第三部 2

文字数 9,166文字

 六月のある水曜日、彼と友人は下校途中にその文房具店へ寄っていた。店先にしゃがみ込み、以前よりそこで腹ばいに寝そべっている黒猫の背を、二人で機械的に撫で続けていた。そうしていれば、家に帰ると待ち受けている塾の問題集の存在を一時忘れることができた。気が付けば五分間ほど無心で猫を撫で続けていた。彼は不意に尿意に襲われ立ち上がった。店の中へと入っていき、暗い奥で新聞を読んでいた店主の老人にトイレを貸してもらえないかと頼んだ。老人は黙って頷くと、店のさらに奥の方を指差した。彼の友人が腹痛を起こしてこの文房具店に駆けこんで以来、彼らにとってここは、共用トイレの役割も果たしていた。そこで売られている文房具は一度も買ったことはなかったが、老人は一切文句を言わなかった。共用トイレとして利用されていても何も言わず、ただ黙って、少年たちの気まぐれな尿意と便意に付き合い続けていた。
 その日の彼の尿は二ヶ月ぶりに緑色だった。自分の性器からほうれん草ジュースのような、鮮やかな緑色の液体が迸って薄汚れた便器に勢いよく当たるのを見たとき、彼は小さくため息を吐いた。その色が異常であると知りながら、自分の体のために何も出来ない己の無力さをひしひしと感じたが、もはや彼はそれを受け入れていた。緑色の尿が切れると、そそくさとズボンにそれを仕舞って、蛇口を思い切りひねってもちょろちょろとしか流れない水で手を洗い、彼はトイレを出た。老人の元へ戻って礼を言うと、老人は片手を挙げるだけで応えた。そして広げていた新聞を畳むとレジの上に置き、椅子からのっそりと立ち上がった。立ち上がった老人は思いのほか身長が高かった。ひょろひょろと全身が細長く、店内が暗いせいでまるで骸骨が立ち上がったように見え、彼は思わず目を見開いたが、老人は少しも意に介さない様子で、黙ったまま今度は自分がトイレへと向かった。彼は、未だ店前で猫を撫で続けている友人の元へ戻った。その後もしばらく猫を撫で続けていたが、老人がトイレから戻ってくる様子は一向になかった。いくら周りに人気が無いにしてもさすがに店内に誰もいないのは不用心だろうし、普段から世話になっている恩もあるので、彼と友人は老人がトイレから戻ってくるまでの間、店前で粘っていることにした。しかし、いくら待っても老人は戻ってこなかった。まさかとは思うが、あの爺さんはトイレで意識を失ってしまったのではないだろうな、救急車を呼んだ方が良いのでは?――ずっとしゃがみ続けていて足も痺れてきた、充分過ぎるほどに待ったし、もういい加減帰ってもバチは当たらないんじゃないかと二人で立ち上がったときに、ようやく老人が戻ってきた。元いたレジ横の椅子に座ったが、新聞は取り上げなかった。店の奥から今までに見たことのない、気味の悪い薄ら笑いを浮かべて、じっと少年二人の方を見つめていた。トイレから戻ってきた老人の両目は笑いながら、暗闇の中で奇妙な輝きを湛えているように見えた。
「夏草の匂いがしたよ」
 店の奥から老人がそう呟くのが聞こえ、彼はぎくりとした。慌てて隣にいた友人の方を振り返った。友人は彼の方をじっと見つめ返し、落ち着いた様子で言った。
「さあ、もう帰ろうぜ」
 二人は店を後にした。友人はずっと黙ったままだった。このまま何事も無く終わるかとも思ったが、そうはいかなかった。友人が恐ろしく真剣な面持ちで、「ペンギン公園へ寄ろう」と言い出した。彼は黙って頷くしかなかった。二人の自宅へ続く道を逸れ、脇道へ入った。ペンギン公園には別にペンギンにまつわる何かがあるわけでもなかった。ほとんど空き地と様子の違わない土地に、小さな砂場と、その傍に二人掛けのベンチが置いてあって、他には水飲み場と、青色とオレンジ色で着色された、錆びついたブランコが置いてあるだけの公園だった。子供が走り回るのに十分な広さもなかった。そこを訪れる小学生、中学生、場合によっては高校生、大学生、さらには社会人も深夜には訪れたが、彼らは大体二人組で、砂場の傍のベンチに腰掛け、深刻そうな表情をして何かについて話し込んでいた。彼は、これから自分たちがそういう状況に陥る未来を想像して、胸の奥がむず痒くなるのを抑えられなかった。どうにかしてその未来を回避しようとあれこれ手段を考えたが、どの手段を実行に移したところで未来を回避できないばかりか、一層むず痒い気分を味わうだけだとわかり、彼は覚悟を固めた。空き地のように殺伐とした公園に辿り着いたとき、日は既に暮れかかっていた。普段より大分遅い時間になってしまった。何時に家へ着いても、帰宅してからこなさなければならないテキストの問題数が変わることはなかった。母親の笑顔が生むあの恐ろしい呪いによって、夕飯が出来るまで机に縛り付けられ、夕飯を食べ終わった後も、その日のノルマが終わるまではずっと問題を解き続けなければならない。友人も似たような立場であるはずだったが、しかし友人は、そんなことを気にしている様子などは一切見せなかった。彼にはそれが不思議でしょうがなく、ひょっとしたら不幸な目に遭っているのは世界で自分一人だけなのではないかという孤独な考えが頭に浮かんできて、言いようのないほど深い悲しみに襲われた。夕暮れの中、オレンジ色に染まった公園で友人はベンチには座らず、そこに、背負っていた黒いランドセルを放った。彼もその隣にランドセルを下ろした。それぞれ肩の辺りに違和感を抱くほどの身軽さで、二人は、限界まで影の伸びる狭い公園の中で向かい合った。友人が静かに言った。
「実は俺も、緑色の尿が出るんだよ」
 始め彼はその言葉を信じなかった。実際には、このときの彼は深い悲しみと諦めに支配されていてそれどころではなかった。友人は、「証拠を見せてやるよ」と言った。公園のど真ん中でズボンを下ろして立ち小便を始めるのかとも思ったが、そうではなかった。代わりに友人は上着を脱ぎだした。友人は彼よりもかなり痩せていた。ほとんどあばらが浮き出そうになっている、白い肌の貧相な上半身が顕わになった。そして友人は自分のランドセルの元へ駆け戻ると、そこから筆箱を取り出し、その中から、算数の図形の勉強で用いる、円弧を描くためのコンパスを取り出した。友人はコンパスの針を裸の胸に当てて言った。
「ちゃんと見てろよ。手品でも何でもないからな」
 友人はそのまま自分の胸にコンパスを深々と突き刺した。さっきまで自分の内側に渦巻く絶望に囚われていた彼はそこでようやく、目の前の友人に注意を向けた。目を見開き、「おいおい」と呟いた。
「大丈夫かよ」
「ああ、何の問題もないよ」
 友人は薄ら笑いを浮かべて答えた。コンパスは白い胸の真ん中辺り、ちょうど心臓がある辺りにぐっさりと突き刺さっていた。針のついている方の脚は完全に友人の胸の中に埋め込まれてしまっていた。間違いなく心臓は貫かれていたが、どういうわけか血は一滴も流れていなかった。苦しむ様子もなく、口から血を吐き出す様子もなく、友人は飄々と笑ったままだった。
「心臓なんてただの動く飾りさ。俺たちキメラにとってはね」
 そう言うと唐突に右腕を掲げた。友人の右腕の皮膚はいつの間にか、薄っすらと緑がかっていた。緑色はどんどんと濃くなっていき、やがてエイリアンを思わせる深緑色になった。色だけでなく、形もみるみるとエイリアンのそれのように変わっていた。脂肪が落ち、金属のような質感の、緑色の筋肉が皮膚のすぐ表面にまで浮かび上がってきた。指先が鋭くなり、牙のような爪がみきみきと音を立てながら生えてきた。まさに、深緑色の悪魔の右腕とも言うべきそれが完成した。友人はその右腕で自分の胸に刺さったコンパスを引き抜くと、そのまま片手で金属製のコンパスを握りつぶしてしまった。彼に向かって掌を開いて、ぐにゃぐにゃになった金属の塊を見せつけた。
「これが俺たちの力だよ」と友人は誇らしげに言った。
「お前、新人類だったのか」
 彼は驚きながら言ったが、友人は、「違うよ」と鼻で笑いながら返した。
「新人類なんてしょせん中途半端な連中さ。あいつらは光合成によって得られる大量のエネルギーの、せいぜい四割しか使いこなせていないんだ。俺たちは新人類よりもはるかに優れた、キメラと呼ばれる存在だよ。この世に俺とお前しかいない、緑体生物兵器と人間の遺伝子を組み合わせた結果生まれた、新人類をも超えた究極の人類さ――緑色の尿がその証だよ。ただの新人類の尿は、旧人類のものと同じだからね」
 そう言うと友人は、ぐにゃぐにゃになったコンパスを惜しそうに見て、「ついやっちまったぜ」と小さく呟いた。血の代わりに僅かについていた、緑がかった透明の粘液を傍にあった水道で洗い流し、折れ曲がったコンパスを元の形に戻そうと頑張っていたが、完全に元には戻らなかった。そうやって頑張っている間も、友人の右腕はエイリアンのような悪魔の腕のままだった。夕日をてらてらと反射し、ワイヤーのような筋肉の筋の一本一本が浮かび上がっている薄気味悪い緑色の腕から、彼は怖いもの見たさで目を逸らすことが出来なかった。歪に曲がったままだったが、どうにか円弧は描けそうな形にまで戻したコンパスをしげしげと見つめ、「まぁいいか」と呟いた、その瞬間に力が抜けたのか、悪魔の右腕が、貧相な子供の細く白いそれへと「すぅ」と戻っていった。友人はコンパスを筆箱に仕舞い、痩せた胸には自分で開けた蟻の巣のような小さな穴を残したまま、そそくさと上着を着た。ベンチに置いていたランドセルを背負うと、そのまま何事も無かったかのように二人で普段通りの帰路へ戻った。特別な話は何もしなかった。正確には彼はずっと上の空で、友人が何かを話しかけてきても、ほとんど聞いてはいなかった。彼の胸の中では、不安とも期待ともとれるような感情の流れが激しく渦巻いていた。親が今まで隠していた、自分の体についての秘密がようやく解けたが、しかし自分がついにその秘密を知ったことを親に知らせようか知らせまいか、彼は真剣に頭を悩ませていた。全てが明らかになったことによって、またそのことを自分の親に知らしめることによって何かが劇的に変わる予感がしたが、それが良い方向なのか悪い方向なのかについては、彼の中では一つの予想もつかなかった。結局、夕暮れの中の帰り道で彼はずっとそのことについて考えていた。友人と帰り道が別れるときも自分の思考に夢中になっていて、ろくな挨拶もせずにそのまま別れてしまった。一人きりになって俯き気味に、夕日のオレンジ色に染まる足元のアスファルトに視線を流し帰路を歩きながら、彼はますます自分の中の、堂々巡りの途方もない考えへと入り込んでいった。ある一瞬には、自分が新人類をも超えたキメラと呼ばれる存在であるという衝撃的な事実を発端とした、ハリウッド映画並みのアクションドラマ的な未来を予想してしまい、自分が物語の主人公になったかのような興奮と緊張で柄にもなく心臓が高鳴ってしまった。ついに自宅玄関のドアまで辿り着いたとき、彼の鼓動は最高潮にまで達していた。しかし、玄関のドアを開けて家の中に入ったとき、全ての興奮はあっさりと消え去ってしまった。彼の間もなくの帰宅を予知していたと思われる母親が例の笑顔を浮かべながら、すでに玄関の前で待っていたのだ。
「お帰り。随分と遅かったわね」
「ああ、ちょっと――」と彼は口ごもった。「ちょっと、色々あったんだ」
「あらそう」と母親は笑顔のまま、しかし一切の感情を込めないで言った。
「ともかくさっさと手洗いをして、勉強を始めちゃいましょう」
 そう言ってそそくさと台所へ戻っていった。彼は口を開きかけたが何を言う隙も与えられず、思わず愕然としてしまった。さっきまで自分の中で渦巻いていた興奮と緊張が跡形もなく消えていて、目の前の現実の持つ、ちょっとやそっとのことでは揺らぐことのない途方もないほどの頑強さに、彼は為す術もなく屈服させられてしまった。靴を脱ぎ家の中に上がり、自分の部屋にランドセルを置いて手を洗いに行き、部屋に戻ると天井の電灯のスイッチも入れず、机に座って、暗い中で机の上のスタンドの明かりだけを点け、国語のテキストの問題を解き始めた――自分はキメラなのだ、やはり自分はとても特別な存在なのだと頭の隅の方で考えながら、やはり現実はあくまでも現実だった。明日までに解かなければならない問題数は不変であって、その事実は彼がキメラであるという以前に、紛れもない世の中の基盤として存在していた。帰り道ではりんごほどの大きさに膨れて跳ね上がっていた彼の心臓は、今やしおれた風船のようになってほとんど動きすら止めているようだった。彼は極めて冷静になりながら、受験生としては理想的な形態とも言える、問題を解くマシーンと化して黙々と鉛筆を走らせ続けた。
 しばらくして夕飯に呼ばれても、彼は何もしゃべらなかった。母親は今日の学校でのことをあれやこれやと聞いてきたが、彼は箸を動かして勉強と同様に黙々と食事を続けながら、機械的に答え続けた。肉じゃがを食べ、白飯を口に運び、ずずっと味噌汁を飲み、ほうれん草の胡麻和えを食べ、コップから麦茶を飲んだ。これをひたすら繰り返した。驚くほどのスピードで彼は夕食を食べ終えた。あまりに速かったために普段から動じない母親もさすがに驚き、目を丸くした。彼はさっさと食器を台所へ片付けると、居間のソファにごろんと横になった。母親が、「いつから勉強を始めるの?」と聞くと、彼はまるで機械のように、「今日の分はもう全部終わったよ」と答えた。
「本当だね。前に母さんが言っていた通りだ――まるでたがが外れたみたいに、急に全部がすっきり分かるようになったよ」
 それはつまり、彼が小学生にして、感じる心を封じ込める術を身につけたということだった。その術は、かつて彼の父親が高校生の時に、戦時中の、キタハルに会えない苦しみから自らを解き放つために手に入れたいと願って、ついに手に入らなかったものだった。おかげで彼は、その後もあらゆる苦しみを苦しみと感じることなく、淡々と過ごすことが出来るようになった。学校の、中学受験をしないクラスメイト達がくだらない幼稚な話で楽しそうに笑う声は、彼にとっては完全に別世界のものとなった。塾のテキストの、どうしても解けない問題にぶち当たったときには、彼はその都度自分のことを殺すことにした。こんな問題も解けない過去の自分には一切の価値もなく、心から全てを捨て去る必要があった。それを繰り返すことによって、彼は信じられないほどに急激に成績を伸ばしていった。塾で行われる模試では、全科目総合成績において、全国二万八千人の生徒の中で六十位以内の成績を安定してとるようになっていた。両親は喜んでいたが、彼自身には大して感動もなかった。このときの彼は、全ては為るようにしか為らないのだという諦念に近い思いに支配されていた。そう思いながら、周りが目を見開いて称賛するような成績をどんどんととり続けた。その様子には、彼の一番親しいあの友人すらも恐怖を覚えるほどだった。「お前、なんか最近スゴイな」と友人は言った。「別に、そんなことないよ」と彼は薄く笑いながら応じた。
「それに、特別なのはお互い様だろ」
 彼と彼の友人は、あの夕暮れの公園での一件以降、自分たちがキメラであることについては深く話し合うこともなく日々を過ごしていた。新世代の人間である以前に、やはり彼らは、もう一年と五か月後に中学入試を控えた受験生だった。実際、たとえ受験生でなくとも、今の世の中において新世代の人間であることがどれほど特別なことなのかは誰にもわからなかった。今より二十三年前、光合成のできる新人類と光合成のできない旧人類との間で勃発した、極めて陰湿な戦争が完全に終結して以降、光合成のできる新人類の存在が世間の表に出ることは無くなっていた。我が国には現在三万人の新人類が隠れて暮らしているとの推計を論文中で発表する大学の研究者もいれば、新人類は完全に絶滅したとの見方を示す、いつも灰色のスーツを着ている、禿げかかった頭に、怪しげな顎髭を生やしている自称専門家も存在した。かつて中心的な戦場だった都内は二十年以上の時を経てゆるやかに復興を続け、今やそこに残るかつての戦場の跡は道を歩いていると時折見かける、小さな小豆色の慰霊碑くらいだった。復興後の世界しか知らない今の子供たちにとって、かつてそこで行われた陰湿な戦争は過去の現実ではなく、もっとあやふやな何かだった。我が国における今までの風潮を思えば不思議なことだが、悲劇を語り継ごうとする者は一人も現れなかった。もしかしたら、後世に語り継ぐべきものは何一つ無かったのかもしれなかった。それほどに陰湿で、あまりに馬鹿馬鹿しいだけの戦争だった。慰霊碑はあちこちに建てられていたが、道端を歩いていて何気なくそれが目に入ったとしても、何かを思い出す者は一人もいなかった。その慰霊碑の意味を考えようとする者も一人もいなかったし、慰霊碑を建てようと最初に提案した者たちも同じだった。そもそも何かを訴えようとする目的があって建てられたものなのかどうかも怪しかった。実を言えば、それを建てようと初めに言い出したのはその市の市長で、慰霊碑建造の名目で国から補助される資金を密かに着服するのが目的だった。街のあちこちに建てられている慰霊碑はそれぞれが上等な大理石でできているとのことだったが、その中身は全て空洞だった。
 仮に慰霊碑を見て何かを思い出すかもしれない人間がいるとすれば、それはせいぜい彼の父親か、未だ新緑色の蛙の置物と向き合いながら小説を書き続けている、彼の父方の祖父くらいだった。父方の祖父母の家は都内の郊外にあって、暇な週末には時折家族三人で遊びに行っていた。祖母の方は年を取りつつも、町内の老人会に所属し週に二日はカラオケや、小規模なボーリング大会に参加していた。カラオケでは老人の好む演歌はもちろん、二十一世紀初期に流行った懐かしいJPOPやアニメ主題歌も、隣の老人たちと肩を組んで合唱していた。ボーリング場では他の老人たちが羨望の眼差しを向ける中、十四ポンドの球を易々と投じ、あえてスプリットにしては、スペアを狙うスリリングな遊び方を楽しんでいた。若い頃に大人しくしていた分、まるでそれを取り戻そうとするかのごとく年を取ってから余計に活発になるという、誰にとっても称賛に値するような老い方をしていた。「何も不思議なことはないわ」と祖母は言った。
「老い方なんて、人それぞれだもの」
 一方祖父は、官僚の仕事を辞した後、ほとんど書斎に籠りきりになってしまった。いつから書き始めたものだったかは当の本人も忘れてしまった、実のところ、自分が何を書いているのかすらもわからないままキーボードを叩き続け、ふと気が付けばそれが小説の一部になっていたり、もしくは、書いた文章を前後させてもどちらにしろ物語として成立してしまうために、結局書き始めがどこだったのかも度々曖昧になってしまったりしていたのだが、ともかく彼の祖父は、千六百ページにもわたる長編小説をあともう少しで書き上げようとしていた。自分が書く小説の世界に囚われるようになってしまって、小説の世界と現実とを混合するようになっていた。夢の狭間にいるようなぼんやりとした表情で、二日ぶりに部屋から出てきたかと思うと、自分の妻に向かってとんちんかんなことを呟いた。自分の息子や、孫が遊びに来たときも同じような感じだった。多くの場合、息子のことをかつての仕事の部下に、孫のことを息子に取り違えていた。
「もうじきわかると思うが、お前は特別な力を持っているんだ」
「もうわかってるよ」と孫の彼は答えた。
「おや、そうかい」と祖父は意外そうに目を丸くした。
「お前が自分の特別さに気付き始めるのは中学二年生の頃だと、あの蛙の置物は言っていた気がするが――」
 そう言って祖父は、小さくため息を吐いた。
「近頃よく思うが、時間の区別とは本当に煩わしいものだな――過去も現在も未来も、結局全部同じようなものじゃないか」
 しかし、これほどの会話ができるのも調子の良い時だけだった。そうでない日は、部屋から出ても一日中ただ黙って居間のソファに座っているだけで、誰の呼びかけにも一切答えなかった。ある時期から諸々が怪しくなって、老人用おむつを履くよう勧められたが、頑なに断った。尿意や便意を催すと切なげに静かな涙を流した。祖母は必ずそれに気が付いて、トイレへと連れて行った。それが頻繁になれば、祖母も老人会の集まりに参加するわけにはいかなくなった。そのことで不満を漏らすことはなかった。少しでも負担を減らすためにデイサービスでも頼んだらどうかと言った息子に対し、「うちはいらないよ」と突き返した。
「もう慣れっこなんだよ、この人に振り回されるのは。一緒になったときからずっとそうだったもの」
 それに、と祖母は言った。
「それに一緒にいられるのも、もうそう長くはないだろうからね」
 ただやはり、そんな祖母でもどうしても驚いたのが、夫が小説を書いているときだけは意識をはっきりとさせ、気味の悪いほどの指の速度でキーボードを叩き、得体の知れない物語を紡ぎ続けていることだった。それはつまり、老人がこの年齢になっても未だに、幼い少年の頃に見た愚かな夢想に囚われ、それを小説という形で放出し続けているということに他ならなかった。ある冬の日の夜、年老いた妻は、もう三日ほど夫がろくに部屋から出てこないのを心配して様子を窺いに部屋へ入っていった。明かりは机の上のスタンドだけの薄暗い中、夫は若い頃と少しも変わらない、背筋をしゃんと伸ばした姿勢で椅子に座り、蛙の置物の置かれた机に向かい、キーボードを叩いていた。見てみると、夫の作業をしている机の傍にあるダッシュボードの上に、おそらく小説の前半部分、八百ページほどがプリントアウトされたものが積まれていた。妻はどうしても興味を抑えきれなかった、少しそれを読んでみようと顔を近づけると、「だめだ!」と鋭い叫び声がした。一瞬誰の声だかわからず、あまりの恐怖に全身を凍らせた。恐る恐る振り返ると、夫が激しい感情に目を輝かせながら、妻を睨んでいた。そして威厳の籠った声でこう言った。
「それを最初に読むのはお前ではない――最初に読むのは俺たちの孫――誰よりも特別な力を持つ、あの子だと決まっているんだ」
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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