9、長い日だった

文字数 8,049文字

 私は今、火陽家を目指す馬車の中だ。御者を務めているのは、青帆(はるほ)。道のない、だだっ広い草原の未開拓地を、ひたすら馬車で進んでいる。絶え間無く揺さ振られる馬車の中で、私は眠りについていた。

 始めは、懐かしい思い出の夢を見ていた。青帆に初めて会った日の夢だった。あの時青帆は七歳で、私は十二歳だった。蕾花能力(らいかのうりょく)の暴走で両親を殺した私は、罪が公になるのを恐れて他家の領地に逃げ込んだ所を、青帆に拾われたのだ。
 食事、寝床、仕事の全てを、困っている人に提供している青雫家(あおしずくけ)の娘だった彼女は、私を家族にしてくれた。青雫の名を貰い、恩を返したい一心で働いてた私の元に一水様が訪れ、見初められた私は、水園の名を譲り受けたのだ。
 青帆(はるほ)に出逢うまでの記憶は(おぼろ)げで、記憶に残っているのは、両親の言っていたこと、やっていたこと、両親を殺したことだけ。気がついたら川の中に居て、降ってくる雪を眺めていたのだ。その後青帆に拾われて色々聞かれたが、親の容姿、名前、何処の家に居たのか、何ひとつとして憶えていなかったため、記憶喪失の孤児として青雫家に入れてもらったのだ。

 気がつくと、その夢は悪夢に変わっていた。何故か私達は炎に包まれており、七歳姿の青帆が私の手を取って、強引に川から引っ張り上げようとしている。次の瞬間には川は転倒した馬車に、青帆は今と同じ姿に変わっていた。私に手を伸ばしている青帆を、強引な手つきで私から引き剥がそうとしている人が見える。倒れているのか視界が狭く、視界の半分は馬車の車体で埋まっている。
 青帆を引っ張っている誰かのマントらしき物がはためく。一瞬見えたマントの上部は、肩から袖にかけて紅く染まっていた。この特徴のマントは、火陽家(ひようけ)の……最後に視えたのは、炎の向こうへ引き()られていく青帆の表情が、炎に包まれて──

青帆(はるほ)っ!」

 叫びながら飛び起きた私を、驚いた表情で見つめてくる青帆。

「ど……どうかしましたか?」

「あ、えと……こ、恐い夢を見ただけよ……驚かせてしまって、ごめんなさいね?」

「いえ、そういうことなら別に……そうだ。この休憩は、あと三分程取らせていただきます。休憩が終わり次第、出発致します。残り八時間程で火陽家領に着く予定なので、頑張って下さいね〜」

 にこにこと食事を再開する青帆に、提案する。

「えぇ、貴女こそ……ちゃんと休憩挟んで頂戴ね? 一人で一日中御者を務めるなんて、大変だもの……それと、二人きりで、水園家の外なんだから……敬語は辞めようよ、ね?」

「……分かった。でも、仕事は仕事だからね! あと、昼食そこに準備しといたから食べてね」

「ありがとう青帆、大好き」

 渋々と、了承してくれた彼女に笑いかけると、食事を終えて目を逸らした青帆が、呟いた。

「サヨ……恥ずかしくないの? 息子が二人も居る母親になったのに、まだそんなこと言って……」

「恥ずかしくなんかないよ、青帆(はるほ)は私の女神様だから! ……余計なレッテル貼らないでよね、私は沙依(さより)、青帆がくれた名前の通りに生きるの。何があっても、どんな立場になっても、青帆のサヨだから──」

「あー、はいはい、分かったから」

 最後まで言わせてもらえなかったことに寂しくなる。つい熱くなって青帆に寄って行っていたみたいで、離れてと、手を振られてしまう。しかし、顔を隠している青帆の耳が赤く染まっているのに気がつき、満足した私は、大人しく青帆から離れるのだった。

 昼食を摂り、火陽家当主への挨拶を考え、夕陽を眺め、星空を眺める頃に、火陽家へ着いた。歓迎を受け、通された部屋で明日の準備をする。交渉は、明日の十時からだ。持ってきた夕飯を青帆と食べて、部屋に併設されている風呂をいただき、床に着いた。

 明日の事を考えると、胃がきりきり痛むが、水園家の身内の命が懸っているので、失敗は許されない。「大丈夫」と一水様の笑顔を思い出し、気持ちを和らげた。私は無事に家へ帰り、家族に再開出来ることを願ってから、眠りについた。

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

 現在は、約束の十時……火陽家(ひようけ)の家長との交渉を目前に控えている。火陽家の人が私達を呼んだ。いよいよだ……この交渉に失敗すれば、水園家の身内が死ぬ可能性がある、失敗は出来ないと考えれば考える程、緊張する。
 一水様の「大丈夫だ」ボイスを脳内でリピートしていると、私が緊張していることに気がついたのか、青帆が「大丈夫」と声をかけてくれる。青帆(はるほ)にも励まされ、自信がついた私は、深呼吸をして、案内された部屋へ足を踏み入れた。

 そこは、開けた空間だった。高い天井には、太陽の絵が描かれており、中心の太陽は、神々しい光を部屋に注いでいた。正面には、大きい椅子が置いてあり、人間サイズの椅子に置かれた人形のように、小さな女の子がちょこんと座っていた。
 人形のように整った顔立ちをしている、その女児は、青色の吊り目を少し細め、私を見据えて居る。燃え上がるような天然パーマの紅い髪は、炎そのもののようで、前髪を残して、左右の髪は後ろで一つにしているようだった。肩に掛かる程度の残りの髪の毛は、下ろしている。肘掛に肘を乗せて、細い脚を組んで鎮座する姿は、十歳位の幼い容姿にも関わらず、当主の威厳を感じさせていた。

 椅子の側には長身の男性が立っており、笑っていない目で笑顔を浮かべていた。左眼に火玉を(かたど)った眼帯を着けていて、見えている灰色の瞳は、燃え尽きた灰の様に冷たく、私達を敵視しているようだ。しかし、口は綺麗に曲げられており、笑顔をたたえている。なんとも不気味な表情だ。
 茶寄りの明るい橙色の髪は、眼帯を強調するかのように、前髪の左側だけを上げて後ろへ流し、固めている。燃えているような鮮やかな刺繍で作られた火玉のグラデーションが、美しい眼帯だったので、見せびらかしたくなる気持ちも分からなくもない。
 左から右にかけて、斜めにカットされている前髪は、ちょっぴり目に掛かっている。後髪が長いようで、左耳の後ろから覗く髪先を見るに、左寄りで棒状に一つ縛りにしているようだった。

 通された部屋には、その二人しかおらず、私達を案内した人も部屋の入り口を閉じて、部屋に入っては来なかった。身の振り方が分からず、突っ立っていた私達に、火陽家当主の少女が告げる。

「その場に、(ひざまず)くとよい」

「では、失礼します」

 いきなりの命令口調に驚きつつ、失礼をしてはいけないと思い、素早く言われた通りに跪いた。青帆は、嫌悪の表情を浮かべたが、私が目配せをすると、同じ様に跪いてくれた。私達が跪いたのを見計らって、当主が話しかけてきた。

「良い。では、遠路遥々よう来てくれたな、お主達よ。して、用件は、なんじゃ? ……申してみよ」

「はい……当主様の御心遣に感謝致します。寛大なお言葉、有り難く受け取らせていただきます。私共(わたくしども)が今回、こちらに赴かせて頂いたのは、火陽家に属することになった、向日葵家(ひまわりけ)についてお願いが御座いまして……その話をしに、参りました次第であります」

「ふむ……向日葵家が我が家の配下になると、水園家に問題があるのかえ?」

「はい……申し上げにくいのですが、向日葵家と(わたくし)は、既に契約を結んでおりまして、向日葵家を我が家に迎える前に、御家(おんけ)が配下に連れて行ってしまったのです……契約を解除する為の話し合いを行いたいのですが、お許し頂けますでしょうか?」

 私が言い終わると同時に沈黙が流れ、始めのステップから躓いてしまったら後がない……と、緊張と不安のゲージが、マックスになる。そんな時こそ、一水様の「大丈夫」ボイス! と言わんばかりに、脳が自動再生を開始する。便利なリピート機能付きなので、素敵な笑顔の映像と共に、「大丈夫」「大丈夫」と、反芻(はんすう)していく。十回程リピートした時、沈黙が破られた。

「……話は、聴くとする」

「あ、ありがとうございます。では、先程申しました通り、私は向日葵家と契約を結んでおりまして、契約内容は、向日葵家を水園家領に連れ帰り、我が家に名を置く……というもので、明日が期日となっております故、向日葵家を水園家に譲っては下さらないでしょうか?」

「なるほどのう……対価は、どうするのかえ? 我が家も、タダで譲る訳には行かぬ」

「はい、その事に関してですが、私らの希望を受け入れて下さった暁には、御家と協力体制を築かせていただきます。今後、何があっても味方を致します」

「……少し、考える時間をくれんかのう?」

「是非お願いします! じっくりと、ご検討下さい……良き返事をお待ちしております」

 練習通りに言えた私は、心の中で安堵の声を漏らす。

「は──、やった……やった、やった、ここまで来たぞっ、やった、やった、がんばったぞ、わたし!」

 安堵の声が、リズムを刻み始め、安堵の宴を開きかけた脳内に、火陽家当主の声が降り注いだ。

「よいよい、ちょっとばかり待っておれ、楽にしておって良いぞ。もしかしたら、時間がかかるかもしれぬからの……」

 そう言って、彼女は椅子から飛び降りて、椅子の後ろへ入って行った。何か、重いものが動く音がしたと思ったら、彼女は何処にも見当たらなくなった。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 数秒経った辺りのことだった。当主様が消えた椅子の奥から、物凄い物音がしたのだ。壁に、全身を叩きつけた様な音だった。何かあったのではと心配になり、当主様の従者らしき男に話しかけた。

「あの、凄い音がしたのですが……敵襲ですか?」

「はっ、敵は、あんたらのことだろうが」

 冗談のつもりだったが、冷たい返事が返ってきてしまった。私は、それでもめげずに続けて話しかけてみる。

「あの、お名前を教えて頂けますでしょうか?」

「名前? ……俺の名前はな、姫様につけてもらったんだ。だから! 有難く思えよ! 俺の名前を通して、姫様のネーミングセンスの素晴らしさを知れることを! 俺の名前は、焔心(えんしん)だ! 覚えとけ! 姫様の素晴らしいネーミングセンスの塊である俺の名を……!」

 暇だったので何か有益な情報でも手に入らないかと思って話しかけたが、焔心という名のこの男は、火陽家の当主様を溺愛している……変態ということが分かった。
 名前を聞いただけなのに、姫様を持ち上げたいのか、自分の名前を記憶させたいのか、分かりにくい自己紹介だったな……。この人には関わらないで置こう。よし、当たり障りのないことでも言って手を引こう。

「御当主様のことが、大好きなんですね」

「もっちろん! 姫様は、まず見た目がいい! 可愛さと美しさを兼ね備えた容姿に、賢さと冷たさを感じさせる瞳が──」

 何故かドヤ顔で語り始めた焔心に、ドン引きした私は、話しかけたことを深く後悔したのだった。

「私のことを褒める時のサヨにそっくりだね」

 青帆(はるほ)が何か言った気がするが、無視した。目の前まで近づいてきて、姫様について熱く語っている変態と同類にされるのは、なんだかちょっと嫌だったのだ。笑顔で相槌を打ちつつ、客観的にみた私って、こんなにキモ……変なことしてるのかな? うん、今度から気をつけよう。

 焔心が姫様自慢を始めてしばらく経った頃、ふと椅子をみると、火陽家の当主様が帰ってきていた。全身血塗れで左眼が開いておらず、額にはガラスの破片が刺さっていた。火陽の当主様に気がつき、側へ駆け寄って行く焔心(えんしん)は、焦っているようにも、嬉しそうにも、楽しそうにも見えた。

「姫様っ、大丈夫ですか! ……やっと、勝ったんです?」

「……えぇ。私の勝利よ」

 愉しげに尋ねた焔心に、とても柔らかい笑顔を向ける当主様は、五分前とは別人のようだった。焔心は、当主様の返事を受け止め、しばらくの間その答えを噛み締めるように黙り込んだ……と思ったら、突然大声で笑い出した。

「ふはっ! はははっ……はっ! やりましたねぇ、姫様! では、シメに移りますか!」

「うむ、早い所終わらせてしまおうかの……」

「はいはいっ! そうしましょう」

 シメだとか、終わらせてしまおうだとか、身の危険を感じさせるような言葉を交わす当主様と焔心に、警戒体勢を強めようとした次の瞬間には、数十メートル先に居たはずの焔心が目の前に立っていて、青帆(はるほ)が私を守るように立ち、焔心(えんしん)の突き立てた小刀を素手で弾き返していた。

「やっぱ、やるねぇ……」

 彼は、眼を細めて呟き、一度に三歩分後方へ跳んだ。

「今度は一体何のつもりですか? 刃物まで取り出して……交渉決裂で、戦おうって訳ですか?」

 青帆が二人を睨む、が、焔心(えんしん)は笑って言う。

「ふははっ! そんな気は無いよ? ただ、実力を試したかっただけだからね」

 実力と、試す、の単語に表情を険しくしていく青帆とは反対に、笑みを深めていく火陽家当主様に、勇気を出して尋ねる。

「火陽の当主様、向日葵家を譲るという話の返事……お聞かせ願います」

「そうじゃったの……あの話、受けることにする……じゃが、こちらから条件をひとつ付け足させてもらってもいいかえ?」

「なんでしょうか……?」

「そちの女を、(わっち)に渡してはくれぬかえ?」

 笑みを浮かべたまま、当主様は、青帆(はるほ)を指差した。

 思考が止まりそうになった。自分が七つの頃から側にいて、自分を救ってくれた女神様で、水園家に嫁いだとき、側仕えに任命され、ずっと支えてくれていた彼女を、他家に渡す? 絶対に嫌だ。青帆を渡したくない。彼女を火陽家にあげるなんて、出来ない。渡したくない、青帆は私のもの……誰にも渡さない、青帆の主人は私だけ……!

 気がつくと、独占欲(どくせんよく)という名の黒い沼に、私は胸まで浸かっていた。青帆のことは、大切に想っていた。その気持ちの正体が、こんなに醜い物だったとは……今迄気がつかなかった。誰も、私から彼女を奪おうとしなかったから。青帆を貸すなら我慢できるが、青帆を私以外の主人に仕えさせるなんて論外だ。私の青帆への気持ちは、大好きでは無くて、誰にも渡さない、だったのだ。

 思い出したように、浴びている光の光源を仰ぐ。私は、青帆より、大切にしなければならないモノを背負っている。あの光に救われて、あの光に見守られ、あの光に届くために、あの光の中に行けるように、この背に背負うものを、沈ませてはならない。黒い泥中の中でもがくような人生でも、護りたいものがあって、大切にしたいものもあって、背負わなくてはいけないものがあって、守らなければならないものがあって……なにより、譲れないものがある。

 水園家の家族を守らなければいけない……でも、青帆は譲れない。この二択を突きつけられ、私は耐えられず、青帆の手を引いて走り出した。しかし、唯一の出口は開くはずもなく、直ぐに立ち止まる。やはり、選ぶしかないのか? 露草家の(れい)くんの命か、大好きな青帆のどちらを失うのかを。

 考えなければ……絶対選択の二択を、三択にする方法を。しかし、青帆(はるほ)を渡さないという選択をした場合、向日葵家を見捨てることになる。花家の中で、露草家と向日葵家の階級は、一家違いだ。向日葵との契約が切れても、露草家当主の澪君が死ぬことは、最低でもないだろう。
 だが、向日葵家当主は、恐らく死んでしまう。花家は、家長の蕾花能力(らいかのうりょく)の強さで階級がつけられているので、上下の差は大きい。

 澪くんは花家の二階級だから、朝顔家以外の花家は敵ではない。なら、青帆を火陽家に渡す必要は無い。交渉決裂を(よそお)って、青帆と一緒に水園家へ帰ればいい。火陽家が何もしないで、私達を無事に帰してくれるというのならばの話だが。

 そして、結論を出した私は躊躇(ちゅうちょ)する。

 やるならやってしまえばいい……でも、こんなのきっとだめ。こんなの、自分のことしか考えてないじゃない……私は、元青雫家(あおしずくけ)で、そんな私が水園家の奥方になれたのは、一水様が私の優しい心と芯の強さを認めて下さったからじゃないの……ずっと、努力してきたの。どんな時でも他人を思いやれる心を保つこと、自分を曲げないこと、諦めず努力することを……。

 脳裏を(よぎ)ぎる幼い頃の唯一の記憶。母に毎日のように暴力を振るい、外では良い人面をし、帰ってきては他人を(さげす)み、見下して暴言を吐く父親。自分の失敗を他人のせいにする母親は、何でもかんでも私のせいにして怒って……結局自分の本性も両親と同じで、他人を見下し自分の事しか考えていないなんて、今までの私がしてきた努力が、意味無かったことになるじゃない……?

 そんなことにはしたくない。私を認めてくれて、私に期待して下さった一水様(いっすいさま)に恥じぬように、与えられた使命を(まっと)うしなければいけないわ。

 決心のついた私は、当主様の提案を飲むことにした。

「分かりましたわ……青帆(はるほ)をあなた方に渡すことを、契約内容に追加致しましょう」

 私が断り通さなかった事に驚いたのか、一瞬目をまん丸にした当主様。しかし数秒後には、余裕のある笑みを浮かべて、少し楽しそうに笑った。

「ぷっ……ふははっ! よい、よいのぅ! やっぱり女はつけなくてよい。お主の顔が、絶対に渡したくないと言っておるからの。そんな怖い顔をされては、此方も引き退るしかないのじゃよ。せっかくの逸材が手に入らないのは残念じゃが、協力体制を築けると言う話の方が魅力的よて……話は終わったのぅ? では、帰るが良い……引留めはせんよ。(わっち)を縛るものは消えたからのう……(わっち)の判断じゃ。向日葵家が居なくなったところで、特に問題は無い故、しっかりと契約の話を持ち帰るのじゃぞ? 契約は、水園家当主との方が良いからの」

「は、い……了解致しました、ありがとうございます……では、しっかりと契約の話を水様にお伝え致します。契約の話は、その後で、水様からの連絡をお待ち下さいませ」

「了解じゃ。……そうじゃった、一つ言い忘れておった、金城家(かねしろけ)には、くれぐれも注意するがよい。火陽家(うち)とは喧嘩続き故……お主らはきっと、目をつけられるからの」

「そうですか……ご忠告痛み入ります。帰路には細心の注意を払うことに致します。では、再会する日を心待ちにしておりますね」

 帰りたい気持ちが溢れ出し、つい速歩きで出口に向かってしまう。出口の大きな扉が開いたので、最後まで礼儀を通さなくてはならないと思い、振り返ってお辞儀をした。すると、当主様と焔心(えんしん)が、手を振って見送って下さった。
 火陽の当主様は、見送りに手を振るキャラじゃなさそうなのに……と思ったが、微笑ましい気持ちになったので、手を振り返しておいた。

 余りにもあっさりと帰してくれるものだから、まだ何かあるのでは……? と、つい疑ってしまう。帰りの支度(したく)を済ませ、泊まらせてもらった部屋を出て、馬車に乗った。此処まで、特に何も起こらなかった。
 本当に帰してくれるんだな、あの時判断を間違えずに済んで、どちらかを失うことにならなくて良かった。やっぱり、必ず二択な訳じゃない、三択目があると期待して……いや、信じていかないと。
 後は、一水様に報告をして……契約が成立すれば、暫くは安泰かな。何か忘れている気がしたが、些細な心配は、重い仕事がひと段落ついた安堵感と達成感に、塗り潰されたのだった。

 馬車に揺られて数時間、外が暗くなってきた。景色を眺めながら微睡(まどろ)んでいると、突然目の前が真っ白に光った。次の瞬間には、全身が突き刺されたような痛みを訴えていて、目の前の全てが赤い炎に包まれていた。景色は金色に染まっていて、遅れて聞こえた爆発音に混じり、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。

 最後に見たのは、生きているかのような赤く揺らめく炎に包まれた必死な表情。目の前に突き出された手を掴もうと手を伸ばした筈だが、私の手がその手に届くことは無かった。あの手が青帆(はるほ)のものだと気がついた頃には、意識を失っていたのだった──

 ……何も、理解できなかった。

 一瞬の出来事だった。一瞬で、生きている感覚が無くなった。分かったことは、自分が死んだということだけだった。
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