第二部 4

文字数 10,634文字

 初めて戦場へ連れ出されたときのことを、彼は、百二十歳を過ぎて老衰で死ぬ間際になってもはっきりと思い出すことができた。脅しで銃を向けられていた恐怖よりも、怪物じみた、真っ黒い巨大なヘリコプターが突然空から舞い降りてきた衝撃に流されて、彼はあの夏の日、やはり突然のヘリコプター襲来に呆然としているキタハルを置いて、そのままヘリに乗り込んでしまった。これから自分は、テロリストと戦う戦場へと連れて行かれるのだということに気が付いたのは、その後のことだった。「目黒の辺りだ」、とヘッドマイク越しに彼の父親が言った。
「気を引き締めろ。ついに始まったんだぞ、戦争が」
 ヘリの中には強い夕日の、オレンジ色の光が差し込んでいた。地上は夏だったが、空を飛んでいると息がしづらいほどの激しい風がヘリの中にまで吹き込んできて、暑さを感じるどころではなかった。真っ直ぐに夕空の中を飛び続け、やがて東の空が青黒く染まっていった。黒々としたヘリが次第に空の色に溶け込んでいくのを、彼はヘリの内側から想像した。すぐそばの席には父親と、険しい顔をして真っ直ぐ前を睨む迷彩服の隊員が座っていて、周囲は相変わらず回転翼の風を切る騒音がうるさく響いていたが、何故だか彼は、その胸に寂しさが沸き上がってくるのを抑えられなかった。不安に目を泳がせながら十分間ほど空を飛んでいると、やがてヘリが高度を落とし始めた。彼を迎えに来たときと同じ様に、ヘリは道の真ん中に堂々と着地した。しかし、家の窓から顔を出して外の様子を窺おうとする付近の住民は一人もいなかった。彼は迷彩服の男にむんずと右腕を掴まれると、そのまま引きずり出されるようにしてヘリを降りた。男に腕を乱暴に引っ張られ、また同時に、後ろのヘリの回転翼が巻き起こす暴風にも煽られ、彼は駆け足になりながら小さな兵営の中に連れ込まれた。そこで男が着ているのと同じような迷彩服を渡された。
「さすがに、高校の制服で戦場に出すわけにはいかないからな」
 大人しく迷彩服に着替えたが、鏡を見るまでもなく、自分にはその特殊な衣装があまりにも似合わないことがわかって、思わず薄暗い兵営の中で一人苦笑した。着替えると、今度は蟻の行列のように何台も連なって並んでいる、緑がかったねずみ色のジープの一つに放り込まれた。数珠つなぎになっていたジープたちは、その一つに彼が乗り込むと、順番に西へ向かって出発していった。それぞれのジープには三、四人の、自動小銃を装備した隊員たちが乗っていた。彼が放り込まれたジープにも他に三人の隊員が乗っていた。隊員たちはみな彼よりも背は高かったが、意外にも肩幅については彼が一番広いかもしれなかった。彼の座った座席は、隣の隊員と肩が重なり合うほどに窮屈だった。ジープの小さい曇りがかった窓からは、未だにオレンジ色の夕日の光が差し込んでいた。太陽はしぶとく西の空にしがみついているようだった。ジープ内はむせ返るほどに蒸し暑く、車内に差し込む西日も顔を歪めるほどに眩しいはずが、しかし隊員たちはみな無表情のまま乱暴な運転に揺られていた。彼は不安げに目線を泳がせることもやめ、じっと窓の外の景色を眺めていた。やがて遠くから何重にも響き渡る銃声と、それに一瞬の区切りをつけるような爆弾の音が繰り返し聞こえ始めた。数珠つなぎになっていたジープたちはまた順番に停車していった。ついに全てのジープが止まったとき、全ての車内の無線から同時に、彼の父親の声が重々しく宣言するような形で、無情にも一つの命令を下した。
「お前が先頭だ。あとの隊員は、俺の息子に続け」
 それを聞いて彼の全身は恐怖に固まった。ジープから降りるために無理やり足を動かそうと思ったら、まるで寒さを堪えるように全身がぶるぶると震えた。隣に座っていた隊員が憐れみの表情を浮かべながら彼の肩をぽんと叩き、紫色の液体の入った、小さな注射器を手渡した。
「強力な麻酔だ。撃たれる直前にこれを左腕に打てば、たとえ心臓に弾丸が食い込んでも痛みは無いはずだ」
 彼は震えながら真っ青な顔で頷き、それを受け取った。彼が初めて降り立った戦場は、すっかり荒れ果てた目黒の商店街だった。ひしめき合うように立ち並ぶ商店はほとんどが、錆びて薄汚れた灰色のシャッターを下ろしていたが、そうする時間もなく追い立てられたのであろう商店の店先には、それぞれが扱う商品の残骸が何とも言えない臭いを放って散らばっていた。通りの真ん中あたりに沢山のトマトが散らばっていて、ほとんどが踏みつぶされ、遠くで撃ち鳴らされている銃の火薬の臭いと混じり、吐き気の催すような酸っぱい臭いを辺りにまき散らしていた。とある店の、上階の居住部分は窓ガラスが割れていて地面にその破片が散乱し、夕日を反射して危険な光を放っていた。普段日暮れ時にそこを行き交っているだろう人々は一人も居ず、商店街に街中らしい動きは一切なく、唯一動いているものがあるとすれば、遠くの方で爆弾が爆発したときの、黒々とした煙がゆらゆらと立ち上っている程度だった。彼はまだ全身を震わせ、銃も持たされていなかったが、容赦なく総勢三十人ほどの部隊の先頭に立たされた。
「始めないと、終わりませんよ」
 後ろの方で、誰かが優しい口調でそう呟いた。ぱっと一瞬、言いようのない怒りが熱い血流と共に彼の頭を駆け巡った。しかし、それは本当に一瞬だった。次の瞬間には取り返しのつかない諦念に全てを支配されていた。服の上から注射器の針を左腕に突き刺し、紫色の液体を体に押し込んだ。前方を睨み、口を真一文字に結んで、彼は丸腰のまま商店街の通りへ駆け出していった。駆け出した時に頭を過ぎったのは、キタハルの意志の強そうな横顔だった。六秒間だけ走ったところで銃声が通りに響き、彼は胸に強い衝撃を感じて大胆にすっころんだ。うつ伏せに倒れ込み、激しい銃声と共に背中に何発もの銃弾が撃ち込まれた。麻酔のおかげで一切の痛みがないことに感謝した。あの病院での人体実験の時のように撃たれた箇所はじんわりと熱くなるだけだった。その心地良い熱に包み込まれるように、彼は、さっきまでの恐怖から全身が解き放たれていくのを感じていた。朦朧とする意識の中、自分の背中が開くのを僅かに感じた。緑色の巨大なエイリアンが夕日に向かって甲高い叫び声を上げたとき、彼の体は既に死んでいた。
 彼の父親は司令として、あの巨大なヘリに乗って上空から一部始終を監視していた。顔に双眼鏡を押し当てて、自分の息子の背中を突き破って出てきた緑色の化け物が、必死になって銃を発砲してくるテロリストたちの首をその腕で刎ね飛ばし、体を引きちぎるのをじっと観察していた。司令の右手には千分の一秒単位で時間を計れるストップウォッチが握られていた。緑色の化け物が息子の背中から出たときにスタートボタンを押し、それからその化け物が、数々の銃弾や致命的な爆風を受けながらも狂った悪魔のように暴れ続けて、やがて商店街のテロリストを皆殺しにしたところで、一回目のストップボタンを押した。表示されている時間を見て、司令は目を丸くした。
「驚いたな――たった四分二十三秒で皆殺しだ」
 緑色の化け物はまだ生きていた。自分を攻撃してくる敵がいなくなり、化け物は自分の体に残っている余分な力を持て余しているようだった。唐突に甲高い叫び声を上げると、ライオンのように唸りながら長い腕と脚を振り回し、周りの商店をぶち壊し始めた。
「どうしますか、撃ちますか?」
 ヘッドマイク越しに地上隊員の怯えるような声が聞こえた。しかし、司令は首を横に振って答えた。
「いいや、撃つな。自然に止まるのを待て」
 緑色の巨大な化け物は粘液をまき散らし、唸りながら、通りを次々とめちゃめちゃにしていった。商店の閉まっていたシャッターはあっさりと突き破られた。鮮やかな夏野菜の入った段ボールが宙を舞い、色とりどりの野菜が散乱した。店先の日よけはびりびりに引き裂かれていた。惣菜屋のショーケースがレジごと放り出され、大量のアジフライがまるで生きた魚に戻ったかのように空を泳いだ。レジは地面に打ちつけられ、金属が裂けるときの独特な叫び声を上げて壊れた。化け物を下手に刺激してはならないと、隊員たちはそれに銃を向けることも禁じられていた。みな緊張に強張った同じ表情で、商店街が破壊されていくのを見ているだけだった。辺りが暗くなり、オレンジ色の西日の光が青みがかってきた頃に、ようやく緑色の化け物の体が溶け始めた。暴れながら、巨大な体が青臭い異臭を放ちながら崩れていった。ついに化け物が力尽きて倒れた後、全部が溶けて、そこにできた緑色の水溜まりの中心には、やはりこれまでと同じように裸の少年が眠っていた。そのとき、上空のヘリから双眼鏡を覗き込み、全てを見ていた彼の父親が、右手に握るストップウォッチの二回目のストップボタンを押した。表示されている時間を見て、「十分四十二秒か――」と呟いた。
「明らかに、回数を重ねるごとに長くなっているな」
 息子の彼が目覚めたのはそれから十分後のことだった。広々としているが薄暗い兵営のテントの中で、粗末な簡易ベッドの上に横になっていた。傍には父親が一人で座っていた。文科省に入省したときから使っている傷だらけの腕時計をちらりと見て、「目覚めるまでの時間は短くなっているな」と言った。彼は横になったまま、力無く父親を睨んだ。
「もうこんなのは勘弁してくれ。俺にも学校での生活があるんだ」
「学校のことなら心配ないだろう」と父親はあっさりとした様子で言った。
「もうすぐ夏休みが始まるんだから」
 結局それ以降、彼は計十七回戦場に駆り出され、その都度死ぬこととなった。確かに学校は夏休みに入っていたが、だからどうということもなかった。新人類のテロ活動が活発化したせいで、街には十年ぶりの戒厳令が敷かれていた。彼は一日中家の自室に閉じこもって、日中もカーテンを閉め切り、ずっとキタハルのことを考えていた。三度の食事は居間で摂ったが、誰とも会話らしい会話はしなかった。戦争中ではあったが、彼の父親は必ず夕食時には家に帰っていた。しかし、自分の息子を戦場へ駆り出すことがどうしても許せなかった妻の策略によって、父親はあの日以降、永遠に、薄暗い書斎で一人孤独に食事を摂り続けることとなっていた。食事を終えると食器を重ねて台所まで持って行き、黙って自分の分の皿を洗った。そのまま風呂に入り、歯を磨き、戦後からの習慣通りに暗い書斎で二時間ほど小説を書き、ベッドに入って浅い眠りについた。少なくとも家の中では、妻と息子とは隔離された生活を送っていた。しかし、どこそこで戦闘が始まったとの連絡が入れば話は別だった。「時間だ。行くぞ」と父親が言えば、息子の彼は大人しく従うしかなかった。母親は毎度、両目一杯に涙を浮かべながら、「いや! 行かせない!」とヒステリックになって泣き叫び、玄関を出ようとする息子の腕を強く掴んだが、それでも息子は、母親の手を優しく振り払って、玄関のドアをくぐっていった。「自分から行くんだよ。俺は」と母親を宥めるつもりで言った。
「彼女のためなら、俺は本気で死んだって構わないんだ」
 銃に撃たれて死んだところで、どうせまたしばらくすれば、元の自分として再び無傷で生まれ変われることは分かっていた。戦場に対する恐怖の代わりに彼の中で募っていったものは、それよりもはるかに厄介で、弱々しく、だからこそ抗いようのないものだった。
 銃弾の飛び交う戦場へ出る前に彼は必ず、撃たれたときの痛みを打ち消す麻酔として、ジープに乗り合わせるその時々の隊員からあの紫色の注射を手渡された。やがて彼はそれを、寂しげな微笑を浮かべながら受け取るようになっていたが、その微笑が、自分の父親が笑うときにそっくりであるということには、彼自身は全く気づいていなかった。彼の父親は司令として、上空のヘリコプターや、安全の確保された高い建物の屋上や、充分離れたところにある戦車の陰から、毎回の化け物の戦闘をしっかりと監視していた。左手で顔に双眼鏡を押し当て、右手にはストップウォッチが握られていた。撃たれた息子の体から緑色の化け物が出てきてから、戦場のテロリストを皆殺しにするまでの時間と、化け物が体を溶かすまでの時間を、研究者のそれに似た執念を持って正確に記録し続けた。何かが明らかになるわけでもなかった。ただそれぞれの時間が回数を重ねるごとに長くなっているというだけで、例えばその時間の長さが彼の体調や、体温や、睡眠時間などに影響されるのではないかという可能性ついても、それらしい確証は何一つ得られなかった。「俺は研究者にはなれないな」と司令は笑った。
「俺にできる唯一のことは、やはりつまらない小説を書くことだけなのかな」
 都内での戦争が激化し、家を郊外に移してからも、彼と彼の父親は必ず毎晩家へ帰っていた。日が完全に暮れてから戦場へ発ち、戦闘が終わるのが夜明け前になることもあったが、それでも彼らは戦闘が終わるとすぐに、真っ直ぐ郊外の家まで帰った。彼の母親は毎回、一睡もしないで帰りを待っていた。しかし、夫のことを待っていたのではなく、あくまで息子のことだけを待っていた。息子が帰ってくると、暑い夏であるにもかかわらず、心を冷やしてはいけないからといって毎回温かい白飯と、具のたくさん入った熱々の味噌汁を食べさせた。息子が食卓に着いている間に父親は風呂へ入り、身体から戦場の泥くさい臭いを落とし、何も食べずに歯を磨き、書斎に籠って二時間ほど小説を書いた後、家族の誰とも口を利かずに眠りにつくという生活を、まるでそれが定められた一連の儀式であるかのように繰り返し送っていた。
 息子の彼もまた、父親に逆らうことなく繰り返し戦場で戦い続けたが、そのうちに、彼の胸の内で何かがすっぽりと抜け落ちたような暗い空間が出来てしまった。彼自身にとっても明らかだったが、それは間違いなくキタハルに関する何かだった。戦争が始まり彼女と会えなくなって始めの二週間で既に、彼の競泳で鍛えられた胸筋の内側には虚しい空洞が出来つつあった。自室に籠って一人きりでいる間はもちろん、父親と共に戦場へと向かっているときや、戦場に出て、今まさに銃弾が自分の腹部に食い込もうとしているそのときですら彼は、頭の中では常にキタハルのことを考えていた。しかし、その胸の空洞が埋まることはなかった。むしろ彼女のことを頭で考えれば考えるだけ、虚しさはいっそう深まるようだった。キタハルの連絡先は知っていたが、自分から彼女へ連絡を取ろうとする度胸は無かったし、そもそも自分の心の病が、電話やメールでどうこう出来るような質のものではないということは、彼自身にとっても明らかだった。一ヶ月もすれば、ほんの一瞬ではあったが、彼女のことを忘れることもしばしばだった。心の虚しさが度を越えて、彼女に対する想いすらも薄れつつあるということに気が付き、彼は自分で衝撃を受けた。このまま俺は、戦場で役立つ化け物を寄生させているだけの、ただの機械のようになってしまうのだろうな――そう考えていたときだった。彼はもう一つの事実に気が付いた。あるとき、時間も場所もはっきりしないが、目の前で男の首が刎ね飛ばされるのを見たような気がした。続いて、自動小銃を構えていた別の男の頭を掴み上げると、そのままスポンジを絞るように男の頭を握りつぶした。その行為を本当に自分がやったのかははっきりしなかった。自分の右手に人の頭を握りつぶしたときの感覚は残っていなかったが、ただの夢の記憶とも思えなかった。この奇妙な感覚を通して、彼は一つの可能性に気が付いた。八月の下旬、天気のよい真昼時の、どうしようもない暑さの中で始まった戦闘へ参加するときに、全ては確信へと変わった。彼はいつものように紫色の液体の入った注射器の針を自分の右腕に突き刺し、液体を注射しようとした、そのときだった。
「そんなものはもういらないよ、兄さん」
 そんな声が直接頭の中に響いてきた。彼の体は緊張で固まった。震えてはいたが、どこか確信を含んだ声で彼は小さく呟いた。
「――本当かい?」
「ああ」と頭の中の声が返した。
「僕が兄さんのために、もっといい麻酔を分泌してやるさ」
 モールでテロ事件に巻き込まれて以来だったが、彼は自分の両目に、いっぱいの涙が溢れているのに気が付いた。自分の体の内に宿る弟の声を聞いて彼は、小さい注射器を地面に叩きつけるようにして捨てた。そしてそのまま、銃弾と爆弾の中にその身を突っ込んでいった。
その日以降、彼は自分の体の中の化け物とぼそぼそと会話をするようになった。いや、彼にとってはもう化け物ではなかった、間違いなく弟だったのだ。彼の父親や、さらには母親にとってすらも、双子の片割れは永遠に緑色のおぞましい化け物に過ぎなかったが、唯一双子の兄だけは、ついにそれを自分の弟として、家族の一人として受け入れることが出来たのだ。戦場において、テロリストどもを皆殺しにしている双子の弟の視点を、兄の彼は意識を持って共有するようになった。その間は兄の方で体を動かすことは出来なかったが、弟の内側から言葉を交わすことは出来た。ある戦いの最中、兄は思い切って弟に尋ねた。
「人を殺すって、どういう感じなんだい?」
「何でもないさ」と弟は答えた。ちょうど銃を撃ってきたテロリストの腹に自分の腕を突き立てて、串刺しにした時だった。ぱっと血が舞った。
「ただの現象だよ」
 双子の兄弟は親友のように日々語り合った。このことは兄弟の間だけの秘密だった。二人でそうしようと決めたわけではなかったが、自分たちが意識を共有できるようになったということを両親に教えるようなことはしなかった。家に居る間は、自室に一人でいる時も、母親と共に食事をしている時も構わずに、彼は自分の内側にいる弟とぶつぶつと会話をするようになった。周りから見れば、彼が何やら長々と独り言を言っているようにしか見えなかったために、彼の母親は、戦争で辛い目に遭い過ぎたせいで、ついに息子の頭がおかしくなってしまったのではないかと心配した。息子を心配し、その元凶と思えた夫に対してはいっそう他人のごとく接するようになった。ある日の夕食の後、ついに耐え切れなくなった妻は夫を睨み、「いつまでこんなことを続けるの?」と冷たい口調で聞いた。
「何も心配は要らないさ」と夫は、何もたいしたことはないというように返した。
「なるようになるだけだよ」
 そんなことを言いつつ、実は父親も、自分の息子の独り言が一体何に起因するものなのかについては全く見当がついていなかった。以前より予言をもたらしてくれる、新緑色の小さな蛙の置物は、相変わらず小説の種になるようなことは教えてくれはしたが、息子の独り言については何も教えてはくれなかった。しかし、母親と違って何も心配をしていないというのは本当だった。息子の精神面の健康について、親としての関心を失っているというわけでもなかった。そんなことではなく、今や自分よりも息子の方がはるかにしっかりとした人間なのだから大丈夫なはずだという、無責任とも言えるような信頼の感覚が父親の中にはあったのだ。いつの間にか、息子の背丈は父親のそれを追い抜こうとしていた。全身の筋肉に関してはもうとっくに息子の方が逞しかった。幼い頃には決して見せることのなかった、今の息子が時折浮かべる、自分自身も含めたこの世のあらゆるものを憐れむような微笑には、気付かない間に過ぎ去ってしまった膨大な時間の重みが感じられて、思わずぎくりとすることもあった。
「まだ決して大人というわけではないが――」と彼の父親は言った。
「もうそれなりの頭は持っているはずなんだ」
 両親がそれぞれそんなことを思っているなど露知らず、息子の彼は、自分の内側にいる弟との会話にぐんぐんと閉じこもっていった。体を共有する兄弟の間では、どうしようもなく全てが筒抜けだった。戦場でテロリストを殺しているときの弟が、本当に無感情のまま、自らを傷つける者に対してただ条件反射的に殺しを繰り返していることも彼には筒抜けだったし、また弟にとっても、兄がキタハルという美少女について命に関わる危険な病に冒されているということ、最近は彼女と会えていないために、精神に病的な空白が出来てしまっていることなども筒抜けだった。ある深夜に部屋の明かりを消し、ベッドに入って眠りに就こうという時に彼は突然、自分の心に抱える虚しさに耐えられなくなってしまった。涙は流れなかった。ため息も出なかった。ベッドに仰向けになると、胸の奥の方で、彼女に会えない絶望が塊となったもの、黒々とした重石のようなものがぐっと心臓に沈み込むのを感じて、そのあまりの重さに途方に暮れてしまった。「俺はどうすればいいんだろう」と弟に向かって呟いた。
「たぶん、もうすぐ全てが解決するんじゃないかな」と弟が言った。
「もうすぐって――どうしてだよ」
「もうすぐ、この戦争が終わるからさ」
それを聞いた彼はびっくりして、思わず小さく叫んだ。
「本当に? 終わるってどうして?」
「長い雨の降る予感があるからさ」と弟は返した。
「前回の戦争は長雨で敵が弱って、戦闘が終結したんだろう?」
 確かに夏も後半に入りつつあった。秋雨の季節が近づいていた。光合成によって莫大な力を際限なく得ている新人類は、空に厚い灰色の雲がかかり続けるなどして日光を長い間まともに浴びていないと、日が照っていたときに比べて極端に身体も精神も弱ってしまう――十年前の戦争の経験を通して、それは実は誰もが期待していたことだった。実際それから三日後に、もしかしたら永遠に続くとも思われるほどの大雨が全国で降り始めた。彼の父親は、その一週間前からすでにあの新緑色の蛙の置物から予言として、季節の長雨が始まることを教わっていた。だから、彼の父親は司令として極めて冷静だった。その大雨が長く続くことは確かだったが、しかしそれが今回の戦争の流れを変えることはないということもまた、事前に蛙の置物から教わっていた。「期待してはいけないよ」と司令は、外の土砂降りを見てお祭り気分で浮かれ上がっている周りの部下たちに向かって、静かに言った。
「前回の戦争を通して、奴らだって学んでいるはずなんだ」
 司令の言う通りだった。双子の弟や部下たちの予想に反し、戦況は何も変わらなかった。それどころか、以前にも増して都内のあちこちで戦闘は起こり続けた。空は灰色がかって薄暗く、強風のせいで横殴りに体を打ちつけてくる雨はまるで針が刺してくるように痛かったが、テロリストたちの大群はあらゆる痛みに顔を歪めながら、しかし全身の力を失うことなくどこからともなく現れると、所構わず銃を撃ち鳴らし、次々と象徴的な建物や道路を爆破していった。
今や彼らテロリストにとっては、曇り空が続くことは脅威ではなかったが、それは運命的というよりも、ある予定調和的な出来事があったからだった。都内で戦闘を起こしながら彼らは、都から遠く離れた千葉銚子の地に総本部を置き、幸運にも当局捜査の目から逃れていた。十年前の戦争で一度生け捕りにされたが、しかしあの庁舎の爆発事件に紛れて姿を消した例の男、今やテロ組織の最高司令官となっていたサイトウは、その銚子の総本部でテロ組織全体の指揮を執っていた。サイトウとサイトウの最も信頼する部下十数名は、テロ組織のシンパから密かに譲り受けた、廃校となっていた県立高校の校舎を兵営とし、そこに寝泊まりしていた。長雨が始まる三日前の夜、サイトウの元に腰の折れ曲がった、一人の年老いた小さな男が突然幽霊のように現れた。老人は顔中深い皺だらけで、全身の筋肉が重しと化した老人特有の、のろのろとした動きしかできなかったが、どことなく品の良さが漂っていた。老人はどういうわけか兵営の厳重な警備をあっさりと掻い潜って、最高司令官であるサイトウ専用の、暗く静まり返った校舎の一室までやって来た。ちょうどそのとき、サイトウは教室の床に置いたランプを一つだけ灯して、布団に入る前の二十分間の読書をしている最中だった。背後で誰かが部屋に入ってくる気配を感じ、サイトウは振り返った。その老人を一目見たところでそれが誰だかは分からなかった。対して、老人の方は懐かしむような表情をサイトウに向けながら、「お前は少しも変わらないな。やはり、俺が見込んだ通りだ」と言った。その老人は、十年以上前にあの怪しげな地下の集まりの中で、サイトウに自分のスーツの内ポケットの拳銃をちらりと見せつけた、そしてテロ活動の司令役に指名した、あの男だった。サイトウにとっては別に喜ばしい再会ではなかった。老人を見つめ、極めて事務的に、「何の用ですか」と聞いた。
「分かっているんだろう?」と老人は面白がるように言った。
「この戦争は、まだまだ終わらせるのには勿体ない。君たちが戦いを続けるうえでこれから必要になるものを、あちこちの拠点に送っておいたよ」
 それだけ言うと、老人は校舎の闇の中へふわりと消えていった。翌日の朝、サイトウが目覚めたちょうどそのときに、一人の部下が部屋に駆け込んできた。
「昇降口のところに、おかしな機械が置いてありますよ!」
 サイトウは慌てて起き上がった。昇降口まで見に行ってみると、そこには真っ白い、ちょうど人がひとり入れるような巨大なカプセルのような機械の箱が三つ置かれていた。初めから予感はあったが、サイトウは機械を一目見てようやく確信した。それは改造された日焼けマシーンだった。
 都内や都周辺のテロ拠点にも同じような機械が、夜の誰もが寝静まっている間に届けられていた。その機械の中に試しに入ってみたテロリストは、まるで真夏の日差しをいっぱいに浴びた向日葵のように全身に力が漲ったのは確かだったが、ただそれ以上に、皆驚くほど肌が真っ黒くなってしまった。しかし、背に腹は代えられなかった。テロ組織は日焼けマシーンをフルに活用し、長雨を乗り切った。結局、戦争は秋の終わりまで続くこととなったのだ。
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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