第8話 休日警察(テーマ「休暇」2022年7月)

文字数 1,811文字

「さて、昼は何を食おうか」
俺は特に考えもせずに部屋を出る。いつもの習慣で、玄関から先は北方向に進んだ。この先には小さいながらも商店街があり、それなりに賑わっている。平日の昼時に通ったことは、実のところあまりない。が、大丈夫だろう。何軒かの店は開いているはずだ。

「南口商店街」とやや色褪せた赤い文字でかかれた看板がかかるアーチ。ここからが商店街である。南口、というのは向うの端がちょうど駅の南口にあたるという、ただそれだけの名前だ。何も考える必要はなかった。俺は煉瓦で固められた歩道を、取りあえず歩き始めた。最初に目についたのはお好み焼き店だった。夕方以降は鉄板居酒屋として営業しているはずで、ちょっと新鮮である。店前に幟が二本立っている。「広島焼き」と「大阪焼き」。俺は基本的に東の人間である。どっちがどうだったか覚えていない。思わず悩みそうになったので、スルーすることにした。
 次に目に入ったのは韓国料理店だ。焼肉店と謳っていないのは、たとえばトッポギとか、チャプチェとか、そういうものも出してくれるのだろう。昔仕事で何度か韓国に出張したことがあった俺は、懐かしく思いこの店に入ろうかと思った。が、止めた。入口に展示してあったメニューを一目見て、種類が多すぎる、と分かったからだ。いずれまたゆっくり考えてから訪れようと決心し、更に北上を続けた。
 すぐ横に回転寿司チェーン店があったが、ここはもう論外だ。回転寿司チェーン店の向いはこれまたカレーの全国チェーンである。ここなら仕事帰りに何度も利用し、メニューも心得ている。だが今や、タッチパネル式でご飯の量、辛さ、トッピング、更にはカレーの種類まで選ばなければならない。そう思うとやはりここも諦めるしかないだろう。
「南口商店街」はせいぜい小さなものだ。もうこれで半分は過ぎてしまった。そして俺は知っているのだ。この先はアメリカ生まれのコーヒーチェーン、ハンバーガー屋、アイスクリームショップ。そして日本の伝統食だがアメリカ牛を使っている牛丼チェーンがあるばかりだ。この牛丼チェーンも、一昔前ならメニューに迷う必要がなかった。せいぜいサラダかお新香を選ぶ程度だったのだが、今やメインの丼から考えなければならないのだ。
 俺は溜息をつき、ふと右、つまり東側の道路に入り込んだ。道に迷っていては元も子もないので深入りはしない程度に、そのまま東進する。分からない、と思ったら引き返すのみである。そのとき、俺の左、つまり駅寄り、北方向だ。そこから懐かしい香りが漂ってきた。来た道を確認しつつ、更に細い南北の小路に誘われる。するとどうだ。俺の右斜め前に、薄汚いビニールの屋根が飛び出している。一部が破れているものの、確かに読めるのだ。「中華そば みなみ」とあるその文字が。
 この街に越して来た頃、ネットの口コミを調べてチェックしたことがあった有名店。平日の昼間しか営業せず、しかもスープがなくなり次第終了だというその店。俺には縁がないな、と諦め、忘れていた。その名店が、今俺を誘っている!

 名店ゆえ、店独自のシステムに悩んだ場合は仕方がない。その時は諦めよう。そう思い店内に足を踏み入れた。学生時代よりもはるか昔の雰囲気。これは俺が小学生の頃、故郷で入ったことのある中華そばのお店か? 壁に貼られた画用紙は、四隅が丸まっている。脂で薄汚れた海に浮かぶ文字。「並 六百円」「大盛 七百円」。周囲を見回すが、他にそのような張り紙はなく、テーブルにメニュー表もない。そう、これだけ。これだけなのだ。唖然としながらも、自分が食べられる量だけを考えればよいので安心して「並」をコールした。もちろん、食券を買え、とか、マシマシなどの呪文は不要である。俺は安心して、着丼を待った。しかもそれはほんの数分。空腹の苦しみも、いかなるものが出てくるかの心配もほぼ味わうことがなかった。

 俺は現金で支払いを済ませ、元来た道を戻る。迷うことはない。満腹だし、満足だ。俺はここまでほぼ頭を使わずに有給休暇を過ごしている、と自負している。でもそれも表に出してはいけない。余計なことを考えると、それは休日の過ごし方として不適切なのだ。休日警察の連中は、どこかで俺を見張っているだろう。休日に頭を使ってしまうと、処罰の対象になりうるのだ。おかげで平日はしっかり働ける。良い制度ができたものだ、と俺も心底思っている。

【了】
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