぶ動くコロニーとして操られここまでやって来たというのが事の真相だ。
「あああああああ」
 フェキアは目の前の惨事に項垂れるしかなく、やがて倒れた。
 虫達は次なる標的を求め、病室から外に通じるあらゆるルートに殺到する。通気口、扉の隙間、窓ガラス____。奴らは軍隊のように列をなしあらゆるものを貪り食う荒波となった。そして何も知らない天使達は内部からの急襲に対応しきれず次々と魔の手に掛かっていくのだった。
「なんだあれは?」
 なんとか虫達から逃れ空へと逃げた天使その一人がある一角を指差す。そこでは虫達が動き回り、ミステリーサークルの要領で模様を形成していた。円形のまるでなにかの魔法陣のような。
「まさか!?」
 その意図に気づいてしまった天使は悲痛な叫び声をあげた。


**********************

「ジュンビハヨロシイデスカ?」
 人が何十人も乗れそうな大きさの虫が頭に乗っている少女の姿をした怪物に話しかけている。虫の姿は平べったく縦に長いまるで上から体全体を潰された蛇のような容姿をしていて頭の近く左右に4本ずつ翅が生えている奇怪な姿をしていた。

「はい」
 依代である少女の身体の正体はある日、魔界に捨てられた哀れな捨て子である。彼女には名前が無かった。怪物に体の指揮権を奪われた後もそれは変わらなかった。しかし、つい先日食べた生物は各個体に「名前」というものを付けるらしい。その生命体は賢く捕まえるのが難しかったことからは比較的上位の「捕食者」らしい。ならばこれから生物の頂点へと目指すことを決めた自分達も「名前」というのを付ける必要があるだろう。

「ヒルフェット、いくよ」
 取り敢えず獲物の中でも一際てこづった強者の「名前」を拝借し乗用の虫に名前を付けた。それがこのヒルフェットだ。少女の言葉を合図にそう名付けられた奇怪な虫は翅を羽ばたかせ飛び立つ。宙を泳ぐ虫は一見「東洋の龍」のようだ。ただ正面から見ると2つの複眼と4つの単眼を持ち触角のある虫の顔をしている。
「ヒメハナマエヲキメタノカ?」
「ウ―ン」
 彼女は自分の名前はどうしようか悩んでいた。フェキアというもう一人しつこく抵抗したメスの獲物の名前も候補だったがどうにもしっくり来ない。虫達の頂点に立ち納める自分にはもっとふさわしい名前がある筈____。
「ア」
 ふと頭の中にある名前が思い浮かんだ。それはアルという獲物が自分の子に名付けようとした名前だった。自分達は獲物の「大脳」を食べる事でその脳に蓄積された知識を己のものにできる。自分達が知能を持つ上位者を捕らえられるようになったのもこの知識のお陰だ。幻覚をかける罠も話す言葉もこの世界についての知識もすべてこれまで葬ってきた獲物たちから集積したことで修得したものだ。
 今出てきたのも食べた獲物の考えが偶然表層化したことで生じたのだろう。
「エントマリー」
 響きからして女性に名付ける「名前」だろうか?名付け親は大したオスというわけではない。膝をつきなにか喚き散らした後自分で喉にアーミーナイフを突き刺し自分で死んだというちょっと変な挙動を見せたただの獲物だ。だが、彼女はその「名前」を気に入った。
「エントマリー、私の名前は今日からエントマリー」
「エントマリー、リョウカイシマシタ」
「エントマリー様というの。目上の人にはそう呼ぶ、らしい」
「ハ、エントマリーサマ」
 虫達の自分への呼び方に指導をいれつつエントマリーは自分の名前が決まったことで自己を確立し完全に一個体として行動できるようになれた気がした。エントマリー____いい名前だ。

そうこうしているうちにエントマリーはある地点に降り立った。そこにはこの魔界に生息する自分のしもべ____愛すべき虫達が所狭しにひしめき合っていた。彼らは待っているのだ。先に隠れ蓑を使って「天界」へと行った同胞が魔法陣を描き自分達の召喚をするのを。

 召喚魔法陣____これも最近得た知識だ。魔物に印を刻み魔法陣から自在に喚び出す方法。これは自分達にも適応できた。つまり向こう側で召喚が成功すれば全員を天界に「移住」できる。魔界は厳しい環境だ。弱肉強食は他所よりも厳しく頂点にいてもふとした拍子に転落し非捕食者になってしまう。エントマリー達もまたいつ全滅するか分からない瀬戸際にいた。そして魔界にいる限りそれは変わらない。だが天界はどうだ?獲物はたっぷりいるしライバルの魔物も少ない。エントマリー達からすれば喉から手が出る程欲しい「理想郷(ユートピア)」だ。

「これから侵攻作戦をはじめる」
 獲物の言葉を借りるならこれは「軍事作戦」。領土を奪い自分達の楽園を築くための侵略戦争だ。
「敵を蹂躙、駆逐、略奪せよ」
 捕食した「指揮官」を一丁目にこなすエントマリー。抱負を喋り終えて数分が経ちエントマリー達の体は青白く光り始めた。どうやら、あちらの作戦は成功したようだ。

 ____奴らはこうして天界に侵攻した。エントマリーの行く末はいまだ分からない。だがこれから彼女の「名前」が広まるそれだけは確かだ。名も無き姫君は「エントマリー」として世に轟かせることになるだろう。
 
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