第二部 6

文字数 7,003文字

 彼にとってその旅は、天国と地獄が複雑に入り組んだような、何とも言い難いものとなった。有難いことに雨に降られることはなかった。本来であれば半日と少しで終わるはずの旅だったが、彼らは旅の不慣れと、途中不運にも戦闘に巻き込まれたせいで、目的地の銚子に辿り着くのに丸々二週間もかかってしまった。初めのうちは酷いものだった。エンジンのかけ方は分かった、乗り始めてすぐにライトを点けることも出来たし、アクセルとブレーキの理屈も分かったが、運転経験の無いことに変わりはなかった。手探りで運転しつつ二人乗りを行うという蛮勇を発揮しながら、彼はおっかなびっくりアクセルを踏むことしかできなかった。そのスクーターは、運転手の性格にふさわしいのろのろとした一定のスピードで、他に誰もいない、寂しい道を走り続けた。キタハルが後ろでスマートフォンを見ながら道順を指示し、彼はただそれに従っていた。スクーターの座席は恐ろしく硬かった。三十分ほどそれに座り続けただけで、まるで一日中尻に重石を押し当てられたような苦しみが伴い、尻の肉はやがて古代の石膏像のそれのような硬さに強張ってしまった。こればかりは徐々に慣れるどころか、日々それに座り続ける度に悪化していくばかりだった。毎日、走り始めてから一時間もしないうちに、一旦休憩してこの拷問じみた座席から尻を離したいと思ったが、それでも、後ろで同じ座席に座っているはずのキタハルが何も言わないうちは自分から情けない弱音を吐くわけにはいかないと、何も言わず過酷な拷問に耐え続けた。スクーターに乗っている時の彼にとっては、キタハルが自分の背中に身を寄せているということが唯一の救いであると同時に、また大きすぎる幸福だった。長雨の名残の凄まじい湿気やスクーターの生む気流に邪魔されて、彼女が背中に身を寄せていたとしても、彼女の体から発せられる熱や、湿気や、雨に濡れたオレンジの花のような匂いを感じ取ることは出来なかった。キタハルの存在を感じさせるものは唯一、後ろから道順を囁く彼女の声だけだった。彼女の口調は極めて事務的だったが、そのことがかえって、自分が彼女にとって現状を生き延びる上ではどうしても必要不可欠な存在なのだということを彼に実感させ、また言いようのない幸福感を与えるきっかけとなった。キタハルが、「次の交差点は右だよ」と指示をしたとしても、彼は返事を口にすることなくただ黙って、ハンドルを右に切った。「次の交差点は左だよ」と指示をされても、彼はまた黙ってハンドルを左に切るだけだった。彼はその一々に、どこか日常的な生活における共同作業のような趣を感じて、自分たちはすでに、長い月日を共にしてきた夫婦なのではないかと錯覚するほどだった。
「忘れちゃいけないよ、兄さん」
 ある真昼時、スクーターに乗って真っ直ぐの道を走っていると、体の中から弟が呼びかけてきた。
「彼女は、何かを隠しているはずなんだ」
 彼はそれに対し、「黙ってろよ」と声に出さず口の中で呟いた。
「お前に、俺の妻の何が分かるっていうんだよ」
 彼は、体の中の弟を、自分の意識から締め出すことが出来るようになっていた。以前のように、あえて互いの意識を混合させて、言葉を交わすまでもなく心を通わせたり、感情を共有したりするようなことは既にしなくなっていた。キタハルと二人きりになりたいとき――それはつまりほとんどの一日中、ということだったのだが――彼は、体の中の弟を心の一室に閉じ込めて、決して外に出ることを許さなかった。そうなってしまっては、弟がそこで何を言おうと無駄だった。弟がどんなに大声で叫んでも兄には全く聞こえなかったし、兄が聞くもの、見るものも弟には一切共有されなかった。「まぁいいさ」と弟は、暗い部屋の隅に座って、寂しげに笑いながら言った。
「僕が必要になる時は、必ず来るだろうから――その時は僕に任せてよ。僕は、兄さんの傷つくことが許せないだけだからね」
 道中で営業している店を見つけると、彼らは荷物にならない程度に水と食べ物を買い込んだ。食べ物はそれでよかったが、寝床に関しては、ほとんどの場合、彼らは野宿をして夜を過ごす羽目になった。さすがにテントは持ってはいなかったが、キタハルが家から小さな赤い寝袋を二つ持って来ていた。暗くなると、二人はスクーターを走らせながら、まずは営業しているホテルを、それが見つからなかった場合は次に公園を探した。公園のベンチが二つある時はまだよかったが、一つしかない時は、彼がキタハルにベンチを譲り、自分は土の地面に直接寝袋を敷いて眠った。地面を歩く蟻や、小さな緑色の芋虫までもが寝袋の中に入り込んできて、肌の上を軽い何かがもそもそと這うような、身の毛のよだつような感覚に襲われて深夜に目を覚ましてしまうこともしばしばだったが、そんな恐怖にも彼は淡々と耐えた。キタハルが未だかつてないほどに傍にいることで、全ては不足なく報われていると信じていた。実際、営業しているホテルを見つけた時はその分、あまりの幸福に酔いしれそうになった。二週間の旅の中で、彼らは三つの夜だけホテルに泊まることが出来た。いずれも外壁はペンキの禿げかけた薄いピンク色で、全ての部屋の小さな窓には錆びついた鉄格子が嵌められている、国道沿いの寂れたホテルだった。彼はあの日財布も持たずに家を飛び出したために、全ての料金はキタハルが払った。家にあったありったけの現金とカードの詰め込まれた彼女の財布は、まるでグロテスクに膨れた白い蛙のようだった。どう見てもまだ高校生程度の年齢である男女二人が、女子の方はそのような奇妙な形に膨れた財布を持ってフロントに現れたとしても、受付係の女は一切の興味を示すことはなかった。どのホテルの受付係も茶髪を後ろに束ねた若い女で、視線は常に伏せがちだった。金を受け取り、部屋番号も告げずに、妙にべたべたした触感のする鍵をキタハルに手渡した。当然のように二人で一部屋を借りていたが、誰にとっても尊敬に値するほどの確固たる決意を持って、彼は彼女に指一本触れなかった。灯りを全て消した暗闇の中、同じ一つのベッドに横になりながら、彼は寝返りも打たずに、常にキタハルに背を向けたままだった。彼女のシャワー上がりの、湯気の立つ白い肌が視界にちらりと入る度に彼は気が狂いそうになったが、目を真っ赤にし、血が滲むほどに唇を噛みしめどうにか耐えた。彼女の唇と裸に触れるのはもっと相応しい場所で、相応しいときにと決めていた。おかげで彼は、ホテルに泊まった日には一晩中悶々とし続け、公園に泊ったとき以上に眠れない夜を過ごす羽目になった。
 銚子へ向かうには、戦闘の激化している都心を通るのは避けられなかった、ある日の夕暮れ時だった。その町に入ったときから、妙に辺りの空気が火薬臭いような感じはしていた。荒れ果て、すっかり埃の被ったような街中の道を走っていると、遠くから、まるでおもちゃのような機関銃の音が響いてきた。彼らは音のしてくる方向を避けて走り続けた。しばらくしてまた機関銃の音がした。前に聞いたときよりも音が近づいているようだった。彼は怪訝に思いながら、さらにスピードを増して音から逃げようとした。後ろでキタハルの体が震えているようにも感じたが、彼の勘違いかもしれなかった。すると再び機関銃の音がしたが、今度はそれだけでなく、加えて爆弾の破裂する音も響いてきた。やはり音は近づいていた。心の奥の方から弟が呼びかけてくるのを感じ、彼は耳を傾けた。「兄さん」と弟は言っていた。
「兄さん――戦いが迫っているよ」
「逃げ切ってみせるさ」と彼は、キタハルに気付かれないよう口の中で呟いた。
「無理だよ」と弟は冷静に言った。
「わかってるだろ、兄さん。逃げるよりも、皆殺しにする方がよっぽど手っ取り早いって」
「彼女を危険に晒すわけにはいかない」と彼は強く呟いた。
「そう、わかったよ」と弟はため息混じりに言った。
「こんなところで彼女を死なせて、兄さんを悲しませるのは、僕の本意じゃないからね。彼女を安全な場所に匿って、それから向こうの奴らと戦おう」
 彼はスクーターのスピードを落とし、デパートの地下駐車場に入った。ハエのようなエンジン音を響かせて駐車場内をぐるぐると回り、やがて隅の方にスクーターを停めると、まるで自分の娘に言い聞かせるようにキタハルに言った。
「ここで待っていて。銃声が止むまで出てきちゃだめだよ」
彼女は、白い顔を緊張に強張らせて頷いた。それから、彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「銃声が完全に止んだら、私から迎えに行くから」
 彼は駐車場を出ると、銃声のする方へと駆け出していった。次第に強くなっていく火薬の臭いもまた、不幸にも彼を正しく戦場へと導いていた。突如として辺りを覆った土埃の真っ只中に飛び込んだとき、そこはもう既に戦場だった。耳の痛くなるような甲高い音を立てながら、オレンジ色の光を纏った弾丸が左右にいくつも行き交っていた。煙の向こうの、遠い西の方角にはねずみ色の戦車が三台、まるで置物のような様で並んでいるのが見えた。戦車の型と柄で自衛隊のものとわかった。
「あっちが味方だ!」と彼は西の方を指しながら、体の中の弟に向かって叫んだ。
「東にいるのが敵だな!」
「今の僕らに、敵も味方もいないけどね」と弟は鼻で笑うように言った。
「まぁ殺すのが半分で済むのなら、その方がいいか」
 彼は行き交う弾丸の中に身を投げ出した。右の脇腹と左の側頭部に同時に弾丸を食らったが、あろうことかこのとき、彼の体の中の弟は、兄のために体内で痛み消しの麻酔を分泌するのを忘れていた。弾丸を食らったとき、彼は脇腹と頭に想像を絶するほどの鋭い痛みを感じ、思わず悲鳴を上げそうになった。しかし、脳の重要な神経の箇所をいち早く弾丸がぐちゃぐちゃにしたために、痛みを感じたのはほんの一瞬で済んだ。彼の体は一週間ぶりに死んだ。そして彼の弟は一週間ぶりに、緑色の化け物として地上に出た。弟の体の中で彼は、ついさっき自分の脇腹と頭に感じた、この世のものとは思えないほどの痛みに衝撃を受けて、胎児のように体を丸めながらぶるぶると震えていた。「ごめんよ、兄さん」体の中の兄に向って、弟が申し訳なさそうに言った。
「久しぶりで、ついうっかりしていたんだ」
 敵のいる東に向かって飛び出すと、弟は早速長い腕を力いっぱいに振り回してテロリスト三人の首を同時に刎ねた。三つの首の切り口から西洋の宮殿の噴水のように赤い血しぶきが上がり、その景色のあまりの鮮やかさに弟は惚れ惚れとしたが、土埃の向こうからは男の恐怖に叫ぶ声が聞こえた。それに応えるように、緑色の化け物はガラスを割るような悪魔の叫びを返した。しかし体の内側には、常に人間の言葉で語り続けていた。
「さっさと皆殺しにしちゃおう、兄さん」
 絶えず巻き上がる土埃の中に緑色と血の赤色の残像を描き出し、弟は暴れ回った。鼓膜を破るほどに銃声が鳴り続け、いくつもの弾丸が体に食い込んだが、相変わらず痛みを感じない様子で弟は敵を殺し続けた。西にいる自衛隊の方からの銃声はぴったりと止んでいた。自衛隊員たちは全員が表情を強張らせながら双眼鏡を顔に押し当て、遠くから事の成り行きを見守っていた。「報告だ!」と誰かの叫ぶ声がした。
「どうしよう、兄さん」
 テロリスト五人を両腕に串刺しにしながら、体の中の彼に向かって弟が言った。
「父さんに居場所がばれるよ」
「仕方がないな」
兄は、弟の体の中でうずくまりながら意を決し、言った。「あいつらも後で襲おう」
 八分間ほどかけて土埃の中で暴れ続け、二十一人のテロリストを殺すと、東側からの銃声はようやく止まった。赤黒い、どろどろとした血に両腕を汚した化け物はその場に立ち尽くし、きょろきょろと辺りを見回した。他にテロリストがいないのを確認すると、今度は西の自衛隊の方に向かって飛び出していった。それを視認した隊員たちは皆顔に押し当てていた双眼鏡を放り出し、恐怖に駆られた様子で口々に叫んだ。
「退避だ! 総員退避!」
 銃口を向けてくる者は一人もいなかった。あくまでそれが絶対命令であるという認識を確固たる形で持っている様子で、全ての隊員たちは全速力で戦場を後にしていった。ただひたすら逃げているだけにもかかわらず、そこに情けない感じは一切受けないことを不思議に思いながら、また同時に得体の知れない感動をも密かに抱きながら、化け物と彼は隊員たちを追いかけ続けた。「どうしよう、兄さん」と弟がもう一度聞いた。
「このまま逃がしてもいいかな?」
「いいや」と彼ははっきりとした口調で言った。
「俺たちが本気であることを、父さんに示さなきゃいけないからな――」
 一つ風が通り過ぎる短い間だけ考え、彼は言った。「三人だけ殺そう」
その言葉を受けて化け物は勢いよく地面を蹴り、一飛びで一気に隊員たちに追いついた。まず一番後ろにいた一人の隊員を頭から踏みつぶした。続いて、二人の隊員を適当にむんずと掴み上げると、そのまま彼らの腹をスポンジのように握りつぶした。「あまりぐちゃぐちゃにするなよ」と体の中から彼が言った。
「ちゃんと三人だけ殺したってことが分かるようにしなきゃ。死体を真っ赤なトマトジュースみたいにしちゃったら、人数が分からないだろう」
 他の隊員たちは少しも後ろを振り返らず、全速力で逃げ去っていった。化け物は踏みつぶした隊員一人と握りつぶした隊員二人をきれいな川の字に並べ、これが三人分の死体だと、誰に対してもはっきりと伝わるようにした。「それでいい」と彼は、自衛隊の迷彩服を纏った、赤いきりたんぽ状の三つの死体に軽い吐き気を催しながら言った。
「お前の言う通りだったよ。こんなのただの現象だ」
 化け物の体がどろどろと溶け出した。溶け出した中から出てきた素っ裸の彼は、ついに五秒も経たないうちに目覚めることが出来るようになっていた。生まれたままの姿で立ち上がり、弟の体の粘液にまみれた彼は、すっかり荒れ果てた、埃や瓦礫だらけ、血だらけの街中を歩きだした。とろとろの粘液にまみれた体を拭うものも無ければ、身に着けるものも無かった。銃声はどんなに耳を澄ましても止んでいたから、もうすぐキタハルが迎えに来てくれるだろうと信じながら、彼女が何か拭くものや新しく着るものを持って来てくれはしないかと期待した。五分ほど歩いていると、遠くの正面から小さな黒い人影が歩いて来るのが見えた。キタハルだった。彼女は彼が期待していた通り、どこからとってきたのか、オレンジ色の大判バスタオルと清潔な着替えを持って来ていた。裸で粘液まみれの彼の様子を見ても、キタハルは少しも驚いていないようだった。深い労わりの表情で彼のことを見つめ、バスタオルで全身を拭くのを手伝った。
「お疲れ様」
 キタハルは、部活終わりに初めて声を掛けてきたときと同じようにそう言った。
「ああ、まぁ疲れたけどね」と彼は、いそいそと下着を穿きながら言った。
「でも、もうだいぶ慣れたよ。色々な意味でね」
 その二日後にも同じような戦闘があった。その時もキタハルを安全な地下へ隠し、銃声が鳴り止むまでは絶対に出てこないように言い、彼自身は戦場へ飛び出して行った。このときはさすがに、弟は麻酔の分泌を忘れなかった。右足の腿と胸のちょうど心臓の辺りに銃弾が当たったが、痛みは一切なく、あの心地良いようなじんわりと熱くなる感覚があるだけだった。ここでも十三人のテロリストを皆殺しにした後、必死に逃げていく自衛隊員二人を握りつぶした。その死体はまた、後から来た人がちゃんと数えられるように、二つとも丁寧に並べて置いてきた。もし自分たちを追いかけにでも来れば、その時は相手が自衛隊員でも皆殺しにしてやるという、父親に対する明確なメッセージのつもりだった。
 父親は、当然ながらそんな息子たちのメッセージを正しく読み取ることなどできなかった。現場で撮影された、川の字に並べられた赤いきりたんぽのような自衛隊員の死体写真を見せられ、司令としてというよりも一人の親としての怒りに叫んだ。
「まったく!」
 そう叫んでから司令は、親として息子を怒鳴りつけなければならないと思う瞬間が自分にも訪れたことに一瞬、素直に驚いてしまった。
「あいつらは、これが国を守るための戦争だということを分かっていないんだ――」
 司令は、自分が直接指揮できる部隊の半分を使って息子たちを探させた。あくまで命令は生け捕りだったが、今やあれほどの力を手に入れた息子たちを相手に、そんなことが本当に可能なのかどうかは、司令自身も分かってはいなかった。しかし、ここで司令はあの新緑色の小さな蛙の置物から、新たに有益な予言を頂くことが出来た。その予言を頂いた後に司令はある確信を持って、待機させていたもう半分の部隊も合流させ、息子たちの捜索を行った。予言を頂いてから三日後、部隊から、それらしい男女の若いカップルを発見したとの報告が入った。しかし、司令はここで、すぐに二人を捕らえるようには言わなかった。「まだその時じゃない」と司令は言った。
「その時が来るまで、大人しく待っているんだ。決して気付かれるんじゃないぞ」
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登場人物紹介

「彼」:第一部の主人公です。

「彼」:第二部の主人公。第一部の「彼」の息子です。

「彼」:第三部の主人公。第二部の「彼」の息子であり、第一部の「彼」の孫です。

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