第二部 5

文字数 5,550文字

 緑色の化け物をその身に宿す彼は、長雨の間も戦場へ駆り出され続けた。彼の体に宿る双子の弟もまた、テロリストたちと同じ様に、悪天候のせいで兄の体の内側から光合成をすることが出来なくなっていたが、その問題は、庁舎の特別施設に特殊な機材を設置することで解決された。その機材とは、やはり省内の研究者が日焼けサロンで使われる日焼けマシーンを改造したもので、光合成の効率性について最適化された、疑似日光浴を可能とする画期的なものだった。それが発する紫外線の強さゆえに、ただの人間が使用するにはあまりに危険な代物だった。そのマシーンの恩恵を実際に受けるのは彼の体の中にいる双子の弟の方だけだったが、しかしただの人間であるはずの彼も巻き添えになる形で、弟のために自分の体ごとマシーンの中に入るしかなかった。マシーンを開発した研究者は不安げに、彼の父親に「いいんですか?」と聞いた。
「ただの人間がこれを使用したら、皮膚がんの発生リスクが格段に上がってしまうんですよ?」
「構わないよ」と父親は言った。
「あの息子は百二十歳になっても生き続ける。そしてがんではなく老衰で死ぬ。俺はそのことを、他ならぬ息子自身の声でちゃんと教えてもらっているんだ」
 この前まで水泳部の活動として屋外プールで泳いでいたために、彼はもとから色黒だった。これ以上肌が黒くなることは黄色人種としてあり得ないと思っていたが、しかし、マシーンの力は予想以上のものだった。体の中にいる弟の力が、溢れんばかりに漲っていくのを確かにその身で感じたが、それ以上に彼は、マシーンから出て自分の体を見たとき、自分の肌が、まるで影そのもののように真っ黒になっていることに驚愕してしまった。彼がマシーンの中に身を置いていたのは小一時間程度の間だったが、やはり何よりも、その肌の色の変化がマシーンの強力さを物語っているように思えた。
 同じようなマシーンをテロリスト側も持っていることは、日々の戦況からして明らかだった。長い間日光が地上に降り注いでいないにもかかわらず、光合成でしか力を得ようがないはずのテロリストたちは、その戦力が衰えることはなかった、それどころか激化していくほどだった。一心同体の双子はほとんど毎日戦場に駆り出されたが、それでも都内のあちこちに展開する全ての敵を抑え込むことは難しかった。十年前に彼の叔父が開発した、対新人類用の、あの呪われし銃弾を装填した銃を持った部隊が、都内のあちこちに同時展開して何とか事態に当たっていた。この戦争が年内に終結するか否かも五分五分だという、とある著名な批評家の意見がインターネット上に掲載されたが、今更そんな意見が著名人から発せられたところで何の意味もなかった。陰湿極まりないこの戦争の終わりが見えないことは、改めて指摘されるまでもなく、その肌に纏わりつくような湿気から誰もが身に染みるように感じ取っていた。
 キタハルと顔を合わせられるようになる時期が先延ばしにされ、彼は失望を重ねた。自分の内側の、これ以上ないというほどの奥の方に閉じこもり、体の内にいる弟とすらもあまり会話をしなくなってしまった。心配した弟は何とか兄の心を開こうとしたが、無駄だった。「兄さん、自分から彼女に連絡してみたらどうだい?」と弟が気つけのつもりで聞いてみても、兄は、「そんなことをしても無駄なだけだよ」と腑抜けたように答えるだけだった。
「俺は彼女に必要とされていないんだ――悲しいけれど、今や俺にとっても、彼女は必要ではないのかもしれない」
 以前のような、お互いの腹の内を語り合うような兄弟の会話はすっかり無くなってしまった。結果、外から見た彼の独り言は減った。それを受けて彼の母親は、息子が再び正気を取り戻したのかと思い一瞬心の底から安堵したが、しかしすぐに、以前よりも増して彼の気が落ち込んでいることに気が付いた。これは独り言が治ったのではなく、その段階を超えてしまったということであって、息子はついに、取り返しのつかない自死という行為に踏み出しつつあるのではないかという考えに思い至り、余計に心配を募らせることとなった。双子の弟に負けず劣らず、彼の母親もまた、閉じ切られた彼の自室のドアに向かって声を掛け続けた。「たまには、居間で一緒に話さない?」と母親は優しく呼びかけたが、彼はドアの向こうから聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で、「いや、いいよ」とぼそぼそと答えた。
「もう少しで、自分の心を失くせそうな気がするんだ」
「だめよ、そんなの!」と母親は叱りつけるように言った。
「たとえ何があっても、感じる心を失ってはいけないわ!」
「夢だよ」と彼はドアの向こうから静かに答えた。
「人の心なんて、もともと夢みたいなものなんだよ。あって無いようなものなのに、どうしてもそれに囚われてしまうんだから――まるで呪いだね」
 彼は、自室にいる時はほとんどベッドに横になっているだけだった。真に意識を失って眠っている間が唯一の幸福の時間だった。日に三度の食事は、いつの間にか二度の食事になっていた。腹が空いたら居間に降りて、テーブルの席に着いて何かを食べた。その様子を母親は、テーブルの向かい側に座って心配そうにじっと見つめていた。母親の見つめる彼はすっかり廃人のようになってしまっていた。黒い髪は長く伸びてぼさぼさで、口の周りには髭が生えっぱなしだった。そのせいでいっそう頬がこけているように見えた。さすがにものの食べ方を忘れることはなかったが、それでも、もぞもぞと口を動かして噛んでいるうちに、つい今しがた、自分が口に入れたものが何だったのかを忘れてしまうことはしばしばだった。しかし、救いは突然訪れた。夕食を終えて暗い自室に戻ると、ベッドの上に置きっぱなしにしていた携帯の、着信を告げる、米粒のような小さなライトが白く点滅しているのが目に入った。何も期待は無かったが、メッセージの送信元を見た彼の心臓はまるで馬に蹴られたかのように跳ね上がった。「彼女からだ!」と彼は叫んだ。
「彼女が、助けを呼んでいるんだ!」
 一旦落ち着かせようとする弟の声を無視し、彼は自室から飛び出した。ドアが壁に当たる激しい音が家中に響き渡り、台所で食器を洗っていた母親は小さな悲鳴を上げた。居間を突っ切って猫のように玄関へ走っていく息子の残像が目に入って、母親はエプロンで手を拭きながら、慌てて自分も玄関へ向かった。「どこへ行くつもりなの?」と驚きながら聞いた。
「もう、夜も遅いのよ」
「別に何でもないよ。ちょっと彼女のところへ行ってくるだけさ」と彼は興奮を抑えようと努めながら、靴を履いて言った。
「だめよ」と母親は強い口調で言った。
「今は戦争中なのよ。夜に出歩くことがどれだけ危険か、分かっているでしょう?」
「大丈夫だよ」と彼は言った。
「俺は死んでも甦るからね」
 そう言うと彼は、母親の止める隙も与えず玄関を飛び出していった。永遠に続くと思われていた雨はいつの間にか止んでいた。雨上がりの後の、それでも未だ水中にいるかのような湿気の中を突っ切って、彼は街を走っていった。外は月もなく真っ暗だった。道に等間隔に立っている街灯の光だけが駆けていく彼を一定の間隔で照らし出し、その時だけ彼を世界に浮かび上がらせていた。彼の体は真っ黒に日焼けしていたから、その灯りさえなければ彼は完全に夜の闇に溶け込むことができた。一ヶ月分の雨でできた水溜まりを跳ね散らかし、ズボンの裾がびしょびしょになったが、彼の興奮はそれでも収まるところを知らなかった。無我夢中で夜の街中を駆けていく彼の頭の中では、弟が必死に呼びかけていた。
「兄さん、一旦冷静になるんだ」
「冷静かどうかなんて関係ないさ!」と彼は、数ヶ月ぶりに笑いたくなりながら答えた。
「キタハルが俺に助けを求めているんだ! こんなはっきりしたことを前に、冷静になる必要も無いだろう?」
 戦争の激化を受け、彼女もまた郊外に疎開していることは知っていた。彼女の暮らすアパートの住所も部屋番号もちゃんと把握していたが、彼の自宅から彼女の家までは少なくとも直線距離で八キロ以上はあるはずだった。市民の使う電車もバスも郊外とはいえ、あちこちで起こる戦闘のせいでほとんどが運休していた。電車の駅を見つけると、あとはひたすら線路に沿った道を無我夢中で走り続け、午前二時になった頃、彼は難なく彼女の家の最寄り駅まで到達してしまった。そこで彼はようやく、自分のこの行動の馬鹿馬鹿しさに気が付いた。突然言いようのない不安が腹の底から沸き起こってきたが、今さら引き返しようはなかった。そこからも不安を抑えて走り続け、空のまだ青みがかる前の真っ暗な頃、午前二時半に、ついに彼女の暮らすアパートに到着した。彼女の苗字の表札を確認し、それからドアベルを鳴らすとき、彼の胃は恐怖でぐねぐねに捩れてしまっているようだった。しかしドアが開いて、彼女が両目に感謝の涙をいっぱいに溜めて出迎えに来たとき、全ての不安は吹っ飛んだ。「ありがとう」と彼女は泣き声で言った。
「来てくれて本当にありがとう。夜中に呼んだりして、ごめんなさい」
「別に、何の問題もないよ」と彼は言った。
「夜の街も、走ると案外気持ちいいものなんだと知れたからね」
 それを聞き、彼女は青白い頬をますます涙で濡らした。そして彼の手を握って言った。
「お母さんが死んだの」
 彼は狭い玄関を通り、暗い部屋の中へと案内された。母子二人暮らしの小さな部屋だったが、明かりが一つも点いていなかったせいで内装はよくわからなかった。アパートの傍に立つ街灯の明かりが、薄いカーテン越しに部屋に差し込んでいるだけだった。襖の開け放たれた和室に布団が敷かれ、そこに彼女の母親が横たわっていた。明かりの乏しい暗闇の中で彼はその女性をじっと見つめたが、自分の見ているものが現実とは、すぐには信じることが出来なかった。以前より、彼女の母親はヤンママである、具体的には三十一歳であるという噂が流れていることを彼は知っていた。しかし、見た目にはその真偽を判断することすら出来なかった。その女性は仰向けになってぼさぼさの長い黒髪を枕の上に広げてはいたが、そうでなければまさに骸骨そのものだった。髪の毛は額の辺りがほとんど禿げあがっていた。両目は顔の奥まで落ち込み影になっていた、頬の肉はナイフで抉られたかのように削げ落ちていた。暗い中でもぼんやりと浮かび上がるような灰色の皮膚が、薄く骨格を覆っていた。両目が窪んでできた二つ影、薄く開かれた口の中の影、灰色の顔の中にぽっかりと空いている三つの影が、まるでこの部屋の全てを飲み込もうとするブラックホールのように思われた。体の上には、おそらくこの部屋で最も厚手の毛布が掛けられていたが、胴や、両手足のマッチ棒のような細さは誤魔化し切れていなかった。「病気だったの」と彼女は言った。
「お母さんはね、新人類特有の病気だったの。新人類の何割かは、長い間日光を浴びられないと、このように骸骨のようになってしまうの」
「君は違うの?」と彼は恐る恐る聞いた。
 キタハルは目に涙を浮かべながら、首を横に振った。「私は病気にはならないわ」と言った。
「でも十年前の戦争のときは、この病気で何人もの新人類が死んだんだって」
 暗闇の中で、彼女は再び彼の手を握った。そして涙で濡らした瞳でじっと彼を見つめ、こう言った。
「お願い、私をここから連れ出して」
 ここで悲しみに暮れながら一人で生きていくのはとても耐えられない、この戦争もいつ終わるものかわからない、今にもあらゆる不安に押し潰されそうで、いっそ台所から包丁を持ち出してきて、そのまま自分の首に突き立ててしまいたい――ただ一つ、私が自分の命を繋げるためにできることがあるとすれば、それは都外に住んでいる、今や唯一の親戚である伯父の元に身を寄せて、少なくともこの戦争の終わるまでは、家族の血に守られながら大人しく暮らしていくことだけだ――彼女はそう話した。
「わかった」
 彼女の話を聞いた後、彼はすぐにそう返事をした。体の中の弟が何かを言った気がしたが、兄は聞く耳を持たなかった。
「引き受けるよ。今すぐに、一緒に伯父さんのところへ行こう」
 キタハルの伯父は千葉の銚子に暮らしているらしかった。彼女も新人類である可能性がある以上、通報される危険を考えれば、下手に誰かの手を借りるわけにもいかなかった。電車やバスの公共交通機関はあちこちで起こる戦闘のせいで停止していたし、彼も彼女も車の運転方法は知らなかった。自分の母親が生前乗っていたスクーターがある、とキタハルが言った。彼はスクーターにも乗ったことはなかったが、彼女の前だからと見栄を張って、それなら何とかなるかもしれない、と言ってしまった。一ヶ月以上の雨に晒されたせいでボディ全体は色褪せ、タイヤは泥まみれになっている、薄汚れた灰色の小さなスクーターだった。何もわからない彼は、取り敢えずキタハルから渡されたキーを差し込み、回してみたが、スクーターは無情にもうんともすんとも言わなかった。冷や汗をかきながらハンドルの傍にある赤い、四角いボタンを押してみると、ようやく軽いエンジン音が響きだした。未経験による不安よりも、エンジンをかけることが出来た、ただそれだけのことに対する感動が彼の中で勝ってしまった。ここでもまた、父親譲りの例の蛮勇が発揮されてしまった。その見た目、大きさからしても明らかに二人乗りのできる機種ではなかったが、気にする者は誰もいなかった。彼はキタハルを後ろに乗せると、まだ暗い、夜中の街へと走りだした。
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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