第一部 6

文字数 10,021文字

 彼が銃声のような音を立てながら仕事場の自室から飛び出し、部下に向かって総攻撃開始を宣言したとき、しばらく研究室に籠っていた彼の弟もまた、久々にそこに来ていた。
「ちょうどいいタイミングだね」と弟は言った。
「僕も今まさに、やつらを全滅させる恐ろしい兵器を完成させたところなんだ」
 弟はそう言うと、右手に持っていた薄汚い茶色の小さな袋を掲げた。弟は部屋の真ん中に据えられていた広いテーブルまで寄ると、そこに袋の中身をぶちまけた。それは銀色というよりは、輝きを失った後の鉄の色をした、いくつもの銃弾だった。
「ただの銃弾じゃあないぞ」と弟は目に怪しい光を湛えながら言った。
「これをやつらに打ち込んでやれば、やつらは光合成の力を失って、自分の両手足が土くれのようになって崩れていく幻覚を見ながら、痛みと恐怖に喰らい尽くされるように、ゆっくりと死んでいくんだ――」
 兄は早速、その恐ろしい銃弾を現場の自衛隊員たちの元へ送らせた。銃弾の配備ができしだい順次戦闘準備に入り、今晩の真夜中ちょうど、敵全拠点に対する総攻撃を行うという命令を都内各地の基地へ飛ばした。
 真夜中になっても激しい雨は止まなかった。暗闇の中でぬかるんだ地面の土を跳ね散らかし迷彩服を汚しつつ、顔面に浴びた泥のとてつもなく苦い味に表情を歪め、またすぐに大粒の雨でそれを洗われながら、自衛隊員たちは敵地へ突入していった。走りながら足を取られ、途中で何人もが崩れるようにして転んだ。ついに踏み込んだ敵の拠点で、隊員たちが見た光景は驚くべきものだった。敵拠点の一つ、廃墟と化していた中学校の校舎、そこの暗闇に包まれた小さな一室を一人の隊員が小さなペンライトを以てさらっていた。ひび割れたコンクリートの壁、床に転がっている錆びついたナイフ、泥まみれのブランケットなどを照らしていき、もうここには何もないかと思った次の瞬間、隊員は思わず「あっ!」と声を上げた。素っ裸の骸骨のような、ほとんど骨と皮だけの、灰色のぬめぬめとした皮膚で全身を覆われている人の形をしたものが、部屋の隅の方に三つほどまとまって、ぶるぶると震えながら小さく縮こまっていた。病気なんだ、と三つのうちの一つが暗闇の中でコガネムシのような目を光らせながら、おろおろと声を出した。
「頼む、助けてくれ」
「すまないな」と隊員は申し訳なさそうに言った。
「命令は、あくまで殲滅なんだ」
 銃をしっかり構えると、隊員は引き金を引いた。銃口から火花と共に飛び出した、あの弟が発明した悪魔の弾丸は、命乞いを続けていた異形の心臓を貫通し、さらにその奥にいたもう一つの異形の下腹に食い込んだ。骸骨じみた異形は突然の出来事に驚き、ぽっかりと口を開けた。そしてそのまま泥の地面にぐしゃりと崩れ、ぴくりとも動かなくなった。
 自衛隊員が彼らの拠点に攻め込んだとき、新人類の兵士の半数がそのような病気に罹っていた。残りの半数は人間らしい肌色の皮膚を保っていたが、しかし弱っていることに変わりはないようだった。敵の戦士の何人かは、背中から覆い被さってくるような疲労に表情を歪めながら、それでも手持ちの銃弾を全て撃ち尽くすほどの気丈さは保ちつつ、なんとか戦っていた。弾を切らした後に、銃刀を振るう気力まではさすがに誰も持ち合わせてはいないようだった。自衛隊員たちによる、都内各地での新人類の射殺は順調に進んでいった。悪魔の弾丸を撃ち込まれた者らは皆一様に両目と口を大きくぽっかりと開け、呻き声も上げずにそのままばたばたと泥の中へ倒れていった。悪魔の銃弾の発明者である、あの弟が言っていたような、「自分の両手足が土くれのようになって崩れていく幻覚を見ながら、痛みと恐怖に喰らい尽くされるように、ゆっくりと死んでいく」という恐ろしい効果をその銃弾が発揮しているようには到底見えなかった、それほどに皆あっさりとした死に様だったが、しかし、確かにその「ゆっくりと死んでいく」という恐ろしい効果は存在していた。ただし現世での話ではなく、生きるものには認識されない、生と死の間の世界での話だった。銃弾を食らった者たちは、現世の上ではただ呆気なく死んでいくように見えていたが、その実、完全に死に至るまでの短い数秒の間に、千年も続く拷問に等しい苦しみを味わっていた。雨の降り続ける夜明け頃には、もうほとんどのテロ拠点が自衛隊によって占拠されていた。庁舎のテロ特別対策室では、歴史上類を見ないほどに陰湿だったこの戦争が終わりつつあることに、喜びよりもまず穏やかな安堵の雰囲気が漂っていた。朝日が東の空にはっきりと見え、面々は、いつの間にか雨が上がっていることに気が付いた。しかしその頃にはもう、テロリストたちはほぼ全滅したとの連絡が入っていた、まさに勝利の朝日だった。雨滴の垢ですっかり汚れた窓から差し込む数か月ぶりの日の光に、司令塔の彼は目を細めた。
「ようやく終わるんだな」
 すると弟もまた朝日に目を細め、光に手をかざしながら言った。
「ああ。これでようやく、愚かな連中は皆殺しにできたというわけだ」
 弟の返事を聞きながら、しかし、これで本当に良かったのだろうか、と兄はどうしても呆然としながら言った。自分の下した命令で多くの命が奪われたことは紛れもない事実のはずだが、ただそれにしても不思議なほどに、これっぽっちの罪の意識も感じはしなかった、ただ胸の内にあるのは、途方もないほどの戸惑いだけだった。もちろん良かったんだよ、と弟はしみじみと返した。
「僕たちは、ただテロリストを皆殺しにしたに過ぎないのだから」
 部屋の窓が開け放たれ、雨の残り香とともに朝日が直接床や机に差し込んだ。穏やかさとともに、爽やかな風が辺りに漂い始めた。大臣からの祝いの電話も掛かってきたが、それでも彼は未だ、自身でも得体の知れない、すっきりしない残尿感のようなものに膀胱の範囲を超えた全身を支配されていた。もしかしたらそれはこの戦争に関する何かしらではない、それよりももっと厄介なもの、今までの自身の人生に対する後悔なのかもしれなかった。突然彼は、以前より自分が小説家になりたがっていたことを思い出した。中学二年生のあの頃から、高校、大学とかけて、頭に思い浮かんだ面白いと感じる文章を何の脈絡も無くひたすらノートに書き殴っていた、あの素晴らしい日々を思い出した。そうか、俺はもっと一途に、小説家を目指すべきだったのかもしれないな、結局俺は、何か別の仕事をしながら小説家を目指すような器量を持ち合わせてはいなかったということだが、しかしそうだとしても、俺は小説を書くことをやめるべきではなかった、収入の安定した職を辞してでも、たとえ食い物を買う金も無くなって段ボールを齧るほどの貧乏な生活を強いられたとしても、俺は自分の信じる文章を書き続けるべきだったのかもしれないな、そういう道を選んでおけば、こんな戦争の時だって俺はきっと、ありのままの自分に素直に従いながら、特に意味のない、ただ面白いだけの文章を一人で笑い、書きながら、それだけで生きていけたのかもしれないな――哀しみというよりはどこか懐かしさに近い、そんな後悔をしているときだった。若い部下の一人が、現場の自衛隊員からの報告を読み上げた。
「詳しいことは分かりませんが、敵司令官らしき人物を生け捕りにしたようです」
「生け捕りだと?」ともう一人の部下が鋭く叫んだ。
「生け捕りにしておく必要などない! 司令官だろうと下っ端だろうと、テロリストは皆殺しだ」
 しかしここで、哀れなノスタルジーに浸っていた彼は思い付いたように口を挟んだ。
「いいや、生かしておいていい。ぜひここに連れてきてくれ」
 それを聞き、弟は目を丸くして驚いた。
「連れてきてくれって――兄さん、一体何をするつもりだい?」
「別に、何をするってほどのことじゃないさ」と兄は静かに返した。
「ただ、少し話をしたいと思っただけだよ」
 生け捕りにされた敵司令官は日光を浴びる隙が与えられないよう、厳重に全身を真っ黒な雨合羽に包まれながら、腕には手錠を三重にして移送されていった。その日中に庁舎の地下の、コンクリート張りの一室が特別な部屋として用意され、捕虜となった敵司令官はそこに放り込まれた。もはや戦争の終結は確実だったが、まだテロ特別対策室は解散となってはいなかった、この時点でも未だ組織の司令塔という立場であった彼はその権限を利用し、早々に自ら聴取を始めてしまった。地下だから当然窓はない、そこでの明りは、天井の真ん中から頼りなげな細い糸で吊り下げられているだけの電球一つで、ただでさえ小さい部屋を狭苦しい範囲でしか照らせず、そこには椅子が一脚、それに真っ黒な雨合羽に身をぐるぐると包まれた若い男が大人しく座っていて、その他には机も何もない、薄暗い灰色の部屋だった。
「ひどい部屋だな」
 聴取を開始する前、彼は部屋へ入るなりそう言った。予め部下に言われていたために、彼は自分で座る用の、折り畳み椅子を持ち込んでいた。自業自得ですよ、と黒い雨合羽の男は静かに言った。その厳重に身に巻かれた雨合羽の上からでも、男の全身からは何か孤独をその身に強いるような、不思議なエネルギーが漂い出ているのを彼は一目見て感じ取った。
「まぁ、それを言うなら俺も同じさ」と彼は言った。
「俺も大勢を殺した――それより以前には自分の息子のことすら、危うくこの手で殺すところだったんだ」
 さすがに支障があるからと、電球だけはもう少し性能の良いものに変えるようにと指示を出した。二時間後には、ただ灰色コンクリート張りの他に何もない殺風景な部屋の全貌が明らかになっただけだったが、それでもちゃんと、せいぜい辺りも明るい中での聴取が開始された。彼らの会話は録音されていたが、しかし実質、それはほとんど何の意味も為さなかった。録音するに値しないような会話がほとんどだった。プロフェッショナルが行う聴取と比べて決して筋違いだったわけではないのだが、一応の聴取官役の彼がまず男に求めた話は、今回の戦争についてではなく、男の生い立ちについての話だった。出身地はどこか、そこでは何歳まで過ごしたか、その後にどこへ引っ越したか、それぞれの土地での、両親や親友との思い出話は何かあるか――小学一年生の頃のある夏の夜に、俺は父親と二人でコンビニに行ったんだ、そこで一緒に棒アイスを買った、帰り道の途中でそれを食べるようなことはしなかった、家で待っている母親と妹の分もあったから、家に帰ってから皆で一緒に食べようと、それならアイスが溶ける前に急いで帰らなきゃなと、父親と二人で並んで夜の道を走っていた、走っている最中に突然父親が、ちょっと、大事な話があるんだよ、と間に息を挟みながら声を掛けてきたんだ――そんな語りがあったとしても聞き役の彼はその、父親の言った「大事な話」の内容よりも、父親と買った棒アイスが具体的にどんな種類のものだったのかについて特に興味を示した。彼が実際に「大事な話」の内容の方をほとんど無視して、そのときのアイスの種類について尋ねると、真っ黒な雨合羽の男は何の疑問も抱かずにそのアイスの種類を正確に答えた。男の話す物語はその根幹をほったらかしにされて、末端の枝葉に向かってどんどんと一筋一筋が細かく浮き上がっていくようだったが、そのせいか、やがて彼らの間には奇妙な友情関係のようなものが芽生えてさえいたのだ。アイスについて語り合い、自分たちが子供だった頃に流行った漫画本や、テレビアニメについても語り合った。彼は久々に、あの、自身の運命を大きく狂わせるきっかけになったとも言えるテレビアニメ、「ダーウィンズ・ゲーム」について語った――あのテレビアニメさえ見ていなければ、こんなことにはならなかったのかもな、と彼はしみじみとした様子で言った。
「――俺の場合はそのテレビアニメだが、君の場合は一体、何に人生を狂わされてしまったんだい?」
 その問いかけに真っ黒な雨合羽の男は、いいや違う、と静かに首を振った。
「俺は、自分の人生が狂わされたなどとは思っていないよ――あの男の内ポケットにあった、鈍く光る拳銃を見てしまったあの瞬間に、俺は自分の宿命を悟った――全ては予め決まっていたんだ。それだけのことさ」
 真っ黒な雨合羽の男の返事を聞き、彼は自分でも驚くほどに落胆した。もしかしたら落胆を通り越し、どうしようもない苛立ちを抱いてすらいたのかもしれなかった。
「それが君の本心からの答えだというのなら、俺は非常にがっかりしたよ」
 そのまま彼は椅子から立ち上がって、灰色の部屋から立ち去ろうとした。扉へ向かって歩いて行く彼に、真っ黒な雨合羽の男が後ろから、予言者めいた様子で声を掛けた。
「悪いことは言わない、今すぐここから逃げた方がいい」
 ドアノブに手を掛け、男に向かってチラリとだけ振り返ると、彼は言った。
「心配ない。俺の身の周りで何かが起こるときには、事前に蛙の置物が息子の声でそれを教えてくれるんだ」
 全ての戦闘は終結した、次の水曜日の午後二時ごろ、テロ特別対策室の面々は新たに割り振られた仕事として、かつてないほどに陰湿だった戦争の後処理に取り組んでいた。都内の所々には、未だに敵も味方も区別のつかない死体がいくつか、みな瓦礫の隙間に挟まるようにして転がっていた。電話口からも流れ出てくるような死体の腐った臭いを意識しつつ、対策室の面々はあくまで事務的に、現場の隊員たちに向かってそれを安置すべき施設を指示していた。司令塔だった彼は戦争中のある時期と全く同じ様に、弟と共に一室に閉じこもって、何やら低い声でぼそぼそと話し合っていた。その時、僅かな一瞬だったが、若い蛙が短く叫ぶような声が庁舎全体に響き渡った。あの厄介な腰の痛みも忘れて勢いよく立ち上がった、彼は弟の腕をむんずと掴み、慌てて閉じこもっていた自室から飛び出したが、しかしもう既に遅かった。対策室の面々が仕事をしている大部屋で、彼らが椅子ごと、床から一斉にぴょんと跳ね上がるのが見えた。足元の床全体が突然真っ赤に燃え上がった。それから「どおん!」という凄まじい音がして、赤い炎とオレンジ色の光線と共に全てが視界から弾けてしまった。激しい力に身を投げ出され、真っ赤になって崩れた天井と床の間の空中を漂いながら、彼は左右から躍り出る炎に思わず目を閉じた。そのまま轟音と共に焼かれ、両手足をばらばらに投げ出されたような感覚を伴いながら、上へ下へ、右へ左へ炎の中を吹き飛ばされた。目を瞑っても、瞼の裏の闇はオレンジがかっていた。炎の熱を感じながら、本当に両手足が千切れてしまいそうで怖くなり、衝撃に吹き飛ばされながら彼はダンゴムシのように身を丸めた。頭蓋の脳を存分にシャッフルしてしまい、やがて彼は意識を失った。再び目を覚ました時、既に彼は建物の残骸から救助された後だった。外の涼しい風を感じていた。夕方になっていたが、辺りには灰色の粉塵が舞い飛んでいるせいで、空気は妙に青みがかったオレンジ色に染まっていた。地面に置かれた担架に寝かせられ、何度となく顔の周りを、忙しそうな救助隊員の足が行き交っていた。どこかぼんやりとした視界のまま曇りがかった空を見上げていた。右の脇腹が不自然に熱を帯びているような気がし、頭を僅かに持ち上げて見てみると、なんとその熱を感じる腹の辺りには何やら黒光りしている、小さな鉄片のようなものが突き刺さっていた。彼はすっかり驚いてしまった。不思議と血は一滴も出ていなかったが、それでも彼は、ああ、これのせいで俺はもう死ぬんだな、などと考えた。走馬灯すら見えてしまった。まず父親と母親の、自分が赤ん坊だった頃のとても若い姿がもやもやと、頭の中を漂う真っ白い雲の中に浮かんできた。やがて二人はさらに年を重ねて、弟が生まれた。小学校に入る前には色違いでお揃いのコップを買い与えられ、一緒にテーブルに座りながら、それで同じオレンジジュースをぐびぐびと飲んでいた。兄弟二人でテレビの前に並んで座り、笑い合いながらテレビアニメを見ていた。テレビアニメの時間が終わると幼い二人は向かい合って、将来の途方もない計画について、わくわくと心躍らせながら語り合った。どういうわけか語り合いの延長として、二人でよく新聞紙の折り込みチラシを細長く丸めて剣を作り、無邪気に笑い合いながらチャンバラ対決をして遊んだ――それから自分が孤独だった頃の記憶はなぜか飛ばされて、次に妻と、自分の息子の顔が浮かび上がってきた。三十三色の色鉛筆をプレゼントしたときの、それは、夢の中の自身ですらも気が付くほどの大胆さで美化された記憶だったが、息子の幻の笑顔が視界に蘇った。テレビ電話越しの、いつまでたっても不思議と若々しい妻の、落ち着いた口調と芯のある表情を思い出した。あまりに在り来りかもしれないが、しかしいつか親子三人で何もない休日に、一緒にどこか近所の公園にでも遊びに行って、ありふれた遊具で遊んで、繰り返される日常の中で満ち足りた笑顔を共に浮かべることが出来たら――どくん! と胸に痛いほどの衝撃を感じて、彼の走馬灯は打ち切られてしまった。風の冷たさが体に蘇って彼は突然目を覚ましていた。右の脇腹に食い込んでいた鉄片は取り除かれて、それが刺さっていた位置にじんわりと赤い血の滲んだ包帯がぐるぐると腹に巻かれていた。未だ灰色の粉塵が舞う中で、彼は無意識のうちに声を上げていた。
「俺の家族は――弟は、妻と息子は無事なのか?」
 奥さんと息子さんは、今は地方にいるはずですよ、と誰かが答えた。横になっている彼の足元で若い男の救急隊員が屈みこみながら、左手で抑えているクリップボードに英語の筆記体で何かを書き連ねているかのような勢いで、しかしおそらくは日本語の何かを書き留めていた。
「弟さんの方は、残念ながらご遺体で発見されました」
 彼の弟は、頭も含めた右半身を、二階の床と三階の天井に挟まれてきれいにすりつぶされた形で発見されていた。三日後、庁舎を爆破した犯人らしきグループはあっさりと発見された。まさに灯台下暗しだった、五人の自衛隊員がある金曜日の夜中に庁舎周辺の廃墟と化した建物たちを改めて見回っていた、そのとき、一人の若い隊員が、無人のはずのコンビニエンスストアの方から何やらぼそぼそと囁くような声を僅かに聞き取った。気付かずに通り過ぎようとしていた他の隊員たちを呼び止め、彼らは、自動扉の開きっぱなしになっていた暗闇のコンビニに踏み込んだ。戦前には多くの品物が並んでいた棚には、内戦の混乱に乗じた何者かの略奪を受けたのか何も並んではいなかった。代わりに床には、略奪者たちが奪い損ねた、あるいは捨てていった様々なもの、やたらと甘い、戦前から不人気だったスナック菓子の詰まった袋、かびの生えた削る前の鉛筆、ボールペン、小さいメモ帳、消しゴムなどの文房具、空のペットボトル、袋の中で潰れ、中身のはみ出したクリームパン、引き裂かれた少年漫画週刊誌、腐った肉まんなどが散乱していた。靴底越しにそういった雑多なものを踏む感覚、柔らかいものや固いものの入り混じった得体の知れないものを踏んでいるような奇妙な感覚を背筋に受け止めながら、彼らは店内を歩いた。店内はやはり彼らを除いて無人のように思えた。しかし、隊員の一人が店前で聞いた、ぼそぼそとした囁き声は、相変わらず、まるで建物そのものがしゃべっているかのように、自分たちはその口内に入り込んでしまったかのように隊員たちには聞こえていた。「おい!」と一人の隊員が叫んだ。その隊員はレジの裏を覗き込んでいた。全員でライトを照らして見てみると、そこには例の病気に罹った、すっかり骨と皮だけになってしまった、灰色のぬめぬめとした皮膚をした新人類のテロリストが四人、折り重なるようにして隠れていた。ぶるぶると震えながら、ぐちゃぐちゃにコードの絡みあった使用済みの爆弾の起爆装置のようなものを大事そうに抱え、意識を朦朧とさせていた。
 その後も三週間ほどかけて調査されたが、地下に閉じ込めていたはずの、真っ黒な雨合羽の男の死体はどこにも見つからなかった。当局の捜査員が、都内における紛争など気にする様子もない、色とりどりの地方の観光客に混じりながら、全国各地をじっくりと回って調査をしたが、他のテロ組織の残党はどこにも見つからなかった。テロ組織の活動は一切が鎮火していた。本来開戦の狼煙にも相応しいような庁舎の爆破が、あべこべなことに、まるで終戦の合図となったかのようだった。光合成をするテロリストたちを相手にした戦争については、この戦争の間にすっかり白髪も増えて老け込んでしまった首相によって、一応の終結宣言が為された。司令塔の役目を務め上げた彼には、脇腹の怪我を直した後、ほとんど永久的とも言えるほどのとてつもなく長い休暇が許された。今までに見たことのない、厚紙の小切手のようなものを大臣から直々に渡された。
「これがあれば一生、家族と遊んで暮らせるぞ」
 一応はそれを受け取りながら、しかし彼は、自分はこれからも官僚の仕事を続けるつもりです、と大臣に伝えた。休暇が始まると同時に彼は荒れ果てた都内を飛び出し、不可思議な重みを持つ小切手を片手に、妻と息子の疎開先へ二人を迎えに行った。一本の新幹線と四本の列車を乗り継ぎ、灰色がかった田園風景と深緑色の山々を超えて、ついに彼は妻と息子に再会した。確かに喜びはあったはずだったが、それでも彼の老け込んだ表情からはどうしても、どこか寂しげな影が消えることはなかった。弟が死んでしまったんだ、と彼は言った。
「だからというわけではないが、俺はこれから、小説を書こうと思う」
 それを聞いて妻は、「小説家になるの?」と目を丸くした。彼は、彼女の驚きを宥めるように、切なげに薄っすらと笑った。
「専業の小説家ではないよ。官僚の仕事も続けるさ――まぁ、以前までは兼業なんて無理だと思っていたけど――もう、そうも言っていられないんだ」
 終戦直後で都内はまだ荒れ果てていた。彼は例の小切手を使って都外の程よい場所に一軒家を買うと、妻と息子を連れて三人でそこへ引っ越した。息子はその家から歩いて十分ほどの市立の小学校に通った。官僚を続けながら小説を書くことを決めた彼の顔からは、その後も永遠に、寂しげな影が剥げ落ちることはなかった。朝に遠くで鳴いている小鳥の声で目を覚ますと、彼はしばらくベッドの中でぼぅとし、いつもきっかり三分後に起き上った。先に起きていた妻の用意した朝食を静かに食べ、牛乳を一杯だけ飲むと、仕事へ向かった。やはり主な業務は戦争の後処理だったが、彼の仕事はいつかと同じ様に、部下の持ってきた書類にただひたすら専用の判子を押すだけのものだった。万が一テロ組織の残党がまた行動を起こし始めたときには、緊急の対応として真っ先に彼に報せが行き、迅速に特別対策室が再編される取り決めになっていた。しかし、そんな取り決めも無用の長物のように思えた。さすがに光合成をする新人類が先の戦争で絶滅したとは考えにくかったが、おそらく今もどこかで生存しているかもしれない新人類たちは、先の悲劇を通して、少なくとも戦争の愚かさを知ったはずだった。今はただ圧倒的多数を有する旧人類からの迫害を恐れて――あるいは虎視眈々と何かの時期を待っているのかもしれなかったが――全国各地のどこそこに、静かに身を隠しているに違いなかった。そうなるといよいよ、正真正銘、彼の仕事は判子を押すだけになった。その日の仕事を終えると、彼はいつも夜の同じ時間に家に帰った。風呂に入り家族と夕食を食べて、寝間着に着替えてあとは寝るだけという出で立ちになってから、彼は書斎の机に一人座り、電気スタンドの明かりを点け、小説の執筆を始めた。腰の具合を気にしながらではあるが、執筆は毎晩夜中の二時まで続いた。その間も彼は、ずっと例の影を表情に浮かべたままだった。彼が小説家としてデビューすることはなかったが、それはつまり、彼が夢として思い出したものというのは、厳密には小説家になることではなかったということだった。弟の死を受けて意図せず甦ってしまった彼の夢とは、また性懲りも無く、人間の植物化だった。弟との思い出と共にそれを小説の中に封じ込めようとしたが、全ては無駄だった。世の流れがそれを許さなかった。先の戦争が終結してちょうど十年後、戦争からの復興もほとんど完了し、彼らの家族が再び都内での生活に身を馴染ませていた頃、新人類たちが再びテロ活動を始めたのだ。(第一部おわり。次回第二部。)
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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