第二部 3

文字数 8,251文字

 彼の父親は、自分の息子がテロ攻撃に巻き込まれていたことを一切知らなかった。モール内で、悪魔が自らの存在を示すときのような化け物の叫び声と、いくつもの銃を撃ち鳴らす音が響いたと思ったら、状況はしんと静かになってしまった。特別な任を帯びた警察の部隊員たちは、モールの出入り口、大小合わせて計十一か所全てを見張っていたテロリストたち全員を、それぞれ五百三十メートル離れた位置から一斉に狙撃した。先の戦時中に司令の弟が開発したあの銃弾、それを食らった者からは光合成の力を奪い、さらには自分の両手足が土くれのようになって崩れていく幻覚を見せながら、痛みと恐怖が喰らい尽くすようにゆっくりとその命を奪っていくという対新人類用の例の銃弾が、そのとき十年ぶりに使用された。首元や額にボルトをねじ込むための空洞のような真黒い穴を開け、目を見開いた呆然とした表情で横たわるテロリストたちの死体を乗り越えて、隊員たちはモール内に突入した。人質が囚われていると思われる場所に到着すると、そこにはあの惨劇の跡が残っていた。人質たちはテロリストどもの血と肉片、さらには得体の知れない緑がかった透明の粘液にまみれながら戸惑いの表情を浮かべて、寄り集まって地面に座っていた。血を含んだ空気、テロリストどもの、体をずたずたに引き裂かれた死体、緑色の巨大な水溜まり、その中心にうずくまる裸の少年、さらにその傍に立ち尽くし、憐れむように裸の少年を見つめる美少女――それらの状況に、突入した隊員たちもすっかり戸惑ってしまい、一瞬、人質たちと隊員たちは互いに固まって困惑の表情を向かい合わせた。後方指揮をしていた陣営にその混沌とした現場の状況が報告されたが、やはり現状を理解できた指揮官は一人もいなかった。上へ上へと情報が伝わり、ついに庁舎にいる彼の父親――司令のもとにまで連絡が達したときも、全てを理解できたのは、その連絡の道筋の中でも司令ただ一人だけのようだった。
「そうか」
 司令は、自分の息子が偶然事件に巻き込まれたことよりも――むしろ例の蛙の置物から事前に予言を受けていた司令にとってその点は偶然ではなく、あくまで必然だったが――十数年間ものあいだ続いていた謎がついに解けたことへの驚きにその身を包まれながら、静かに呟いた。
「弟の言っていた通り、確かにあれは、融合、と言うのが相応しかったわけか――」
 厳重な監視のもとでモールから運び出され、その日のうちに目覚めたとき、息子の彼は粗末な蛍光灯が縦に二本並んでいる見知らぬ天井を、病院のベッドに仰向けになって見上げていた。彼本人は知る由もなかったが、そこは十五年前に彼の母親が妊婦として入院していた、そしてあの怪しげな緑色の点滴を打たれていたのと同じ病室だった。その時の母親と同じく、彼はやはり広い病室にぽつねんと一人きりだった。夢のような曖昧なものではない、はっきりとした記憶として、彼は自分がモールの出入り口で泣きながらテロリストに撃ち殺されたのを覚えていた。しかしその先に関しては――死んでいたのだから当然と言えば当然だが――記憶は全くなかった。そのため彼は、自分が銃で撃たれた後に誰かに助け出されて、こうして一命を取り留めたのだと勘違いした。蜂の巣のように穴を開けられたはずの自分の胸にこわごわと触れてみたが、そこには一つの傷もないように感じた。実際、首を持ち上げて胸元を確認してみると、そこには傷どころか、何らかの治療を施した跡すらなかった。「こりゃあ、凄いな!」と彼は驚いた。
「傷跡も痛みも全くないし――最近の医療は、身体の時間を巻き戻せるのか」
 感動も束の間、彼はふとキタハルのことを思い出した。しかし、もうそれほど心配はしていなかった。あれだけ胸に銃弾を食らった自分が無事だったのだから、彼女もまた無事だったに違いないと漠然と考えていた。一度キタハルのことを思い出すと、彼は身が裂けるほどに彼女に会いたくてしょうがなかった。自分の命に危険がないことが分かってしまうと、彼にとってはもうすでに、モールでのテロ事件も、キタハルとの関係を運命的なものとして印象付けるために彼女と共有された、劇的な過去の経験に過ぎなかった。自分をテロリストどもから救い出すために一人の男が銃に立ち向かったのだと知ったときの、彼女が感謝と申し訳なさのあまりに泣いて縋ってくる様子を想像して、彼はベッドに横になりながら胸がドギマギするのを抑えられなかった。病室のドアが開いたとき、彼は期待に表情を輝かせてドアの方を振り返った。しかし、期待は外れた。顔に暗い影を落として病室に入ってきたのは彼の父親だった。「無事で何よりだ――まぁ予想はしていたが」と父親は言った。
「さっき検査結果が出たんだが、今もお前の体の中には、化け物の影があるらしい」
 そのときの彼には意味が分からなかったが、ともかく父親はそう言うと、まるで死人に顔を合わせるときのような暗い表情のまま歩み寄り、ベッドの傍の丸椅子に座った。そして「ついにお前が、自分の体の秘密について知る時が来たんだ」と言い出した。
「実は、お前には双子の弟がいるんだよ」
 父親の語る話を聞いた、その時に彼はついに自分の体の秘密、自分の体の中には双子の弟が――それもまともな人間ではない、緑色の肌をした、エイリアンのような化け物が住んでいることを知ったのだ。全てを聞き終わったとき彼は、自分でも整理のつかない怒りに全身を駆られ、父親をきつく睨みながら八つ当たりするように言った。
「今更そんなことを俺に打ち明けて、一体俺にどうしろっていうんだよ?」
「決まってるだろ」と父親は冷たく突き放すように言った。
「お前の体は、今やお前の意思に関係なく、国にとって貴重なサンプル体なんだ。そのことを、ちゃんと自覚してもらおうと思ってね」
 彼はその日のうちに、ふらつきながらもベッドから起き上ることが出来た。翌日には体調にも何も問題はなかったが、そこからさらに三週間、彼は病院から出ることを許されなかった。外側から鍵のかかった病室に閉じ込められ、日に三度、味も色味も薄い食事が若い女の看護師の手によって運び込まれた。その看護師は時折彼に話しかけたそうに、好奇の視線というのではなく、あくまで看護師として心配するような視線を寄越してきたが、しかし実際に声を掛けることはなかった。おそらく会話をすることが禁じられているのだろうと察し、こちらから声を掛けても何も返ってこないという惨めな状況を避けるために、彼からも声を掛けることはなかった。彼が病室から出ることを許されるのはトイレに行くときと、特別な検査をするときだけだった。あるとき、病室から連れ出された彼は突然目隠しをされ、半ば無理やり、それがどこかも分からないまま硬い座り心地のする椅子に座らされた。さらには肘掛けの所に手首を拘束されてしまった。あまりにも乱暴な扱いに思えたので、このときばかりはさすがに文句の一つでも言ってやろうと声を上げるための心の準備を始めたとき、右腕の辺りにちくりと鋭い痛みが走った。何やら注射をされたようだった。彼は視界が真っ暗のまま、すっかり頭に血を上らせてしまった。「おい!」とそこに誰が居るのかもわからずに怒鳴った。
「別に注射くらい、本人の了解を得てから打てばいいものだろう!」
 怒鳴っても返事はなかった。今までの軟禁生活に対して積もっていた鬱憤もあって、彼はますます頭に血を上らせて叫んだ。
「おい、せめてこの目隠しは外してくれよ!」
 やはり返事はなかった。その代わり、どん、と腹の底に響くような低い音が空間を打った。彼は下腹の辺りがじんわりと熱くなっていくのを感じた。一瞬彼は、自分がその突然の音に対する驚きのあまり尿を漏らしてしまったのかと思い、あわあわと焦った。しかしそれとは妙に感覚が違った。再び、どん、という大きな音が響いた。今度はよりはっきりとした衝撃を感じて、胸の真ん中辺りがじんわりと熱くなった。ここまできてようやく彼は気が付いた。その後も彼は銃で撃たれ続けたが、痛みは全く無く、むしろ心地良いほどに、ただ弾丸を撃ち込まれた体の前面がじんわりと熱くなっていくだけだった。やがて、穏やかな波のような眠気が彼をさらおうと襲ってきた。始めは驚いていた銃声が次第に子守唄のように聞こえてきた。ついに抗えなくなったとき、彼はがくんと首を垂れて、目隠しをし、硬い椅子に拘束されたまま眠りについてしまった。
 目覚めたとき、彼はいつもの病室で横になっていた。外は夕暮れだった。眼球の奥の網膜を焼くようなオレンジ色の夕日の光が、クリーム色のカーテン越しに病室へと差し込んでいた。ベッドの脇には彼の父親が座っていた。半分夕日に照らされ、半分影になっているその物憂げな表情を見ても、彼は父親に対して何も感じることはなかった。彼はこのとき初めて、自分の父親を「お前」と呼んだ。
「お前は、自分がどれだけ下衆なことをしたのか分かっているのか」と彼は、これまでにないほどに冷たい口調で父親に言った。
「自分の息子にこんな非人道的な人体実験をして、死んで地獄に堕ちる程度のことで許されると思っているのか?」
 父親は物憂げな表情を崩さないまま、彼の寝るベッドの上に数枚の写真を放った。
「これが、お前の中に眠る力だよ」
 その写真には、目隠しをされ椅子に拘束された彼の、その胸の辺りから、例の緑色のエイリアンが飛び出してくる様子が収められていた。写真には連続して、その緑色のエイリアンが、椅子に拘束されていた彼に向かって弾丸を自動で撃ち込んでいた、頑丈そうな機械を滅茶苦茶に壊す様子も収められていた。彼が自分の中にいる緑色の化け物の姿をその目で見たのは、これが初めてだった。
「お前はその力を、この国のために使うんだ」と父親が言った。
「その力を以て、光合成をするテロリストどもと戦うんだ」
「イヤだね」と彼は写真を父親に突き返して言った。
「戦場に出て戦う義務なんて、俺には無いね」
 それを聞いて父親は、いっそう物憂げな表情を深めながら言った。
「お前は断れないはずだ。本当はこんな脅しなどしたくはないが――」
 父親は写真をもう一枚、彼の寝るベッドの上に放った。その写真に写る少女の不安げな青白い顔を見ただけで、彼の心臓は張り裂けそうになった。「キタハルというらしいな」と父親は言った。
「モールでのテロ事件では人質になっていたが――学年内では以前から、彼女は新人類なのではないかという噂があるらしいな」
「ただの噂さ」と彼は声を震わせながら返した。
「彼女の美しさがあまりに人間離れしているから、根拠もなくそういう噂が流れているだけだ」
「噂だろうが何でもいい」と父親はがらりと表情を変えて冷たく言い放った。
「奴らとの新たな戦争が始まったときには、新人類の疑いがある人間についてはたとえ非戦闘員であっても、あらゆる人権の制限を正当化できるぞ」
 父親の言葉にすっかり怖気づき、また同時に深く絶望してしまった、がっくりと首をうなだれながら彼は、「彼女に何をするつもりだ」と弱々しく言った。
「何もしないさ」と父親は物憂げな表情に戻って言った。
「お前が言うことを聞いてくれさえすればな」
 次の週の水曜日から彼は家へ帰ることを許された。家のドアを開けた瞬間、彼の母親が両目いっぱいに涙を溜めながら駆け寄ってきて、がっしりと彼を抱き締めた。
「よく帰ってきたね」と母親は、ついに声を上げて泣きながら言った。
「これからは何があっても、私があんたのことを守ってやるからね――」
 その日の夕食では母親が息子の久々の帰宅を祝して、今までの食卓では見たこともないほどに高価な、上質な脂がスープのように滴る、三田和牛ステーキを用意した。その日は彼の父親も普段通りに帰宅していたが、食卓を共に囲うことは許されなかった。食事としては全く同じ肉を同じ量だけ、同じような皿に盛られたものが用意されたが、しかし皿は全て、父親が毎晩、夜な夜な蛙の置物と向き合いながら午前二時まで小説を書いている、例の部屋へと運ばれた。父親は今回の、自分の息子に対して行った非人道的な実験の内容や、息子の恋愛感情を利用した理不尽な脅しについて、妻に隠し通すことが出来なかった。厳密には、始めから隠し通すことを諦めていた。自分の息子に強力な麻酔を打って、痛みを一切感じない状態にした上ではあるが、胸や腹に、何発もの銃弾を撃ち込む実験を行った、腹が裂けるほどに銃弾を撃ち込み続けて、ついに双子の弟――あの緑色のエイリアンのような化け物が、息子の腹から飛び出してくるところを確認できた、緑色の化け物は凄まじい力を発揮したが数分で体が溶けてしまって、その溶けた跡からは再び人間の方の、兄の方の息子が出てくるのだが、どうやらその彼の体の中にもまた、緑色の化け物が生きているのらしい、我々はこの無限のマトリョーシカ人形のような素晴らしい力を、今再び始まるであろう対テロ戦争において、存分に戦力として利用したいと考えている――自分の夫が、彼自身もどこか諦めきったような表情で話した、世にもおぞましい考えを聞き、妻は衝撃のあまりに卒倒してしまう寸前だった。
「人間の親が考えることじゃないわ」と彼女は声を震わせて言った。
「あなたは本当に、あの子の父親なの?」
「もちろん、父親さ」と夫は静かに返した。
「ただそれ以前に俺は、幼い頃から自分ではどうしようもない呪いにかけられてしまっている、一人の愚か者なんだ」
 以降父親は、自分の息子が生まれたばかりのあの時期と同じ様に、再び妻の策略よって家族の一員から排除されることとなった。やはり父親は今回も黙ってその状況を受け入れた。息子が久々に家に帰ってきた祝いのときでも父親は、薄暗い書斎で一人、ナイフとフォークが皿にぶつかるカチャカチャという音を寂しく暗闇に響かせながら、仕事場から毎度必ず持ち帰っている、机の上の蛙の置物と向き合って、黙々とステーキを食べることを受け入れていた。
久々に病院を出て自分の家へ帰ってきたその翌日から、彼はかつて通りに学校へ通い始めた。数週間ぶりに朝のクラス教室へと入っていくと、彼はいきなり好奇の目線に晒された。しかし実際に彼に何かを聞いてくる者はいなかった。以前より親しく話していたクラスメイトが進み出てきて、彼の肩をぽんぽんと叩いて出迎えた。「久しぶりだな――生きていてよかったよ。やっぱり自分の命は大事にしないとな」特別な挨拶はそれで終わった。何かを期待していたわけではないが、思わず拍子抜けしてしまうほどに朝のホームルームや授業も淡々と進んでいった。学校の授業は彼が休んでいた間にかなり内容が進んでいたが、以前より優秀だった彼にとっては大した問題ではなかった。隣の席のクラスメイトにノートを一瞬だけ借りて、パラパラとめくり、教科書と照らし合わせるだけで休んでいた分のおおよその内容は把握できた。彼にとってはやはりそんなことよりも、放課後の部活のことの方がはるかに気になっていた。彼は、放課後にキタハルと以前と同じように会えるか否かについて考え込み過ぎて、黒板に書かれた問題をノートに解いている数学の授業中に、呼吸をすることも忘れるほどに思い悩んでいた。息が止まって、意識が朦朧となり、目の前のノートに書かれた数式が視界の中で奇妙な形に歪んでいった。あらゆる数字があべこべになって、一瞬、大発見とも思えるような論理的矛盾が導出された。しかしそれは、その時の彼にとっては真実に違いなかった。あのモールでのテロ事件を共通の事件として経験したおかげで、キタハルは自分に対して特別な感情を抱いているに違いない――そのときの彼はそう信じ切っていた。放課後になると、彼は部室棟へ真っ先に飛んでいった。水着に着替え、今や本格的に夏が始まりつつある、息をすれば肺が燃え上がるような暑さのなかプールサイドに出て、体のストレッチに集中するふりをしながら、キタハルが現れるのを待った。十五分ほど待って部員たちがぞろぞろとやってきたとき、その中に交って談笑しているキタハルの姿を認めた。彼女の姿を久々に目にして、彼は胸の奥の心臓がきゅうと音を立てて捩れるような感覚に襲われた。どうしても堪えきれずに、彼は全身の汗をまき散らしながら駆け寄って、キタハルに向かって掠れるような声で話しかけた。
「やぁ、久しぶり――」
 そのときの彼女は、彼が突然に話しかけてきたことに戸惑いを隠せないようだった。一瞬、陶器のように透き通る白い肌をさらに青白くしたが、すぐに落ち着きを取り戻して、周りには聞こえないような抑えた声で、彼に向かってそっと囁いた。
「また後で、部活終わりにね」
 彼女のその一言によって、彼はここしばらくのあらゆる苦痛が一気に報われた気がした。すっかり有頂天になってしまい、炎天下のプールサイドで一人飛び上がりそうになるのをどうにか抑えて、彼は体のストレッチに戻った。やがて練習が始まって泳ぎながらも、彼はキタハルのことを考えていた。練習終わりにキタハルと他愛ない言葉を交わして笑い合う、すぐ先の未来の自分の姿を想像した。さらにその数年後として、自分と彼女が互いの人生のパートナーとして誓い合う姿を想像した。頭の中の想像をたくましくしながら、しかしあくまで体は無我夢中で泳ぎながら、練習が終わる頃には、彼の頭の中では、キタハルと共に歩む自分の人生の終わりまでを全て想像し終わっていた。プールから上がり、挨拶を終えて、更衣室へ入る直前にキタハルと顔を合わせたとき、彼は、彼女のことを自分の妻と思って見つめていたほどだった。真剣にそう思えば将来も必ずそうなると、このときの彼は信じていた。
 自転車を引きながら、一か月ぶりにキタハルと共に駅まで歩いている最中にも、彼のその自信は少しも揺らがなかった。彼女は最初に、モールでのテロ事件での、自分をテロリストから救い出そうとしてくれた彼の献身に、彼の手をそっと握って感謝した。感謝の涙を見られなかったが、彼は喜びのあまり死んでしまいそうになりながら、そっと手を握り返してそれに応えた。夏のむせかえるような暑さの中で、それが幻とも知らずに、辺りの空気が熱した砂糖のようにとろとろに溶けている自分とキタハルとの世界に浸りながら、彼は喜びに顔を引き攣らせて歩いていた。二人きりの世界に閉じこもったつもりになって外の世界を一切気にしていなかったために、彼はそれに気付くのに一瞬遅れた。キタハルが怪訝そうに、空を見上げて呟いた。
「ヘリコプターだね」
 彼はそれを見て目を瞠った。町中の建物を振動させるような爆音を響かせながら、黒々とした、怪物じみた巨大なヘリコプターが驚くほど低空に留まっていた。それはさらにゆっくりと、彼と彼女のところへめがけて高度を下げていった。道に並ぶ街路樹がヘリコプターのもたらす爆風のせいで、葉を暴れさせ、今にもなぎ倒されるのではないかというほどにかしいでいた。あちこちの一軒家やアパートでは、夕食の準備をしていた母親とその子供が、驚きのあまりそろって目と口を丸く開けながら、窓から顔をのぞかせていた。
「ママ、あれ、突然やって来たよ! まるで真っ黒い流れ星みたいに、突然空を飛んでやって来たよ!」
 細かい土埃が嵐のように舞い、空圧に負けて目を瞑った彼とキタハルの顔を埃まみれにした。回転翼の、空気を切り裂く、耳の痛くなるような爆音がどんどんと凄まじくなっていった。道の幅を無視して、辺りを取り返しのつかない嵐の混乱に巻き込みながら、真っ黒な巨大ヘリコプターは道のど真ん中に着地した。まだ空気を切り裂くような騒音が続く中、一人の男が苦しげに叫ぶ声を、彼は確かに聞いた。
「女を置いて今すぐ来い! さもなくば、二人とも命は無いぞ!」
 彼は風圧に怯えながら薄っすらと目を開けた。叫んでいたのは彼の父親だった。ヘリコプターの出入り口の所から身を乗り出すようにして大声を上げ、全ての戦場において責任を持つ司令の立場でありながら、それでいて周りの士気を削ぐような、相変わらず悲しげな表情を浮かべて息子の彼のことをじっと見つめていた。隣では、迷彩服を着た隊員が寸分の狂いもなく、二人に向かって自動小銃の銃口を向けていた。
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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