嗚呼、友よ

文字数 1,195文字

 ごはんの友、というものは世の中にごまんとある。しかしその主張が真実なのかどうかは、ごはんの意見を聞いていないから分からない。人気者は本人の預かり知らぬところで知人ができていたりするものだ。今だったら自分はオオタニサンの親友なのだとヨナグニサンが言い張るかもしれない。
 と、くだらない戯言はここまでにして。ごはん、つまり白米のベストフレンドとは一体誰なのだろう。などと、ここで改めて切り出すまでもなく、これまで数多の議論が口角泡を飛ばし交わされてきた(たぶん)。なんだったら、きのこ・たけのこの戦いと同じくらい関ヶ原で交戦しているかもしれない。あ、決着がついていないんだから、上杉武田の川中島のほうがいいか。しかし、あえて言いたいのだ。「米は米単体でも充分美味い」。
 かつて、三角食というのが学校給食で奨励されたことがあったのだという。伝聞系なのは、私自身は学校給食の恩恵に預かったことがないからだが、とりあえず、おかず・汁物・白米をひと口ずつ順番に食べるべし、そうすれば口の中でよき感じに調味されるであろう、といったお告げがどこかであったらしい。ぬぁーにをたわけたことを、とお告げ内容を聞いてすぐに思ったのだが、それはつまり「一つ一つをきちんと味わうに値しない料理」という、いわば調理師への侮辱にあたるものなのではなかろうか、と感じたからだった。案の定、三角食は単なる子どもが選り好みせず完食するための手段だったというが、個人的にはいまだにこの「口の中で味が完成する」というのがよく分からないのだ。作り手の意図がそこにあって、ぜひ一緒に、というならともかく、個々に完成された料理は単体で味わうことを前提に作られているのではないのか。それに、コース料理も懐石料理も、忌避される「ばっかり食べ」をこそ求めているように思えるのだが。
 などと門外漢が下手な考えを巡らすまでもなく、現在では、まず○○を食べ、食べ終わったら△△を食べ、それを食べ終わったら……といった食べ方が日常生活においても推奨されているらしい。まあ常識やマナーといったものは、事ほど左様に流動的で相対的なものなのである。
 って、感情が暴走しておかしな方向に話が行ってしまったが、そう、米は実に多様性があり、それだけを味わっていても飽きることがない。品種によってまるで個性が違ったりもするし、炊き方を変えればがらっとイメージチェンジしたりもする。だから、米は別に友がいなくたって平気なのだ。独りでしっかり自立できるのだ。
 ──あ! 誰だ、お前は友達が少ないからだろう、とか言ったのは。いるもん、いるもんね、うちのハムスターに、地域ネコ多数に、やたら懐いてくる蚊に……。

追記:大変に大変に恥ずかしい話だが、ご飯のともの「とも」とは「お供」のほうだったらしい。証拠隠滅することもできるが、あえてここに恥を末代まで晒しておくことにする。
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