第9話

文字数 1,218文字

 吉柳(きりゅう)の音楽学科では毎年、新三年生が夏休みに市民オーケストラと共演する。アマチュアとはいえオーケストラと一緒に演奏するのだから、誰でもいいというわけではない。進級テストで、各コースの首席になった生徒だけが夢の舞台へのチケットを手にできる。

 ピアノコースと声楽コース以外はオケの一員として参加する。今年はピアノコースの首席のみが、参加することが決まっていた。ベートーベンのピアノ協奏曲第五番変ホ長調作品73「皇帝」 ……この曲が、今年のピアノコース首席に与えられたオケとの共演曲だった。ただでさえ大舞台で実力を発揮できないというトラウマを抱えているのに、ソリストとして挑むのだ。逃げ出したい衝動に駆られるが、今はとにかく練習しかないと自らに言い聞かせピアノに、向き合う。

 一心不乱に雑念を追い出し、曲を弾き、オケと共に舞台に立つ自分を想像する。

(怖くない、観客は怖くない。普段通りの自分でいれば、きっとベストの演奏ができる)

 言い聞かせながらイメージトレーニングをする。滑らかに指は鍵盤の上を走り、理想とする演奏を思い描く。この感覚を忘れてはいけない。どんな大舞台の上でも自分の演奏さえできれば怖くない。そして結果は必ずついてくると……まるで呪文のように言い聞かせ、梨乃は時間を忘れて練習に没頭した。彼女は集中すると周りが見えなくなるタイプで、携帯も電源を切った状態にしてある。

 それから何時間が経過しただろうか。梨乃は疲労を感じて手を止め、両肩を回した。同時に空腹を覚え、そういえば何時だろうとテーブル上の置き時計を見る。

「うそ、もう四時半?」

 昼食のことなど頭から消え去っていた。食材を買ってこなければ冷蔵庫の中は空っぽで、このままだと夕飯まで食べ損ねてしまう。練習を中断すると立ち上がり、財布とカードキーを手に、携帯をスカートのポケットに入れて部屋を出る。

 いずれ独り暮らしをするのだからと、梨乃の母親は家事を仕込んでいた。普通ならばピアニストが指を傷めてはいけないと包丁を握らせないところだが、母親は大切な指を切らないよう集中することが大事だと主張し、むしろ積極的にやらせた。そのお陰で独り暮らしが決まっても、家事に何の不安も覚えていない。部屋を出てエレベーターに向かうと、通路奥の壁は観音開きの扉になっていることに気付いた。今朝はエレベーターを降りてすぐ右に曲がってしまったので、左側の壁に目をやる余裕などなかった。

(あの扉の奥は、屋上へと繋がる階段でもあるのかな)

 ぼんやりと頭の中で呟くが、屋上へ出る用事などない。だから何となくその扉を眺めていたら、不意にそこが開いたので小さな悲鳴を上げてしまった。扉なのだから開くことは予想されたが、まさかこのタイミングで開くとは思わなかったのだ。

「あれ、鮎川さん?」
「神保さん?」

 扉の向こうから出てきた恭一は右手に黒いケースを持っており、梨乃はそれがアルトサックスのケースだと判った。
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