適性だの能力だの、の在処

文字数 1,553文字

 好きなことを仕事にしろ、いや、好きなんて仕事には関係ない、好きだからこそ仕事にするな……。まあいろいろな意見が世の中にはあるものだ。人にはいろいろな価値観と生き方があるのだから、そもそも絶対的に正しい視点なんぞというものはない。自分の選んだ道を自分の責任において進んでいくのみ。
 私の場合は、超絶適性のある仕事が超絶性に合わなすぎて、魂が枯渇して5年半ほどで辞めた。で、適性があるかと言われると、うーむ、と唸ってしまう、超絶やりたい仕事を選んだ。正直、超絶苦しい。他人の数倍の努力をしても、ついていけているのかよく分からない。ただ、常に全身をちくちく針で突き刺されているような苦しみがあっても、根本的にやりたいことだから辞める気にはならない。あ、ちょっと待って、そういう趣味だから楽しい、ってことじゃないのよ?
 同じ苦労を別のさほど興味のないことでやる、となったら、即座にちゃぶ台ひっくり返して「実家に帰らせていただきます」とやるだろう。たぶん。間違いなく。冗談じゃねえ、やってられっか。が、心の底からやりたいものだからこそ、ちくちくやられたってへっちゃらなのだ。まあ完全にへっちゃら平穏無事なわけではないけれども。ともかく、私の場合はやりたいことに全振りして職業選択をしたということだ。おかげで苦労が絶えねえっす……。
 幸福というのは非常に主観的なものだ。何を重視するかの選択と言い換えてもいいかもしれない。金銭的な豊かさを最重要課題とするか、精神面を満たすことを求めるか。両方を手にできたら最高なのだが、それはなかなか容易ではない。だからこそ冒頭の仕事選び論争になるわけだが、万人に共通する絶対的な正解などというものはどこにもない。自分の幸福を思う時に、他人の視点に振り回される必要はないのだ。
 さて、先ほどから「適性」と何気なく口にしてきたが、これもまた厄介な代物である。適性とか能力とかいうものは案外曖昧だし、定義によって全く異なる判断ともなり得る。つまり、「○○が△秒以内にできる能力」を適性と定義するのか、「○○を丁寧にできる能力」「○○を最高品質にできるまで継続的に努力できる能力」「○○の改善策を見出だせる能力」とするのかなどで、それぞれ判断基準がまるで異なる。そして、職種や職場によって求められるものも変わってくる。加えて、顧客からの評判は上々なのに、職場の見解ではいまいち、なんていう不可解なねじれ現象もまま見られたりする。本当にいるんですよ、「その職場でのみ評価の低い、超優秀な人材」っていうのは。で、それに自分が当てはまるんじゃないか、という願望が、昨今の「異世界に転生したらチート能力者だった」ものの大氾濫に繋がっているのかもしれませんなあ。それだけ日常で鬱憤をどんどこ蓄積している人が多いってことなのかもしれぬ。
 あまりにも自由に生きている私に触発されたものか、ついに我が兄も安定した給料を捨てて自分のやりたい職種への転職を決めた。でも、謝らない。ハイキャリアを捨てたのも、その選択と決断をしたのも、すべて兄の意思によるものだし、本人に強制したのでもない他者が謝ったら逆に失礼だ。うーん、どうやら兄弟ともに、先祖から受け継いだフロンティア精神が変な方向に出てしまったようであるなあ。
 いずれにしても、職業選択による幸福とは十人十色どころの騒ぎではない。なんちゅー阿呆極まりない生き方をしているんだ、と言われる自信しかないこの私でも、四六時中ハリネズミになりつつ、そこそこ満たされた日々を送っている。あ、でもお金は欲しい。お金はいくらあっても困らない。この救いようのない阿呆さに同情してくれるなら、もし同情するなら、金をくれ。……この元ネタを知る人も、もう少なくなっている、か。
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