第26話 先生役の彼女(テーマ「冗談」2023年9月)

文字数 1,829文字

 昼休みになった。が、新入社員の僕にとっては勤務時間だ。何しろ午前中の仕事が全く片付かない。指導をしてくださる大熊さんはさっさと外に出てしまう。僕の指導は、彼女にとって仕事の一部。なので勤務時間外には行わない。昼休みになんとか進めて、午後一番で大熊さんのチェックを受ける。そのために今頑張らないといけない。うーん、と上半身を伸ばして再びパソコンのモニターに目をやった。
 その瞬間、僕の右ポケットが振動する。見計らったかのようなタイミング。仕方なくスマートフォンを取り出し、画面を確認する。山崎からのメールだ。山崎は大学の同期でゼミもサークルも一緒だった。卒後一か月たった今もこうしてメールのやり取りをしている。
「昼休みどこで食うの?」山崎の職場はここから遠い。別に僕がどこで食べようと関係ない。少し腹が立ってきた。
「関係ねえだろ」と返事を打って仕事に集中しようとした。しかし、相手は昼休み。きっと暇なのだろう。すぐに返信が届いた。
「冷たいぞ、飯塚? さてはお姉さまとランチデートか?」僕の先生役が三年目の独身女性であることは、山崎も知っている。そんなはずはないだろ、と怒りが増幅してきた。無視して仕事にとりかかるべきだが、このまま放っておくと面倒な噂を流されないとも限らない。請求書の数字を一行入力して僕は山崎に返事を送った。
「違うって。仕事終わってないんだ」山崎も新入社員なのだから、この状況を理解してくれるのではないか。僕はそう期待していた。しかし彼はそんな人間ではなかった。
「隠すなよ、昼のランデブー、邪魔して悪かったな」そう来たか。でもこれで山崎が大人しくなってくれれば助かる。そう思った僕は数分あけて返事を書いた。「夜にまた」
 親指を立てたスタンプが送られてきて、静寂が訪れた。先程の請求書を完成させ、ほぼコピーアンドペーストで同じような書類を量産する。なんでこんな作業くらい午前中にできなかったんだ? 急ぎの仕事とやらが入ってくるせいだ。ひとまず目標としていた仕事を終わらせた僕は一人で近くの牛丼チェーンに入り、空腹を満たした。
 昼休みが終わり、大熊さんにいろいろと直された。コピーアンドペーストなので、どれも同じところに朱が入る。大熊さんも分かっているのに、全部をまとめてダメだとは言わず一枚一枚を丁寧に添削していく。なんだか申し訳ない気がしてきた。
「すみません。僕の力が足りなくて」
「ううん、大丈夫。仕事だから。まあ、皆こんなもんだったでしょ。でもあれだね、いいとこ出の男子でも同じかあ、と思うと安心する」
 大熊さんの目を覗き見たが、これが嫌味なのか冗談なのか読み取れなかった。そして午後は発注書や売買契約書に手を付けた。僕は書類仕事が好きではないし、苦手だ。当社の製品をガンガン外国に売り込むような仕事がしたいのだ。でも書類が仕事の基本であり、根拠になることは理解している。だから今は、ここで頑張らないといけない。大熊さんにはなるべく迷惑をかけずに、しっかり学ばせてもらおう。「飯塚くん、お疲れ様。眠たそうだったね。まあ、仕方ないか」大熊さんにそう声を掛けられ、終業時間がやってきたことに気付いた。彼女の方を向いた瞬間に、また僕の右ポケットが振動した。どうせ山崎だろう。
「ん? 終わってすぐにメールなんて、彼女さん?」だったらどんなにいいかと思いながら返事をしあぐねていると、「返信、してあげなくていいの?」と大熊さんが続ける。「いや、彼女なんかじゃないですから。でもじゃあ、失礼します」と言ってスマートフォンに目をやった。案の定山崎からだった。メールを開くと、職場のすぐ近くにある居酒屋チェーンに今いるのだと書いてある。それはすぐに行かないと。
「あの、僕も今日はこれで失礼します」
「あっ、もう嘘つかなくていいのに。ご馳走様。早く行ってあげてね」
 大熊さんにそう言われ、訂正する気力もなかった僕は「ありがとうございます」と言って職場を出た。目と鼻の先にある居酒屋に入るとすぐに、一人で大ジョッキを傾けている山崎が目に飛び込んできた。
「おお、今日来るならそう言ってくれれば」僕がそう言うと、
「そんなん飯塚、お前のデートは邪魔できないし。勤務時間中はさすがに連絡できない」
 意外に真面目な面もある山崎。僕の中ジョッキが来て乾杯をしたあと、真剣な顔をこちらに向けた。
「実は、言わなきゃならんことがある」
「何だ」
「お前の先生、俺の彼女なんだ」【了】
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