第41話

文字数 1,107文字

 湿気に悩まされた梅雨も明け、身体中の水分が蒸発するかのような暑い夏がやって来た。七月は瞬く間に過ぎていき、夏休みを明日に控え終業式を終えて帰宅した梨乃は最後の追い込みとばかりに練習をする。市民オーケストラの定期公演は八月十日で、練習期間は残り約三週間ほどしかない。昼間は個人練習、夜はオケとの合同練習で、自分でもこれはいけると手応えを感じていた。アルバイトのお陰で聴衆や演奏中断への恐怖心もかなり薄らいできている。

 SORRISOの常連客たちは若い梨乃がステージ慣れしてきたことを敏感に感じ取り、彼女がステージに立ったときは一層アットホームな空気に包まれる。そのことが彼女の自信にも繋がり、留美と顔を合わせても堂々とした態度を取れるようになり、あからさまな嫌味を言われても傷つくことは一切なくなった。むしろ留美の言動は妬みや僻みがみっともないと周囲から嘲笑された。ピアノコース内のみならず今まで留美の傲岸不遜な態度に不満を募らせていた他コースの生徒たちも、大いに溜飲を下げることとなっていた。

 すっかり留美は音楽学科内で孤立し、今まで黙って耐えてきた梨乃の評判は高くなった。他人のことにかまけている暇はないと自身を戒め、梨乃は残り少ない時間を大切に使い細かい修正をしていった。

『梨乃ちゃん、暫く夕飯はアタシが作ってあげる』

 本番一週間前に、円果からそうメッセージが送られてきた。少しでも練習に時間を費やして貰いたいという心が伝わってきて、迷いはしたが結局、好意に甘えることになった。何か思うことがある円果はちゃっかり恭一も夕食に招待し、三人は毎日和やかな時間を過ごすようになった。

 夏休みとはいえ教員には休みなど殆どなく、顧問をしている映画研究会に顔を出したり初任研修へ赴いたりと、なかなか忙しい日々を送っている恭一にとって、自分で食事を作らず尚且つ梨乃の顔を見ながら食べられるという好条件に釣られ円果の誘いにホイホイと乗った。緊張のせいか少しやつれたように見える梨乃の姿に、二人はあれもこれも食べるように勧める。

「え、こんなに食べられませんよ」
「なに言ってるの。暑い時期にこそしっかり食べて、睡眠を取らないと倒れちゃうわよ! 本番までそんなに時間がないんだから、体調を整えないと」

 叱責が円果から飛び、恭一もそれに同調するものだから、たまったものではない。しかし自分のことを思って言ってくれていると判るので、少々無理をしてでも食べる。冷たいものばかり食べると胃腸に負担がかかるということで、本日のメニューは鳥出汁の塩ちゃんこ鍋である。確かに汗をかきながら熱い物を食べると新陳代謝が良くなり、寝付きも良くなった。
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