ある女神様の恋病(前編)
文字数 31,519文字
時は申の刻下がりを迎えている。
日も沈み始め周囲が徐々に晦冥になり始めるなか、男神が一人、森の中を駆け抜けていた。彼の走りは傍から見れば残像にしか見えない程速く、そしてそんな走りをしているとは思えないほど静かであった。実際、目の前を横切られた青い鹿も彼が通りかかったことに気づきもしていなかった。その静かさは彼の冷静さをその速度は男がどれだけ急いでいるかを如実に表していた。
ふと、男は陽が山に沈み始めているのを見て、走るペースを上げた。例え呼び出しが一時間前だろうと例えその呼び出し先が神であろうと容易に一時間で辿り着けない場所であったとしても
フツヌシ様の命令であるなら彼は辿り着かなければならない。
フツヌシ様は一見、優しそうで温和な出で立ち振る舞いをしている優男である。だが彼の弟は外見や性格が兄とは似ても似つかないあのタケミカズチである。
タケミカズチの逸話には枚挙に暇がない。酒の勢いで他の男神と相撲を取って、その結果地形が大きく変わってしまっただとか寝ぐせの悪さから寝室を何度も破壊し最後には野外で眠るようになったとか挙句の果てには彼が動けば大体厄介事が増えることから「災厄」という名がまことしやかに囁かれている。もちろん、まことしやかにしか囁かれていないのは本人に聞かれたら地獄へ行った方がましと思えるほどひどい目にあうからだ。
フツヌシ様はそんな弟に似ず____なんて事はない。
彼も根っこの部分は変わらない。だが、弟と異なり彼は隠すことができる。普段は朗らかに笑い、落ち着いた物腰で話す。しかし、何らかのきっかけで本性を露わにしたフツヌシ様は恐ろしい。それこそ弟譲りのいや、それ以上に恐ろしい。そんな彼の本性を知ってしまった以上、彼の逆鱗にだけは触れてはいけないと心に刻んだ。彼の前での誤りは許されない。故に今回の件も遅れるような事があってはならないのである。
ふと、誰かの視線のようなものを背後から感じ、走る足こそ止めなかったが冷や汗が背筋を伝う。___最近、誰かに見られている気がする。最初は気のせいだと思っていたがどうやら違うようだ。私に付きまとう不埒な輩かと思ったが、この視線はどうも任務を随行している間にだけ現れることから別の可能性が浮上した。
それは私への監視の可能性だ。
粗相を働いた覚えは無いし、反逆を企んでいるわけでもないが、何らかの理由で疑われているようだ。そして私に監視役がついた。それならば任務中の間にだけ視線を感じるのも納得できる。私の屋敷にはフツヌシ様の息のかかった女中や兵もいるし妻もいる。悪事を働くとすれば屋敷外、即ち外出中である。彼が外に出るときは大体お勤めをする時なので、疑われるとすればその時間である。
自分はなにもしていないのに疑われる。それも最悪なことにフツヌシ様にだ。
フツヌシ様にどうして疑われているのか聞くという手段もあるが、自分に疑念が向けられている事を考えると監視していることに気づかれた事を知ったら次は実力行使をされるかもしれない。疑いが強くなって牢の中で一生をという最悪の可能性が容易に想像できる。故に彼が今できる事は疑われぬ様、監視に気づかないふりをしながら任務をきっちりとこなすことである。
酉の刻まで酉の刻まで酉の刻まで、フツヌシ様の提示した期限を頭の中で反芻しながら足をまた一歩また一歩と進めていった。
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恋というのは難しいものである。恋焦がれた相手にどう気持ちを伝えればいいのか、恋をしたことのないミホツヒメはひどく悩んでいた。
高天原の神、高皇産霊尊の娘であるミホツヒメは恋をしている。お相手はある男である。その男と運命の出会いをしたのはある昼下がりのことだった。
ミホツヒメはその日、高皇産霊尊の視察に付いて行く形で今度フツヌシ様の領地となる国へ出向いた。元は外に出たがったミホツヒメが散々父にごねた結果、このような形をとることで外出が許可された。ミホツヒメは特にやることもないので護衛に囲まれながら外を適当にぶらぶらと歩いていた。国は活気に満ち溢れ、道行く人々は皆一様に幸せそうだった。どうやらここの領主は国の事を第一に考えるいい領主様のようだ。
歩いていたミホツヒメは一つの茶屋の前で足を止めた。店にはお団子や砂糖菓子といった嗜好品が売っていた。
「これ、買います」
気になるものを見つけ、それを買おうと従者に頼む。
「いけません、ミホツヒメ様。そろそろ昼食のお時間です。今食べるのは」
「いいじゃないどうせ午後にはこの国とはおさらばでしょ、お父様は視察が早すぎるのよ、間食の頃まで待ったはくれないわ」
「しかし……」
従者はミホツヒメが指さした先を見て閉口した。
そこには大きな大福が___それも大きさが人の顔と同じくらいあろうか、一体誰がこんなに食べるんだとも言える大きさの大福があった。
「ミホツヒメ様、これは流石に間食の域を超えています。そもそも食べきれないかと……」
「ちゃんと全部食べ切れるわよ!それくらい分かるでしょ!? 」
ミホツヒメが最近、外出先の団子屋でみたらし団子を一抱え分食べ切ったことは護衛も知っているはずだ。大福をミホツヒメが食べきれることも分かっていると思うしなんならその後昼食を食べきる事だって出来る。
「しかし、高皇産霊尊様の娘としての自覚をもってもっと慎ましく……」
「やっぱりお父様の言いつけね! 本当に嫌になっちゃう! 」
思った通りだ、父はとても過保護で心配性なのだ。娘の一挙一足に口出ししてきて嫌になる。
「最近のミホツヒメ様は少々度が過ぎます。このままだとその麗しい見た目が崩れてしまいます。最近、体がまた肥られたと女中が」
「もう知らない!! 」
「ミホツヒメ様! 」
従者がなにか叫んでいたが、ミホツヒメは無視して走り出した。周りの護衛がミホツヒメの逃走を阻止しようとミホツヒメを囲もうとする。それに対してミホツヒメは機敏な動きで護衛の囲いの隙間から抜け出す。後ろから護衛の伸ばした手がミホツヒメを掴もうとするが、届かない。ミホツヒメは人ごみに紛れ、まもなく護衛も追ってこれなくなった。
ミホツヒメは気づいた時には花畑の中にいた。無我夢中に追手から逃げていたせいでどうやってここに来たか覚えていない。花畑には鮮やかな紫色をした藤の花が群生していた。人為的に置かれた木材に藤の花が巻き付いていることから誰かが作った花畑のようだ。そんな小さい花畑を見つつ、ミホツヒメはため息をついた。
護衛の言っている事は正論だ。彼女の体型は徐々にふとましくなりつつある。お嫁に将来行くこともあると考えると、護衛が止めるのも無理のない話だ。だが…… 。
「結婚ね……」
ミホツヒメは恋をしたことがない。彼女が結婚するとすれば政略結婚であり特に好きでもない相手と結婚することになる。そんな見知らぬ相手に対して配慮する必要があるのだろうか? 彼女は無い、と考えている。どうせ政略結婚なら見てくれがどうであれ結婚は成立する。なら外見に気を遣うよりも今を楽しく生きようじゃないか。お嫁に行ったら、今よりも更に窮屈な暮らしをする事請け合いだ、だったら今この自由な時間に好きなことをやればいいじゃない。
そんな言い訳を心の中でしつつ、彼女は顔を下に向けていた。私は生まれた時から高皇産霊尊の娘の女神としての期待を背負っている。皆一様に私になにかを押し付けている。私は私の意志で生きたい。この国の和気藹々としていて笑顔に溢れている民を見ると、私もあの中に入りたいとさえ思ってしまう。
ミホツヒメはうつむいたまま、時が止まったかのように動かなくなり、いつからかうつらうつらし始め、意識が途切れた。
ミホツヒメが目を覚ました時には昼を過ぎていた。起床一番にぐうう、とお腹の音が鳴った。ここにいても仕方ないか、ミホツヒメは起き上がり町へ向かおうとして足を止めた。___町へどうやって戻ろうか?
自分でもまあよくこんな所まで来たものだと思った。町の姿が見えない。花畑の周囲は木々に囲まれ、どちらが町への方角かも分からない。ミホツヒメは内心泣きそうになりながらもなんとか立ち上がり、あてずっぽうな方向に歩き出そうとした。
「どうかしましたか?」
それは男の低い声、しかしとても凛とした響きを縫って聞こえてきた。
顔を上げるとそこには一人の青年が立っていた。青い髪に髪型はみずら、装飾の付いた青い絹と袴を履いている顔立ちの整った男だった。外見からしてある程度裕福な立場にいる様だ。
「いや……こんな所に女の子が一人だけでいて、しかもそんな今にも泣きだしそうな顔をしてたらなにかありそうだとおもうじゃないか!」
___泣き出しそうな顔?
自分の顔が思った以上に変化していたことに驚き、慌てて顔を取り繕う。誰もいないと思っていて、つい油断をしていたようだ。
「別に私は泣き出しそうになんてなっていませんよ? 貴方の勝手な勘違い、妄想に過ぎません」
勘違い、妄想の部分を強調しながらミホツヒメは嘘をつく。見知らぬ男にいきなり心配されるいわれは無い。私は決して泣き虫の子供ではない。
「心配してくれたのはありがとう、じゃあそろそろ私は行きます」
そう言うとミホツヒメは男から離れようと動く。どうもあの男といると居心地が悪い。生理的嫌悪感とは全く違う、心の中がもやもやする感じた事のない不思議な感覚だ。
「えーっと、道分かります?」
無駄に勘のいい男である。
「なに言ってるの?こんな所に来たのに帰る道が分からないとかなんの冗談よ!元来た道を戻るくらい私は出来るわよ」
そう言うとミホツヒメは駆け出した。どうもあの男は私の心をかき乱すのが上手いようだ。なんというか、苦手だ。後ろからまた男の声が聞こえた。
「その先は山奥では!?」
知らない、それよりもこの男から離れるのが先だ。
男と話した事など箱入り娘のミホツヒメには父様以外殆ど無い。そして父様に対する印象は良いとは言えない。そんな未知の生物「男」とは関わりたくない。というのが実際の所のミホツヒメの本音である。
ミホツヒメは森の中を走っていた。鼻腔から暖かい森の匂いを感じとる。あの男からなんとか離れられたようだ。ミホツヒメはほっと一息ついた。しかしあの男の姿がどうも頭の中でちらつく。まるで脳に焼き付けられたかのようにこびりついている。思えば、今までの人生の中で初めて対等な会話をしたような気がする。今までのミホツヒメと関わりがあったのは全てミホツヒメの立場をよく知ってる関係者ばかりで皆揃ってミホツヒメを上に見ていた。全員が全員「様付け」、上を見上げればお父様やら神様やらがいる。しかし、対等な立場の人間とは今まで会った事が無かった。あの男とは初めての対等ともいえる関係と言えるのではないか?
そこまで考えミホツヒメは顔を横に振った。あの男の事はどうでもいい、兎に角戻らないと。あの男は流石にあそこにはもういまい、そう考え走ってきた道を戻ろうとミホツヒメは旋回した。さっきの反省を生かし、走ってきた道は覚えている。さっきの場所に戻り、手探りに進めばいい。あの男の助けは必要ない。ミホツヒメはそう楽観的に考えていた。
ミホツヒメはこの森がどのような所か知らなかった。何故ここに人が住まないのか、何故あの男が驚き、ミホツヒメを森から出そうとしたのかも。箱入り娘は世間の事に無知過ぎた。
旋回したミホツヒメの目の前には大きな獣が立っていた。獣は見たこともない異質な身体をしている。猿のような頭だが、胴体は猫……いや、もっと凶暴な生き物のものであり、尻尾に蛇が付いている。蛇の尻尾はしゅーしゅーと音を立てながら、まるで生きているかのように揺れていた。それは鵺と呼ばれている怪物だが、ミホツヒメは知る由も無い。
恐怖に足が竦む。ミホツヒメの常識を越えた異様な生き物を目の前に動くことができない。今日はなんと不幸な日か、よく分からない未知の生き物に二回も出くわすなんて。
そして……
鵺が飛びかかってくる。
まさか、ここで死ぬなんて。
ミホツヒメは鵺が人一人引きちぎるのはたやすいだろう爪という名の凶器を振り上げた時、目を閉じた。あんなものに勝てるわけが無い。私はここで死ぬだろう。たとえどんな奇跡が起きたとしても、私はここで死ぬ。
目を閉じて数秒、後悔の渦が心の中で湧き起こる。私は謝らなくてはいけない。勝手に逃げてごめんなさい。喧嘩してごめんなさい。私を信じ、この国に行かせた父上にごめんなさい。私を心配し、この森から逃がそうとした男にごめんなさい。
しょうもない意地で自分を死なせた。護衛の女性達が後悔する様を、父上の悲しむ様を、そしてあの男が泣く光景が頭に浮かぶ。
なにかが大きな音を立てて、倒れる。肉の千切れる音がする。獣の叫び声、打撃音、そして激しい息づかい。
なにかがおかしい、ミホツヒメはそう思ったがなかなか目を開けられない。開ければ目にまたあの恐怖の怪物が映ってしまうから。しかし、どうなってる?今私は殺される寸前だった。何故生きている?激しい音が鳴り響く中、意を決して目を開けた。
怪物はひっくり返った状態で倒れ込み、なにかに抵抗していた。怪物はそれに両腕の爪を振りかぶるも、その足を抑えつけられる、骨の折れる音がして怪物の足はだらりと垂れ下がり、機能しなくなった。それならば、と怪物は蛇の尾を鞭のようにしならせ一撃を放つ。しかしその尾は次の瞬間には掴まれ、一思いに引きちぎられた。流石の怪物もこれには応えたのか、あらんかぎりの叫び声をあげる。その隙を逃さず、幾多の蹴りや殴打が頭に炸裂、叩き込まれる。
殴られた痕ででこぼこになった猿の頭はそれでもなお意識を保っていた。だが、尾に手足を潰された鵺がとれる行動は限られていた。
猿の頭が噛みつこうと牙をむく、全身を使い起き上がり敵を押し潰そうとする。だが全て読まれていた。全体重を押し付けられ、噛みつこうとした牙には短刀が突き刺さり、へし折った。
武器を全て失った怪物は呻き声をあげながら、ぴくりとも動かなくなった。死んだふりだ。今まで何人もの狩人を騙し、毒牙にかけた切り札だ。
攻撃の手が止まった。鵺は薄目を開けて様子を確認する。奴が油断して背後を向けた瞬間が奴の最期だ。首筋に僅かに残った牙を突き立ててればいい、一瞬だ。背後を向けた、鵺が飛びかかる。だが、牙は届かなかった。
「ぐわっ……がっ!」
鵺の喉には短刀が貫通していた。短剣から多量の血飛沫が飛び散る。男は背中を向けながらも短刀を正確に急所に当てた。こいつは死んだふりにも気づいたのか、それとも______鵺は終ぞ答えを知ることは無く息を引き取った。
「大丈夫か?」
ミホツヒメに手が差し伸べられる。ミホツヒメは腰が抜けていた。化け物が現れてもう死ぬかと思った。だが、助かった。これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶ?
ミホツヒメは無言のまま手をとり、なんとか立ち上がった。震えはもう、止まっている。
手を取った相手に助けてくれた相手に目を合わせる。さっき出会った男だ、手や服は先の戦闘ですっかり血にまみれ、髪も乱れていたが間違いなくさっきの男だ。
ミホツヒメは今、男と一緒に森を歩いている。肩を貸しあいながら二人三脚で道を進む。
この男も戦いでのダメージは零ではない、足取りもどことなく不安定な感じがした。
「大丈夫かい?」
「なに言ってるの?私は大丈夫に決まってるでしょ?それよりあなたこそ大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってるだろ!この通りぴんぴんで」
「どこがぴんぴんよ!ふらふらじゃない」
「ふらふら?まあ、けっこう俺ってふらふらしてるからなあっちこっちふらふらと」
「それで誤魔化したつもりかっ!」
それは仲のいい人同士ならば当たり前の会話なのかもしれない。だがミホツヒメにとっては初めてかもしれない、こんな対等な会話をすることは______出来れば終わって欲しくない、この時間が永遠に続けばいいのに。
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男が山に入ったのは化け物狩りをするためだった。
この山は元々は人々が住んでいた里山だったが、ある日鵺と呼ばれる人を食らう怪物が住み着いてしまった。毎晩毎晩人を食う為に現れ、そのせいで彼ら里山の住民は住みかをおわれた。
たった一人この森に住み続け、藤の花を育てていた老婆がいたが、まもなく人の匂いに気づいた鵺に襲撃され、命を落とした。
男にとって民は皆大切な人間である。故郷を失うことはさぞ辛いことだろう。
自然の摂理だの金だの関係ない。民を守り、この国の安寧を願うのがこの国の領主としての正しい在り方だ。
男は山に入り、まず藤の花の花畑を見に行くことにした。最後までこの地に残った老婆は正しい判断とは言えなかったかもしれない。生き残る為ならこの山を捨てるべきだった。
自分の生まれ育った場所に未練を残す事が出来なかったのかもしれない。あるいは自分の家を滅茶苦茶にした鵺への抗議のつもりだったのかもしれない。
だが、今になって死人を責めるというのは些か気分が乗るはずもない。
いずれにせよ、この老婆の残した置き土産は見ておきたい。命を賭して作り上げた藤の花の花畑を。
花畑はあっという間に到着した。老婆は出来るだけ鵺の出没する山奥は避け、見晴らしのいい山の麓で生活していたようだ。鵺に対するささやかな抵抗だったのだろう。それでもなお鵺の嗅覚から逃れることが出来なかったという事実からどれだけこの怪物が人の血肉を欲しているかが分かる。
今は山奥に閉じこもっているが、近くには大きい村がいくつもある。いずれは山から下りてきて人肉を求めやってくるかもしれない。これはますます退治しなければならない。
無惨に破壊された家を抜け、男は藤の花の花畑に辿り着いた。藤の花の香りが鼻腔をくすぐる。ずっと老婆が世話していた事もあって藤の花畑は自然ではまずみられない、綺麗な色合いをして、見栄えがいいように剪定もされている。眼に映るそれはまるで一つの芸術作品のようだ。
決意を新たにいざゆかん!そう思った矢先だった。
男は見間違いかと思い一度目をこすり、改めて花畑を見た。
花畑に人影が見える。しかも見たかぎり若い金髪の女性である。ここにわざわざ来る物好きはいない。それは鵺の餌になることと同じことを意味するからだ。ここが危険だということはここの住民は勿論、訪れる人間も知っている筈だ。ではこの少女は何故?
近づいてみると、どうも泣いているように見えた。只でさえ鵺の現れる危険地帯である。一体なにがあったのか? 男は意を決してその少女に話しかけた。男はこの齢になって、女の子とまともに話したことがない。それでもこの少女を放置することは出来なかった。
何故こんな事になったのか? 男は叢を掻き分けながら一人で問答していた。話しかけたのはいいが、どうにも会話が成立しなかった。それどころか逃げられた。女とはつくづく難しいものである。だが、あの少女が向かったのは間違いなく山奥の方だ。このままではまずい、間違いなくどこかで鵺に遭遇して喰われてしまうだろう。そんな事はあってはならない。
会話していて分かった事がある。まずは比較的高貴な所に生まれている事。______服装や雰囲気から推測したに過ぎないが。そして世間を知らなそうという所である。なんとなくたどたどしく、外の世界に慣れていない。距離感も掴めていない。これは自分も大概だが……。
いわば、彼女は箱入りのお嬢様である。そんな娘が何故こんな所にいるのか?どうしてここで泣いていたのか?は全くもって分からないが、恐らくここの危険性も知らないと見える。
男は必死になって探した。そして______
「見つけた」
最悪の事態だ。鵺と女性との距離はほんの五寸ばかりの距離だ。一刻の猶予もない。男は隠し持っていた短刀を持ち、大声を上げ、鵺の注意をこちらに引きつける。鵺がこちらを向いた時には男は目と鼻の先で短刀を振り上げていた。鵺と男の二つの声が山に木霊した。
彼女を救出してから時が経ち、辺りは夕焼けに染まっている。街に到着した。彼女がここで降ろしてと言った場所は立派なお屋敷の前だった。やはり私の予想は正しかったと、内心、ちょっと喜んだ。
「ありがとう」
別れ際に彼女は感謝の言葉を述べた。彼女の顔は赤みがかっていて熱を発しているように見えた。大丈夫か?熱でもあるのか?と聞いたら彼女は「なんでもないです!」と声を張り上げ、そそくさと屋敷へ入っていった。
変な女の子だなあと思いながら見送り、男は去っていった。
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帰って早々、こっぴどく父に叱られた。
ミホツヒメは馬鹿正直に逃げてからあったことを全部話したせいで父の説教は夕食抜きで夜が更けるまで続いた。部屋から出してもらえた時には辺りはすっかり闇に包まれていた。屋敷の住居人も夜番以外は皆寝ているので、屋敷はとても静かだった。
ミホツヒメは部屋に戻ると、敷かれている布団に潜る。
父の説教は長すぎて大半なにを言っていたか、ろくに覚えていない。ただ、暫くは屋敷の外へも出してもらえないのは理解した。
だが、後悔はしていない。あの体験は恐怖があったし、下手したら殺されたかもしれない。
でも、素敵な出会いもあった。私を助けてくれた素敵な素敵な______
ミホツヒメは顔を枕に埋める。必死に顔を隠す。一体、なんなの?この顔が熱くなる感覚は?
男の姿が脳裏をよぎる度に出るこの病をミホツヒメは後々「恋病」であると知った。
ミホツヒメはあの男に恋をしたのだ。
時は過ぎ去り、あの頃から三年経とうとする。ミホツヒメは心も身体も胸も成長し、外出も四カ月前に父からようやく許された。
だが、ミホツヒメの求める男は住んでいる土地にはいない。また父親があの土地へ行かない限り彼女が彼に巡り会うことはないだろう。
いわゆる政略結婚の類の誘いが来ることもあったが、彼女は全て頑として拒否した。
諦めの悪い彼女は今でも機会が無いか、虎視眈々と伺い、どうにかまたあの土地に行けないか模索していた。
そんなある日の事、従者が一枚の書簡を持ってきてやってきた。
従者曰わくこの書簡は剣神フツヌシから父宛に送られたものらしい。そこにはあの時に行った国がフツヌシの傘下に入ったこと、父がその国の領主様と親睦を深める為、再びあの土地に出向くとの事だった。
ミホツヒメは喜び、大急ぎで父のもとに行き、ねだる。あんな目にあって懲りずに再びあの国へ行こうとするミホツヒメに父は呆れていた。どうにかなだめ説き伏せ、護衛から離れず危ない場所に行かない事を条件になんとか父の許可を取り付けた。
ミホツヒメは来訪して早々、男を探そうと動き出した。男の特徴を頭の中に叩き込み、虱潰しに探す。
父との約束通り、護衛の為に従者を付き添いながら外に繰り出し、探す。時には人に聞きながら隅から隅まで目を凝らす。
聞き込みから得られた情報は「似ている人を見た事がある、住んでる場所は知らない」という類の答えが多かった。あの男の形跡は確認できたが、一向に見つかる事は無かった。最悪あの山へもう一度行こうとも思ったが、平民曰わくあの山はどうやらあの怪物ほどでないにせよ凶暴な物の怪が多いらしい。あの時、鵺以外に出会わなかったのは鵺を恐れていたからであり、鵺がいなくなってからは彼らが山を闊歩している。
一人で行くにせよ護衛と行くにせよ、危ない場所には行かないという父との約束事があるので、行くのは止めた。
結局、最後まで男を見つけることはできなかった。
夕暮れを過ぎ、お付きも帰ったほうがいいと告げた。ただでさえ無理を言って出してもらった以上、素直に従うしかなかった。
屋敷に到着した時、ミホツヒメは疲れ果てていた。見つからなかった。こんな事ならあの時住んでる場所なり名前なり聞いていればよかった。頭がぼうっとして思考も回っていなかった。当時の自分を呪う。
沈む気持ちを抑えきれないまま、ミホツヒメは護衛と別れ従者とともに屋敷に入る。
色んな場所を駆け回り、すっかり疲れ果てていた。寝殿造りの屋敷の門廊を通り、自室へ戻ろうと歩き出す。途中、何人かの人間とすれ違った。装いから父親に挨拶しにきたこの土地の権力者達だろう。皆一様に不安げな表情を見せていた。それもそうだ実質的な支配者が変わると知れば不安になるのも分かる。
ここの領主は住まう人々や土地の豊かさを見れば分かる通り、評判のいい領主であることが分かる。今まで通りの生活が崩されてしまうのではないかと皆恐れている。
「何故、なにゆえにみすみす支配権を明け渡してしまわれたのだ___領主もとんだ腰抜けだ」
「徹底抗戦あるのみ!代々あの土地は我々のものだ!!これまでも何度も不埒な輩を打ち負かし守ってきたではないか!今代は一体どうしたのだ」
「戦だ、奴らはここを乗っ取ろうとしている。戦で奴らに我々の恐ろしさを示すのだ!」
ぶつぶつとこんな会話をしている者もいた。彼らはミホツヒメにすれ違うと、決まって睨みつけてくる。刺すような視線を感じながらもミホツヒメは刺激をしないよう黙って脇を通り抜ける。
ミホツヒメもその新しい支配者側だ、このような目を向けられるのも必然だ。ましてや彼らは父親からも言われた過激な保守派だろう。
「奴らはなにかとかこつけて領主側とフツヌシ側の間に不和を生もうとしている。だから彼らとは揉め事を起こさないように」
父親にそうしつこく言われた。
緊迫した状況が続く中、ミホツヒメの後に続いて従者も通り抜ける。
後ろでどすんとなにかが倒れる音がしてミホツヒメは思わず振り返った。そこには倒れている従者の姿とその下に過激派の一人がのしかかられた状態で倒れていた。
冷ややかな空気が寸刻流れる。そんな中、口火を切ったのはその様子を見ていた髭面が特徴の過激派の一人だった。
「これはこれは、どういうことですかな?」
この一言がきっかけでミホツヒメは我に返った。倒れている従者へ走り従者に肩を貸しながら立ち上がるのを手伝う。
「申し訳ありません____ミホツヒメ様」
従者の感謝の言葉を無言で受け取りながらミホツヒメは別の相手に目を向けていた。目の前の彼らはその様子を黙々と観察するかのように見ていた。従者に敷かれた仲間のことは気にも留めない。まるでこの事態に一切驚いていないかのようだ。
下に敷かれていた過激派の老人は下に敷かれていた従者がいなくなったことでむくりと起き上がった。
「いたた……いたた、腰が足が痛いのお」
起き上がるなり老人は騒ぎ出した。足を引きずり近くにあった柱に手をかけ体を預け、さも自分がおおけがを負っているかのように周囲に大げさに見せつけている。そして一言、
「ああ!!まずいのお、これは骨が折れたやもしれぬ」
この言葉に合わせるかのようにざわっとどよめきをあげ過激派が騒ぎだす。
「なんということを……」 「この地に先祖代々仕える崇高な我々になんという仕打ち」
「やはり、こんな輩が仕えているフツヌシに従うなぞ許されることではない!!」
「なんの騒ぎだ?」 「どうもここに泊まっている高皇産霊尊様の娘が騒ぎを起こしたらしいぞ!」
正にいい機会だと言わんばかりに口々に大声で過激派は騒ぎ、その騒ぎが伝播し何の騒ぎかと聞きつけた聴衆が集まる。
あっという間にミホツヒメ達は人だかりに囲まれていた。もはや、事を小さくは収められないだろう。ちらりと過激派を見ると、彼らは一見、真面目腐った顔や怒りに震えている顔の
ミホツヒメには確信があった。従者が転んだのも過激派が巻き込まれ倒れたのも全て過激派の仕組んだことであると。だが、証明する手段は無い。ミホツヒメは従者が倒れた瞬間を見てはいない。なのでどう説明すればいいか分からない。どんな方法を使ったのか?まるで未知数だ。あくまで疑うことしかできない。結局、偶然そうなったとしか説明できないのだ。
聴衆がざわつく中、どう決着をつけるかミホツヒメは頭を回す。感情に支配されてはいけない。まずは従者に話を聞いてみよう。なにかからくりが分かるかもしれない。
しかし、従者が言うには過激派の前を通ろうとしたときに突然ふらっと倒れてしまったとのことだ。これだけの情報では彼らが犯人だとは断定できない。
こうなった以上は事を大きくしすぎないように謝り、この場を収める事にする。そもそも私の考えすぎで本当に偶然の可能性もある。その場合、彼ら過激派が「被害者」である。
「今回は私の従者がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
ミホツヒメと従者はそう言い頭を下げる。気に障る過激派達でもこれから付き合う関係になる以上、ここは穏便に引いてもらおう、彼女はそう考えた。しかし、彼らはミホツヒメの想像以上に人の心につけこみかつ悪知恵を持っていた。ミホツヒメは優しすぎたのだ。
「そうですか」
にたにたと笑みをこぼす過激派の一人が近づく。
「しかし、どうしますかな?この方はこの地におわす領主オオモノヌシ様に仕える重鎮であられますよ。そんなお方に大けがを負わせるとは謝罪で済む問題ではありませんよ」
敷かれた過激派の老人は柱に体を寄せながら「痛いなこれ」「むうう……」と言いながら腰をさすっている。老人なのだからこの程度でも骨が折れるということがあってもおかしくないがどうにもこの老人からは胡散臭さを感じる。どうにも芝居じみているのだ。だが、事の顛末を知らない人間から見れば大けがであると認識するだろう。
「待てよ___もしや」
過激派の一人が目を見開き、顎髭をさする動作を止めなにかに気付いたかのような仕草をした。
「あなた方わざとやったのではありませんか?」
まるで真実に気づいたかのように振舞いながら彼は言葉を続ける。この後に続く言葉がなんとなくミホツヒメも想像できた。ゆえに怒りを感じた。
「そうだ、あの時お前たちはわざとやったのだ。そうであれば辻褄が合うではないか!」
「そうか!」 「なんて奴だ!」
他の過激派も追うように口々に追い打ちをかける。
「仲間を負傷させることで、奴らは我々に脅迫しているのだ!「これ以上、歯向かえばお前たちはただでは済まない」と、代々この地を心から大切に思い、守る我々を陥れこの地を私物化しようとしているのだ!」
現実味がある話に聴衆がざわめく。ただでさえ支配者が変わることへの不安があるのだ疑うのも無理はない。
「なんたることだ!これは弾圧だ。奴らは圧政を敷く気か!!」
「___卑怯な手を!」
「これは暴虐だ、おぬしらはこんな者達にこの国を任せてよいのか?」
疑いを向け始めた聴衆を陽動するように過激派が言葉を紡ぐ。
「まさか、そんな」 「だがありえぬ話ではない」
過激派の言葉に乗せられる形で聴衆の中にも信じ始める者が現れ始めた。
よくもまあここまで平気で嘘を並べ立てられるものだ、それも一見、信じてしまいそうな内容なのだから殊更たちが悪い。そもそも原因はこちらでは無くあちらだろう。どのような方法を使ったかはミホツヒメには分からないが、陥れたのはあっちだ。よくもぬけぬけと言えたものである。
「ちょっと待ってください!それは誤解です」
流石に我慢できずミホツヒメは口を開けた。
「ミホツヒメ様、私の事はいいですから」
従者の制止する声が聞こえたがミホツヒメは構わず続ける。
「やったのはあっちです!わざと転ばせたのはあっちです。私達にそんな意図はありません」
「そんなわけないだろう?あれはどう考えても君たちに非があるだろう」
「さっき謝っていたではないか!それは自分の非を認めるのも同然ではないか」
「そうだそうだ!!」
現場を見たのはミホツヒメ達と過激派しかいない。聴衆が見たのはミホツヒメ達が謝っている場面と過激派達の言葉による説明だけだ。ミホツヒメは対応に失敗した。ここは譲歩せず是が非でも過激派に反発すべきだった。彼らに会話の主導権を握られてしまった。他人から見ればミホツヒメが過激派の言葉に追従する形で主張したに過ぎない。
「彼らの言っていることは誤りです!私の従者はそのような陰湿な考えは持っていません、彼女は彼らによってわざと転ばされ濡れ衣を着せられただけです」
「嘘を言っているのはお前たちだろう?今更なにを言い訳しているのだ?」
平行線だ、過激派の言い分もミホツヒメの言い分もどちらも嘘には見えない。ゆえに彼ら聴衆は見聞きした情報から真偽を判断した。その結果___
「ミホツヒメ側が悪い」 「脅迫の為にやった」
そう結論付けられた。
人は多数側に押し流される。まだミホツヒメ側が悪いとは断定したいない者もいるが、いづれ数の暴力に押し流されるだろう。そもそも主張しているのがミホツヒメ側がミホツヒメと従者。それも当の従者は押し黙ったまま。対して過激派側は数が多い。数の圧力に加え、彼らはお偉い地位にいる。媚を売るべきだし逆らうべきではない。そんな空気が広がっていた。ミホツヒメも高皇産霊尊の娘というそれなりの立場ではあるが、彼らの方が現地人からすれば身近な上、妬ましいこの地の支配権を奪った者に従えているミホツヒメによい印象は抱いていない。この結果も必然だった。
ミホツヒメと従者は罵倒の嵐の中、自室へ戻った。いくら主張しても数で上回れたらどうしようもなかった。激昂することもできたが、少しでも相手に危害を加えれば逆効果だ。それが歯がゆく、ミホツヒメはそんな見通しをたてた自分を許せなかった。
「どうしてなの?どうしてなにも言わないの?」
ミホツヒメは従者に何故あのとき押し黙っていたのか尋ねた。あそこで従者が話して結果が変わったかは分からないが、最低でもミホツヒメが話すよりは信用が得られた筈だ。余計な疑惑は無くせた筈だ。
「それは___どうしようもないからです」
「どうしようもないって……」
「あの場でどのような弁明をした所で事態が悪化するだけですよ」
「それでもなにか言うことが出来た筈よ」
「結果は変わりませんよ、ミホツヒメ様は」
完全な否定だった。なにもそこまで否定する必要は無い。何故完全に否定されなければいけないのか。従者にはもうなにを言っても駄目だろう。
「下がっていいわ」
「お気遣い感謝します」
ミホツヒメは従者にそう言って下がらせるしかなかった。
悪事千里を走るというが、今回の騒ぎはあっという間に広まった。___最も悪事を働いたのはミホツヒメ達ではなく過激派の方なのだが。しかも話にはもれなく尾ひれがついていた。過激派の男にフツヌシ様に仕える者がこの地の重鎮に危害を加えた、一人に一生治らない程の重症を与えた。暴言を吐いた。脅迫した。こんな具合に話はどんどんと事実の少ない虚構の話になっていた。
幸い、ミホツヒメを知っている人となりを知っている人はそんなことは無いと、無実を信じてくれているがそれ以外の人間はミホツヒメを疑っている。
騒ぎが起きた翌日、ミホツヒメは父親に呼び出された。
予想していた事だったが、事態はとても大きくなっていたようだ。
「ミホ!なにが起きたのか説明するのだ!」
父はミホツヒメの事を「ミホ」と呼ぶ。年頃の娘にその呼び方はどうなのかといつも問いたくなる。
ミホツヒメは事の顛末を父に話す。父は黙ってそれを聞いていた。話し終わったとき、父親がどんな反応をするか分からなかった。叱られるかそれともなだめられるか。
父の反応は至って冷静で驚きは無かった。話が終わると、父は一言、やはりそうだったか___と呟いた。
やはり?___まるで知っていたかのような台詞にミホツヒメは疑問を呈した。
詳しく話を聞くと、父はどうもミホツヒメに内緒で何人かの部下をミホツヒメの監視に置いていたというのだ。父はミホツヒメの外出を許可したはいいもの、その親馬鹿かつ過保護な性格からやはり心配になって念のために何人かの護衛に監視させていたのだ。その護衛がミホツヒメ達のやり取りの一部始終を見ていた。
___ミホツヒメからすれば流石に過保護過ぎでは?とか、言いたいことが山ほどあるが、結果的には父のこの判断は正しかったと言わざる終えない。だが、父の護衛の目から見ても従者は過激派からなにか仕込まれたりした形跡は一切無く、本当にただ倒れただけだったようだ。
結局、過激派が意図して転ばせたという証拠は一切無かったのだ。父親もミホツヒメの無実を信じているが、この現状では訴えても不利になるのはこちらである為、故郷へ帰る数日まで波風立てずに大人しくしている他無いとのことだった。
ミホツヒメは一言で表すなら、むしゃくしゃした気持ちで一杯だった。想い人は見つけられずあらぬ疑いをかけられた。最悪だ、やけ食いしたい気分だがなんとか抑える。ミホツヒメは想い人との再会に備え過度な食事は控えていた。こんなにも見つからない状況でもなお再び、想い人と相まみえることが出来ると信じている自分がおかしい。仮に再会できても一日しか会っていない自分の事を覚えているとは限らないというのに。
外に出る気は無かった。下手に出てまた面倒事に巻き込まれるのはごめん被る。それにミホツヒメには外に出て一日中探しても見つからないだろうという謎の確信があった。
ミホツヒメは屋敷をふらふらと散策することも無く、自室で勉学に励んでいた。励んでいる、と言っても半分くらいの時間はなにも考えずぼ―っとしたり机にうつ伏せになって寝ているが。
昼時になって従者がミホツヒメを呼びに来た。どうも昼食は父とこの地の領主様とともに食べるという話だと言うのだ。最悪な話だ、領主がどんな人物かは知らないが騒ぎを起こした自分にいい印象を抱いているとは思えない。父はなにを考えているのだろうか?とはいえ、ここで拒否するわけにもいかない。ミホツヒメは仕方なく従う事にした。
これほど衝撃を受けた時は何年ぶりだろうか?いや、3年ぶりか。同じ人物に二度も衝撃を受けるとは思うまい。探し人は存外近くにいたものだ。父の紹介した「この地の領主様」こそミホツヒメの探し人その人だったのだ。
相変わらずの顔にみずちの髪型、服は青みがかった礼装を身に纏っていた。あまりにも3年前に似すぎで最初は夢を見ているのかと思ったほどだ。外見は殆どあの時から変わっていない。いや、顔つきがあの時以上に男前になっただろうか?こんな事を考えてしまう自分が恥ずかしい!
せっかくの再開なのに顔をまともに見ることすら出来ない。前を向くことすら憚らない。恋というのはここまで人を狂わせるものなのか?それとも自分がおかしいだけだろうか?
顔を赤くして前も向けないミホツヒメに相手は反応に困っている様子だった。
「え―っと、私はオオモノヌシと申します。この国の領主を務めておりました。これから末永くよろしくお願いします」
声も当時と殆ど変わらない。凛とした響きの美声だ。それにしても末永く、末永くよろしくかあ……。
おっと、いけない危うく妄想の世界に引きづりこまれる所だった。
「コンニチハ、私は高皇産霊尊ノ娘ノミホツヒメデス」
なんとか気持ちを抑え、格式ばった片言な自己紹介をする。何度も再開したときの場面を想像しなんの言葉をかけるか、どのように話の流れを作り出すか考えたのに本番はこの有様だ。これは突然意図せぬ時に現れたあちら側の問題だとミホツヒメは勝手に責任転嫁する。
「はい、ミホツヒメ様ですね。」
「ヨ……ヨロシクオネガイシマス」
オオモノヌシは少し困惑しながらこの自己紹介を受け止めてくれたようだ。
昼食の会話中、ミホツヒメは中々会話の機会に恵まれなかった。肝心のオオモノヌシはずっと父と会話している。それもそうだ、権力者の娘に容易に話しかけることなんて出来るはずもないし第一どう接していいか彼も分からないだろう。あちらが思い出してくれれば簡単な話だが、流石に彼も簡単にはあの時の少女が自分だとはすぐに思い出せないだろう。
彼はどうもあの噂話を知っているようだ。ミホツヒメの名を聞いた時もどことなく「ああ、あの……」といった感じの反応だった。だが、彼は敢えてその話題については触れないようにしていた。彼の心遣いに私は嬉しかった。また、彼に助けられてしまったようだ。
結局、彼とは自己紹介以降話せずに終わってしまった。精々最後に彼が出ていく時に別れの挨拶を言ったくらいである。最高の機会だというのになんというざまだろうか。
「どうして私をここに招いたのですか?お父様」
父と二人になってミホツヒメは尋ねた。
ここでの探し求めていた想い人との再会、こんな偶然がありえるだろうか?私を密かに監視していた父だ。もしかしたら父は私の秘めたる思いを知っていてこれを___
「?まあ、深い理由は無いぞ。領主さんにミホを見てもらいたくてなあ!ミホはあんな噂たてられてるけどそんな事しないいい子だって見せたくてな」
まあ、そんな気がした。
この男は娘大好きな割に娘の心の内は殆ど分かっていないのだ。これは男と女の宿命なのだろうか?いや、父が特別分かっていないだけな気がする。
「はい、はい分かりました!ありがとうございました!」
正に反抗期なミホツヒメは父にぶしつけに感謝の言葉を述べ、出ていった。
「___何故ミホは怒っているのだ?」
残された高皇産霊尊はそう呟いた。
父の目的はともかく、ミホツヒメにとって想い人が思いの他、近くにいてくれたのは朗報だ。これで探す必要も無くなり。ミホツヒメの恋路はまた一歩前進した。
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こうして今に至るミホツヒメはどうやって思いを伝えるかそもそもどうやってオオモノヌシ様に近づくか昼間からずっと悩んでいる。しかし、考えれば考えるほどあの過激派のいざこざが問題になる。あれがあるせいでミホツヒメは悪い印象をこの地の住民から抱かれている。まったくもって過激派は最悪な事をしてくれたものである。
思い悩む中、従者が部屋に入ってきた。
「どうかなされましたか?昼間からずっとなにやら悩んでいるご様子ですが」
玉案の山積みの古文書と白紙の和紙を見ながら従者は尋ねた。
こんな気持ちなのに勉学に励めるわけが無かった。代わりに自分の持っている情報からどうすれば彼に近づけるのかずっと考えていた。
誰かに相談するか?例えば目の前の従者とかに___だが、駄目だ。彼女とは昨日に仲違いしたばかりだ。あの時以降、私と従者は業務的なやり取りしかしていない。こんな相談には乗ってくれないだろう。
そう考えていた時、従者は口を開いた。
「ミホツヒメ様___もしや、誰か殿方に恋をされているのですか?」
「えっ?」
急に自分の心中を正確に言い当てられてミホツヒメは混乱している。それもよりにもよって従者に正確に言い当てられるとは思わなかった。
「なんで?なんで分かったの?」
ミホツヒメは顔を真っ赤にしながらつい聞いてしまう。
「何故もなにも最近のミホツヒメ様は必死に一人の殿方を探しておられるので___ここまでご執心だとなにかあるだろうと誰でもそう思いますよ」
見抜かれていたのにも驚いてたが、私が触れる前にあちらから触れてくるとは思わなかった。
「ミホツヒメ様も年頃の乙女なら、恋をしてもおかしくはないでしょう。何年付き添っていたというのですか?それくらい分かります」
分かって当然とでもいうように従者が言う。ミホツヒメからすれば驚きでしかないが。
「その様子だと探していた殿方が見つかったそうですが、合っているでしょうか?」
「___そうだけども……」
「なにか悩んでおいででしたら、私も相談に乗りますよ」
「相談に乗るって言ったって……あなたになにが」
「どうも、ミホツヒメ様は出会ったはいいが、殿方にどう想いを伝えることか難儀しているご様子ですね」
ここまで色々と心中を一気に言い当てられると、反論もできず、ただただ反応に困ってしまう。
「うん、まあ、そうなんだけど___なにか知っているの?」
「でしたら、恋文などはいかかでしょうか?」
「恋文___って確か」
「殿方との愛を告白する為の手紙ですよ」
「こここ恋文って!私達まだ、そんな段階では」
「だからこそ、ですよ。恋文はミホツヒメ様の様な面と向かって話すことのできない方が愛を伝えるのに最も有効な手段なんですよ」
「そんな、恋文、なんて」
普段からはあまりにも想像できない従者の饒舌っぷりと押しの強さにミホツヒメは押されるばかりだ。
「ほら、ちょうどここに紙もありますし折角ですから書かれてみては如何ですか?」
玉案にある和紙を手に取り従者は促した。
ミホツヒメは結局、恋文を書くことになった。そしてすっかり陽が沈んだ頃になって初めての恋文が完成した。
「初めての恋文にしては、上出来ですよ」
「読み返してみると、なんだか恥ずかしい気分になるのだけど……こんなので大丈夫なの?」
「最初はそんなものでいいのですよ。気持ちさえ伝わればいいのですから」
恋文はずっと考えていた割には簡潔な内容になった。正直、見返すのも恥ずかしい内容だった。
「それで、書いたはいいけれどどうやって届けるというの?」
書いたはいいが、どうやって彼の下に手紙を送るのだろうか?直接渡すのなら書いた意味が無いような。従者は考えがあると言った。
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ミホツヒメは書いた恋文を手に部屋へ向かう。恋文は折られ、紙飛行機の形になっていた。従者曰くたどり着いた部屋の窓の向こう側にオオモノヌシ様がいつもいる自室があるという。
従者の提案は紙飛行機で窓からオオモノヌシ様の部屋の窓へ飛ばすというやり方だ。
確かに粋な方法だと思うが、ちゃんと受け取ってもらえるかが問題だ。最悪、中身を見られずにそのまま捨てられる可能性もある。そうなったら全てご破算だ。
だがここは、自分が恋した男の事を信じる。見てもらえると信じ紙飛行機を飛ばした。
「___それでどうにか受け渡しは出来たと」
「受け渡しというか一方的に送っただけだし、読んでくれるかは分からないわよ___この作戦本当に大丈夫なの?」
「殿方であれば紙飛行機が突然、飛んで来たらなにがあったか驚くだろうし文字が書かれているのは少し見れば分かりますしそのまま捨てるということは無いでしょう」
「それ完全に希望的な観測ではありませんか?」
「あなたの恋している殿方を信じましょう願わくば紙飛行機で恋文が送られてくるという夢を持つ男であることを」
それから一日経つが、彼が恋文をちゃんと読んでくれたかは分からない。あれからオオモノヌシ様に会う機会も無い。
次の日も従者はミホツヒメの部屋にやってきた。従者曰く継続することが大切とのことで今日も恋文の紙飛行機を作ることになった。
「どうしてまた急に私を助ける気になったの?」
疑問に思っていたことを従者に言う。従者は暫くなにか考えていたのか黙っていたが、やがて語りだした。
「私めは昔、ある屋敷に務めていた時恋をしていました。その相手は私なんかでは到底手に届かない位の身分の高い男でした。でも、私はその殿方に恋をしてしまったのです。私はどうすればいいのか日々葛藤しました。そして最後にはミホツヒメ様と同じように恋文を紙飛行機に乗せ、殿方の部屋に勝手に送るようになってしまったのです___結果どうなったか分かりますか?」
「結果ですか、恋が成就したとか?でもそしたら今のあなたは」
「もちろん、そしたら今の私はミホツヒメ様の従者をやっていたりしませんとも」
「じゃあまさか、失恋したって結末?」
「合っているとも言えるし半分合っていませんね」
従者はくすくすと笑いながらそう答えた。
「つまり、どういう事?」
「殿方はきちんと私の恋文を読んでくれたんですよ。そしてある日、私は呼び出されました。最初はなにがあったと思ったものです。正直な話、私も心の中では諦めていました。読んでもらえる訳ない。あの人と私は釣り合わないと。だからその人がお会いしたいと言っていると聞いた時は心底驚きました。驚いたと同時に私は嬉しかった。自分の恋心を伝えることが出来たのです」
従者がここまで嬉しそうに話すのをミホツヒメは初めて見たかもしれない。だが___
「彼と私は初対面ではなく、初めて顔を合わせたわけでもない。でも私は飽くまで一人の使用人に過ぎず、意識したことは無かったのでしょう。私を目の前にして彼は目を逸らして私に目を合わせようとしませんでした。私は最初拒絶されているのかと思ったのですが、よく見てみると彼の顔は赤面していたのです。___その後、彼は度々私を呼び出し共に過ごしました。その中でお互いに色んな話をしました。お互い、日々立場の都合上言えない愚痴を言ったり、遊戯をしたり、___彼は花札を好んでやっていました。色んな絵の花札を蒐集するのが彼の趣味でした。こうしている内にお互いにどんな他人よりもお互いを知りあう仲にまでなりました」
ここまで聞けば、ただののろけ話である。だが、この話には続きがあることを私は知っている。
「しかしそんな日も長くは続きませんでした。ある日を境に彼は突然私と会わなくなりました。呼び出されることも無くなり私はひたすら困惑しました。事情を知ろうとしましたが、彼は私を避けるような行動をしていて私は姿を見ることもできませんでした」
「それで、どうしたの?」
このまま終わる訳ではない。恋する乙女がここで諦めるわけない。
「ミホツヒメ様の言う通り、私は諦めませんでした。理由もなにも分からず終わるのは嫌だった。私はある日仕事を抜け出してこっそりと彼の部屋へ向かいました。___ええ、私の人生で業務をさぼったのはこれが最初で最後です。見張りを上手く避けて部屋に忍び込んだ時は彼は大いに驚いたものです。だって彼は私が仕事をさぼるような人間では無いことを知っていましたしこんな常識から外れた大胆な事もしないだろうと思っていましたから」
従者がこんなことをしていたのか、いつもの態度からは想像できない。やはり女性は表向きの外面と内面は大きく食い違うものなのだろうか?まあ、私も女性なのだけど。
「私は彼に詰め寄り、聞きました。どんな理由があっても責めないからちゃんと答えてと、私から逃げないでと、彼は観念して私に話し聞かせました。彼には元々結婚相手が決まっていたのです。俗にいう政略結婚と呼ばれるものです」
「せいりゃくけっこん?ってなに?」
「ミホツヒメ様のお父様は過保護___いえ、娘さん想いの人ですから無縁の話かもしれませんが、高貴な家柄の人間同士は時に政治的な理由やその家の利益の為に結婚をすることがあるのです」
「そんなの変じゃない!結婚って愛し合っている者同士がするものじゃないの」
「その純粋なお考えはとても大切ですし大半の人はそうです。ですが、世の中には例外も存在します」
知らなかった知識がまた増えた。知りたくなかった知識でもあるが。
「当人の意思は考慮されません。お家を守る為に地位を維持する為に仕方なかったのですよ」
結末は今を見れば分かる。だからこそどうして。
「私はそれを聞いて悩みました。悩み悩んで末に私は別れました。それだけでなく私はその屋敷を退き別の家に___今のミホツヒメ様の家に勤めることとなりました」
「何故!?どうして?」
ミホツヒメの疑問に従者は間を置いてから答えた。
「___私は殿方が幸せになる方を望みました。私はあの恋をした男には幸せでいてほしかったのです」
「幸せって」
「私と彼には元々立場に差がありました。こうなってしまった以上、お互いそうせざる終えませんでした。それに」
「私はなにより彼を愛していたからこそ彼にそして私と同じようにその人を愛する女性に迷惑はかけたくなかったからです」
従者の語るその話は後味がほろ苦く、ミホツヒメにとって衝撃的な話だった。
「数年後___私の聞いた話によると、彼は政略結婚した女性と上手くいっているとの事でした。私は元々その結婚相手が上手くいきそうな相手だと知っていましたが、それでもその話を聞いて私は心底ほっとしました。二人が幸せそうで良かったと。彼は私と別れた後でも一歩踏み出せた」
「でもあなたはどうなの?だってこれって」
「確かにこれはやるせない話です。報われない話です。でも、私としてはこれで満足なんです。お互い好きだった人とはけりをつけたんです。私は後悔していませんとも。人生は長い、いずれまた素敵な殿方と出会うかもしれませんから」
「___私には分からないけど、あなたが納得しているならいいわ。でもその話は置いといてまだ最初の質問に答えていないわ。どうして私を助けたの?この話をしたってことは私と自分を重ねたとか?」
「それもありますが、もっと単純な理由ですよミホツヒメ様。___恋をする乙女に手助けしたいと思うのは同じ女性として当然でしょう。それにお忘れですか?私は本来ミホツヒメ様を助けなければいけない立場ですから。恋愛事ももちろん引き受けますよ」
なんとなく従者が言いそうな納得できる理由だ。
そしてふと、ミホツヒメは思った___あの時の従者の行動ももしかしたらミホツヒメの事を思ってやったのかもしれない。ただ空回りしただけで。
「ねえ、あの時も私の事を思ってやったの?」
お互いに触れたくない蒸し返したくない事柄だが、ここで言わなければならない。ここでわだかまりを解消しなければならない。
「___あの時はどう真実を言おうとしても、彼らは何かしら因縁をつけてきたと思いますから黙っているのが正解だと思いましたから」
「あの時、転ばされたのは確かだし当事者のあなたなら彼らがやったことを説明できたんじゃ……」
「分かりません」
「分からない?」
「被害にあった私も分からないんです。突然、体の力が抜けたような気がして気づいたらああなっていた。ただそれを言ったところで誰が信用してくれますか?誰が聞いても言い訳にしか聞こえませんから」
「少なくても私は信じたわ、根拠がないにしても」
「ミホツヒメ様は私と面識があるからいいでしょうが、あそこにいた人々は私達に少なからず嫌悪を示していた。中には陥れようとしていた人もいたことでしょう。そんな人々に見知らぬ私の意見は通らないと思いますよ。面識のあるミホツヒメ様のお父様や同僚は信じてくれると思いますが」
ミホツヒメの言葉が詰まる。正直、正論ではある。あそこの人々はミホツヒメ達の言葉を聞く気が無いように見えた。最悪、全員過激派側の可能性もある。どの言葉も曲解され、悪い方向へ進んだかもしれない。最初にしたミホツヒメ達の謝罪が受け入れられていない時点で彼らは許す気は一片も無かったのだろう。そもそもこれが仕組まれたものなら許すもなにもない。ミホツヒメ達を陥れるのが目的なのだから。
ミホツヒメが押し黙る中、従者は話を続ける。
「ですがこの数日間考え、ミホツヒメ様には迷惑をかけたとも思い始めました。仮にそうだとしてもここは私もなにか反論するべきだったと。抗うべきだったと。それを本来私が守るべきミホツヒメ様が代弁し反論してくださった___私はミホツヒメ様の従者として失格でした」
「そんなこと無いわ。私も軽率だった。反省してる。それにあなたの行動の理由も十分分かったし。失格なんてことは無い」
「あの時私はなにも出来なかったからこそ、今度は私もミホツヒメ様、貴女の役に立ちたい。そうですね、結局私はさっき綺麗な理由で取り繕っていましたが実際はそんなものです。下衆な理由ですよ」
「下衆って……そこまで卑下することもないじゃない」
「ミホツヒメ様はお優しい、しかし」
「いいの」
ミホツヒメは従者の手をぎゅっと握る。従者は動揺して言葉を途切らす。
「もういいの。どんな理由であれ私を助けてくれた相手を見限ったりしないって!これはどちらかが悪かったんじゃないのお互い悪かった!あなたが従者失格なら私は主人失格よ」
畳みかけるようにミホツヒメは言う。言い切ったミホツヒメに対し、従者は数秒の沈黙。そして、
「いいのですか?」
従者は若干震えているような声で言った。
「いいんじゃないかしら?もう終わった事だし」
さばさばとミホツヒメはそう言い切った。
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「改めてだけど、私の恋路の成就、手伝うならよろしく頼むわね」
「勿論ですが、助けるといってもミホツヒメ様が恋文を送るだけの意気地の無い状態ではどうにもできませんよ」
「あんた立ち直るのはやいな!?」
数分前までのいい雰囲気が台無しになる暴言である。もっともそれは彼女がいつものお節介従者に戻った証拠でもあり、ミホツヒメにとっては変に気を使う必要が無いのはいい事である。
「正直、ミホツヒメ様の恋の成就には受難が大量にあります。まず先日の出来事でこの地域の人々からの印象は最悪です。もしそんな方がこの地の領主様と結婚するなんてことがあったら非難轟々です」
「さらっと私の恋が受けいられる前提で話しているのだけどいいの!?」
「ミホツヒメ様、貴女はあの殿方を愛しておられるのですか!?」
「愛してるか?って聞かれたらそりゃ愛しているに決まってるじゃないの!」
ずいっと顔を近づける従者の圧に内心びびりながらミホツヒメは答える。
「なら、ミホツヒメ様は恋が成就することだけを考えればいいのです。やる前から失恋する事を考えたりするような方に恋が成功すると思いますか?そんなことを考えていると本当にそうなっちゃいますよ」
あの過去話を聞いたから分かっていたが、従者の恋に対する考えはミホツヒメには理解できない程「重かった」。立場が遥か上の人に恐れを知らず恋文を出し、あわや恋仲にまでなった人だ。ミホツヒメ以上に恋にこだわっていると言える。とはいえ確かに失敗する事を考えると本当にそうなるという話を聞いたことがある。前向きに考えるべきだ。
「まあ、確かに私と恋してるってなったら色んな人が反対しそう。なんなら私の父様も反対しそうだし___というか、周りが敵だらけじゃない!」
「そうですね、立場的には私と違って恋が実現できるミホツヒメ様ですが、周りにいる敵の数は段違い。正直、恋の成就の難易度は私とどっこいどっこいです」
「まさか、私にも貴方と同じように諦めろ___ってことは無いわよね」
「そんな事ありません。私はあの時それで納得したからあの終わり方でよかった。しかしミホツヒメ様は違いますよね?」
「うん、私は諦めるつもりは無い。例えみんなに迷惑がかかろうと___ってこの考え方は流石にまずいか」
「まあ私としては殿方に迷惑をかけるというのは避けたい限りですが、この恋を成就させたいのならそれくらいの覚悟は必要だと思いますよ」
覚悟うんぬんはともかく、障壁が多すぎる。結局、とりあえず引き続き恋文は送る。後日またこれら障壁に対する対抗策は考えるということになった。
「ミホツヒメ様、なんにせよ時間は少ない。恋は鮮度が命ですよ。恋文以外の行動も起こさないといけません。恋文ばっか届けてもこれ以上なにも進展はありませんよ」
従者は別れ際にそう言った。鮮度って食べ物じゃないんだからと思いつつ、次の行動を考える。やはり、こうなっては直接彼と会う他ない。恥ずかしがっているばかりで二の足を踏んでいる場合ではないのだ。
彼との二度目の出会いは早かった。何故なら今回はミホツヒメの方から自主的に会いに行ったからだ。なんとか父に打診して会う機会を得たのだ。父には「あの時ちゃんと話が出来ていなかったから」と理由をつけて、なんとか話をこぎ着けた。
覚悟を決めて来たにも関わらずミホツヒメは緊張していた。意気地なしと自分を責めつつミホツヒメは「彼」と対面する為に部屋に入った。
部屋の中は最低限の灯りで満たされ、薄暗い。おそらく少しでも出費を減らそうとした結果なのだろう。昼間は太陽の明かりで過ごし、夜は寝るか灯りをつけて過ごす。合理的だ。彼は窓から差す月明りに照らされながら座っていた。
「あの、コンバンワ___今日は月明りが!綺麗ですね!」
「ああ、そうですね今日の月は一段と美しい輝きです」
会話はとりあえず成立させる事が出来た。
「それでミホツヒメ様、今宵は何用で来られたのですか?」
相手から質問が飛んできた。答えるにはここしかない。襖の隙間から覗いている従者が「ここで行け!」とでも言うかのように口の前で手を動かし、なにか喋っているかのような手振りをした。
「ここ最近、部屋に恋___手紙が落ちていたことが何度もありませんでしたか?」
「ああ、最近毎日のようにあるんだよね」
質問に質問を返す形になったが、相手は気にすることなく答えてくれた。恋文の事を知っているのは分かった。ならば次に話すことは決まっている。
「その文を読んだりしましたか?」
「あの手紙は___読んだが、しかしなぜ君はこれを知っているんだい?」
察しが悪い人だ。それもまた魅力的である。ここまできたら、一思いに言いたいことを全て言いきる。後悔は後からでもできる。
「あの手紙を書いたのは、私です」
「______。」
「オオクニヌシ様は覚えておいででしょうか?私とは三年前にお会いしているのです。私をあの凶暴な鵺から救い出してくださりました」
彼は「ああ」と、
短い返事をした。ミホツヒメはそれを肯定の意思表示だと認識して先へと話を進める。
「私はあの日以来、貴方のことが___」
ここで言うべきだろうか?いや、言わなければいけない。
「好きなんです」
……、言えた。彼はなにも言わない。
「この三年間、私はずっとずっと貴方の事を片時も忘れませんでした。そして私はまた会いたいと、一緒に居たいとずっとずっと願っていました。その恋文を書いたのも私です。貴方に私の思いが少しでも伝わればいいと思って書いたんです。今晩来たのも、貴方と共に過ごしたい___そんな理由です」
言いたいことは全て言った。心中の想いは全て吐き出した。しかし、早急だっただろうか?いきなりこんな事を立て続けに言ってしまって大丈夫だろうか?そう内心がそわそわし、相手の反応を見たいと思っているミホツヒメとは裏腹に彼は中々言葉を返してこない。表情と動きを見る限り、困惑してるか驚愕しているのだろうか?ミホツヒメは不安になりながらも彼の言葉を待つ。
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最初、自室に紙飛行機があったときは何事かと思ったものだ。なにかの罠かと思い訝しんだが、いざ紙飛行機を広げてみるとそれは差出人不明の手紙だった。内容は獣に襲われた所を助けてくれた人間に恋した女性について綴った幾つかの和歌だった。
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに
締めにその女性が男に言った和歌だ。いつもは動じない私が貴方の事を思うと私の心が乱れてしまう、そんな意味だ。
素晴らしい和歌であったが、送り主については分からなかった。
次の日も帰ってくると、自室に手紙は置いてあった。手紙の内容は全て恋について書かれたものだった。どの文 も不器用ながら私への恋に関する事柄について書かれていた。一体誰が送っているのかこの手紙の送り主は結局分からずじまいだったが、私はこの手紙を毎日楽しみにしていた。
ミホツヒメ、彼女とこの屋敷で対面した時はどこかで会ったようなと漠然としたものがあった。本人から言われてようやく確信に変わった。三年前のあの出来事は今でも鮮明に覚えている。ああ、あの時のかあ___と、耽っていた所にそんな些細な事を吹き飛ばす告白が行われた。
彼女は私に「恋」をしたのだと言うのだ。それもあの日から。
冷水をかけられて呆然としていた所に立て続けに顔面に平手打ちされた位の衝撃である。あの手紙の内容が恋文に近しい内容であった事からもしかしたら、とも思っていたが私の妄想や勘違いなら困った事になると触れないようにしていた。だが、私の勘違いの類では無かったのだ。
___沈黙が続く。もしや、私がなにか言わなきゃいけない状況か!?
これはこの状況はどう受け答えしたらいいだろうか?こんな事なら女性との付き合い方を学んでおけばよかったと後悔した。
「ん……ミホツヒメ様の想いは分かりました。そう、そうですね少しだけ考えさせてください」
取り敢えず考える時間が欲しい、オオクニヌシはそう思った。
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「これってどうなの!?ねえ、どうなの?」
肝心のオオクニヌシ様からは曖昧な返事が返された。「何日か考えさせてほしい」、これは好意的なのかそれとも、二人での密談を終えたミホツヒメは不安な気持ちを隠し切れず、従者にぶつけた。
「まあ上出来ではないですか?突然過ぎて相手は困惑していましたが___」
「私は貴方の言う通りにやっただけです!恥ずかしかったわよ、これ!本当にこれでいいの?引かれてなかった?」
「ふむ、私の場合はこれでよかったんですが」
「これって貴方だからよかったって話じゃないの!?こういうのって男によって落とし方が違ったりするんじゃないの?」
「まあまあ、貴女の恋した殿方を信じて返事を待ちましょうミホツヒメ様」
「ねえ、貴方少し楽しんでない?当事者の私は気は気じゃないんだから!」
どことなく嬉しそうな従者にミホツヒメは不満を漏らす。第三者から見れば楽しいのかもしれないが、こちらはいわば人生一番の大勝負なのだ。従者だけがミホツヒメが恋の相談に乗れる相手である以上、しっかりしてほしい。
あの日から数日経ち、私はこの屋敷での生活を続けた。オオクニヌシ様から返事はまだ貰えていない。私がこの屋敷に居られるのも父の業務が終わるまでつまりあと一週間程である。次に行けるのは何年後になるのか分からない。せめて返事だけでも貰いたい。
「ミホツヒメ様、やきもきする気分は分かりますが部屋の中をぐるぐる回るのはおやめください。部屋を飛び回る蝿並みに鬱陶しいです」
部屋中を動き回るミホツヒメに従者が苦言を呈する。
「わざわざ蝿って例えする程!?それよりも、どうするの?この状況のまま終わるとか絶対嫌なんだけど」
「そうですね、確かにこのままでは最悪、ミホツヒメ様の危惧している事になりかねません。心なしかオオクニヌシ様の周りの守りが固くなっているいる気もしますし」
「守りが固くなっている?……ってどういうこと」
「呑気なミホツヒメ様は気づいていらっしゃらないのでしょうが、明らかに警護が厳しくなっています。現にあの日以降オオクニヌシ様の姿をお見えしていませんし面会を取り付ける事も難しくなっています。恐らくですが、ミホツヒメ様がオオクニヌシ様に密かに接触している事に誰かが気づいて邪魔しているのではないかと思います。ミホツヒメ様はすっかり忘れておられるのでしょうが数日前に過激派と揉め事を起こしたばかりですしその辺に邪魔されてもなにもおかしくありません」
「流石に覚えているわよ。忘れるはずないもの。あの人たち何処から聞きつけたのかしら?人の恋路を邪魔するなんて」
「まあ遅かれ早かれミホツヒメ様とオオクニヌシ様との恋には彼らが障害となるのはほぼ間違いないでしょうね。どこかで対峙するのは必然だったでしょう」
「そうなるといよいよ彼らをどうするか考えないといけないのよね……和解は出来ないかしら?」
「まあ過激派と言われている程です和解は難しそうですね。一筋縄では行かない相手です」
兎に角、それが事実だとしても私は止まらない。私の恋の行く手を阻むことは断じて出来ない。ミホツヒメ達はなんとかもう一度彼と会うために一計を案じた。
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就寝の時間はもう過ぎているというのに中々寝付けない。あの日以来私は中々床に就けずにいた。明日もお勤めがあるのだからと自分に言い聞かせ目を閉じるが、数分後にはまた目を開けている。姿勢を変え、布団をかけ直し体を落ち着かせる匂いのお香を焚きようやく夢の世界へ誘われる___そんな矢先だった。
どたどたと廊下を走る足音、響き渡る怒声、そして激しい爆発音。
「なんだ!?」
慌ててオオクニヌシが飛び起きるのとほぼ同時に寝床の襖が開き___勢い良く開きすぎたために襖が敷居の溝から外れかけた。寝床に二人の人影が飛び込んできた。
「静かに騒ぎにならないように行くって話だったのにどうしてこうなったの!?」
「見張りが思った以上に手練れだったもので、大丈夫ですよ姿は見られてませんしミホツヒメ様に疑いが向くことも無いでしょう」
「そもそもこの爆発とかは私の仕業じゃないし……ここ数日で貴方への印象が変わりすぎてびっくりするのだけれど」
従者がこんな爆発物を扱える人間だとは思わなかった。これならあのときの過激派達も返り討ちに出来たのではとミホツヒメは思わずにはいられない。
「そんなことよりも目当ての殿方が目の前にいるのですがどうされますか?」
「どうするもなにも答えを聞くのよ」
「ほんとに―?それだけ―?」
「逆に他になにを求めてるのよ!」
「お持ち帰り___とか?」
「最近、本当に貴方の事が心底怖くなってきたわ」
そんな二人を目の前にして、事態を今だ呑み込めていないオオクニヌシは思考がうまく纏まらず、話しかけることも出来なかった。そんな中、事態は刻々と進行している。
「ミホツヒメ様、ここにいてもすぐに騒ぎを聞きつけた見張り達がやってきます。やむをえません、お持ち帰りしましょう」
「変な言い方しないの!場所を移動するだけよ___さあ、行くわよ」
「は___?」
この展開についていけてないオオクニヌシをよそにミホツヒメが手を握り、移動を促す。異性と手を繋いだことも殆どないオオクニヌシそして同じくミホツヒメは普段の調子であれば赤面する場面だが、今はそんな余裕はない。オオクニヌシは結局、思考を停止しミホツヒメに引っ張られるがまま動くことにした。
「今思ったのだけど、過激派に喧嘩を売った上にこの地の領主を攫うって私達いよいよまずい事になってしまったんじゃないの?」
オオクニヌシを連れて屋敷の廊下を走るミホツヒメは先導する従者に今更な質問をぶつけた。
「まあそうですね、姿さえ見られなければどうにかなるんじゃないでしょうか」
「他人事みたいに言うな!もし私が疑われたら真っ先にあんたを身代わりにするわ」
「ああ、悲しい……数日前私を庇ったミホツヒメ様の姿は何処へ」
「ああもう!こんなことなら庇わなきゃよかったわ」
オオクニヌシが我に返ったとき、目の前に大きな湖があった。清らかで澄んだ湖の水面は月明りに照らされきらきらと輝きミホツヒメ達を照らしていた。
そよ風になびく金髪、青紫色の綺麗な瞳、着飾った衣______ふつくしい。
月の白光の反射光に照らされたミホツヒメは頭の頂から足の先に至るまで全身が全部がとても美しかった。ついついオオクニヌシが見惚れてしまうほどに。彼女の従者と思わしき女性はいつの間にか消えていた。即ち今、オオクニヌシ達は二人きりだ。月が雲に隠れ、辺りは少し薄暗くなった。
「はあはあ……ここまで来れば大丈夫でしょう___じゃあ、答えを聞かせてもらおうかしら?」
「あ___ああ」
「私の事、どう思う?貴方は私の事好き?」
どうだろう?確かに月明かりに照らされたミホツヒメは美しかった。異性としても意識してはいるのだろう。だが、まだお互いにお互いの事を知らなすぎる。出会ってから日が浅すぎる。好きなのかどうかは、まだ「分からない」としか言えなかった。だから、
「……友達から」
「えっ?」
「まだ分からないんだ。お互いにまだ数回しか会ったこともないし話した事も殆どない。だから、まずは互いに知り合う所から始めたいんだ。好きかどうかはそれから決める」
「___そうね、貴方の言う通りよ。私は功を焦りすぎていたのかも。いきなり殆どなにも知らない相手と付き合おうだなんて、甘い考えよね。私が考えなしに一方的だったのかも。ごめん、貴方の事を全然考えていなかった」
「いいんだよ___その、世の中には一目惚れというのがあるし悪い事じゃないんだと思う。……その対象にまさか私なんかが入ってくるとは思わなかったが」
「私「なんか」じゃないですよ。もっと自分に自信をもってくださいって。私をこの可憐な乙女を凶暴な怪物から救い出すなんて並大抵の人間はできませんよ」
「はは、自分で言っちゃうかあ___でも事実だしな。それで友達になりたいって話は」
「勿論っ!私もなりたいです。貴方の友達に」
雲に隠れていた月が再び姿を現す。その光は二人の恋の道の行く先をまるで祝福するかのようにさんさんと光り輝いていた。願わくばその光が現実になってほしい。ミホツヒメはそう願った。
日も沈み始め周囲が徐々に晦冥になり始めるなか、男神が一人、森の中を駆け抜けていた。彼の走りは傍から見れば残像にしか見えない程速く、そしてそんな走りをしているとは思えないほど静かであった。実際、目の前を横切られた青い鹿も彼が通りかかったことに気づきもしていなかった。その静かさは彼の冷静さをその速度は男がどれだけ急いでいるかを如実に表していた。
ふと、男は陽が山に沈み始めているのを見て、走るペースを上げた。例え呼び出しが一時間前だろうと例えその呼び出し先が神であろうと容易に一時間で辿り着けない場所であったとしても
フツヌシ様の命令であるなら彼は辿り着かなければならない。
フツヌシ様は一見、優しそうで温和な出で立ち振る舞いをしている優男である。だが彼の弟は外見や性格が兄とは似ても似つかないあのタケミカズチである。
タケミカズチの逸話には枚挙に暇がない。酒の勢いで他の男神と相撲を取って、その結果地形が大きく変わってしまっただとか寝ぐせの悪さから寝室を何度も破壊し最後には野外で眠るようになったとか挙句の果てには彼が動けば大体厄介事が増えることから「災厄」という名がまことしやかに囁かれている。もちろん、まことしやかにしか囁かれていないのは本人に聞かれたら地獄へ行った方がましと思えるほどひどい目にあうからだ。
フツヌシ様はそんな弟に似ず____なんて事はない。
彼も根っこの部分は変わらない。だが、弟と異なり彼は隠すことができる。普段は朗らかに笑い、落ち着いた物腰で話す。しかし、何らかのきっかけで本性を露わにしたフツヌシ様は恐ろしい。それこそ弟譲りのいや、それ以上に恐ろしい。そんな彼の本性を知ってしまった以上、彼の逆鱗にだけは触れてはいけないと心に刻んだ。彼の前での誤りは許されない。故に今回の件も遅れるような事があってはならないのである。
ふと、誰かの視線のようなものを背後から感じ、走る足こそ止めなかったが冷や汗が背筋を伝う。___最近、誰かに見られている気がする。最初は気のせいだと思っていたがどうやら違うようだ。私に付きまとう不埒な輩かと思ったが、この視線はどうも任務を随行している間にだけ現れることから別の可能性が浮上した。
それは私への監視の可能性だ。
粗相を働いた覚えは無いし、反逆を企んでいるわけでもないが、何らかの理由で疑われているようだ。そして私に監視役がついた。それならば任務中の間にだけ視線を感じるのも納得できる。私の屋敷にはフツヌシ様の息のかかった女中や兵もいるし妻もいる。悪事を働くとすれば屋敷外、即ち外出中である。彼が外に出るときは大体お勤めをする時なので、疑われるとすればその時間である。
自分はなにもしていないのに疑われる。それも最悪なことにフツヌシ様にだ。
フツヌシ様にどうして疑われているのか聞くという手段もあるが、自分に疑念が向けられている事を考えると監視していることに気づかれた事を知ったら次は実力行使をされるかもしれない。疑いが強くなって牢の中で一生をという最悪の可能性が容易に想像できる。故に彼が今できる事は疑われぬ様、監視に気づかないふりをしながら任務をきっちりとこなすことである。
酉の刻まで酉の刻まで酉の刻まで、フツヌシ様の提示した期限を頭の中で反芻しながら足をまた一歩また一歩と進めていった。
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恋というのは難しいものである。恋焦がれた相手にどう気持ちを伝えればいいのか、恋をしたことのないミホツヒメはひどく悩んでいた。
高天原の神、高皇産霊尊の娘であるミホツヒメは恋をしている。お相手はある男である。その男と運命の出会いをしたのはある昼下がりのことだった。
ミホツヒメはその日、高皇産霊尊の視察に付いて行く形で今度フツヌシ様の領地となる国へ出向いた。元は外に出たがったミホツヒメが散々父にごねた結果、このような形をとることで外出が許可された。ミホツヒメは特にやることもないので護衛に囲まれながら外を適当にぶらぶらと歩いていた。国は活気に満ち溢れ、道行く人々は皆一様に幸せそうだった。どうやらここの領主は国の事を第一に考えるいい領主様のようだ。
歩いていたミホツヒメは一つの茶屋の前で足を止めた。店にはお団子や砂糖菓子といった嗜好品が売っていた。
「これ、買います」
気になるものを見つけ、それを買おうと従者に頼む。
「いけません、ミホツヒメ様。そろそろ昼食のお時間です。今食べるのは」
「いいじゃないどうせ午後にはこの国とはおさらばでしょ、お父様は視察が早すぎるのよ、間食の頃まで待ったはくれないわ」
「しかし……」
従者はミホツヒメが指さした先を見て閉口した。
そこには大きな大福が___それも大きさが人の顔と同じくらいあろうか、一体誰がこんなに食べるんだとも言える大きさの大福があった。
「ミホツヒメ様、これは流石に間食の域を超えています。そもそも食べきれないかと……」
「ちゃんと全部食べ切れるわよ!それくらい分かるでしょ!? 」
ミホツヒメが最近、外出先の団子屋でみたらし団子を一抱え分食べ切ったことは護衛も知っているはずだ。大福をミホツヒメが食べきれることも分かっていると思うしなんならその後昼食を食べきる事だって出来る。
「しかし、高皇産霊尊様の娘としての自覚をもってもっと慎ましく……」
「やっぱりお父様の言いつけね! 本当に嫌になっちゃう! 」
思った通りだ、父はとても過保護で心配性なのだ。娘の一挙一足に口出ししてきて嫌になる。
「最近のミホツヒメ様は少々度が過ぎます。このままだとその麗しい見た目が崩れてしまいます。最近、体がまた肥られたと女中が」
「もう知らない!! 」
「ミホツヒメ様! 」
従者がなにか叫んでいたが、ミホツヒメは無視して走り出した。周りの護衛がミホツヒメの逃走を阻止しようとミホツヒメを囲もうとする。それに対してミホツヒメは機敏な動きで護衛の囲いの隙間から抜け出す。後ろから護衛の伸ばした手がミホツヒメを掴もうとするが、届かない。ミホツヒメは人ごみに紛れ、まもなく護衛も追ってこれなくなった。
ミホツヒメは気づいた時には花畑の中にいた。無我夢中に追手から逃げていたせいでどうやってここに来たか覚えていない。花畑には鮮やかな紫色をした藤の花が群生していた。人為的に置かれた木材に藤の花が巻き付いていることから誰かが作った花畑のようだ。そんな小さい花畑を見つつ、ミホツヒメはため息をついた。
護衛の言っている事は正論だ。彼女の体型は徐々にふとましくなりつつある。お嫁に将来行くこともあると考えると、護衛が止めるのも無理のない話だ。だが…… 。
「結婚ね……」
ミホツヒメは恋をしたことがない。彼女が結婚するとすれば政略結婚であり特に好きでもない相手と結婚することになる。そんな見知らぬ相手に対して配慮する必要があるのだろうか? 彼女は無い、と考えている。どうせ政略結婚なら見てくれがどうであれ結婚は成立する。なら外見に気を遣うよりも今を楽しく生きようじゃないか。お嫁に行ったら、今よりも更に窮屈な暮らしをする事請け合いだ、だったら今この自由な時間に好きなことをやればいいじゃない。
そんな言い訳を心の中でしつつ、彼女は顔を下に向けていた。私は生まれた時から高皇産霊尊の娘の女神としての期待を背負っている。皆一様に私になにかを押し付けている。私は私の意志で生きたい。この国の和気藹々としていて笑顔に溢れている民を見ると、私もあの中に入りたいとさえ思ってしまう。
ミホツヒメはうつむいたまま、時が止まったかのように動かなくなり、いつからかうつらうつらし始め、意識が途切れた。
ミホツヒメが目を覚ました時には昼を過ぎていた。起床一番にぐうう、とお腹の音が鳴った。ここにいても仕方ないか、ミホツヒメは起き上がり町へ向かおうとして足を止めた。___町へどうやって戻ろうか?
自分でもまあよくこんな所まで来たものだと思った。町の姿が見えない。花畑の周囲は木々に囲まれ、どちらが町への方角かも分からない。ミホツヒメは内心泣きそうになりながらもなんとか立ち上がり、あてずっぽうな方向に歩き出そうとした。
「どうかしましたか?」
それは男の低い声、しかしとても凛とした響きを縫って聞こえてきた。
顔を上げるとそこには一人の青年が立っていた。青い髪に髪型はみずら、装飾の付いた青い絹と袴を履いている顔立ちの整った男だった。外見からしてある程度裕福な立場にいる様だ。
「いや……こんな所に女の子が一人だけでいて、しかもそんな今にも泣きだしそうな顔をしてたらなにかありそうだとおもうじゃないか!」
___泣き出しそうな顔?
自分の顔が思った以上に変化していたことに驚き、慌てて顔を取り繕う。誰もいないと思っていて、つい油断をしていたようだ。
「別に私は泣き出しそうになんてなっていませんよ? 貴方の勝手な勘違い、妄想に過ぎません」
勘違い、妄想の部分を強調しながらミホツヒメは嘘をつく。見知らぬ男にいきなり心配されるいわれは無い。私は決して泣き虫の子供ではない。
「心配してくれたのはありがとう、じゃあそろそろ私は行きます」
そう言うとミホツヒメは男から離れようと動く。どうもあの男といると居心地が悪い。生理的嫌悪感とは全く違う、心の中がもやもやする感じた事のない不思議な感覚だ。
「えーっと、道分かります?」
無駄に勘のいい男である。
「なに言ってるの?こんな所に来たのに帰る道が分からないとかなんの冗談よ!元来た道を戻るくらい私は出来るわよ」
そう言うとミホツヒメは駆け出した。どうもあの男は私の心をかき乱すのが上手いようだ。なんというか、苦手だ。後ろからまた男の声が聞こえた。
「その先は山奥では!?」
知らない、それよりもこの男から離れるのが先だ。
男と話した事など箱入り娘のミホツヒメには父様以外殆ど無い。そして父様に対する印象は良いとは言えない。そんな未知の生物「男」とは関わりたくない。というのが実際の所のミホツヒメの本音である。
ミホツヒメは森の中を走っていた。鼻腔から暖かい森の匂いを感じとる。あの男からなんとか離れられたようだ。ミホツヒメはほっと一息ついた。しかしあの男の姿がどうも頭の中でちらつく。まるで脳に焼き付けられたかのようにこびりついている。思えば、今までの人生の中で初めて対等な会話をしたような気がする。今までのミホツヒメと関わりがあったのは全てミホツヒメの立場をよく知ってる関係者ばかりで皆揃ってミホツヒメを上に見ていた。全員が全員「様付け」、上を見上げればお父様やら神様やらがいる。しかし、対等な立場の人間とは今まで会った事が無かった。あの男とは初めての対等ともいえる関係と言えるのではないか?
そこまで考えミホツヒメは顔を横に振った。あの男の事はどうでもいい、兎に角戻らないと。あの男は流石にあそこにはもういまい、そう考え走ってきた道を戻ろうとミホツヒメは旋回した。さっきの反省を生かし、走ってきた道は覚えている。さっきの場所に戻り、手探りに進めばいい。あの男の助けは必要ない。ミホツヒメはそう楽観的に考えていた。
ミホツヒメはこの森がどのような所か知らなかった。何故ここに人が住まないのか、何故あの男が驚き、ミホツヒメを森から出そうとしたのかも。箱入り娘は世間の事に無知過ぎた。
旋回したミホツヒメの目の前には大きな獣が立っていた。獣は見たこともない異質な身体をしている。猿のような頭だが、胴体は猫……いや、もっと凶暴な生き物のものであり、尻尾に蛇が付いている。蛇の尻尾はしゅーしゅーと音を立てながら、まるで生きているかのように揺れていた。それは鵺と呼ばれている怪物だが、ミホツヒメは知る由も無い。
恐怖に足が竦む。ミホツヒメの常識を越えた異様な生き物を目の前に動くことができない。今日はなんと不幸な日か、よく分からない未知の生き物に二回も出くわすなんて。
そして……
鵺が飛びかかってくる。
まさか、ここで死ぬなんて。
ミホツヒメは鵺が人一人引きちぎるのはたやすいだろう爪という名の凶器を振り上げた時、目を閉じた。あんなものに勝てるわけが無い。私はここで死ぬだろう。たとえどんな奇跡が起きたとしても、私はここで死ぬ。
目を閉じて数秒、後悔の渦が心の中で湧き起こる。私は謝らなくてはいけない。勝手に逃げてごめんなさい。喧嘩してごめんなさい。私を信じ、この国に行かせた父上にごめんなさい。私を心配し、この森から逃がそうとした男にごめんなさい。
しょうもない意地で自分を死なせた。護衛の女性達が後悔する様を、父上の悲しむ様を、そしてあの男が泣く光景が頭に浮かぶ。
なにかが大きな音を立てて、倒れる。肉の千切れる音がする。獣の叫び声、打撃音、そして激しい息づかい。
なにかがおかしい、ミホツヒメはそう思ったがなかなか目を開けられない。開ければ目にまたあの恐怖の怪物が映ってしまうから。しかし、どうなってる?今私は殺される寸前だった。何故生きている?激しい音が鳴り響く中、意を決して目を開けた。
怪物はひっくり返った状態で倒れ込み、なにかに抵抗していた。怪物はそれに両腕の爪を振りかぶるも、その足を抑えつけられる、骨の折れる音がして怪物の足はだらりと垂れ下がり、機能しなくなった。それならば、と怪物は蛇の尾を鞭のようにしならせ一撃を放つ。しかしその尾は次の瞬間には掴まれ、一思いに引きちぎられた。流石の怪物もこれには応えたのか、あらんかぎりの叫び声をあげる。その隙を逃さず、幾多の蹴りや殴打が頭に炸裂、叩き込まれる。
殴られた痕ででこぼこになった猿の頭はそれでもなお意識を保っていた。だが、尾に手足を潰された鵺がとれる行動は限られていた。
猿の頭が噛みつこうと牙をむく、全身を使い起き上がり敵を押し潰そうとする。だが全て読まれていた。全体重を押し付けられ、噛みつこうとした牙には短刀が突き刺さり、へし折った。
武器を全て失った怪物は呻き声をあげながら、ぴくりとも動かなくなった。死んだふりだ。今まで何人もの狩人を騙し、毒牙にかけた切り札だ。
攻撃の手が止まった。鵺は薄目を開けて様子を確認する。奴が油断して背後を向けた瞬間が奴の最期だ。首筋に僅かに残った牙を突き立ててればいい、一瞬だ。背後を向けた、鵺が飛びかかる。だが、牙は届かなかった。
「ぐわっ……がっ!」
鵺の喉には短刀が貫通していた。短剣から多量の血飛沫が飛び散る。男は背中を向けながらも短刀を正確に急所に当てた。こいつは死んだふりにも気づいたのか、それとも______鵺は終ぞ答えを知ることは無く息を引き取った。
「大丈夫か?」
ミホツヒメに手が差し伸べられる。ミホツヒメは腰が抜けていた。化け物が現れてもう死ぬかと思った。だが、助かった。これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶ?
ミホツヒメは無言のまま手をとり、なんとか立ち上がった。震えはもう、止まっている。
手を取った相手に助けてくれた相手に目を合わせる。さっき出会った男だ、手や服は先の戦闘ですっかり血にまみれ、髪も乱れていたが間違いなくさっきの男だ。
ミホツヒメは今、男と一緒に森を歩いている。肩を貸しあいながら二人三脚で道を進む。
この男も戦いでのダメージは零ではない、足取りもどことなく不安定な感じがした。
「大丈夫かい?」
「なに言ってるの?私は大丈夫に決まってるでしょ?それよりあなたこそ大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってるだろ!この通りぴんぴんで」
「どこがぴんぴんよ!ふらふらじゃない」
「ふらふら?まあ、けっこう俺ってふらふらしてるからなあっちこっちふらふらと」
「それで誤魔化したつもりかっ!」
それは仲のいい人同士ならば当たり前の会話なのかもしれない。だがミホツヒメにとっては初めてかもしれない、こんな対等な会話をすることは______出来れば終わって欲しくない、この時間が永遠に続けばいいのに。
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男が山に入ったのは化け物狩りをするためだった。
この山は元々は人々が住んでいた里山だったが、ある日鵺と呼ばれる人を食らう怪物が住み着いてしまった。毎晩毎晩人を食う為に現れ、そのせいで彼ら里山の住民は住みかをおわれた。
たった一人この森に住み続け、藤の花を育てていた老婆がいたが、まもなく人の匂いに気づいた鵺に襲撃され、命を落とした。
男にとって民は皆大切な人間である。故郷を失うことはさぞ辛いことだろう。
自然の摂理だの金だの関係ない。民を守り、この国の安寧を願うのがこの国の領主としての正しい在り方だ。
男は山に入り、まず藤の花の花畑を見に行くことにした。最後までこの地に残った老婆は正しい判断とは言えなかったかもしれない。生き残る為ならこの山を捨てるべきだった。
自分の生まれ育った場所に未練を残す事が出来なかったのかもしれない。あるいは自分の家を滅茶苦茶にした鵺への抗議のつもりだったのかもしれない。
だが、今になって死人を責めるというのは些か気分が乗るはずもない。
いずれにせよ、この老婆の残した置き土産は見ておきたい。命を賭して作り上げた藤の花の花畑を。
花畑はあっという間に到着した。老婆は出来るだけ鵺の出没する山奥は避け、見晴らしのいい山の麓で生活していたようだ。鵺に対するささやかな抵抗だったのだろう。それでもなお鵺の嗅覚から逃れることが出来なかったという事実からどれだけこの怪物が人の血肉を欲しているかが分かる。
今は山奥に閉じこもっているが、近くには大きい村がいくつもある。いずれは山から下りてきて人肉を求めやってくるかもしれない。これはますます退治しなければならない。
無惨に破壊された家を抜け、男は藤の花の花畑に辿り着いた。藤の花の香りが鼻腔をくすぐる。ずっと老婆が世話していた事もあって藤の花畑は自然ではまずみられない、綺麗な色合いをして、見栄えがいいように剪定もされている。眼に映るそれはまるで一つの芸術作品のようだ。
決意を新たにいざゆかん!そう思った矢先だった。
男は見間違いかと思い一度目をこすり、改めて花畑を見た。
花畑に人影が見える。しかも見たかぎり若い金髪の女性である。ここにわざわざ来る物好きはいない。それは鵺の餌になることと同じことを意味するからだ。ここが危険だということはここの住民は勿論、訪れる人間も知っている筈だ。ではこの少女は何故?
近づいてみると、どうも泣いているように見えた。只でさえ鵺の現れる危険地帯である。一体なにがあったのか? 男は意を決してその少女に話しかけた。男はこの齢になって、女の子とまともに話したことがない。それでもこの少女を放置することは出来なかった。
何故こんな事になったのか? 男は叢を掻き分けながら一人で問答していた。話しかけたのはいいが、どうにも会話が成立しなかった。それどころか逃げられた。女とはつくづく難しいものである。だが、あの少女が向かったのは間違いなく山奥の方だ。このままではまずい、間違いなくどこかで鵺に遭遇して喰われてしまうだろう。そんな事はあってはならない。
会話していて分かった事がある。まずは比較的高貴な所に生まれている事。______服装や雰囲気から推測したに過ぎないが。そして世間を知らなそうという所である。なんとなくたどたどしく、外の世界に慣れていない。距離感も掴めていない。これは自分も大概だが……。
いわば、彼女は箱入りのお嬢様である。そんな娘が何故こんな所にいるのか?どうしてここで泣いていたのか?は全くもって分からないが、恐らくここの危険性も知らないと見える。
男は必死になって探した。そして______
「見つけた」
最悪の事態だ。鵺と女性との距離はほんの五寸ばかりの距離だ。一刻の猶予もない。男は隠し持っていた短刀を持ち、大声を上げ、鵺の注意をこちらに引きつける。鵺がこちらを向いた時には男は目と鼻の先で短刀を振り上げていた。鵺と男の二つの声が山に木霊した。
彼女を救出してから時が経ち、辺りは夕焼けに染まっている。街に到着した。彼女がここで降ろしてと言った場所は立派なお屋敷の前だった。やはり私の予想は正しかったと、内心、ちょっと喜んだ。
「ありがとう」
別れ際に彼女は感謝の言葉を述べた。彼女の顔は赤みがかっていて熱を発しているように見えた。大丈夫か?熱でもあるのか?と聞いたら彼女は「なんでもないです!」と声を張り上げ、そそくさと屋敷へ入っていった。
変な女の子だなあと思いながら見送り、男は去っていった。
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帰って早々、こっぴどく父に叱られた。
ミホツヒメは馬鹿正直に逃げてからあったことを全部話したせいで父の説教は夕食抜きで夜が更けるまで続いた。部屋から出してもらえた時には辺りはすっかり闇に包まれていた。屋敷の住居人も夜番以外は皆寝ているので、屋敷はとても静かだった。
ミホツヒメは部屋に戻ると、敷かれている布団に潜る。
父の説教は長すぎて大半なにを言っていたか、ろくに覚えていない。ただ、暫くは屋敷の外へも出してもらえないのは理解した。
だが、後悔はしていない。あの体験は恐怖があったし、下手したら殺されたかもしれない。
でも、素敵な出会いもあった。私を助けてくれた素敵な素敵な______
ミホツヒメは顔を枕に埋める。必死に顔を隠す。一体、なんなの?この顔が熱くなる感覚は?
男の姿が脳裏をよぎる度に出るこの病をミホツヒメは後々「恋病」であると知った。
ミホツヒメはあの男に恋をしたのだ。
時は過ぎ去り、あの頃から三年経とうとする。ミホツヒメは心も身体も胸も成長し、外出も四カ月前に父からようやく許された。
だが、ミホツヒメの求める男は住んでいる土地にはいない。また父親があの土地へ行かない限り彼女が彼に巡り会うことはないだろう。
いわゆる政略結婚の類の誘いが来ることもあったが、彼女は全て頑として拒否した。
諦めの悪い彼女は今でも機会が無いか、虎視眈々と伺い、どうにかまたあの土地に行けないか模索していた。
そんなある日の事、従者が一枚の書簡を持ってきてやってきた。
従者曰わくこの書簡は剣神フツヌシから父宛に送られたものらしい。そこにはあの時に行った国がフツヌシの傘下に入ったこと、父がその国の領主様と親睦を深める為、再びあの土地に出向くとの事だった。
ミホツヒメは喜び、大急ぎで父のもとに行き、ねだる。あんな目にあって懲りずに再びあの国へ行こうとするミホツヒメに父は呆れていた。どうにかなだめ説き伏せ、護衛から離れず危ない場所に行かない事を条件になんとか父の許可を取り付けた。
ミホツヒメは来訪して早々、男を探そうと動き出した。男の特徴を頭の中に叩き込み、虱潰しに探す。
父との約束通り、護衛の為に従者を付き添いながら外に繰り出し、探す。時には人に聞きながら隅から隅まで目を凝らす。
聞き込みから得られた情報は「似ている人を見た事がある、住んでる場所は知らない」という類の答えが多かった。あの男の形跡は確認できたが、一向に見つかる事は無かった。最悪あの山へもう一度行こうとも思ったが、平民曰わくあの山はどうやらあの怪物ほどでないにせよ凶暴な物の怪が多いらしい。あの時、鵺以外に出会わなかったのは鵺を恐れていたからであり、鵺がいなくなってからは彼らが山を闊歩している。
一人で行くにせよ護衛と行くにせよ、危ない場所には行かないという父との約束事があるので、行くのは止めた。
結局、最後まで男を見つけることはできなかった。
夕暮れを過ぎ、お付きも帰ったほうがいいと告げた。ただでさえ無理を言って出してもらった以上、素直に従うしかなかった。
屋敷に到着した時、ミホツヒメは疲れ果てていた。見つからなかった。こんな事ならあの時住んでる場所なり名前なり聞いていればよかった。頭がぼうっとして思考も回っていなかった。当時の自分を呪う。
沈む気持ちを抑えきれないまま、ミホツヒメは護衛と別れ従者とともに屋敷に入る。
色んな場所を駆け回り、すっかり疲れ果てていた。寝殿造りの屋敷の門廊を通り、自室へ戻ろうと歩き出す。途中、何人かの人間とすれ違った。装いから父親に挨拶しにきたこの土地の権力者達だろう。皆一様に不安げな表情を見せていた。それもそうだ実質的な支配者が変わると知れば不安になるのも分かる。
ここの領主は住まう人々や土地の豊かさを見れば分かる通り、評判のいい領主であることが分かる。今まで通りの生活が崩されてしまうのではないかと皆恐れている。
「何故、なにゆえにみすみす支配権を明け渡してしまわれたのだ___領主もとんだ腰抜けだ」
「徹底抗戦あるのみ!代々あの土地は我々のものだ!!これまでも何度も不埒な輩を打ち負かし守ってきたではないか!今代は一体どうしたのだ」
「戦だ、奴らはここを乗っ取ろうとしている。戦で奴らに我々の恐ろしさを示すのだ!」
ぶつぶつとこんな会話をしている者もいた。彼らはミホツヒメにすれ違うと、決まって睨みつけてくる。刺すような視線を感じながらもミホツヒメは刺激をしないよう黙って脇を通り抜ける。
ミホツヒメもその新しい支配者側だ、このような目を向けられるのも必然だ。ましてや彼らは父親からも言われた過激な保守派だろう。
「奴らはなにかとかこつけて領主側とフツヌシ側の間に不和を生もうとしている。だから彼らとは揉め事を起こさないように」
父親にそうしつこく言われた。
緊迫した状況が続く中、ミホツヒメの後に続いて従者も通り抜ける。
後ろでどすんとなにかが倒れる音がしてミホツヒメは思わず振り返った。そこには倒れている従者の姿とその下に過激派の一人がのしかかられた状態で倒れていた。
冷ややかな空気が寸刻流れる。そんな中、口火を切ったのはその様子を見ていた髭面が特徴の過激派の一人だった。
「これはこれは、どういうことですかな?」
この一言がきっかけでミホツヒメは我に返った。倒れている従者へ走り従者に肩を貸しながら立ち上がるのを手伝う。
「申し訳ありません____ミホツヒメ様」
従者の感謝の言葉を無言で受け取りながらミホツヒメは別の相手に目を向けていた。目の前の彼らはその様子を黙々と観察するかのように見ていた。従者に敷かれた仲間のことは気にも留めない。まるでこの事態に一切驚いていないかのようだ。
下に敷かれていた過激派の老人は下に敷かれていた従者がいなくなったことでむくりと起き上がった。
「いたた……いたた、腰が足が痛いのお」
起き上がるなり老人は騒ぎ出した。足を引きずり近くにあった柱に手をかけ体を預け、さも自分がおおけがを負っているかのように周囲に大げさに見せつけている。そして一言、
「ああ!!まずいのお、これは骨が折れたやもしれぬ」
この言葉に合わせるかのようにざわっとどよめきをあげ過激派が騒ぎだす。
「なんということを……」 「この地に先祖代々仕える崇高な我々になんという仕打ち」
「やはり、こんな輩が仕えているフツヌシに従うなぞ許されることではない!!」
「なんの騒ぎだ?」 「どうもここに泊まっている高皇産霊尊様の娘が騒ぎを起こしたらしいぞ!」
正にいい機会だと言わんばかりに口々に大声で過激派は騒ぎ、その騒ぎが伝播し何の騒ぎかと聞きつけた聴衆が集まる。
あっという間にミホツヒメ達は人だかりに囲まれていた。もはや、事を小さくは収められないだろう。ちらりと過激派を見ると、彼らは一見、真面目腐った顔や怒りに震えている顔の
演技
をしているが、隠しきれない醜悪な笑みが所々に滲み出ていた。ミホツヒメには確信があった。従者が転んだのも過激派が巻き込まれ倒れたのも全て過激派の仕組んだことであると。だが、証明する手段は無い。ミホツヒメは従者が倒れた瞬間を見てはいない。なのでどう説明すればいいか分からない。どんな方法を使ったのか?まるで未知数だ。あくまで疑うことしかできない。結局、偶然そうなったとしか説明できないのだ。
聴衆がざわつく中、どう決着をつけるかミホツヒメは頭を回す。感情に支配されてはいけない。まずは従者に話を聞いてみよう。なにかからくりが分かるかもしれない。
しかし、従者が言うには過激派の前を通ろうとしたときに突然ふらっと倒れてしまったとのことだ。これだけの情報では彼らが犯人だとは断定できない。
こうなった以上は事を大きくしすぎないように謝り、この場を収める事にする。そもそも私の考えすぎで本当に偶然の可能性もある。その場合、彼ら過激派が「被害者」である。
「今回は私の従者がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
ミホツヒメと従者はそう言い頭を下げる。気に障る過激派達でもこれから付き合う関係になる以上、ここは穏便に引いてもらおう、彼女はそう考えた。しかし、彼らはミホツヒメの想像以上に人の心につけこみかつ悪知恵を持っていた。ミホツヒメは優しすぎたのだ。
「そうですか」
にたにたと笑みをこぼす過激派の一人が近づく。
「しかし、どうしますかな?この方はこの地におわす領主オオモノヌシ様に仕える重鎮であられますよ。そんなお方に大けがを負わせるとは謝罪で済む問題ではありませんよ」
敷かれた過激派の老人は柱に体を寄せながら「痛いなこれ」「むうう……」と言いながら腰をさすっている。老人なのだからこの程度でも骨が折れるということがあってもおかしくないがどうにもこの老人からは胡散臭さを感じる。どうにも芝居じみているのだ。だが、事の顛末を知らない人間から見れば大けがであると認識するだろう。
「待てよ___もしや」
過激派の一人が目を見開き、顎髭をさする動作を止めなにかに気付いたかのような仕草をした。
「あなた方わざとやったのではありませんか?」
まるで真実に気づいたかのように振舞いながら彼は言葉を続ける。この後に続く言葉がなんとなくミホツヒメも想像できた。ゆえに怒りを感じた。
「そうだ、あの時お前たちはわざとやったのだ。そうであれば辻褄が合うではないか!」
「そうか!」 「なんて奴だ!」
他の過激派も追うように口々に追い打ちをかける。
「仲間を負傷させることで、奴らは我々に脅迫しているのだ!「これ以上、歯向かえばお前たちはただでは済まない」と、代々この地を心から大切に思い、守る我々を陥れこの地を私物化しようとしているのだ!」
現実味がある話に聴衆がざわめく。ただでさえ支配者が変わることへの不安があるのだ疑うのも無理はない。
「なんたることだ!これは弾圧だ。奴らは圧政を敷く気か!!」
「___卑怯な手を!」
「これは暴虐だ、おぬしらはこんな者達にこの国を任せてよいのか?」
疑いを向け始めた聴衆を陽動するように過激派が言葉を紡ぐ。
「まさか、そんな」 「だがありえぬ話ではない」
過激派の言葉に乗せられる形で聴衆の中にも信じ始める者が現れ始めた。
よくもまあここまで平気で嘘を並べ立てられるものだ、それも一見、信じてしまいそうな内容なのだから殊更たちが悪い。そもそも原因はこちらでは無くあちらだろう。どのような方法を使ったかはミホツヒメには分からないが、陥れたのはあっちだ。よくもぬけぬけと言えたものである。
「ちょっと待ってください!それは誤解です」
流石に我慢できずミホツヒメは口を開けた。
「ミホツヒメ様、私の事はいいですから」
従者の制止する声が聞こえたがミホツヒメは構わず続ける。
「やったのはあっちです!わざと転ばせたのはあっちです。私達にそんな意図はありません」
「そんなわけないだろう?あれはどう考えても君たちに非があるだろう」
「さっき謝っていたではないか!それは自分の非を認めるのも同然ではないか」
「そうだそうだ!!」
現場を見たのはミホツヒメ達と過激派しかいない。聴衆が見たのはミホツヒメ達が謝っている場面と過激派達の言葉による説明だけだ。ミホツヒメは対応に失敗した。ここは譲歩せず是が非でも過激派に反発すべきだった。彼らに会話の主導権を握られてしまった。他人から見ればミホツヒメが過激派の言葉に追従する形で主張したに過ぎない。
「彼らの言っていることは誤りです!私の従者はそのような陰湿な考えは持っていません、彼女は彼らによってわざと転ばされ濡れ衣を着せられただけです」
「嘘を言っているのはお前たちだろう?今更なにを言い訳しているのだ?」
平行線だ、過激派の言い分もミホツヒメの言い分もどちらも嘘には見えない。ゆえに彼ら聴衆は見聞きした情報から真偽を判断した。その結果___
「ミホツヒメ側が悪い」 「脅迫の為にやった」
そう結論付けられた。
人は多数側に押し流される。まだミホツヒメ側が悪いとは断定したいない者もいるが、いづれ数の暴力に押し流されるだろう。そもそも主張しているのがミホツヒメ側がミホツヒメと従者。それも当の従者は押し黙ったまま。対して過激派側は数が多い。数の圧力に加え、彼らはお偉い地位にいる。媚を売るべきだし逆らうべきではない。そんな空気が広がっていた。ミホツヒメも高皇産霊尊の娘というそれなりの立場ではあるが、彼らの方が現地人からすれば身近な上、妬ましいこの地の支配権を奪った者に従えているミホツヒメによい印象は抱いていない。この結果も必然だった。
ミホツヒメと従者は罵倒の嵐の中、自室へ戻った。いくら主張しても数で上回れたらどうしようもなかった。激昂することもできたが、少しでも相手に危害を加えれば逆効果だ。それが歯がゆく、ミホツヒメはそんな見通しをたてた自分を許せなかった。
「どうしてなの?どうしてなにも言わないの?」
ミホツヒメは従者に何故あのとき押し黙っていたのか尋ねた。あそこで従者が話して結果が変わったかは分からないが、最低でもミホツヒメが話すよりは信用が得られた筈だ。余計な疑惑は無くせた筈だ。
「それは___どうしようもないからです」
「どうしようもないって……」
「あの場でどのような弁明をした所で事態が悪化するだけですよ」
「それでもなにか言うことが出来た筈よ」
「結果は変わりませんよ、ミホツヒメ様は」
完全な否定だった。なにもそこまで否定する必要は無い。何故完全に否定されなければいけないのか。従者にはもうなにを言っても駄目だろう。
「下がっていいわ」
「お気遣い感謝します」
ミホツヒメは従者にそう言って下がらせるしかなかった。
悪事千里を走るというが、今回の騒ぎはあっという間に広まった。___最も悪事を働いたのはミホツヒメ達ではなく過激派の方なのだが。しかも話にはもれなく尾ひれがついていた。過激派の男にフツヌシ様に仕える者がこの地の重鎮に危害を加えた、一人に一生治らない程の重症を与えた。暴言を吐いた。脅迫した。こんな具合に話はどんどんと事実の少ない虚構の話になっていた。
幸い、ミホツヒメを知っている人となりを知っている人はそんなことは無いと、無実を信じてくれているがそれ以外の人間はミホツヒメを疑っている。
騒ぎが起きた翌日、ミホツヒメは父親に呼び出された。
予想していた事だったが、事態はとても大きくなっていたようだ。
「ミホ!なにが起きたのか説明するのだ!」
父はミホツヒメの事を「ミホ」と呼ぶ。年頃の娘にその呼び方はどうなのかといつも問いたくなる。
ミホツヒメは事の顛末を父に話す。父は黙ってそれを聞いていた。話し終わったとき、父親がどんな反応をするか分からなかった。叱られるかそれともなだめられるか。
父の反応は至って冷静で驚きは無かった。話が終わると、父は一言、やはりそうだったか___と呟いた。
やはり?___まるで知っていたかのような台詞にミホツヒメは疑問を呈した。
詳しく話を聞くと、父はどうもミホツヒメに内緒で何人かの部下をミホツヒメの監視に置いていたというのだ。父はミホツヒメの外出を許可したはいいもの、その親馬鹿かつ過保護な性格からやはり心配になって念のために何人かの護衛に監視させていたのだ。その護衛がミホツヒメ達のやり取りの一部始終を見ていた。
___ミホツヒメからすれば流石に過保護過ぎでは?とか、言いたいことが山ほどあるが、結果的には父のこの判断は正しかったと言わざる終えない。だが、父の護衛の目から見ても従者は過激派からなにか仕込まれたりした形跡は一切無く、本当にただ倒れただけだったようだ。
結局、過激派が意図して転ばせたという証拠は一切無かったのだ。父親もミホツヒメの無実を信じているが、この現状では訴えても不利になるのはこちらである為、故郷へ帰る数日まで波風立てずに大人しくしている他無いとのことだった。
ミホツヒメは一言で表すなら、むしゃくしゃした気持ちで一杯だった。想い人は見つけられずあらぬ疑いをかけられた。最悪だ、やけ食いしたい気分だがなんとか抑える。ミホツヒメは想い人との再会に備え過度な食事は控えていた。こんなにも見つからない状況でもなお再び、想い人と相まみえることが出来ると信じている自分がおかしい。仮に再会できても一日しか会っていない自分の事を覚えているとは限らないというのに。
外に出る気は無かった。下手に出てまた面倒事に巻き込まれるのはごめん被る。それにミホツヒメには外に出て一日中探しても見つからないだろうという謎の確信があった。
ミホツヒメは屋敷をふらふらと散策することも無く、自室で勉学に励んでいた。励んでいる、と言っても半分くらいの時間はなにも考えずぼ―っとしたり机にうつ伏せになって寝ているが。
昼時になって従者がミホツヒメを呼びに来た。どうも昼食は父とこの地の領主様とともに食べるという話だと言うのだ。最悪な話だ、領主がどんな人物かは知らないが騒ぎを起こした自分にいい印象を抱いているとは思えない。父はなにを考えているのだろうか?とはいえ、ここで拒否するわけにもいかない。ミホツヒメは仕方なく従う事にした。
これほど衝撃を受けた時は何年ぶりだろうか?いや、3年ぶりか。同じ人物に二度も衝撃を受けるとは思うまい。探し人は存外近くにいたものだ。父の紹介した「この地の領主様」こそミホツヒメの探し人その人だったのだ。
相変わらずの顔にみずちの髪型、服は青みがかった礼装を身に纏っていた。あまりにも3年前に似すぎで最初は夢を見ているのかと思ったほどだ。外見は殆どあの時から変わっていない。いや、顔つきがあの時以上に男前になっただろうか?こんな事を考えてしまう自分が恥ずかしい!
せっかくの再開なのに顔をまともに見ることすら出来ない。前を向くことすら憚らない。恋というのはここまで人を狂わせるものなのか?それとも自分がおかしいだけだろうか?
顔を赤くして前も向けないミホツヒメに相手は反応に困っている様子だった。
「え―っと、私はオオモノヌシと申します。この国の領主を務めておりました。これから末永くよろしくお願いします」
声も当時と殆ど変わらない。凛とした響きの美声だ。それにしても末永く、末永くよろしくかあ……。
おっと、いけない危うく妄想の世界に引きづりこまれる所だった。
「コンニチハ、私は高皇産霊尊ノ娘ノミホツヒメデス」
なんとか気持ちを抑え、格式ばった片言な自己紹介をする。何度も再開したときの場面を想像しなんの言葉をかけるか、どのように話の流れを作り出すか考えたのに本番はこの有様だ。これは突然意図せぬ時に現れたあちら側の問題だとミホツヒメは勝手に責任転嫁する。
「はい、ミホツヒメ様ですね。」
「ヨ……ヨロシクオネガイシマス」
オオモノヌシは少し困惑しながらこの自己紹介を受け止めてくれたようだ。
昼食の会話中、ミホツヒメは中々会話の機会に恵まれなかった。肝心のオオモノヌシはずっと父と会話している。それもそうだ、権力者の娘に容易に話しかけることなんて出来るはずもないし第一どう接していいか彼も分からないだろう。あちらが思い出してくれれば簡単な話だが、流石に彼も簡単にはあの時の少女が自分だとはすぐに思い出せないだろう。
彼はどうもあの噂話を知っているようだ。ミホツヒメの名を聞いた時もどことなく「ああ、あの……」といった感じの反応だった。だが、彼は敢えてその話題については触れないようにしていた。彼の心遣いに私は嬉しかった。また、彼に助けられてしまったようだ。
結局、彼とは自己紹介以降話せずに終わってしまった。精々最後に彼が出ていく時に別れの挨拶を言ったくらいである。最高の機会だというのになんというざまだろうか。
「どうして私をここに招いたのですか?お父様」
父と二人になってミホツヒメは尋ねた。
ここでの探し求めていた想い人との再会、こんな偶然がありえるだろうか?私を密かに監視していた父だ。もしかしたら父は私の秘めたる思いを知っていてこれを___
「?まあ、深い理由は無いぞ。領主さんにミホを見てもらいたくてなあ!ミホはあんな噂たてられてるけどそんな事しないいい子だって見せたくてな」
まあ、そんな気がした。
この男は娘大好きな割に娘の心の内は殆ど分かっていないのだ。これは男と女の宿命なのだろうか?いや、父が特別分かっていないだけな気がする。
「はい、はい分かりました!ありがとうございました!」
正に反抗期なミホツヒメは父にぶしつけに感謝の言葉を述べ、出ていった。
「___何故ミホは怒っているのだ?」
残された高皇産霊尊はそう呟いた。
父の目的はともかく、ミホツヒメにとって想い人が思いの他、近くにいてくれたのは朗報だ。これで探す必要も無くなり。ミホツヒメの恋路はまた一歩前進した。
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こうして今に至るミホツヒメはどうやって思いを伝えるかそもそもどうやってオオモノヌシ様に近づくか昼間からずっと悩んでいる。しかし、考えれば考えるほどあの過激派のいざこざが問題になる。あれがあるせいでミホツヒメは悪い印象をこの地の住民から抱かれている。まったくもって過激派は最悪な事をしてくれたものである。
思い悩む中、従者が部屋に入ってきた。
「どうかなされましたか?昼間からずっとなにやら悩んでいるご様子ですが」
玉案の山積みの古文書と白紙の和紙を見ながら従者は尋ねた。
こんな気持ちなのに勉学に励めるわけが無かった。代わりに自分の持っている情報からどうすれば彼に近づけるのかずっと考えていた。
誰かに相談するか?例えば目の前の従者とかに___だが、駄目だ。彼女とは昨日に仲違いしたばかりだ。あの時以降、私と従者は業務的なやり取りしかしていない。こんな相談には乗ってくれないだろう。
そう考えていた時、従者は口を開いた。
「ミホツヒメ様___もしや、誰か殿方に恋をされているのですか?」
「えっ?」
急に自分の心中を正確に言い当てられてミホツヒメは混乱している。それもよりにもよって従者に正確に言い当てられるとは思わなかった。
「なんで?なんで分かったの?」
ミホツヒメは顔を真っ赤にしながらつい聞いてしまう。
「何故もなにも最近のミホツヒメ様は必死に一人の殿方を探しておられるので___ここまでご執心だとなにかあるだろうと誰でもそう思いますよ」
見抜かれていたのにも驚いてたが、私が触れる前にあちらから触れてくるとは思わなかった。
「ミホツヒメ様も年頃の乙女なら、恋をしてもおかしくはないでしょう。何年付き添っていたというのですか?それくらい分かります」
分かって当然とでもいうように従者が言う。ミホツヒメからすれば驚きでしかないが。
「その様子だと探していた殿方が見つかったそうですが、合っているでしょうか?」
「___そうだけども……」
「なにか悩んでおいででしたら、私も相談に乗りますよ」
「相談に乗るって言ったって……あなたになにが」
「どうも、ミホツヒメ様は出会ったはいいが、殿方にどう想いを伝えることか難儀しているご様子ですね」
ここまで色々と心中を一気に言い当てられると、反論もできず、ただただ反応に困ってしまう。
「うん、まあ、そうなんだけど___なにか知っているの?」
「でしたら、恋文などはいかかでしょうか?」
「恋文___って確か」
「殿方との愛を告白する為の手紙ですよ」
「こここ恋文って!私達まだ、そんな段階では」
「だからこそ、ですよ。恋文はミホツヒメ様の様な面と向かって話すことのできない方が愛を伝えるのに最も有効な手段なんですよ」
「そんな、恋文、なんて」
普段からはあまりにも想像できない従者の饒舌っぷりと押しの強さにミホツヒメは押されるばかりだ。
「ほら、ちょうどここに紙もありますし折角ですから書かれてみては如何ですか?」
玉案にある和紙を手に取り従者は促した。
ミホツヒメは結局、恋文を書くことになった。そしてすっかり陽が沈んだ頃になって初めての恋文が完成した。
「初めての恋文にしては、上出来ですよ」
「読み返してみると、なんだか恥ずかしい気分になるのだけど……こんなので大丈夫なの?」
「最初はそんなものでいいのですよ。気持ちさえ伝わればいいのですから」
恋文はずっと考えていた割には簡潔な内容になった。正直、見返すのも恥ずかしい内容だった。
「それで、書いたはいいけれどどうやって届けるというの?」
書いたはいいが、どうやって彼の下に手紙を送るのだろうか?直接渡すのなら書いた意味が無いような。従者は考えがあると言った。
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ミホツヒメは書いた恋文を手に部屋へ向かう。恋文は折られ、紙飛行機の形になっていた。従者曰くたどり着いた部屋の窓の向こう側にオオモノヌシ様がいつもいる自室があるという。
従者の提案は紙飛行機で窓からオオモノヌシ様の部屋の窓へ飛ばすというやり方だ。
確かに粋な方法だと思うが、ちゃんと受け取ってもらえるかが問題だ。最悪、中身を見られずにそのまま捨てられる可能性もある。そうなったら全てご破算だ。
だがここは、自分が恋した男の事を信じる。見てもらえると信じ紙飛行機を飛ばした。
「___それでどうにか受け渡しは出来たと」
「受け渡しというか一方的に送っただけだし、読んでくれるかは分からないわよ___この作戦本当に大丈夫なの?」
「殿方であれば紙飛行機が突然、飛んで来たらなにがあったか驚くだろうし文字が書かれているのは少し見れば分かりますしそのまま捨てるということは無いでしょう」
「それ完全に希望的な観測ではありませんか?」
「あなたの恋している殿方を信じましょう願わくば紙飛行機で恋文が送られてくるという夢を持つ男であることを」
それから一日経つが、彼が恋文をちゃんと読んでくれたかは分からない。あれからオオモノヌシ様に会う機会も無い。
次の日も従者はミホツヒメの部屋にやってきた。従者曰く継続することが大切とのことで今日も恋文の紙飛行機を作ることになった。
「どうしてまた急に私を助ける気になったの?」
疑問に思っていたことを従者に言う。従者は暫くなにか考えていたのか黙っていたが、やがて語りだした。
「私めは昔、ある屋敷に務めていた時恋をしていました。その相手は私なんかでは到底手に届かない位の身分の高い男でした。でも、私はその殿方に恋をしてしまったのです。私はどうすればいいのか日々葛藤しました。そして最後にはミホツヒメ様と同じように恋文を紙飛行機に乗せ、殿方の部屋に勝手に送るようになってしまったのです___結果どうなったか分かりますか?」
「結果ですか、恋が成就したとか?でもそしたら今のあなたは」
「もちろん、そしたら今の私はミホツヒメ様の従者をやっていたりしませんとも」
「じゃあまさか、失恋したって結末?」
「合っているとも言えるし半分合っていませんね」
従者はくすくすと笑いながらそう答えた。
「つまり、どういう事?」
「殿方はきちんと私の恋文を読んでくれたんですよ。そしてある日、私は呼び出されました。最初はなにがあったと思ったものです。正直な話、私も心の中では諦めていました。読んでもらえる訳ない。あの人と私は釣り合わないと。だからその人がお会いしたいと言っていると聞いた時は心底驚きました。驚いたと同時に私は嬉しかった。自分の恋心を伝えることが出来たのです」
従者がここまで嬉しそうに話すのをミホツヒメは初めて見たかもしれない。だが___
「彼と私は初対面ではなく、初めて顔を合わせたわけでもない。でも私は飽くまで一人の使用人に過ぎず、意識したことは無かったのでしょう。私を目の前にして彼は目を逸らして私に目を合わせようとしませんでした。私は最初拒絶されているのかと思ったのですが、よく見てみると彼の顔は赤面していたのです。___その後、彼は度々私を呼び出し共に過ごしました。その中でお互いに色んな話をしました。お互い、日々立場の都合上言えない愚痴を言ったり、遊戯をしたり、___彼は花札を好んでやっていました。色んな絵の花札を蒐集するのが彼の趣味でした。こうしている内にお互いにどんな他人よりもお互いを知りあう仲にまでなりました」
ここまで聞けば、ただののろけ話である。だが、この話には続きがあることを私は知っている。
「しかしそんな日も長くは続きませんでした。ある日を境に彼は突然私と会わなくなりました。呼び出されることも無くなり私はひたすら困惑しました。事情を知ろうとしましたが、彼は私を避けるような行動をしていて私は姿を見ることもできませんでした」
「それで、どうしたの?」
このまま終わる訳ではない。恋する乙女がここで諦めるわけない。
「ミホツヒメ様の言う通り、私は諦めませんでした。理由もなにも分からず終わるのは嫌だった。私はある日仕事を抜け出してこっそりと彼の部屋へ向かいました。___ええ、私の人生で業務をさぼったのはこれが最初で最後です。見張りを上手く避けて部屋に忍び込んだ時は彼は大いに驚いたものです。だって彼は私が仕事をさぼるような人間では無いことを知っていましたしこんな常識から外れた大胆な事もしないだろうと思っていましたから」
従者がこんなことをしていたのか、いつもの態度からは想像できない。やはり女性は表向きの外面と内面は大きく食い違うものなのだろうか?まあ、私も女性なのだけど。
「私は彼に詰め寄り、聞きました。どんな理由があっても責めないからちゃんと答えてと、私から逃げないでと、彼は観念して私に話し聞かせました。彼には元々結婚相手が決まっていたのです。俗にいう政略結婚と呼ばれるものです」
「せいりゃくけっこん?ってなに?」
「ミホツヒメ様のお父様は過保護___いえ、娘さん想いの人ですから無縁の話かもしれませんが、高貴な家柄の人間同士は時に政治的な理由やその家の利益の為に結婚をすることがあるのです」
「そんなの変じゃない!結婚って愛し合っている者同士がするものじゃないの」
「その純粋なお考えはとても大切ですし大半の人はそうです。ですが、世の中には例外も存在します」
知らなかった知識がまた増えた。知りたくなかった知識でもあるが。
「当人の意思は考慮されません。お家を守る為に地位を維持する為に仕方なかったのですよ」
結末は今を見れば分かる。だからこそどうして。
「私はそれを聞いて悩みました。悩み悩んで末に私は別れました。それだけでなく私はその屋敷を退き別の家に___今のミホツヒメ様の家に勤めることとなりました」
「何故!?どうして?」
ミホツヒメの疑問に従者は間を置いてから答えた。
「___私は殿方が幸せになる方を望みました。私はあの恋をした男には幸せでいてほしかったのです」
「幸せって」
「私と彼には元々立場に差がありました。こうなってしまった以上、お互いそうせざる終えませんでした。それに」
「私はなにより彼を愛していたからこそ彼にそして私と同じようにその人を愛する女性に迷惑はかけたくなかったからです」
従者の語るその話は後味がほろ苦く、ミホツヒメにとって衝撃的な話だった。
「数年後___私の聞いた話によると、彼は政略結婚した女性と上手くいっているとの事でした。私は元々その結婚相手が上手くいきそうな相手だと知っていましたが、それでもその話を聞いて私は心底ほっとしました。二人が幸せそうで良かったと。彼は私と別れた後でも一歩踏み出せた」
「でもあなたはどうなの?だってこれって」
「確かにこれはやるせない話です。報われない話です。でも、私としてはこれで満足なんです。お互い好きだった人とはけりをつけたんです。私は後悔していませんとも。人生は長い、いずれまた素敵な殿方と出会うかもしれませんから」
「___私には分からないけど、あなたが納得しているならいいわ。でもその話は置いといてまだ最初の質問に答えていないわ。どうして私を助けたの?この話をしたってことは私と自分を重ねたとか?」
「それもありますが、もっと単純な理由ですよミホツヒメ様。___恋をする乙女に手助けしたいと思うのは同じ女性として当然でしょう。それにお忘れですか?私は本来ミホツヒメ様を助けなければいけない立場ですから。恋愛事ももちろん引き受けますよ」
なんとなく従者が言いそうな納得できる理由だ。
そしてふと、ミホツヒメは思った___あの時の従者の行動ももしかしたらミホツヒメの事を思ってやったのかもしれない。ただ空回りしただけで。
「ねえ、あの時も私の事を思ってやったの?」
お互いに触れたくない蒸し返したくない事柄だが、ここで言わなければならない。ここでわだかまりを解消しなければならない。
「___あの時はどう真実を言おうとしても、彼らは何かしら因縁をつけてきたと思いますから黙っているのが正解だと思いましたから」
「あの時、転ばされたのは確かだし当事者のあなたなら彼らがやったことを説明できたんじゃ……」
「分かりません」
「分からない?」
「被害にあった私も分からないんです。突然、体の力が抜けたような気がして気づいたらああなっていた。ただそれを言ったところで誰が信用してくれますか?誰が聞いても言い訳にしか聞こえませんから」
「少なくても私は信じたわ、根拠がないにしても」
「ミホツヒメ様は私と面識があるからいいでしょうが、あそこにいた人々は私達に少なからず嫌悪を示していた。中には陥れようとしていた人もいたことでしょう。そんな人々に見知らぬ私の意見は通らないと思いますよ。面識のあるミホツヒメ様のお父様や同僚は信じてくれると思いますが」
ミホツヒメの言葉が詰まる。正直、正論ではある。あそこの人々はミホツヒメ達の言葉を聞く気が無いように見えた。最悪、全員過激派側の可能性もある。どの言葉も曲解され、悪い方向へ進んだかもしれない。最初にしたミホツヒメ達の謝罪が受け入れられていない時点で彼らは許す気は一片も無かったのだろう。そもそもこれが仕組まれたものなら許すもなにもない。ミホツヒメ達を陥れるのが目的なのだから。
ミホツヒメが押し黙る中、従者は話を続ける。
「ですがこの数日間考え、ミホツヒメ様には迷惑をかけたとも思い始めました。仮にそうだとしてもここは私もなにか反論するべきだったと。抗うべきだったと。それを本来私が守るべきミホツヒメ様が代弁し反論してくださった___私はミホツヒメ様の従者として失格でした」
「そんなこと無いわ。私も軽率だった。反省してる。それにあなたの行動の理由も十分分かったし。失格なんてことは無い」
「あの時私はなにも出来なかったからこそ、今度は私もミホツヒメ様、貴女の役に立ちたい。そうですね、結局私はさっき綺麗な理由で取り繕っていましたが実際はそんなものです。下衆な理由ですよ」
「下衆って……そこまで卑下することもないじゃない」
「ミホツヒメ様はお優しい、しかし」
「いいの」
ミホツヒメは従者の手をぎゅっと握る。従者は動揺して言葉を途切らす。
「もういいの。どんな理由であれ私を助けてくれた相手を見限ったりしないって!これはどちらかが悪かったんじゃないのお互い悪かった!あなたが従者失格なら私は主人失格よ」
畳みかけるようにミホツヒメは言う。言い切ったミホツヒメに対し、従者は数秒の沈黙。そして、
「いいのですか?」
従者は若干震えているような声で言った。
「いいんじゃないかしら?もう終わった事だし」
さばさばとミホツヒメはそう言い切った。
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「改めてだけど、私の恋路の成就、手伝うならよろしく頼むわね」
「勿論ですが、助けるといってもミホツヒメ様が恋文を送るだけの意気地の無い状態ではどうにもできませんよ」
「あんた立ち直るのはやいな!?」
数分前までのいい雰囲気が台無しになる暴言である。もっともそれは彼女がいつものお節介従者に戻った証拠でもあり、ミホツヒメにとっては変に気を使う必要が無いのはいい事である。
「正直、ミホツヒメ様の恋の成就には受難が大量にあります。まず先日の出来事でこの地域の人々からの印象は最悪です。もしそんな方がこの地の領主様と結婚するなんてことがあったら非難轟々です」
「さらっと私の恋が受けいられる前提で話しているのだけどいいの!?」
「ミホツヒメ様、貴女はあの殿方を愛しておられるのですか!?」
「愛してるか?って聞かれたらそりゃ愛しているに決まってるじゃないの!」
ずいっと顔を近づける従者の圧に内心びびりながらミホツヒメは答える。
「なら、ミホツヒメ様は恋が成就することだけを考えればいいのです。やる前から失恋する事を考えたりするような方に恋が成功すると思いますか?そんなことを考えていると本当にそうなっちゃいますよ」
あの過去話を聞いたから分かっていたが、従者の恋に対する考えはミホツヒメには理解できない程「重かった」。立場が遥か上の人に恐れを知らず恋文を出し、あわや恋仲にまでなった人だ。ミホツヒメ以上に恋にこだわっていると言える。とはいえ確かに失敗する事を考えると本当にそうなるという話を聞いたことがある。前向きに考えるべきだ。
「まあ、確かに私と恋してるってなったら色んな人が反対しそう。なんなら私の父様も反対しそうだし___というか、周りが敵だらけじゃない!」
「そうですね、立場的には私と違って恋が実現できるミホツヒメ様ですが、周りにいる敵の数は段違い。正直、恋の成就の難易度は私とどっこいどっこいです」
「まさか、私にも貴方と同じように諦めろ___ってことは無いわよね」
「そんな事ありません。私はあの時それで納得したからあの終わり方でよかった。しかしミホツヒメ様は違いますよね?」
「うん、私は諦めるつもりは無い。例えみんなに迷惑がかかろうと___ってこの考え方は流石にまずいか」
「まあ私としては殿方に迷惑をかけるというのは避けたい限りですが、この恋を成就させたいのならそれくらいの覚悟は必要だと思いますよ」
覚悟うんぬんはともかく、障壁が多すぎる。結局、とりあえず引き続き恋文は送る。後日またこれら障壁に対する対抗策は考えるということになった。
「ミホツヒメ様、なんにせよ時間は少ない。恋は鮮度が命ですよ。恋文以外の行動も起こさないといけません。恋文ばっか届けてもこれ以上なにも進展はありませんよ」
従者は別れ際にそう言った。鮮度って食べ物じゃないんだからと思いつつ、次の行動を考える。やはり、こうなっては直接彼と会う他ない。恥ずかしがっているばかりで二の足を踏んでいる場合ではないのだ。
彼との二度目の出会いは早かった。何故なら今回はミホツヒメの方から自主的に会いに行ったからだ。なんとか父に打診して会う機会を得たのだ。父には「あの時ちゃんと話が出来ていなかったから」と理由をつけて、なんとか話をこぎ着けた。
覚悟を決めて来たにも関わらずミホツヒメは緊張していた。意気地なしと自分を責めつつミホツヒメは「彼」と対面する為に部屋に入った。
部屋の中は最低限の灯りで満たされ、薄暗い。おそらく少しでも出費を減らそうとした結果なのだろう。昼間は太陽の明かりで過ごし、夜は寝るか灯りをつけて過ごす。合理的だ。彼は窓から差す月明りに照らされながら座っていた。
「あの、コンバンワ___今日は月明りが!綺麗ですね!」
「ああ、そうですね今日の月は一段と美しい輝きです」
会話はとりあえず成立させる事が出来た。
「それでミホツヒメ様、今宵は何用で来られたのですか?」
相手から質問が飛んできた。答えるにはここしかない。襖の隙間から覗いている従者が「ここで行け!」とでも言うかのように口の前で手を動かし、なにか喋っているかのような手振りをした。
「ここ最近、部屋に恋___手紙が落ちていたことが何度もありませんでしたか?」
「ああ、最近毎日のようにあるんだよね」
質問に質問を返す形になったが、相手は気にすることなく答えてくれた。恋文の事を知っているのは分かった。ならば次に話すことは決まっている。
「その文を読んだりしましたか?」
「あの手紙は___読んだが、しかしなぜ君はこれを知っているんだい?」
察しが悪い人だ。それもまた魅力的である。ここまできたら、一思いに言いたいことを全て言いきる。後悔は後からでもできる。
「あの手紙を書いたのは、私です」
「______。」
「オオクニヌシ様は覚えておいででしょうか?私とは三年前にお会いしているのです。私をあの凶暴な鵺から救い出してくださりました」
彼は「ああ」と、
短い返事をした。ミホツヒメはそれを肯定の意思表示だと認識して先へと話を進める。
「私はあの日以来、貴方のことが___」
ここで言うべきだろうか?いや、言わなければいけない。
「好きなんです」
……、言えた。彼はなにも言わない。
「この三年間、私はずっとずっと貴方の事を片時も忘れませんでした。そして私はまた会いたいと、一緒に居たいとずっとずっと願っていました。その恋文を書いたのも私です。貴方に私の思いが少しでも伝わればいいと思って書いたんです。今晩来たのも、貴方と共に過ごしたい___そんな理由です」
言いたいことは全て言った。心中の想いは全て吐き出した。しかし、早急だっただろうか?いきなりこんな事を立て続けに言ってしまって大丈夫だろうか?そう内心がそわそわし、相手の反応を見たいと思っているミホツヒメとは裏腹に彼は中々言葉を返してこない。表情と動きを見る限り、困惑してるか驚愕しているのだろうか?ミホツヒメは不安になりながらも彼の言葉を待つ。
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最初、自室に紙飛行機があったときは何事かと思ったものだ。なにかの罠かと思い訝しんだが、いざ紙飛行機を広げてみるとそれは差出人不明の手紙だった。内容は獣に襲われた所を助けてくれた人間に恋した女性について綴った幾つかの和歌だった。
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに
締めにその女性が男に言った和歌だ。いつもは動じない私が貴方の事を思うと私の心が乱れてしまう、そんな意味だ。
素晴らしい和歌であったが、送り主については分からなかった。
次の日も帰ってくると、自室に手紙は置いてあった。手紙の内容は全て恋について書かれたものだった。どの
ミホツヒメ、彼女とこの屋敷で対面した時はどこかで会ったようなと漠然としたものがあった。本人から言われてようやく確信に変わった。三年前のあの出来事は今でも鮮明に覚えている。ああ、あの時のかあ___と、耽っていた所にそんな些細な事を吹き飛ばす告白が行われた。
彼女は私に「恋」をしたのだと言うのだ。それもあの日から。
冷水をかけられて呆然としていた所に立て続けに顔面に平手打ちされた位の衝撃である。あの手紙の内容が恋文に近しい内容であった事からもしかしたら、とも思っていたが私の妄想や勘違いなら困った事になると触れないようにしていた。だが、私の勘違いの類では無かったのだ。
___沈黙が続く。もしや、私がなにか言わなきゃいけない状況か!?
これはこの状況はどう受け答えしたらいいだろうか?こんな事なら女性との付き合い方を学んでおけばよかったと後悔した。
「ん……ミホツヒメ様の想いは分かりました。そう、そうですね少しだけ考えさせてください」
取り敢えず考える時間が欲しい、オオクニヌシはそう思った。
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「これってどうなの!?ねえ、どうなの?」
肝心のオオクニヌシ様からは曖昧な返事が返された。「何日か考えさせてほしい」、これは好意的なのかそれとも、二人での密談を終えたミホツヒメは不安な気持ちを隠し切れず、従者にぶつけた。
「まあ上出来ではないですか?突然過ぎて相手は困惑していましたが___」
「私は貴方の言う通りにやっただけです!恥ずかしかったわよ、これ!本当にこれでいいの?引かれてなかった?」
「ふむ、私の場合はこれでよかったんですが」
「これって貴方だからよかったって話じゃないの!?こういうのって男によって落とし方が違ったりするんじゃないの?」
「まあまあ、貴女の恋した殿方を信じて返事を待ちましょうミホツヒメ様」
「ねえ、貴方少し楽しんでない?当事者の私は気は気じゃないんだから!」
どことなく嬉しそうな従者にミホツヒメは不満を漏らす。第三者から見れば楽しいのかもしれないが、こちらはいわば人生一番の大勝負なのだ。従者だけがミホツヒメが恋の相談に乗れる相手である以上、しっかりしてほしい。
あの日から数日経ち、私はこの屋敷での生活を続けた。オオクニヌシ様から返事はまだ貰えていない。私がこの屋敷に居られるのも父の業務が終わるまでつまりあと一週間程である。次に行けるのは何年後になるのか分からない。せめて返事だけでも貰いたい。
「ミホツヒメ様、やきもきする気分は分かりますが部屋の中をぐるぐる回るのはおやめください。部屋を飛び回る蝿並みに鬱陶しいです」
部屋中を動き回るミホツヒメに従者が苦言を呈する。
「わざわざ蝿って例えする程!?それよりも、どうするの?この状況のまま終わるとか絶対嫌なんだけど」
「そうですね、確かにこのままでは最悪、ミホツヒメ様の危惧している事になりかねません。心なしかオオクニヌシ様の周りの守りが固くなっているいる気もしますし」
「守りが固くなっている?……ってどういうこと」
「呑気なミホツヒメ様は気づいていらっしゃらないのでしょうが、明らかに警護が厳しくなっています。現にあの日以降オオクニヌシ様の姿をお見えしていませんし面会を取り付ける事も難しくなっています。恐らくですが、ミホツヒメ様がオオクニヌシ様に密かに接触している事に誰かが気づいて邪魔しているのではないかと思います。ミホツヒメ様はすっかり忘れておられるのでしょうが数日前に過激派と揉め事を起こしたばかりですしその辺に邪魔されてもなにもおかしくありません」
「流石に覚えているわよ。忘れるはずないもの。あの人たち何処から聞きつけたのかしら?人の恋路を邪魔するなんて」
「まあ遅かれ早かれミホツヒメ様とオオクニヌシ様との恋には彼らが障害となるのはほぼ間違いないでしょうね。どこかで対峙するのは必然だったでしょう」
「そうなるといよいよ彼らをどうするか考えないといけないのよね……和解は出来ないかしら?」
「まあ過激派と言われている程です和解は難しそうですね。一筋縄では行かない相手です」
兎に角、それが事実だとしても私は止まらない。私の恋の行く手を阻むことは断じて出来ない。ミホツヒメ達はなんとかもう一度彼と会うために一計を案じた。
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就寝の時間はもう過ぎているというのに中々寝付けない。あの日以来私は中々床に就けずにいた。明日もお勤めがあるのだからと自分に言い聞かせ目を閉じるが、数分後にはまた目を開けている。姿勢を変え、布団をかけ直し体を落ち着かせる匂いのお香を焚きようやく夢の世界へ誘われる___そんな矢先だった。
どたどたと廊下を走る足音、響き渡る怒声、そして激しい爆発音。
「なんだ!?」
慌ててオオクニヌシが飛び起きるのとほぼ同時に寝床の襖が開き___勢い良く開きすぎたために襖が敷居の溝から外れかけた。寝床に二人の人影が飛び込んできた。
「静かに騒ぎにならないように行くって話だったのにどうしてこうなったの!?」
「見張りが思った以上に手練れだったもので、大丈夫ですよ姿は見られてませんしミホツヒメ様に疑いが向くことも無いでしょう」
「そもそもこの爆発とかは私の仕業じゃないし……ここ数日で貴方への印象が変わりすぎてびっくりするのだけれど」
従者がこんな爆発物を扱える人間だとは思わなかった。これならあのときの過激派達も返り討ちに出来たのではとミホツヒメは思わずにはいられない。
「そんなことよりも目当ての殿方が目の前にいるのですがどうされますか?」
「どうするもなにも答えを聞くのよ」
「ほんとに―?それだけ―?」
「逆に他になにを求めてるのよ!」
「お持ち帰り___とか?」
「最近、本当に貴方の事が心底怖くなってきたわ」
そんな二人を目の前にして、事態を今だ呑み込めていないオオクニヌシは思考がうまく纏まらず、話しかけることも出来なかった。そんな中、事態は刻々と進行している。
「ミホツヒメ様、ここにいてもすぐに騒ぎを聞きつけた見張り達がやってきます。やむをえません、お持ち帰りしましょう」
「変な言い方しないの!場所を移動するだけよ___さあ、行くわよ」
「は___?」
この展開についていけてないオオクニヌシをよそにミホツヒメが手を握り、移動を促す。異性と手を繋いだことも殆どないオオクニヌシそして同じくミホツヒメは普段の調子であれば赤面する場面だが、今はそんな余裕はない。オオクニヌシは結局、思考を停止しミホツヒメに引っ張られるがまま動くことにした。
「今思ったのだけど、過激派に喧嘩を売った上にこの地の領主を攫うって私達いよいよまずい事になってしまったんじゃないの?」
オオクニヌシを連れて屋敷の廊下を走るミホツヒメは先導する従者に今更な質問をぶつけた。
「まあそうですね、姿さえ見られなければどうにかなるんじゃないでしょうか」
「他人事みたいに言うな!もし私が疑われたら真っ先にあんたを身代わりにするわ」
「ああ、悲しい……数日前私を庇ったミホツヒメ様の姿は何処へ」
「ああもう!こんなことなら庇わなきゃよかったわ」
オオクニヌシが我に返ったとき、目の前に大きな湖があった。清らかで澄んだ湖の水面は月明りに照らされきらきらと輝きミホツヒメ達を照らしていた。
そよ風になびく金髪、青紫色の綺麗な瞳、着飾った衣______ふつくしい。
月の白光の反射光に照らされたミホツヒメは頭の頂から足の先に至るまで全身が全部がとても美しかった。ついついオオクニヌシが見惚れてしまうほどに。彼女の従者と思わしき女性はいつの間にか消えていた。即ち今、オオクニヌシ達は二人きりだ。月が雲に隠れ、辺りは少し薄暗くなった。
「はあはあ……ここまで来れば大丈夫でしょう___じゃあ、答えを聞かせてもらおうかしら?」
「あ___ああ」
「私の事、どう思う?貴方は私の事好き?」
どうだろう?確かに月明かりに照らされたミホツヒメは美しかった。異性としても意識してはいるのだろう。だが、まだお互いにお互いの事を知らなすぎる。出会ってから日が浅すぎる。好きなのかどうかは、まだ「分からない」としか言えなかった。だから、
「……友達から」
「えっ?」
「まだ分からないんだ。お互いにまだ数回しか会ったこともないし話した事も殆どない。だから、まずは互いに知り合う所から始めたいんだ。好きかどうかはそれから決める」
「___そうね、貴方の言う通りよ。私は功を焦りすぎていたのかも。いきなり殆どなにも知らない相手と付き合おうだなんて、甘い考えよね。私が考えなしに一方的だったのかも。ごめん、貴方の事を全然考えていなかった」
「いいんだよ___その、世の中には一目惚れというのがあるし悪い事じゃないんだと思う。……その対象にまさか私なんかが入ってくるとは思わなかったが」
「私「なんか」じゃないですよ。もっと自分に自信をもってくださいって。私をこの可憐な乙女を凶暴な怪物から救い出すなんて並大抵の人間はできませんよ」
「はは、自分で言っちゃうかあ___でも事実だしな。それで友達になりたいって話は」
「勿論っ!私もなりたいです。貴方の友達に」
雲に隠れていた月が再び姿を現す。その光は二人の恋の道の行く先をまるで祝福するかのようにさんさんと光り輝いていた。願わくばその光が現実になってほしい。ミホツヒメはそう願った。