#28 訪問者
文字数 5,717文字
緊張しながらリビングへ戻ると、沢地 は母さんの出したCDを勝手に聴いていた。
「おい、勝手にそのへん触るなって」
「いいじゃない。私と利照くんの仲じゃない」
「な、仲ってなんだよ」
自分の頬が赤くなるのを感じた俺は、慌てて背を向けて、テレビをつけようとする。
「あ、待って待って。トイレ、どこ?」
「そこの入り口出て、玄関方向の最初の左側のドア。左側だぞ?」
「ついて来ないでね?」
「だ、誰が行くかよっ」
俺はテレビをつけ、ポットに湯を沸かし、母さんのCDを止めてケースへとしまう。
なんなんだよ、沢地のやつ……本当になんなんだよ……それに馴れ馴れし過ぎるよな?
もしかして……歯とか磨いた方がいいのかな……なんて緊張MAXの中でどうかしてしまいかけていた俺の期待は、あっという間にしぼんだ。
沢地が急にお腹が痛くなったとかで、帰ってしまったのだ。
あいつ何しに来たんだよ。
ガチでトイレ借りに来ただけか?
せっかく淹れた紅茶を、一人で何杯も飲み、部屋へと戻る。
ベッドに横たわり、今さっき起きたことを整理しようとするが、考えれば考えるほどモヤモヤする。
行き場のない気持ちを丈侍 と共有しようとスマホを開いた俺の部屋の扉が、いきなり開かれた。
慌てて飛び起きて扉の方を見ると、眉間にシワを寄せた英志 が立っていた。
「兄貴、今日、俺の部屋に入った?」
「いや、入ってないけど」
「じゃあ、家に誰か入れた?」
とっさに言葉に詰まってしまう。
今日の出来事をきちんと説明できる自信がなかったから。
「玄関の防犯カメラ、確認してみたら?」
英志の後ろから姉さんの声。
二人ともいつの間に帰ってきたのか。
慌てて事情を説明した俺に対し、英志は蔑むような目で、一通の便箋を手渡した。
淡いピンク色の便箋。
中を読んでみると、明らかにラブレター……沢地から英志へとあてたものだった。
そんな俺を、姉さんはいつものように散々に責め始める。
そうです。
はい、そうです。
俺は人の気持がわからなくって、すぐ調子に乗るような馬鹿で、頭も悪くイケてもなく何も得意なことがない平凡な男なのに、身の程をわきまえない傲慢さと慢心とで目先の甘い言葉にホイホイと乗っかって、家族を売るような下劣さで、セキュリティ意識が低くて、性欲にまみれた下等人間で……。
情けなさと悔しさと切なさとで思わず目が覚めた……覚めた? 夢か。
思い出したくもなかったのに……と起き上がった俺の視界の隅で動くものがあった。
入り口のドア。
英志……なわけないよな。
寝る前に見た、ディナ先輩のお屋敷の一階奥の部屋のまま。
雨戸を閉めていないせいで、曇りガラスの窓から射し込む月の光が室内を淡く照らしている。
窓は月の方角ではないものの、ドアがそーっと開けられつつあるのは確認できる。
身構えて『魔力感知』を強めにすると、ドアの陰に立つのは一人だとわかった。
寿命の渦は猿種 ……ということは、ルブルムか、もしくはディナ先輩?
身構え、魔法代償を集中する準備をした俺の耳に聞こえた声は、ディナ先輩のものだった。
「反応がいいな。及第点だ」
淡い光の中に姿を現したのはディナ先輩その人。
格好は昼間と同じで、帯剣もしたまんま。
これ、起きれてなかったらヤバかったパターン?
というか、ルブルムやウェスさんが止めに入れないこの時間をあえて狙ってきたのなら……。
「お前に今から魔法をかける。受け入れろ」
「え、今?」
いやもう恐怖しかないんですけれど……うわ。
ディナ先輩はベッドの縁へと座る……ケティのときとシチュエーションは似ているけれど、緊張の度合いがまるで違う。
もちろん別の意味で。
ディナ先輩が右手を伸ばしてくる……素手で、俺の額に……俺は諦めてそれを受け入れることにした。
「目を閉じろ」
おとなしく従うと、目を閉じているにも関わらず、映像が浮かぶ。
暗闇の中に浮かび上がったのは、とても美しい女の人。
長い銀色の髪、細身で、顔立ちは大人で、どことなくディナ先輩に似ているけど、ディナ先輩の髪の毛は俺と同じ黒だしな。
悲しそうな、でもそれだけじゃない、胸を締め付けられるような表情。
こちらへ手を伸ばしていて……え、でも、この角度……上から見下ろしているような?
カエルレウム師匠みたいに露出多めのワンピースタイプのキャミソール……は、あちこち破れていて……これ以上の描写に言葉を費やすのが申し訳ないほど。
「……女の人が見えます。綺麗な人ですけれど、とてもつらそうな表情です」
「黙って聞いていろ。それは……ボクが見た、最後の母さまだ」
女の人の顔を改めて見る。
この人が、ディナ先輩の……。
「ボクの母様はアールヴという種族だ。アールヴは、天界 から来てこの世界に棲み着いた種族の一つでね」
アールヴ……耳馴染みのない種族。
こちらの世界に来てからゴブリン以外は種族も魔物も聞いたことがない名前ばっかり。
あ、でも獣種の名前は、けっこうエジプト神話の神様っぽいのが多いかな。
響きと意味が近いってのは、利照 の元の世界と、どこかでつながっているかもという希望にもつながる。
「アールヴは保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う。例え身内の命を救ってくれた良心的な……見た目がそっくりの猿種 であってもだ。普通なら話はそれで終わりだ。だけど母さまは愚かだったから、周囲の反対を押し切って、自分の命を救ってくれた猿種 の男と、駆け落ちしてしまったんだ」
見えていた画像が消える。
魔法の効果時間は元の世界の十秒くらいかな……こちらの世界には、ディヴより小さい単位はないし、持ち歩けるような時計もないから、魔法の効果時間を計るときは元の世界の秒でとらえた方がしっくりくる。
「母さまは男の故郷の村で一緒に暮らし始めた。その男のことがよっぽど好きだったんだろう。母さまはボクを産んだんだ……アールヴというのはね、とても長命な種族なんだ。平均寿命だって千年は超える。頻繁に発情する獣種と違って性欲だってほとんどない。アールヴが子を作るというのは、それだけ貴重なことなんだ」
長命で細身で美しい種族ってイメージ的にはエルフだけど、特に耳は尖ってないしなぁ。
「だが戦争が始まった。父は戦争に駆り出され、そこで命を落とした。いや、殺されたんだ。同じ戦場に行った村人が、味方に後ろから刺されたのを見ていて、後でこっそり教えてくれた。領主直属の兵士の仕業だと……それなのに、せっかく教えてくれたのに、母さまは逃げなかった。父の母親が病に臥せっていたから、置いていけないと留まったのだ」
俺の額に触れているディナ先輩の指がわずかに震えだす。
「仕事も持たないよそ者と、幼いボク、それから病人。どうやって暮らしていけると思う? そのうち生活に困窮するようになったよ。母さまは慣れない農作業を頑張ったけれど、農業に関しては素人だ。村人も誰も助けてくれなかった……というより、助けることができなかったんだ。領主が、差し伸べた手以外はつかめないように……その領主が、モトレージ白爵 キカイーだ」
領主の手下が犯人だって分かっているのに……何もできないだなんて。
ストウ村があるクスフォード領の領主はクスフォード虹爵 マウルタシュ様……うちの領主様はとても良い方らしく、ストウ村の人々はずっと平和に暮らしてこれている。
クスフォード領はラトウィヂ王国の南部を占めていて、この地域に限ってはリテルが生まれてから戦争は一度も起きていない。
あれ?
そういえば……カエルレウム師匠に教えていただいた最上級の魔石は虹魔石 だった。
白爵 ……白爵の白は、白魔石 と同じ単語だ。
リテルの記憶にある爵位の序列……虹爵 、紅爵 、白爵 、紫爵 、濁爵 ……カエルレウム師匠に教えていただいた魔石の貴重さの序列……虹魔石 、紅魔石 、白魔石 、紫魔石 、濁魔石 ……一致する!
魔石と爵位には、なにか関係あるのかもしれない。
「キカイーの奴には娘が居た。ボクと同じくらいのね。母さまはその娘の世話係、ボクはその娘の遊び相手としてキカイーの屋敷に住まわされた。父の母親の世話を看てもらえるという条件を信じて、母さまはそれを引き受けたんだ」
信じて……なんかイヤな予感しかしないんだけど。
「キカイーの屋敷では贅沢な暮らしが待っていた。母さまもボクも装飾がついた服を与えられ、奴の娘もわがままではあったけれど、ボクらは精一杯尽くしたんだ。その頃のボクは何も知らなくて、キカイーの奴を……実はいい人だったんじゃないか、なんて信じ込みかけていた。でもね、ボクが十歳になったとき、世界のすべてが裏返った」
俺の額から、ディナ先輩の手が離れる。
「奴の娘の結婚が決まったんだ。ボクらは他の何人かの侍女のように従者としてついて行くのだとばっかり思ってたけれど、違った。ボクには新しい仕事が与えられるという。当時のボクは何も疑わず、その仕事部屋へと向かったんだ」
ディナ先輩は拳を固く握り込む。
ベッドにあぐらをかいた俺の膝の上で、その拳は戦慄いている。
「ボクはそこで、キカイーの慰みモノにされた。逃げようとはした。でも、母さまを守りたければ従え、という脅しに、ボクは逆らえなかった」
え、ちょっと待って十歳って……元の世界での十二歳……だとしても……。
歴史の授業で幼い年齢で政略結婚って話は聞いたことあったけれど、それはあくまでも家同士の結びつきのための結婚であって……。
パイアに襲われたときのことを思い出して、胸が詰まる。
「その夜、ボクの様子がおかしいことに母さまは気付いた。そして、謝られた。母さまが身を捧げ続けている間は、ボクが守られているはずだったのに、という母さまの言葉を聞いて、母さまはやっぱり愚かなのだなと感じた」
いつも力強くしゃべるディナ先輩の声はやけに静かで、落ち着いていた。
● 主な登場者
・利照 /リテル
利照として日本で生き、十五歳の誕生日に熱が出て意識を失うまでの記憶を、同様に十五歳の誕生日に熱を出して寝込んでいたリテルとして取り戻す。ただ、この世界は十二進数なのでリテルの年齢は十七歳ということになる。
リテルの記憶は意識を集中させれば思い出すことができる。
ケティとの初体験チャンスに戸惑っているときに、頭痛と共に不能となった。
魔女の家に来る途中で瀕死のゴブリンをうっかり拾い、そのままうっかり魔法講義を聞き、さらにはうっかり魔物にさらわれた。
不能は呪詛によるものと判明。カエルレウムに弟子入りした。魔術特異症。猿種 。
フォーリーの街に来てから嫌な思い出が多いが、修行として受け止めている。
異世界から来たことをとうとう打ち明けた。
・カエルレウム師匠
寄らずの森に二百年ほど住んでいる、青い長髪の魔女。猿種 。
肉体の成長を止めているため、見た目は若い美人で、家では無防備な格好をしている。
お出かけ用の服や装備は鮮やかな青で揃えている。
寄らずの森のゴブリンが増えすぎないよう、繁殖を制限する呪詛をかけた張本人。
リテルの魔法の師匠。
・ルブルム
魔女の弟子。赤髪で無表情の美少女。リテルと同い年くらい。猿種 のホムンクルス。
かつて好奇心から尋ねたことで、アルブムを泣かせてしまったことをずっと気にしている。
カエルレウムの弟子を、リテルのことも含め「家族」だと考えている。
・ディナ先輩
ルブルムの先輩。フォーリー在住。カエルレウムの弟子。
男全般に対する嫌悪が凄まじいが、リテルのことは弟弟子と認めてくれた様子。
アールヴと猿種 のハーフ。深夜に壮絶な過去を語り始めた。
・ウェス
ディナ先輩の部下。肌が浅黒い女性で、男嫌いっぽい。
兎よりもちょっと短い耳をしている蝙蝠種 。
・ディナ先輩の母さま
天界 から来てこの世界に棲み着いたアールヴという種族。
周囲の反対を押し切って、自分の命を救ってくれた猿種 の元へ嫁いだ。
・キカイー
モトレージ領を治める白爵 。
ディナ先輩とその母を欲望のままに追い込んだ。
・マウルタシュ
フォーリーやストウ村を有するクスフォード領を治める虹爵 。
・沢地 怜慈奈
元の世界において、可愛くて男子人気も高いのに利照にかまってきた。
女友達……だと思っていたが、実はそうではなかったっぽい。
・元の世界の母さん
元の世界における利照の母。利照に音楽の才能がないとわかると習い事をやめさせ、一切期待しなくなった。
公演やら取材やら練習やらでなんだかんだ家に居ない。CDを出している。
・幕道 丈侍
元の世界における利照の親友。
小三からずっと同じクラス。頭が良い。
実家に居場所がなかった利照は、学校帰りはしょっちゅう丈侍の家に入り浸っていた。
・英志
元の世界における利照の一つ下の、できのいい弟。音楽の才能がある。
ハッタを拾ってきたが、稽古事で忙しいため、ハッタの世話を利照に丸投げした。
・姉さん
元の世界における利照の実姉。
才能に恵まれた完璧主義者だが、才能がない者の気持ちはわからない。
コンクール前でピリピリしているときは利照を言葉責めしてストレスを発散している。
・アールヴ
天界 から来てこの世界に棲み着いた人型種族の一つ。
保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う。
● この世界の単位
・ディエス
魔法を使うために消費する魔法代償(寿命)の最小単位。
魔術師が集中する一ディエスは一日分の寿命に相当するが、魔法代償を集中する訓練を積まない素人は一ディエス分を集中するのに何年分もの寿命を費やしてしまう恐れがある。
・ホーラ
一日を二十四に区切った時間の単位(十二進数的には「二十に区切って」いる)。
元の世界のほぼ一時間に相当する。
・ディヴ
一時間 の十二分の一となる時間の単位(十二進数的には「十に区切って」いる)。
元の世界のほぼ五分に相当する。
・アブス
長さの単位。
元の世界における三メートルくらいに相当する。
・プロクル
長さの単位
一プロクル=百アブス。
この世界は十二進数のため、実際は(3m×12×12=)432mほど。
・通貨
銅貨 、銀貨 。
十銅貨 (十二進数なので十二枚)=一銀貨
「おい、勝手にそのへん触るなって」
「いいじゃない。私と利照くんの仲じゃない」
「な、仲ってなんだよ」
自分の頬が赤くなるのを感じた俺は、慌てて背を向けて、テレビをつけようとする。
「あ、待って待って。トイレ、どこ?」
「そこの入り口出て、玄関方向の最初の左側のドア。左側だぞ?」
「ついて来ないでね?」
「だ、誰が行くかよっ」
俺はテレビをつけ、ポットに湯を沸かし、母さんのCDを止めてケースへとしまう。
なんなんだよ、沢地のやつ……本当になんなんだよ……それに馴れ馴れし過ぎるよな?
もしかして……歯とか磨いた方がいいのかな……なんて緊張MAXの中でどうかしてしまいかけていた俺の期待は、あっという間にしぼんだ。
沢地が急にお腹が痛くなったとかで、帰ってしまったのだ。
あいつ何しに来たんだよ。
ガチでトイレ借りに来ただけか?
せっかく淹れた紅茶を、一人で何杯も飲み、部屋へと戻る。
ベッドに横たわり、今さっき起きたことを整理しようとするが、考えれば考えるほどモヤモヤする。
行き場のない気持ちを
慌てて飛び起きて扉の方を見ると、眉間にシワを寄せた
「兄貴、今日、俺の部屋に入った?」
「いや、入ってないけど」
「じゃあ、家に誰か入れた?」
とっさに言葉に詰まってしまう。
今日の出来事をきちんと説明できる自信がなかったから。
「玄関の防犯カメラ、確認してみたら?」
英志の後ろから姉さんの声。
二人ともいつの間に帰ってきたのか。
慌てて事情を説明した俺に対し、英志は蔑むような目で、一通の便箋を手渡した。
淡いピンク色の便箋。
中を読んでみると、明らかにラブレター……沢地から英志へとあてたものだった。
そんな俺を、姉さんはいつものように散々に責め始める。
そうです。
はい、そうです。
俺は人の気持がわからなくって、すぐ調子に乗るような馬鹿で、頭も悪くイケてもなく何も得意なことがない平凡な男なのに、身の程をわきまえない傲慢さと慢心とで目先の甘い言葉にホイホイと乗っかって、家族を売るような下劣さで、セキュリティ意識が低くて、性欲にまみれた下等人間で……。
情けなさと悔しさと切なさとで思わず目が覚めた……覚めた? 夢か。
思い出したくもなかったのに……と起き上がった俺の視界の隅で動くものがあった。
入り口のドア。
英志……なわけないよな。
寝る前に見た、ディナ先輩のお屋敷の一階奥の部屋のまま。
雨戸を閉めていないせいで、曇りガラスの窓から射し込む月の光が室内を淡く照らしている。
窓は月の方角ではないものの、ドアがそーっと開けられつつあるのは確認できる。
身構えて『魔力感知』を強めにすると、ドアの陰に立つのは一人だとわかった。
寿命の渦は
身構え、魔法代償を集中する準備をした俺の耳に聞こえた声は、ディナ先輩のものだった。
「反応がいいな。及第点だ」
淡い光の中に姿を現したのはディナ先輩その人。
格好は昼間と同じで、帯剣もしたまんま。
これ、起きれてなかったらヤバかったパターン?
というか、ルブルムやウェスさんが止めに入れないこの時間をあえて狙ってきたのなら……。
「お前に今から魔法をかける。受け入れろ」
「え、今?」
いやもう恐怖しかないんですけれど……うわ。
ディナ先輩はベッドの縁へと座る……ケティのときとシチュエーションは似ているけれど、緊張の度合いがまるで違う。
もちろん別の意味で。
ディナ先輩が右手を伸ばしてくる……素手で、俺の額に……俺は諦めてそれを受け入れることにした。
「目を閉じろ」
おとなしく従うと、目を閉じているにも関わらず、映像が浮かぶ。
暗闇の中に浮かび上がったのは、とても美しい女の人。
長い銀色の髪、細身で、顔立ちは大人で、どことなくディナ先輩に似ているけど、ディナ先輩の髪の毛は俺と同じ黒だしな。
悲しそうな、でもそれだけじゃない、胸を締め付けられるような表情。
こちらへ手を伸ばしていて……え、でも、この角度……上から見下ろしているような?
カエルレウム師匠みたいに露出多めのワンピースタイプのキャミソール……は、あちこち破れていて……これ以上の描写に言葉を費やすのが申し訳ないほど。
「……女の人が見えます。綺麗な人ですけれど、とてもつらそうな表情です」
「黙って聞いていろ。それは……ボクが見た、最後の母さまだ」
女の人の顔を改めて見る。
この人が、ディナ先輩の……。
「ボクの母様はアールヴという種族だ。アールヴは、
アールヴ……耳馴染みのない種族。
こちらの世界に来てからゴブリン以外は種族も魔物も聞いたことがない名前ばっかり。
あ、でも獣種の名前は、けっこうエジプト神話の神様っぽいのが多いかな。
響きと意味が近いってのは、
「アールヴは保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う。例え身内の命を救ってくれた良心的な……見た目がそっくりの
見えていた画像が消える。
魔法の効果時間は元の世界の十秒くらいかな……こちらの世界には、ディヴより小さい単位はないし、持ち歩けるような時計もないから、魔法の効果時間を計るときは元の世界の秒でとらえた方がしっくりくる。
「母さまは男の故郷の村で一緒に暮らし始めた。その男のことがよっぽど好きだったんだろう。母さまはボクを産んだんだ……アールヴというのはね、とても長命な種族なんだ。平均寿命だって千年は超える。頻繁に発情する獣種と違って性欲だってほとんどない。アールヴが子を作るというのは、それだけ貴重なことなんだ」
長命で細身で美しい種族ってイメージ的にはエルフだけど、特に耳は尖ってないしなぁ。
「だが戦争が始まった。父は戦争に駆り出され、そこで命を落とした。いや、殺されたんだ。同じ戦場に行った村人が、味方に後ろから刺されたのを見ていて、後でこっそり教えてくれた。領主直属の兵士の仕業だと……それなのに、せっかく教えてくれたのに、母さまは逃げなかった。父の母親が病に臥せっていたから、置いていけないと留まったのだ」
俺の額に触れているディナ先輩の指がわずかに震えだす。
「仕事も持たないよそ者と、幼いボク、それから病人。どうやって暮らしていけると思う? そのうち生活に困窮するようになったよ。母さまは慣れない農作業を頑張ったけれど、農業に関しては素人だ。村人も誰も助けてくれなかった……というより、助けることができなかったんだ。領主が、差し伸べた手以外はつかめないように……その領主が、モトレージ
領主の手下が犯人だって分かっているのに……何もできないだなんて。
ストウ村があるクスフォード領の領主はクスフォード
クスフォード領はラトウィヂ王国の南部を占めていて、この地域に限ってはリテルが生まれてから戦争は一度も起きていない。
あれ?
そういえば……カエルレウム師匠に教えていただいた最上級の魔石は
リテルの記憶にある爵位の序列……
魔石と爵位には、なにか関係あるのかもしれない。
「キカイーの奴には娘が居た。ボクと同じくらいのね。母さまはその娘の世話係、ボクはその娘の遊び相手としてキカイーの屋敷に住まわされた。父の母親の世話を看てもらえるという条件を信じて、母さまはそれを引き受けたんだ」
信じて……なんかイヤな予感しかしないんだけど。
「キカイーの屋敷では贅沢な暮らしが待っていた。母さまもボクも装飾がついた服を与えられ、奴の娘もわがままではあったけれど、ボクらは精一杯尽くしたんだ。その頃のボクは何も知らなくて、キカイーの奴を……実はいい人だったんじゃないか、なんて信じ込みかけていた。でもね、ボクが十歳になったとき、世界のすべてが裏返った」
俺の額から、ディナ先輩の手が離れる。
「奴の娘の結婚が決まったんだ。ボクらは他の何人かの侍女のように従者としてついて行くのだとばっかり思ってたけれど、違った。ボクには新しい仕事が与えられるという。当時のボクは何も疑わず、その仕事部屋へと向かったんだ」
ディナ先輩は拳を固く握り込む。
ベッドにあぐらをかいた俺の膝の上で、その拳は戦慄いている。
「ボクはそこで、キカイーの慰みモノにされた。逃げようとはした。でも、母さまを守りたければ従え、という脅しに、ボクは逆らえなかった」
え、ちょっと待って十歳って……元の世界での十二歳……だとしても……。
歴史の授業で幼い年齢で政略結婚って話は聞いたことあったけれど、それはあくまでも家同士の結びつきのための結婚であって……。
パイアに襲われたときのことを思い出して、胸が詰まる。
「その夜、ボクの様子がおかしいことに母さまは気付いた。そして、謝られた。母さまが身を捧げ続けている間は、ボクが守られているはずだったのに、という母さまの言葉を聞いて、母さまはやっぱり愚かなのだなと感じた」
いつも力強くしゃべるディナ先輩の声はやけに静かで、落ち着いていた。
● 主な登場者
・
利照として日本で生き、十五歳の誕生日に熱が出て意識を失うまでの記憶を、同様に十五歳の誕生日に熱を出して寝込んでいたリテルとして取り戻す。ただ、この世界は十二進数なのでリテルの年齢は十七歳ということになる。
リテルの記憶は意識を集中させれば思い出すことができる。
ケティとの初体験チャンスに戸惑っているときに、頭痛と共に不能となった。
魔女の家に来る途中で瀕死のゴブリンをうっかり拾い、そのままうっかり魔法講義を聞き、さらにはうっかり魔物にさらわれた。
不能は呪詛によるものと判明。カエルレウムに弟子入りした。魔術特異症。
フォーリーの街に来てから嫌な思い出が多いが、修行として受け止めている。
異世界から来たことをとうとう打ち明けた。
・カエルレウム師匠
寄らずの森に二百年ほど住んでいる、青い長髪の魔女。
肉体の成長を止めているため、見た目は若い美人で、家では無防備な格好をしている。
お出かけ用の服や装備は鮮やかな青で揃えている。
寄らずの森のゴブリンが増えすぎないよう、繁殖を制限する呪詛をかけた張本人。
リテルの魔法の師匠。
・ルブルム
魔女の弟子。赤髪で無表情の美少女。リテルと同い年くらい。
かつて好奇心から尋ねたことで、アルブムを泣かせてしまったことをずっと気にしている。
カエルレウムの弟子を、リテルのことも含め「家族」だと考えている。
・ディナ先輩
ルブルムの先輩。フォーリー在住。カエルレウムの弟子。
男全般に対する嫌悪が凄まじいが、リテルのことは弟弟子と認めてくれた様子。
アールヴと
・ウェス
ディナ先輩の部下。肌が浅黒い女性で、男嫌いっぽい。
兎よりもちょっと短い耳をしている
・ディナ先輩の母さま
周囲の反対を押し切って、自分の命を救ってくれた
・キカイー
モトレージ領を治める
ディナ先輩とその母を欲望のままに追い込んだ。
・マウルタシュ
フォーリーやストウ村を有するクスフォード領を治める
・
元の世界において、可愛くて男子人気も高いのに利照にかまってきた。
女友達……だと思っていたが、実はそうではなかったっぽい。
・元の世界の母さん
元の世界における利照の母。利照に音楽の才能がないとわかると習い事をやめさせ、一切期待しなくなった。
公演やら取材やら練習やらでなんだかんだ家に居ない。CDを出している。
・
元の世界における利照の親友。
小三からずっと同じクラス。頭が良い。
実家に居場所がなかった利照は、学校帰りはしょっちゅう丈侍の家に入り浸っていた。
・
元の世界における利照の一つ下の、できのいい弟。音楽の才能がある。
ハッタを拾ってきたが、稽古事で忙しいため、ハッタの世話を利照に丸投げした。
・姉さん
元の世界における利照の実姉。
才能に恵まれた完璧主義者だが、才能がない者の気持ちはわからない。
コンクール前でピリピリしているときは利照を言葉責めしてストレスを発散している。
・アールヴ
保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う。
● この世界の単位
・ディエス
魔法を使うために消費する魔法代償(寿命)の最小単位。
魔術師が集中する一ディエスは一日分の寿命に相当するが、魔法代償を集中する訓練を積まない素人は一ディエス分を集中するのに何年分もの寿命を費やしてしまう恐れがある。
・ホーラ
一日を二十四に区切った時間の単位(十二進数的には「二十に区切って」いる)。
元の世界のほぼ一時間に相当する。
・ディヴ
一
元の世界のほぼ五分に相当する。
・アブス
長さの単位。
元の世界における三メートルくらいに相当する。
・プロクル
長さの単位
一プロクル=百アブス。
この世界は十二進数のため、実際は(3m×12×12=)432mほど。
・通貨
十