第一部 5

文字数 12,039文字

 遂に立ち上がった新人類たちにとっての初めての攻撃対象は、さすがにいきなり国会議事堂、というわけにはいかなかった。記念すべき標的第一号は、新人類に対して否定的な意見を連日述べ立てていた、とある大手新聞会社の本社ビルだった。計画は緻密に行われた。ある月の火曜日の正午ごろ、曇り空のせいで辺りは妙に薄暗い中、一人の女児が大きな箱を抱えながら、オフィスビル一階の受付嬢に向かって幼い声を張り上げた。
「お父さんのお弁当です」
 大きな箱を受付に預けると、少女はそのままビルを出て行ってしまった。しばらくするとまた、同じような大きな箱を抱えた別の女児が受付にやってきて、同じように言った。
「泊まり込みの、お父さんの着替えです」
 それからも女児が続けて訪れた。結局、合計で二十四人の女児が受付を訪れ、全員が同じような大きな箱をそこへ預けていった。全ての箱にはそれぞれきっちりと宛名が書かれていた、それも家内からの手紙付きだった。受付に次々と呼び出された男たちは、こんな奇妙な偶然もあるものなのかと互いに顔を見合わせ首を傾げながら、大きな箱を受け取って自分たちの職場へと戻って行った。午後三時きっかりに、二十四個の全ての箱がまったく同時に爆発した。オフィスビルの一階から、最上階の二十四階に至るまでの全ての階でそれぞれが大爆発を起こした。一瞬にしてビルは炎の塔となった。焼け出された人々はみな道端に座り込みながら、あちこちの窓からごうごうと燃え躍る、赤い炎の熱気に乗せられ、空へひらひらと舞っていく灰をぼんやりと眺めていた。あれはかつて命よりも大事だった原稿の燃えかすかもしれないな、などとしみじみ思いつつ、まるで今まで親しげにしていた幽霊が昇天していくのを見守るような面持ちで、それを眺めていた。正確な死者、怪我人の数はすぐにはわからなかったが、ともかくそれが明確になる前に、あの、かつて人間による光合成を夢見た官僚の彼は、そのテロ事件の報せを受けて失望していた。
「例の集団がテロ事件を成功させただと! 誰もこれを未然に防ぐことは出来なかったのか!」
 後々彼が新人類との戦争における司令塔に指名される以前の話だが、少なくとも彼は、その新人類の集団の一部が何やら危険な思想を抱いているらしいということ、集団の中には地方の経済を傾けるほどの金持ち、権力者もいるらしいということなどを省内の噂として聞いていた。警察の公安も水面下で調査をしているらしい、ということも聞いていた。爆発事件が起こってからしばらくして、ある報告が上がってきた。それによれば、まったく情けない話だが、爆破事件の以前より公安はある観察対象のごみ袋の中から、明らかに当局へ向けたメッセージととれる、意味深な書きつけを発見していた、にもかかわらず警察は、その観察対象の行方を捉えることが出来ず、結果としてテロ事件を未然に防ぐことが出来なかったということらしかった。その報告は高度に政治的な力によってもみ消された。新聞社ビル爆破事件から三日後、とある組織が、正式な犯行声明をインターネット上に公開した。新人類によって構成される自らの組織を「根」と名乗り、愚かしくも彼らは、自らの実力を以て一国家としての独立を果たすと宣言していた。その宣言の中で彼らは、光合成をする新人類に対する許し難い差別行為、一人の罪のない男が殺されたにもかかわらず、その男が光合成をする新人類だったからといって、犯人には殺人罪が適用されなかった件や、政府が新人類を次々と無差別に捕獲し、非人道的な人体実験を行っていることを主張していた。
「まったく――」と官僚の彼は呻いた。
「虚実が入り乱れているな。フィクションとしての面白味はあるが、その結果が戦争となってくると、話は全く別だ」
 今までにない危機感を抱いた政治家たちは、その役回りが自分たちの生きているうちに回ってきてしまったことに対し苦々しげな表情を浮かべながら、他にどうしようもなく緊急事態宣言を発令した。特別対策室が都内某所に設置され、そこの室長として、つまりは実質の司令塔としてあの彼が、かつて人間による光合成を夢見た官僚の彼が任命されたのだった。たしかに、そこに務める官僚の中で、光合成のする人間という存在と運命的な関係性があった者と言えば、彼を除いて他にはいなかったのかもしれない。しかし彼自身は別に、光合成をする人間の専門家でも何でもないはずだった、彼はただ幼い頃からそれを夢見て、大人になってからは自分の子供たちにその夢を託そうとして失敗した、結果まともな父親にもなり損ねた、哀れな陰のような存在に過ぎなかった。そして今や、幼い頃に抱いた夢そのものともいえるような、光合成をする人間たちを、自らの仕事として殲滅しなければならない――皮肉としか言いようのない自分の運命に打ちひしがれる暇もなかった、彼はとりあえず、本物の専門家である弟に、数年ぶりに自分から連絡をとった。最後に別れたときに決定的な言い争いをしたわけでもなかった、彼の子供の、双子の片方が緑色の肌の異常な形で生まれてきてしまった、挙句その双子を一つに融合させてしまったことで、弟を責めているわけでもなかった。ただその事件以降、疎遠になってしまったことは紛れもない事実だった、彼は弟の現状を何一つ知らなかったが、それどころか、もしかしたら今回のテロ活動を起こしている「根」という集団、それを構成する、光合成をする人間たちの発生というのは、その弟が関わっているのかもしれない、などと思ったほどだった。弟の携帯電話に連絡してみるとあっさりと繋がった。「根という組織を知っているか?」と彼は電話口に聞いた。
「知っているよ。この間に声明を出した、愚かなテロ組織だろう」と弟は答えた。
「光合成をする連中だということも、知っているか?」
 知っているよ、と弟は答えた。
「そういう体質を持った連中が自然発生する可能性というのも、全く無いわけではなかったからね――まぁそれも、針の穴に目を瞑ったまま糸を通すような可能性ではあったけれどもね」
 弟の言い分としては、自分は双子の一件以降は、人間の植物化には一切取り組んでいない、ということだった。天才であるがゆえに多少傲慢な心根が、幼少の頃から長い時をかけてじわじわとその胸の内に、うっすらとした赤かびのように広がりつつあった弟もさすがに、あの双子の失敗を通して、いたずらに命を弄りまわすことの愚かさを思い知ったらしかった、しかしそのせいで、ここ数年の日々の生活は極めてつまらないものになってしまったと弟は結局、うじうじとしながら愚痴っぽく言い放った。テロ組織の退治に手を貸してほしいと彼が頼むと、弟は数年ぶりの喜びの感情に声を弾ませ、「ああ、もちろんだ!」と叫んだ。その電話で、二人は一週間後に再会する約束を交わした。しかしその再会を待たず、三日後、再び事件が起こってしまった。都心とその周りを放射状に繋ぐ、電車各線の、その全ての車両内において得体の知れない毒の霧が撒かれたということだった。不思議なことに通勤ラッシュの混雑時を狙ったものではなく、真昼と帰宅ラッシュ時の間の、半端な午後の時間に毒が撒かれたということだったが、それでもまともに霧を浴びた死者はあわせて百三十一人、霧の臭いを嗅いだせいでどす黒い血を吐き出しはしたが、しかしどうにか一命はとりとめたという者は五百二十四人にも及んだ。都内に住む人々の半数ほどは、今までの生活をあっさりと捨て去って、主な幹線道路と空港が生きているうちに、我先にという勢いで、テロの標的にはなり得ない地方へと逃げていった。
「光合成をする人間たちの活動を、何とかして止める手立ては無いのか?」と彼は絶望的な気分になりながら、予定通りに再会した弟に聞いた。
「直接連中に会ったことはないから、厳密には何とも言えない」と前置きしたうえで、弟は冷静に答えた。
「おそらくきっとあいつらも、日中に長々と太陽の光を浴びてさえいれば、一日中無尽蔵に力が湧き上がってくるんだろうね」
「そんな――無限の体力を持っている連中に、我々はどう戦えばいいんだ?」
「簡単さ」と弟は言った。
「やつら全員の心臓か脳みそか、そのどちらかに、取り返しのつかないほどの大穴を開けてやればいいのさ」
 都内の人口は半減して、街はまるで数年間ほど放置されたかのような、ぼろぼろに荒れきった有り様へと、驚くほどあっという間に変貌していった。大通りに並ぶ背の高い建物は人の出入りがほとんどなくなって、うっすらと埃を被り始めていた。車が走らなくなっても虚しく点滅を続ける信号機の光は、妙に霞んでいるようだった。さすがにコンクリートやアスファルトの地面を突き破って雑草が生えてくるほどのことはまだ無かったが、しかし車や人々の足音はすっかり消えて、安らかになった地面のずっと下の方に残っていた、まだ自然のままの土の中では、緑色の柔らかい命がゆっくりと目を覚まし始めていた。そうなれば、テロ組織からしてみればますます、遠慮なく街中で活動できるようになるというものだった。街に住む人々の運転する、色とりどりの自家用車の走る姿がすっかり消え去った道路には代わりに、機関銃をその屋根に載せた、緑がかったねずみ色か、もしくは真黒い色のジープが、ごろごろとエンジンの音を響かせながら、荒れ果てた街中の車道も歩道も関係なく走り回るようになっていた。緑がかったねずみ色のものが自衛隊のジープで、真黒い色のものがテロ組織「根」のジープだったが、都内某所の特別対策室の窓からそれらを眺める彼にとっては、どちらも同じようなものだった。片や国と国民を守るため、片や国に仇なすためとは言えど、彼からしてみれば、どちらも穏やかな日常からかけ離れた非日常を運んでくる、容赦のない悪魔の乗り物のような存在だった。未だに都内から離れない住民もいた。戦闘に関わりのない人間が表に出ることはほとんどなかったが、この国において、それぞれの自宅に十分な量の非常食、飲料水等を備え得ている家庭は少数であったという事実が露見した、食べ物や水を求めてやむを得ず外出する住民は多くいた。しかし主な戦場は都内として、街中では散発的に銃撃戦が起こっていた。あちこちを飛び交う流れ弾は容赦なく、一週間に三、四人ほどのペースで民間人の死者を生み続けた。政府側の多くの人間は、どうせこの小戦争状態はせいぜい数週間で、我々の勝利の形で終わるだろう、などと甘く考えていた。確かにこの戦争は政府側の勝利で終わることになるのだが、しかし実際には、五ヶ月間も戦闘が続いた。司令塔の彼と、彼の弟だけが正しく見通しを立てていた。敵であるテロ組織「根」は、人員数こそ自衛隊と比べれば取るに足らないもののはずだったが、しかし使用する兵器は外国の軍隊における一個大隊と比べてもまったく遜色のないものだった。特別な権力者が裏で糸を引いていることは間違いなかったし、やはり何より、光合成をする人間たちの体力は、通常の人間からしてみればあり得ないほどに、どんなに泥臭く、血生臭い戦場であっても常に有り余っていた。戦うとき、光合成をする男たちは、日を浴びながら常にエネルギー源に接続されているようなものだった。たとえ一発や二発の銃弾をその心臓に食らったとしても、彼らにとってはどうということも無かった。自衛隊の屈強なはずの男たちは、日を浴びることによって戦いながら絶えず栄養補給ができてしまう、光合成をする新人類の男たちに、まるで力士によって子供が投げ飛ばされるような勢いで吹っ飛ばされた。気が付けば銃の扱いについても、テロ活動を始める前までは戦闘に関して全くの素人であったはずのテロ組織「根」の男たちは、次第に人を殺すための道具を要領よく操るようになっていた。戦いが長引き、もともと影のような存在だった司令塔の彼は、ますますその影の暗さを濃くして、今ではかえって周りからも目を引くような存在になっていた。しかし、仕事場の奥にある小さな自室に籠ることがほとんどだったために、実際に人目を引くようなことはなかった、その彼の自室に立ち入ることが許されていたのは時々お茶くみにやってくる無愛想な庶務課のお婆さんか、それ以外はやはり、彼の弟ぐらいだった。ある水曜日の夕暮れに、彼と彼の弟は小さな部屋で向き合い、まるで他愛ないことのように、ずるずると続くこの小戦争の今後について話し合っていた。
「もう手加減をするのは面倒だ」
 彼は力無く、うんざりとした様子で言った。「もう本当に皆殺しにしてでもいいから、この意味のない戦いを早く終わらせたいんだ」
 戦争のことだけでなく、まるで自分の人生に疲れ切ってしまったような兄の様子をじっと憐れむように見つめながら、「それなら」と弟は言った。
「雨天が続いた日の、その夜に奇襲をかけ続ければいい。やがてそれが習慣となって、奇襲が奇襲とならなくなっても、日光から力を得るあいつらからしてみれば、そうされたらもうどうしようもないはずだから」
 そんなことは彼にもわかっていた。しかしそれを早速実行に移そうと思っても、不幸なことに、しばらくは雨が降りそうになかったのだ。とりあえずその後は、組織「根」の小拠点が明らかになる度に、日の明るいうちにではなく夜になってから、暗闇に紛れながらそこへ攻撃を仕掛けるようになった。全く効果が無いわけではなかったが、やはり日中に太陽の光を思う存分に浴びている新人類の男たちは、暗く冷たい夜になってからも、血と土埃にまみれながら戦うための体力をしっかりと残していた。それでも他に手のない特別対策室は苦し紛れに、夜の奇襲作戦を進言し続けるしかなかった。数週間後には、表面的な部分だけを見れば確かに、じわじわと組織「根」を追い詰めているようにも見えたが、しかし実際は、自衛隊、後方指揮の特別対策室の方もじわじわと、もしかしたら相手以上に消耗していたのだ。
「太陽さえ消滅してくれれば――」
彼は窓の外の空を見上げながら、度々そのようなことを言うようになってしまった。
「せめて雨が続いてくれれば――」
 梅雨は終わっていた。それどころか、これからますます日の出る時間が長くなるような時期だった。例年通りであれば台風が来てもおかしくはない時期だったが、なぜかこの年に限っては、台風は列島を大きく避けて、荒れた海を挟んだ隣の大陸を無情にも襲っていた。天の運にもすっかり見放された彼は、自分の人生に絶望するのにも飽きつつあった。唯一の救いがあったとすれば、以前までは全く自分の子供と触れ合うことを許さなかった彼の妻が、彼の日々底なしに気落ちしていく様子を見かねて、せめてもの安らぎのためにと、遂に彼が子供と話すのを許すようになったということだった。彼の妻と子供は、他の家族の妻子と同じ様にとっくの以前に都内を離れ、地方へと疎開していた。彼が自分の息子と話すのを許されたのもテレビ電話越しにだったが、彼にとっては、他に代えようのない喜びの時間のはずだった。息子はいつの間にか六歳になっていた。物心がついたばかりの頃はまだたどたどしかった息子の喋り方が見ないうちに随分とはっきりしていることに、彼は、自分が息子とまともに接していなかった長い時間のことを思った。息子は、物心ついたばかりの頃に、食後に家の暗い廊下で、母親から隠れて度々プレゼントをくれていたあの父親の存在を、疎開して離れ離れになった後もちゃんと覚えていた。テレビ電話の画面に映る、寂しげな笑顔の彼に向かって笑いかけながら、息子はよく他愛ない話をした。
「なんかね、こっちの町には蛙がたくさんいるよ。お父さん」
 息子が楽しそうな笑顔を浮かべてそう言うと、彼は、自分でも情けないと思いながら、しかしそんな言葉にも一々涙ぐみそうになりながら、「そうか、それはきっと、楽しいだろうなあ」と答えるしかなかった。彼の息子は、緑色の奇形となってしまった自分の双子の弟をその身に取り込んでしまっていたはずだったが、しかし何も問題なく、すくすくと育っているようだった。
「あなたやあなたの弟に似て、頭もとても良いみたいよ」
 大して嬉しそうでもなく、彼の妻はそう言った。
「まだ六歳なのに、リーマン空間がどう、とか言ってるの」
 テレビ電話越しに自分の妻とも話しながら、彼は密かに驚いていた。彼は四十代の中年になっていた。ただそうであるからには、小学校では同級生であった自分の妻もまた同じように年を取っているに違いないと思っていたが、しかしこうして画面に映る、相変わらず誰に対しても真面目な、河原に転がるつるつるとした小石のような固さの、他人行儀な表情を崩さない彼女の顔を見ていると、どうも思ったよりも彼女は老けていないようだった。もしかしたらテレビ電話の画質のおかげで誤魔化されているのかもしれなかったが、しかし年齢の割に、彼女の顔には皺やしみが少ないようだった。わざわざテレビ電話の度に化粧をしているとも思えなかったが、確かに、肌にも張りがあるようだった。黒い滑らかな髪の毛は肩の片側のほうにまとめられていて、さすがに大袈裟かもしれないとも思ったが、しかし実際、まるでその輝きは十代、二十代の女のそれのようだった――まさか、戦場となっている都内と穏やかな地方とでは、時間の流れる速さが違うとでもいうのか? 愚かな戦争とは、たとえそこで生き残っていたとしても、こうして不当なまでに、人の時間を奪っていってしまうものだったのか――しかし彼にとっては、その妻子とのテレビ電話の時間も、戦争終結を急がせる一つのプレッシャーに化けることすらなかったのだ。それどころか、自分は戦場に身を置いているがゆえに、家族と過ごすための幸福な時間を不当に奪われているのだという考えが頭から離れなくなってしまい、もういい加減、自分の人生に対して絶望することには飽き飽きしていたはずが、その感覚すら通り越して、彼は再び深く絶望するようになってしまった。自分の心の落ち込みようがあまりにも底知れないことに彼自身でも驚いたほどだったが、やがて彼の内の、幸福と不幸の重みを判別する魂の天秤が狂い始めた。幸福と不幸が、喜びと悲しみが互いに溶けあって、一瞬、取り返しのつかないほどにどろどろとしたものが彼の頭の内側に渦巻いてしまった。しかし次の瞬間には、それらはまるで清流を汲んできたかのような綺麗さで澄みきっていた。魂を洗うような、心地良い冷たさを湛えるその水に浮かぶものはただ一つ、「人生」という二文字だけだった。人生に幸福も不幸もない、喜びも悲しみもない、人生はただ人生でしかないのだという、身も蓋もないような真理を彼は実感したのだった。だからといって、やることは以前と何も変わらなかった。彼の心情に関する劇的なはずの変化は、同僚たちや、ずっと傍にいた弟にすらも一切気付かれることはなかった。相変わらず彼は、司令塔という特異な立場でありながら、あくまでも組織におけるただの歯車として、外見上は以前と何も変わらずに粛々と、日々の仕事に取り組んでいた。しかし一方で、自分はこれだけの悟りを開いてみせたのだから、何か天からの褒美のようなものがあっても良いのではないかという、期待というよりはどちらかと言うと予感に近いような、そういう救いようのないほどの浅はかさも、また同時に彼の中には残っていたのだ。そして驚くべきことに、その予感は当たっていた。遂に雨が降り出したのだ。まさに天が、彼の究極の悟りに対して優しく微笑んだかのようだった。真夏のある日、まだ外の明るい午後二時のことだった。窓の外の、視界を歪ませるような日の明るさと対照的に、テロ特別対策室の面々の雰囲気は日々の積み重なった疲労と、先の見えない将来の不安のせいで暗く冷え切っていた。しばらく雨も降っていなかったのに、その大部屋だけ不必要にじめじめとしていたほどだった。そこに突然、気象庁の若い男が息を切らして駆け込んできた。そもそも気象庁の人間などがこの部屋に来るのが初めてだったから、部屋の面々はまずその唐突な登場に驚いた。
「雨が降ります!」と気象庁の男は興奮した様子で叫んだ。
 それを聞いた誰もが一瞬、衝撃的な嬉しさで自身の心の内が騒めくのを感じた。しかしまた次の瞬間には、いやいやそんな期待などさせておいて、ぬか喜びなどさせられてなるものかと暗い心持ちで考え直した。当時の天気予報は精度の面において発展途上だった。結局、始めは誰も気象庁の男の言葉を信じなかった。それでも男は、その若さみなぎる力強さで、「見ていてくださいよ」と言った。
「次の火曜日には、一〇〇パーセントの確率で雨が降ってきますから」
 しかし火曜日になり、水曜日になっても雨は一滴も降らなかった。対策室の面々は、このような展開になったときのことを考えて予め期待はしていなかったが、やはり失意のこもった盛大なため息を口々についた。気象庁の若い男はなぜか特別対策室に常駐した。そこに居ても周囲からは軽蔑のこもった冷たい視線が投げかけられるだけだったが、気象庁の若い男は何かを言い返すわけでもなく何をするわけでもなくただ黙って、まだ幼さも残っているほどの丸い顔を、恥ずかしさと怒りと悲しみに真っ赤にしながら、じっと席に座って耐えていた。司令塔の彼と彼の弟だけが、気象庁の若い男にそっと寄り添っていた。司令塔の彼は未だに、近いうちに雨が降ることを信じていた。
「ただ、次の火曜日、というのは少し早すぎたかな」と彼は、気象庁の若い男に優しく言った。
「君の見立ては、必ずしも間違いだけではなかったはずだよ」と弟も言った。
「科学者である僕の極めて個人的な見立てとしては、おそらく、あと二日くらいかな」
 どのような根拠に基づく見立てなのかは誰もわからなかった、ただその言葉には、傷ついた気象庁の若い男に対する深い労わりと同時に、形のないはずの真理の形をしっかりと定めてそれを射貫くような、どこか明快な響きがあった。奇跡としか言いようがないが、それから二日後に本当に雨が降り出したのだ。対策室の面々は、それぞれが数か月ぶりに喜びの声をあげた。窓の外の、文句のつけようのないほどにどんよりとした、分厚い塊のような灰色の雲を見上げて、男も女も関係なく歓喜のあまりに叫んだ。さっきまで冷たい怒りと軽蔑を込めて睨みつけていたはずの気象庁の若い男にも声を掛けて、まるで全員が古くからの親友であるかのような空気感で互いに肩を組み、一緒になって窓を開け、そこから吹き込んでくる痛いほどの大粒の雨を顔いっぱいに受け、着ている上等のスーツや、机の上の書類がびしょ濡れになるのも構わずに大声で狂ったように笑い合った。対策室の一番若い職員の男が、いつかの気象庁の若い男と全く同じ様に声を上げた。
「これで遂に、やつらの力も尽きるってもんだ! 早速今夜、やつらの全拠点に一斉攻撃を仕掛けましょう!」
 まるで既に勝利したかのような、めでたい祭りのような雰囲気だったが、このようなときでもやはり彼と彼の弟の二人だけは、周囲からは完全に孤立していた、その孤独の深い海の中から、周囲に向かって静かにこう言った。
「まだまだこれからだよ。この雨は、もっと続くはずだ」
 実際、それから一週間経っても未だに雨は降り続いていた。その間、彼は自分でも得体の知れない信念に従って、何かを待ち続けていた。待っている間に彼は、いつの間にか自分の机の上に置かれていた、新緑色の小さい蛙の置物をじっと見つめていた。それが息子の声で語りかけてくるのを待っていた。来るべき時が来たらこの蛙が教えてくれると、半ば本気、半ば冗談で考えていた。その考えはさすがに弟にも話さなかった。対策室の面々も落ち着きを取り戻して、それぞれが期待と不安に胸の張り裂けるような思いを抱えながら、数か月ぶりに雨の降りだした以降は、いよいよ完全に奥の自室へ閉じこもってしまった司令塔の彼が再び動き出すのを、緊張した面持ちでちらちらと閉め切られた部屋のドアに目線をやりながら、ただ静かに席に座って待っていた。やがてさらに一週間が経った。まだ雨は降り続いていた、止む気配は全く無かった。それどころか、雨粒は目に見えてますます大きくなり、窓を打つ雨音は一層激しく、幼い子供ならともかく、部屋の中に居る大人達すらも堪えきれず、恐怖に身を震わしてしまうほどのものとなっていた。中の機械が唸るほどに空調をいっぱいに効かせても、空気はまるでそこが海の中であるかのように水を含んでいた。全く身に覚えもないのに、いつの間にかコップに水が満ちていることもしばしばだった。太陽は暗い空のどこにも見えず、まるで二週間も真夜中が続いているようだった。この特別な戦争状態においては、晴れの来ないことは本来望ましいことではあったが、しかし特別対策室の面々も次第に気分が沈んでいった。小規模ではあったが、戦闘は散発的に続いていた。大々的な戦闘は司令塔の彼によって禁じられていた。自らの陣地を守るための消極的な戦闘が都内の縁で起き続け、やがてそのような戦いも下火になっていった。現地で戦う自衛隊員からの報告は血生臭く、泥の味がし、必ずしも芳しいものではなかったが、後方指揮において戦闘地域全体を地図上で見渡す職員たちからして見れば、敵の力は明らかに弱まっていた。今に最終決戦として、敵全拠点への総攻撃が指揮されるに違いない、ともかく早く、このつまらない、じめじめとした陰湿な戦争を終わらせてほしいと誰もが思っていた。遂に、今は政府機能ごと都外へ避難している首相から、特別対策室へ直々にテレビ電話が掛かってきた。
「進捗はどうなんだ、室長」と首相は苛立たしげに聞いた。
「もうそろそろいい加減、あいつらを皆殺しにできるんじゃないのか?」
 待ってください、と彼が言うのを聞いて、周りにいた部下たちは、そのあまりの落ち着きように度肝を抜いた。彼が自国の長と話をするのはこれが初めてのはずだった。しかし実のところ、このときの彼は、今自分の話している相手が首相であるということにすら気付いていなかったのだ。
「こういうときは、焦らないことです」
 こんな文句を改めて言うことに一体何の意味があるのだという、どこか呆れたような雰囲気さえ醸し出しながら彼は言った。
「大事な決断を焦って下してしまって、私は今までの人生において、何度も後悔しているのですよ」
 再び彼が奥の自室に籠り、さらにもう一週間が経った。雨は止まず、ますます強くなるばかりで、もはや空調は無力となった。部屋のあちこちに置かれた計三十二個のコップには湿気のせいでひとりでに黴臭い水が満ちていた。仮にも政府の建物なのだからさすがに雨漏りは起きなかったが、しかしここまでくるとどちらにしろ大差はなかった。書類は、ただ机の上に置いているだけでは水浸しになってしまうので、重要な書類は一枚一枚、乾燥剤と共にビニール袋に入れて、人のいない部屋にまとめて保管しておくようになった。各々が持つパソコンもまた、乾燥剤と共にビニール袋に入れられたが、しかしやむを得ずそのままキーボードを打つときの、濡れたビニールに指先を押し付ける感覚があまりにも不快で、職員たちはパソコンを使う仕事を避けるようになった。問題が起きていたのは当然屋内だけではない、以前より荒廃していた都内では大雨による災害も起きているようだった。かつての幹線道路は、土の臭いの発する泥水と、戦闘によって流れたどす黒い血が僅かに混じったものが流れる、大きな川となっていた。もうしばらく人の立ち入っていない、廃墟となりつつあった大通りに立ち並ぶビルディングには、それぞれの壁に深く走っていた亀裂から雨水が染み込んで、頑強だったコンクリートがまるでゼリーのような柔らかさになり、もうそこに人が住むことは不可能のように思われた。街中の街路樹も根元から腐って柔らかくなり、凄まじい風雨の中でみしみしと音を立て、今にも全てが倒れそうになっていた。かつての都市は今や人の愚かさと自然の驚異が重なって、いよいよ自然のままの姿に帰ろうとしていた。戦争が終われば雨が止むという保証はどこにもない、しかしともかく、もうこんな戦争をしている場合じゃない! 人々の焦りが最高潮に達し、遂に都市も完全にその形が崩れる寸前の、断末魔の甲高い叫び声をあげ始めていた、そのときだった。突然どこからか、誰しもの腹の底まで響くような蛙の大合唱がそこらじゅう一杯に鳴り響いた。テロ特別対策室の面々は思わず席から立ち上がって、大きな部屋の壁と天井に反響して全身を包み込むような、皮膚から侵食して体内を流れる血液にまで振動を伝えるような、何匹もの重なり合う蛙の鳴き声にある者はただ驚き、またある者は不安げに、蛙の影を見つけ出すつもりで辺りをきょろきょろと見回した。しかし蛙はどこにも見当たらなかった。きっかり六十六秒間で合唱は終わった。再び訪れた静寂を、今度はライフルの撃ち鳴らす破裂音が突き破った。数人の女子が「ひゃあ」と声を上げ、身を屈めた。ところが、破裂音は実はライフルの音などではなかった。ここ数ヶ月間ほとんど閉め切られていた、司令塔の彼の自室の扉が勢いよく開かれて壁に当たった音だった。彼は開いた扉の所で仁王立ちし、部屋の面々を一人一人じっと睨むように見まわしてから、「いよいよだ。あいつらに総攻撃を仕掛けるぞ」と静かに言った。その右手には、彼以外は誰もそれに見覚えがなかった、例の新緑色の小さい蛙の置物がしっかりと握られていた。
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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