『ジエチル*エテンザミド』 後編
文字数 1,871文字
市民バンド大会当日。
会場は開始1時間前から満員で、入りきれない人々が駐車場に、たむろしていた。
桃子が露店まで出ている事に気づいた時は、身震いがしたのか、肩を震わせていた様である。
勝也は、この大会に数年前から参加しているが、観客は毎回まばらで閑散としていた。しかし今年は超満員で、大型のバックモニターまで設置してある。
勝也のラストギグスには、最高の舞台が整ったのだ。
桃子は母親を席に座らせ、待たせている間に『リトマス*エチルフラスコ』の楽屋に差し入れを持って行った。
「かっちゃん……、桃子最前列で応援するからね。今日もギター乾いているかな、調子はどう?」
桃子が尋ねても、勝也は一切、桃子の声が耳に入らない様子で、一点を見つめている。
『まずい、緊張している』
桃子は、瞬時に思ったであろう。
「会場見たかな?超満員だよ」
言いながら、桃子は勝也の視線に割って入ると。
ようやく我に返った勝也は。
「なーに……、たいした事ねーぜ」
強気ではあるが、その声は震えていた。
そしていよいよ、オープニング。
市民バンドだけに、演奏やボーカルは素人の域を脱しえない。しかし当日は『ジエチル*エテンザミド』参加の噂により、一組目から盛大に盛り上がっているのだ。
そしていよいよ『リトマス*エチルフラスコ』の出番がきた。
勝也が登場すると、桃子は渾身の大声で。
「かっちゃん頑張れー。ファイヤー……」
叫んだ……。
が……。
急に声援をやめ『ヤバい……、かっちゃん、白目になってる』困った様に呟いた。
勝也が極度に緊張すると、黒目が上に上がり白目になってしまう。そうなると演奏が、どうなるかは容易に予測できる。
桃子はそれを悟り、ベースと交換する様に叫んだ。
しかし、既にドラムが、なり始まってしまったのだ。
時すでに遅しである。
桃子はこみ上げる感情を抑えきれなかったのであろう、終始泣きながら声援を送り、手拍子をしていた。
しかし結果は想像通りで、素晴らしい演奏とまでは言い難い。今回も勝也はドラムが鳴った瞬間に、頭が真っ白になった様である。
幸いな事に今日は、サブギターの活躍で『事なきを得た』のだ。
しかも勝也は『万が一』に備え、エアギターまで練習していたらしく、そこそこ様になっていたのである。
花形である『リードギターが、エアに行くかー』とも思うが……。まぁ……可愛い人だ。
最終的に、得意のワンコードDだけは、時折弾いていた様であるが。勝也のラストステージは、てんやわんやで幕を閉じたのである。
ともあれ桃子は一安心したであろう、何とかカッコは、ついていたのであるから。
しかし桃子は、大取のバンドが終わるまで気は抜けない。いや、これからが正念場であろう。
そしていよいよ、最終エントリーバンドの演奏が終わった。隣に座る母親が目を潤ませジエチル様を待っているのだ。
会場内は、気勢を上げる者が現れ、異様な雰囲気に包まれている。
そして、どこらともなく『ジエチル様』コールが沸き起こりだした。
桃子も、その雰囲気に負けたのか『ジエ様~』などと、叫び声をあげた。本当に現れるのではないかと錯覚した様でもある。
その時、バックモニターが明るくなり場内がざわめいた。
すると、いきなり『ジエチル*エテンザミド』がモニターに現れ、話し出したのである。
『みんなー……盛り上がってるかー……。SNSで俺たちのバンドが、牛久市の市民バンド大会に飛び入り参加するって、騒がれている事を知って、メンバー一同驚いているし、実際そんな予定は無かったぜー。しかし、我がバンドの出身地である、皆様方の期待には御応えしたく、ライブメッセージのみではありますが、一言コメントさせていただきまーす。大会の成功を心より願ってるぜー……。これからも『ジエ』ヨロシク……。』
コメントが終わるとギターを『ジャーン』と、鳴らした。勝也の愛するDコードであったが、偶然であろうか。
そして、割れんばかりの声援と拍手に包まれながら、幕は閉じられた。
その後、場内は満足感と物足りなさが交錯し、異様な雰囲気ではあったが。無事に大会を、終える事が出来た様である。
当日桃子は、楽器屋を訪れ落書きを謝罪したが。実際に『ジエチル*エテンザミド』はリモート出演したし『CDの売り上げが上がった』と、感謝され、罪は不問に付せられた。
この大会が桃子にとって、成功であったのか失敗であったのかは、当の本人にも分からないであろう。
誰も傷つかずに済んだ事は、偶然の幸いである。