第二部 8

文字数 3,078文字

 目覚めたとき彼は、明るい病室のベッドに横たわっていた。傍には若い女の看護師が立っていた。クリップボードを持って、滑らかにペンを動かしながら何かをメモしていた。彼が目を開けたのに気付くと、看護師は彼に笑いかけた。
「戦争は終わりましたよ」
 そう言うと、看護師はそっと彼の肩に手を置いた。
「あなたの体の中の化け物も、ようやく死んだらしいわ――良かったわね。これであなたも、もう戦わなくて済むのよ」
「まだ死んでないよ」彼はまだ寝惚けているように言った。
「あいつは今、眠っているんだ。そのうち目覚めるさ」
 看護師は、母親のするような慈しみを表情に湛えながら、彼の肩に手を置き続けた。
「いずれにしろ、あなたはもう戦わなくていいの。やっと、まともな人間らしく生きられるのよ」
 そう言って、看護師はやっと彼の肩から手を離した。
「あなたをまともに看病するのは、これが初めてだわ」
 それを聞いた彼は、目の前の若い女の看護師が、いつかのモールでのテロ事件に巻き込まれた後に入った病室でも自分を担当していた看護師だと気が付いた。確かにあの時は、父親によって非人道的な人体実験が繰り返され、一個人としての自由も著しく制限され、その看護師と会話をすることすらも許されなかったのだった。その看護師は、まだ子供を産んだこともないほどに若く見えたが、やはり母親のような笑顔を絶やさないのを不思議に感じて、彼は思わず、「どうしてそんな、ずっと笑ってるんですか?」と尋ねてしまった。すると看護師は穏やかな笑顔のまま言った。
「あなたを相手にちゃんと自分の仕事をすることが出来て、とても嬉しいの」
 その言葉を聞いて、彼はひどく驚いてしまった。彼女の体の線は白衣の上からもすらりとしていて美しいのが分かったし、目鼻立ちもはっきりとしていた。こんなにも若くて美しい女が、相手のことを真に思いながら自分の仕事をこなし、しかもそれに純粋な喜びを感じているらしいことを、彼はどうしても信じることが出来なかった。しかし、彼女は見た目の若さからは想像も出来ないほどの穏やかさを以って、彼の看病を続けた。彼の上体を起こし、服を脱がせ、湯せんした清潔なタオルで彼の体を拭いた。服を着せると、冷たく柔らかい、きめ細かな手で彼の手首に触れ、目を閉じて脈拍を計った。脈を取り終えると再び母親のような安堵した表情に戻り、「何も心配いらないわ。夜になったら、また体温を計りに来るから」と言うと、彼の傍から離れていった。病室を出て行く彼女の後ろ姿を見つめながら、彼はまだ静かな驚きに包まれていた。それからすぐにキタハルのことを思い出して、とても奇妙な感覚に襲われた。前回とは全く異なった、二度目の運命の出会いが起こったように思われた。このときの彼はまだ十代だったために、自分の人生の中で、運命の出会いと思えるものが複数回起こるとは想像にもしていなかった。キタハルとの出会いは悲劇的な結末を迎えたが、今回の出会いはキタハルのそれとはあまりにも性質が違う、だからこそ、今回の出会いは自然な形で報われる――そんな曖昧過ぎる予感が、彼にはどうしても拭うことが出来なかったのだ。
 実際、十一年後に彼とその看護師は結婚するのだが、やはりそれも、彼にとっては必然的な出来事にしか思えなかった。予想を超えた展開は何一つなかった。彼女と深く接するようになって明らかになった、最初の印象通りの、彼女の生活における振舞いと同様に、共に過ごす日々は極めて静かだった。穏やかさが過ぎて時折気怠さすら感じるほどだったが、それすらも幸福だった。朝食にかぼちゃスープが出る度に、彼はキタハルのことを思い出したが、それも、胸の中を懐かしい風が過ぎていくような感覚に過ぎなかった。そういうときには、自らノスタルジックな気分に身を投じて思い出話でもしようと、自分の体の中で眠っている弟に向かって呼びかけてみたりもしたが、一度も返事が返ってくることはなかった。
 結婚して二年目には息子が生まれた。彼は、今は深い眠りに就いているにしても、自分の体の中には緑色の異形の存在が寄生しているのだから、自分の血を受け継いだ息子にもまた何か特異な身体的特徴が現れてしまうのではないかと心配していた。しかし彼の妻は、妊娠七か月のぽっこりとした自分のお腹をさすりながら、既に以前より母親らしかった柔らかい表情を彼に向け、ただこう言った。
「あなたと私なら、たとえこの子に豚のしっぽが生えていたって、一生愛することができるでしょう」
 その翌月に生まれた子供は、体重は少し軽かったが異常はどこにもない、健康な赤ん坊だった。小さな胸に聴診器を当てても、聞こえる鼓動はちゃんと一人分だけだった。もちろん豚のしっぽも生えていなく、ついに父親となった彼はひとまずほっと胸を撫で下ろした。それからしばらくして、彼の胸にはある熱い思いが湧き起こってきた。それは以前より噂で聞いていたような、全ての親が生まれたばかりの赤ん坊を前にして抱くような、自分の体のどの一部よりも大切なような自分の子供、新たな命の誕生を前にしたときの感動によるものなどではなかった。彼の中に在ったのはただ一つ、自分は、自分の親父のような父親には絶対になるものか、という固い決意だった。しかし彼のその決意は決して、自分の父親に対する憎しみから生じたものなどではなかった。対テロ戦争を通して様々な非人道的経験を強制されたが、終戦を迎え、十年ほどの時を経て、彼の中に在ったのは父親への憎しみではなく、むしろ同情とも言えるような感情だった。テロ組織の最高司令官サイトウが銚子の廃校校舎で倒れると、テロ組織全体は呆気ないほどの急速さで士気を失ってしまった。彼の叔父が発明した、例の呪いの銃弾が都内を乱れ飛び、ついに完全な終戦を迎えた後、対テロの司令として任を全うした彼の父親は、もう一つ前の戦争が終わったときと同様に、大臣から一生遊びながらでも暮らせるほどの特別な小切手と、永遠とも言えるほどの長期的な休暇を頂いていた。しかしやはり彼の父親は一週間ほど休んだだけで、ある雨の日に、以前までと同じ様にあの新緑色の小さな蛙の置物を持参して、暗い表情をしながら庁舎に現れた。淡々と戦後処理に関する書類にサインをし、判子を押すと、今まで通りの時間に家へと帰っていった。息子が自立して家を出て行く頃になると、妻との関係が僅かに変わっていた。息子ほどではなかったが、このときの妻もまた、夫に対しては憎しみよりも同情を抱いていた。永遠に孤独の罰は続くと思われていたはずが、しかしいつの間にか、相変わらず会話は一つも無かったが夕食は再び同じ食卓で食べるようになっていた。しかし食器の洗い、片づけはそれぞれが別々に行っていた。自分の分の食器を洗い終えると、歯を磨き、それから薄暗い書斎に籠って、机の上に置いた新緑色の小さな蛙の置物と向き合いながら、今までに一度も怠ったことのない習慣としての小説の執筆に取り組む、そんな父親の様子を、彼は時折電話越しに母親から聞いていた。憎しみはなかったが、ただやはり息子の彼としては、父親と自分とは決定的に違う人間なのだということを実感するだけだった。
「あんな親父のせいで色々と苦労したのは確かだからね――おかげで、本当の痛みを知ることはできたけど」
 彼は、しみじみと遠くの方を見つめる目をしながら言った。
「だから自分の息子には、優しさの溢れた世界で、ひたすら優しい人間に育ってほしいんだよ」
(第二部おわり。次回第三部。)

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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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