第24話

文字数 1,258文字

 始業式も無事に終わり、吉柳(きりゅう)女子学院も通常の授業が始まった。音楽学科は専門的なカリキュラムが多く組まれており、理論と実践を中心に構成されている。将来留学を考えている生徒は個人的に語学の家庭教師に師事したり、学校外の個人レッスンを受けたりしている。梨乃も引っ越し前はピアノの個人レッスンを頼んでいたが、双方の都合により三月で契約を終了している。幼少の頃からの付き合いだっただけに、梨乃としては非常に不安だったが教えることはもうないと言われたのでは仕方がない。あとは梨乃自身がトラウマを克服し、大舞台でも自分を見失わないことが大事だと恩師は言い残した。世界の舞台に羽ばたくためには、このトラウマを何としても刻伏せねばならない。

 一心不乱に鍵盤に指を叩きつける。フォルテシモ、フォルテ、クレシェンド、ピアノ……楽譜通りに弾きながら同時に脳裏でオケと共に演奏している自分を思い描く。指揮者の動きやオケの音に自分の音を乗せるイメージを幾重にも重ねて、舞台への恐怖心を抑え込もうと自己暗示を施していく。

 同じ練習室内には、クラスメイトの白崎(しらさき)留美(るみ)が居り梨乃と同じ「皇帝」のイメージトレーニングをしている。教師陣の間では梨乃がソリストとしてオケとの共演で決定しているが、本番までに何があるか判らない。留美は梨乃の補欠という形で共に練習をしている。

 この二人の指導は熊坂(くまさか)という五十代のベテラン女性教員。自身も音大を卒業し将来を有望視されていたが、結局は演奏家ではなく後進の指導という道を選んだ。熊坂は梨乃のトラウマを知っているので、克服させるにはどうしたらいいのか頭を悩ませている。が、結局は梨乃の心の問題としか言いようがない。梨乃の実力は申し分ない。だが心の強さがなければ、プロの演奏家として世界でやっていけないことを自身の経験で知っている。

 熊坂は二人の演奏をじっと聴いている。やはり梨乃の演奏の方が留美よりも曲の解釈が出来ている。留美は細かいミスタッチが多い。梨乃に負けるまいと気負いすぎて、既に第一楽章だけで三回も間違えている。絶対音感を持っている熊坂にはそれが非常に苛つくのだが、口うるさく言うのを控えている。あまりにも頻繁に続くようであれば二人の同席を中止し、梨乃一人の指導にまわろうかとさえ思う。

 不意にレッスン室をノックする音が聞こえ、熊坂は眉間に皺をよせると立ちあがりドアを開けた。そこには事務員が立っており、申し訳なさそうに身体を縮めていた。

「レッスン中に申し訳ございません。熊坂先生、校長がお呼びです」

 学科を問わず各教室には内線電話が設置されているのだが、音楽学科には余計な音を入れないようにとの配慮で設置されていない。音楽学科がある校舎に職員室や事務室はあるため、何か音楽学科に急用があれば手空きの教員か事務員が赴くことになっている。一瞬だけ迷惑そうな表情になった熊坂だが、諦めて素直に行かねばならない。ちょうど第一楽章を梨乃が弾き終えたところだったので中座することを伝え、事務員と共にレッスン室を後にした。
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