第32話 蜘蛛の糸③

文字数 1,058文字

突然現れたその男は変わっていた。
どこをどう変わっていた、と聞かれるとその時分にはあまり人と関わっていなかったから、箸が使えない大人が物珍しかった。だが、変わっていると思ったのはあながち間違いではなく、帝国人の普通からはかけ離れていたのだ。人を殺す能力は天下一、その他一般的な生活能力はなしといった具合に。

僕はその男と出会った時からずっと尊敬している。
あの男は努力の天才なのだ。否、努力しなければ生きてこれなかったことは出自を知れば容易に想像がつく。そうであっても人が真似できないほどの努力ができる男だ。天才のあいつに僕は憧れていたし、今だってそうだ、あいつを凌ぐ天才は現れないだろう。
初めは父のようになんでもできる万能人間だと思っていたが、長く付き合うとそうでもないことがわかった。それもなんだか親近感が湧いて可愛らしく思えた。一回り以上上の男に可愛らしいなんて変だろうが、出来ないことを褒められるために必死の努力で出来るようになる姿が健気で素直に可愛いと思った。同時に過去を顧みて悲しくも思う。

そう、あの男はずっと悲しくて苦しそうだった。知って隠しているのだろうな、あの男はずっと孤独に喘いでいた。過去の呪縛から逃れられないままずっともがき苦しんでいた。その姿が放って置けなくて、僕がいなくてはいけないと思った。僕が救える限り救いたいと思った。それをあいつも望んでいたから。

なんて建前で、もっと単純にずっと一緒にいたかった。血は繋がってない、容姿も似ても似つかない。でも痛みを分け合って、同じ愛情を分け合って、同じ時間を過ごした人だから。最早話してないことなんてないくらい、お互いのことを知っている。家族というには距離感が違う、友人や同僚というには距離が近い、特別な人。

僕の周りにはありがたいことに沢山の人がいて、いつも僕を助けてくれる。だから、あいつがいなくても生きていけるのだろう。
だけど僕はあの男がいない世の中なんて考えられない。体の一部のような、なくてはならない存在なのだ。父が縁を結んだ、特別な人。

だから死なせない。確証はない。でもこれしかない。一縷の望みに縋るのだ。これこそが地獄に垂れる蜘蛛の糸になることを信じて。恨み恨まれたこの呪いを伝染させる。呪いが祝福になることを祈って。

「勝手にいなくなるなって言っただろう。いなくなるなら、置いていくなよ」


秀貴の血を垂らした補佐官の腹部の傷はたちまちに治り、三ケ坂含むその場にいた者はそのあり得ない事象に絶句していた。
補佐官は目を閉じたまま息だけをしていた。
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