第三部 5

文字数 5,428文字

 彼の進学した中学は第二志望の学校だったが、それでも偏差値の上では都内で二番目の、十分な進学校だった。中高一貫校で、高校において成績優秀な生徒は半ば強制的にアメリカへの留学を勧められ、そこで半年間を過ごした。後の人生においても大いに役立つと思われる下品なスラングを大量に身につけ、胸を張って帰国した彼ら彼女らは、ほとんどが国内の最高学府か、アメリカもしくはイギリスの私立大学へと進学していった。
 彼がその中学に進学して驚いたことは、彼の周りの同学年の生徒達が自分とは違い、小学生時代に一切の犠牲も払わずに、そこに進学できたようであることだった。彼は中学受験において様々な犠牲を払ってきたはずだった。感じる心を失って勉強に取り組む機械へと成り下がり、孤独であることに対して過剰に意味を見出すようになっていた。しかし、彼の周りの新しいクラスメイト達は、皆恐ろしいほどに陽気だった。眼鏡をかけた色黒の小柄な男子で、中米の蒸し暑いジャングルの中を飛び交う小猿のような印象の、一際やかましいクラスの中心的人物がいて、クラスメイトの皆はいかにも自然に、楽しげに笑いながらその周りに集まっていった。彼はそれを唖然としながら見つめていた。流れに身を任せて何度かはその集まりに混じってみようともしたが、結局は諦めた。その小猿のような中心的人物を含むクラスメイトの男子達は、休み時間になると、校舎の外付け階段がある狭まった箇所に集まって、スーパーボールを投げ合う不思議な遊びに熱中していた。彼も初めのうちは何度かその遊びに参加したが、結局最後までその遊びのルールを理解することは出来なかった。ボールを使った遊びの形としては、彼が小学生時代に熱中したドッヂボールのようだったが、どうやらその遊びにはボールを体に当てる他にも複雑な設定があるようだった。何が面白いのか全く理解できず、結局彼は休み時間中も自分の席に座り、静かに一人で読書をするようになった。周りへの関心を失い、同時に自分への関心も失いつつあった。彼は相変わらず月に何回かの頻度で緑色の尿を排出し続けていたが、自分が今日排出した尿が何色だったのか、思い出せないこともしばしばだった。それは単に、数年を経て自分の性器から緑色の液体が噴出することに慣れてしまっただけなのかもしれなかったが、しかし実際のところ、たとえ自分の尿が血尿だろうが、はたまた誰もが惚れ惚れとするような鮮やかな虹色だろうが、彼自身は気が付かないはずだった。
 彼にとっての唯一の救いは、部活動の時間だった。彼は、かつての父親と同じく水泳部に所属していた。活動の場は校舎から離れたところにある、部室棟の傍の屋外プールだった。五月から十月までの間は、放課後は何も考えず、そこでひたすら鮭のように泳ぐことが出来た。中学受験の勉強を本格的に始める以前は、週に一回ではあったが、彼はスイミングスクールに通っていた。以前より泳ぐのはどことなく楽しいと感じていたが、部活で泳ぐようになっていっそう取り憑かれたようになってしまった。週に一回などではなく、ほとんど毎日泳ぐことをどうしてもっと幼い頃から取り組んでいなかったのかと後悔したほどだった。天から降り注ぐ日光に全身を晒しながら泳ぐとき、彼は自分の体に際限なく力が溢れてくるのを感じた。重い水をかいて疲労した、腕から背中にかけての筋肉は、次の瞬間には以前よりも数段分厚くなって回復していた。自分の筋肉が疲労しながら、同時に絶えず栄養補給と回復を繰り返しているとしか思えず、その奇妙な機能性に、自分の体が恐ろしく思えて仕方がなかった。そこまで来て、彼はようやく自分のことを思い出した。「そうか」と彼は練習中にふと呟いた。
「そういえば俺はただの人間ではない、おかしな力を備えた、キメラとかいう人種だったんだな」
 幸運なことに、部活動では仲間にも恵まれた。その年に入部した中学一年の男子は彼を含めて二人だけだった。同期の男子はほとんど坊主に近い短髪で、日に焼けた、海の傍に暮らす少年を思わせるような笑顔をよく浮かべていた。同学年の男子は二人きりで、必然的に深い仲にならざるを得ない状況であったことには間違いないが、将来的に彼は、その同期の男子とは高校卒業後も年末年始の時期には予定を合わせて、共に酒を飲みに行くほどの仲となるのだった。先輩たちは皆柔和だった。年下の彼らを存分に可愛がり、まるで親友のように接していた。彼は生徒手帳に記されていた校則をほぼ全文暗記し、律義にそれらを全て守ろうとしていた。下校途中の売店への立ち寄りはその中できっちりと禁止されていて、彼はその規則をも入学してからの五か月間一度も破ることはしなかった。しかし、生まれて初めて校則を破ってコンビニへ立ち寄り、そこでアイスキャンディを買う気になったのも、気を許せる同期と先輩たちに誘われたからだった。
そんな幸福な時間も十月までで終わってしまった。それは屋外プールしか持たない学校の、水泳部の宿命だった。クラスの違う同期とは会う機会がほとんど消えてしまった。帰りの方向が一緒だった先輩とは下校時に偶々出会うことがあったが、それも奇跡のようなものだった。近所には屋内プールを持つ中高一貫校があり、彼の通う学校の水泳部の中でも選抜された数人のメンバーは、その近所の学校の屋内プールで一レーンだけを借りて練習できるらしかった。しかし、力を示しつつあったとはいえ、中学一年生の彼はまだそのメンバーに選ばれるほどの実力を持ってはいなかった。部活動を失い、彼は再び一人きりの世界へと身を投じていった。休み時間は俯きながらひたすら読書を続け、その日の授業が終わるとそそくさと一人で帰宅した。たまにクラスメイト達と一緒に帰ることもあったが、それも、その時になぜ一緒に帰ろうなどと思ったのかを後に不思議に思ってしまうほどに、絶望的につまらなかった。ある冬の日、一緒に帰っていたクラスメイトの二人が、下校途中にコンビニに立ち寄ろうと言い出した。しかし彼は、水泳部の同期や先輩たちとならともかく、こいつらと一緒に校則を破る気にはとてもならないと思い、「俺は店の外で待ってるよ」と言った。クラスメイト二人はそんな彼にすっかり慣れた様子で、「わかったよ」と言い、そのままコンビニへと入っていった。数分後にはそれぞれがスナック菓子の袋を手に店から出てきたが、その後、しばらく三人で道を歩いているときに、彼は突然こう切り出した。
「俺って、なんで友達が少ないんだろう」
「お前は暗いんだよ」とクラスメイトの一人が言った、その一言に、どういうわけか彼の怒りが爆発した。
「暗いって決めつけるんじゃねぇよ!」
 彼自身にとっても予想外の出来事だったが、思わず、道幅いっぱいに響くような大声でそう叫んでいたのだ。
「お前にそう簡単に決めつけられるほど、俺は浅い人間じゃないんだよ!」
 彼の突然の叫びに、クラスメイトの二人が目を丸くした。「何なんだよ、お前」と片方が呟いた。そのまま二人は足早に去っていってしまった。
 その日の夕暮れ、彼は地元の最寄り駅まで帰り着くと、普段はそこからバスに乗るはずが、一人きりの時間を愛おしく思う気分に流されてそのまま家まで歩くことに決めた。夕日のオレンジ色に染まった街中はすでに懐かしい感じがして、時の流れのどうしようもなさを物語っているように思えた。小学校の頃の知り合いとは卒業式以来、一度も会ってはいなかった。こうして地元を歩いていれば同窓生と遭遇しても不思議ではなかったが、そのような再会の可能性に彼は一瞬胸を躍らせてしまった。しかし、すぐに抑えきれない恐怖が湧き起こってきた。この神聖な、一人きりの時間を冒されることに対する恐怖だった。しばらく歩いていると、小学生時代に元友人と立ち寄った、あの、薄気味の悪い老人が店主をしている文房具店が視界に入ってきた。特に根拠があったわけでもなかったが、なぜか彼は、もしかしたらあの老人はすでに死んでいるかもしれない、などと考えた。店は、彼が小学生だった頃と変わらずに営業しているようだった。恐る恐る暗い店奥を覗いて見ると、レジの前の椅子に座っているあの老人の店主の姿が、暗闇の中からじんわりと浮かび上がってきた。店主は傍に立っている、背の高い男の客と、何やら楽しそうに話し込んでいるようだった。それを見て彼はびっくりしてしまった。地元の小学生以外の客がその店を訪れることがあるとは思ってもみなかったし、あの老人の店主が楽しそうに誰かと話すことなどあり得ないと勝手に思い込んでいた。「あんた、気に入ったよ」と店主は、傍にいる男に向かって話しかけていた。
「俺の若い頃にそっくりだ」
 それを聞いて、男は面白そうに微笑んだ。
「実は、僕もそんなに若くはないんです。おそらく、齢もあなたとそう大して変わらないと思いますよ」
 そう言うと店の出入り口の方を振り向いた。店奥を覗き込んでいた彼を見つけると、その男は手を叩いて喜んだ。
「やぁ! 待っていたよ」
 唐突に自分だけの世界を破られた彼は、ショックから立ち直るのに数秒の時間がかかった。どんどんと近付いて来る男からじりじりと後退りながら時間を稼ぎ、その間にどうにか胸の鼓動を落ち着けようとした。目の前まで来ると、その男は子供のようにはしゃぎながら彼に向かって話しかけた。
「僕のこと、覚えているかい?」
 彼は脇の下に大量の冷や汗が流れるのを感じながらほとんど反射的に、「覚えていないです」と答えてしまった。しかし後になって冷静に考えてみても、やはり彼はその男のことを知らなかった、その男は、以前に彼も参加した、祖父の葬儀に顔を出していた故人の弟、つまりは、彼にとっては大叔父にあたるあの男だった。
「こうして話をするのは初めてだよね」と男は、子供の頃から一切変わらない、何かを企むような笑顔を浮かべて言った。
「ともかく是非一度、君の顔をちゃんと見ておきたかったんだ」
 怪訝そうな顔をする彼に向かって男は、「自分は親戚だ」とだけ言ったが、彼はそれを信じたわけではなかった。彼は真実を見極めるために、家とは反対の方角に向かって歩きながら、男と今までの人生についてそれぞれ互いに教え合おうとしたが、男は快くそれに応じた。夕日のオレンジ色の光を背中に受けて、まず彼が、今までの自分の十三年間について覚えている限りのことを話した。生まれたばかりの頃の記憶、小さな柵付きベッドに寝ている、赤ん坊の自分を覗き込む両親の顔から、小学四年生の時、学校のトイレで用を足そうとしたときに自分の性器から緑色の液体が噴出して、それを精通と勘違いしたこと、ある放課後、友人に公園へ連れて行かれ、俺たちはキメラだと教えられたこと、その後その友人とは仲違いをしてしまったこと、孤独の絶対性を悟ったこと、そして今日、大して仲の良くないクラスメイトを相手に、自身でも得体の知れない怒りをぶちまけたことなどを話した。男は微笑みながらそれを聞いていた。彼が全てを話し終えると、男は満足そうに「素晴らしいね」と言った。
「僕が期待した通りの子だよ。君は」
 そして今度は男の方が語り出した。幼い頃に兄とテレビアニメを見たこと、そのときの兄の思い付きを受けて、今後数十年にわたる、壮大な戦争の歴史を自らの手で作り上げる計画を思い付いたこと、兄を官僚にし、自分は科学者となり、人間も光合成をできるようにする薬を完成させ、兄の子供を恐ろしい生物兵器にしたこと、その後あちこちに新たな薬を仕込み、光合成のできる人間を大量に発生させたこと、さらには金持ちをそそのかし、光合成のできる新人類と、できない旧人類との戦争を勃発させたこと、戦況を操作して楽しんでいるうちに一度死んでしまったが、自分の発明した技術のおかげで生き返ったこと、タイミングを計って再び戦争を引き起こし、そこで自分の造った生物兵器としての甥っ子が存分に活躍したこと、本人も正確には覚えていないが、おそらく現在に至るまでに最低七回は死んでいて、その度に若い体で生き返っていることなどを話した。話し終えると、男は再び満足そうに「素晴らしいね」と言った。
「何もかも、僕が幼い頃に計画した通りだよ。君の存在も含めてね」
「そうですか」と彼は素っ気なく答えた。彼は再び自分の孤独な世界を取り戻していた。
「結局あなたも、独りぼっちだということですね」
「そうだよ」と男は微笑みながら返した。
「ただ僕は、神として孤独なんだ」
 互いに話し込んで歩いているうちに、二人は最寄りの駅前まで辿り着いてしまった。男はこのまま電車に乗って帰ると言った。男を改札まで見送った後にはもうすっかり時間も遅くなっていたために、彼はバスに乗って帰ることにした。一番後方の座席に座り、走るバスの振動に揺られながら、そういう時の習慣として、今までの歴史の中で死んでいった人たち、そして、やがて自分もその末席に加わるのだということについてあてもなくぼんやりと考えようとした。そのうち、うっかり居眠りをしてしまったが、ポケットに入れていた携帯電話の振動で目が覚めた。見てみると母親からメッセージが来ていた。都内で二十六年ぶりにテロ事件が起こったらしいから、遅くまで外にいないで、さっさと家に帰ってきなさいという内容だった。
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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