第7話

文字数 1,073文字

 必死な恭一の姿にようやく状況が飲み込めたのか、手を離した円果は梨乃の顔を覗き込んだ。

「あらやだ、本当に涙目になっている。ごめんね、悪気はなかったのよ?」

 再び高い声に戻りやわらかな雰囲気なった円果は小首を傾げ、両手を合わせると謝ってきた。その仕草が妙に可愛いと頭の隅で呟き、肩の力を抜き笑顔を見せながら
「怒っていませんよ」
 と告げると、円果はホッとしたように頬を弛め自己紹介をしてきた。

「改めて初めまして、瀬川円果です。気軽に円果って呼んでね? 結婚式場で専属のヘアメイクとして働いているの」

 そう言って手を差し出してきたので、一瞬躊躇ったが握手を交わす。指も掌全体も女のようにすべすべで、ヘアメイクという繊細な仕事のせいか、指が長くてほっそりとしていて男の手という感覚が無かった。

「こちらこそよろしくお願い致します。吉柳女子学院高等部の、音楽学科に通っています」
「吉柳に通っているの? 隣に入居するってことは、専攻はピアノ?」
「はい」

 円果は感慨深そうな顔になると、静かに成り行きを見守っている恭一を見た。そして今までとは違った、何とも言えぬ穏やかな笑みを浮かべた。

「良かったわね恭一くん。あのピアノを、また弾いてくれる人が現れて」

 すると恭一は照れ臭そうな顔になり、小さく
「うるさいよ」 
 と呟くとそっぽを向いた。

 くすくすと忍び笑いを洩らした円果が、ポカンとしている梨乃に説明をしてくれる。

「あのピアノはね、恭一くんの亡くなったお母様が大切に使っていたピアノなの。恭一くんの一家は、趣味でジャズ演奏をしていてね。お父様がトランペットでお母様がピアノ。恭一くんがアルトサックス。アタシも高校生の時にセッションを聞かせて貰ったことがあるのよ」

 懐かしそうに目を細めて、今では実現不可能となってしまった一家のセッションを脳裏に思い浮かべながら小さく息を吐いた。そんなに大切な亡き母親の形見だから、手入れが充分に行き届いていたのかと梨乃は納得した。同時に大事なピアノを使わせて貰っていいのかという、今更ながらの不安が過ぎる。そんな彼女の不安を感じ取ったのか、恭一は微笑みながら口を挟んだ。

「あのピアノは、本当にピアノを愛する音大生とかプロのピアニストを目指す人に使って貰いたかったんだ。だから今まで入居者がいなかったんだよ」

 これだけ思い入れがあれば、年端もいかぬ子供のお稽古事に使われる事を良しとしないのが頷ける。高校生といえど、真剣に将来はプロの演奏家を――世界で活躍するピアニストを目指す梨乃だから、恭一は部屋とピアノを貸すことに承諾した。
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