第32話

文字数 1,303文字

 二週間後の週末、初めてアルバイトに行く土曜日がやって来た。あれから恭一とは挨拶程度にしか顔を会わせていないが、別段ぎくしゃくとすることもなかった。恭一の運転する車に乗り、今から向かうレストランバー『SORRISO』のオーナーである神崎夫妻は、亡き両親の親友であった事などを聞いた。

 若干緊張している梨乃をリラックスさせようと恭一はいつもより饒舌になり、店名のSORISSOとはイタリア語で笑顔という意味であり、音楽を通じて笑顔が溢れる空間を提供したいという願いが込められていることを説明した。今夜は自分もステージに立つ予定だから、機会があればセッションしようと水を向ければ、嬉しそうにはにかみ頷いた。

 車で四十分ほど走れば隣市に入り、そこから更に十分ほど大通りを走り脇道に入る。やがてこぢんまりとしていて、一見飲食店には見えない建物の駐車場に車は止まった。恭一の先導で裏口から入り、事務所にいたオーナーである神崎夫妻と簡単な面接が始まった。ピアノ歴は何年なのか、ジャズは好きかといった簡単な質問だけであっさりと面接は終わりを告げた。恭一の推薦があることも、採用の決め手になっているのだろう。ただ梨乃がバイトに入る日は必ず恭一も保護者代わりとして一緒に来ることが条件に挙げられた。二人に否やはない。恭一は梨乃と一緒にいられるし、梨乃は土地勘がないので恭一と一緒だと安心する。利害が一致したところで、さっそく今日から演奏をすることが決まった。

「二十一時までがレストランの時間で、十九時頃からセッション自体は始まっている。ただ明確に何時からセッションを始めるって決まっていないんだ。奏者が店に顔を出さないことには始まらないからね」

 神崎の妻はヴォーカルを担当している。笑顔の素敵な美女で、苦み走った神崎とお似合いの夫婦だ。さっきまで夫婦でステージに立っていたらしく、黒の妖艶なドレスを身に纏っている。

「梨乃ちゃんは『テネシーワルツ』を弾けるかしら?」

 日本でも馴染み深い有名な曲を、梨乃はもちろん知っている。両親はこの曲が大好きで、梨乃もよく自宅で弾いていたためにお手の物だ。

「はい」
「そう、なら良かったわ。この曲を歌うから、伴奏をお願いね」

 にこりと笑顔でいわれ、梨乃も笑顔で頷いた。

 そんな会話をしている内にドラム担当の三橋(みつはし)という四十代半ばの男性と、ウッドベース(コントラバス)担当の相坂(あいさか)という、これまた五十の坂を少し越えたくらいの男性がやって来て梨乃に挨拶をしていく。今夜が初めての彼女は気さくに話しかけてくれる三橋や相坂とすぐに意気投合し、セッションで演奏する曲順などの確認を済ませた。

 まずは梨乃のお披露目みたいな形でピアノ、ドラム、ウッドベースだけで『イパネマの娘』を演奏することにした。そこから『Satin Doll』や『Night And Day』などスタンダードナンバーを披露し、梨乃は一旦ステージを降りる。入れ替わりに恭一が登場し、何曲か彼のソロ演奏が終わった後にステージに再登場という段取りが組まれた。恭一が二回目にステージ登場する頃には、レストランの営業は終わりバーになっているだろう。
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