第26話 桜の咲く前に

文字数 2,621文字

後事すべてまとめた。信頼なる一部の上司にも部下にも話をつけた。あとは自分がいなくなった後、上手くことを進めてくれれば良い。一つ気掛かりがあるとすれば──

忙しくて軍部に泊まることも多かったが最近では家に帰れる日が増えた。これが自分への最後の手向なのだろう。
物の多くない自室は片付けようがない。この家でやることは代々伝わる骨董品やら土地、力になってくれそうな知人の連絡先について詳細に書き記すくらいだ。
沖津家には忠義の方から話をつけてもらっている。話をしたその日中に道子も忠勝も飛んできたからその時に家の事など任せることにした。
「失礼します」
空いていたドアから「お茶を淹れたので、もし良ければ、ご一緒してもよろしいですか?」とおずおずと顔を覗かせる少年がいた。息子の秀貴だ。
いつもの堂々とした様子はなく、控えめで申し訳なさそうなこの態度は俺が悪いのだ。
俺が父親として不甲斐ないばかりに息子にこんな気持ちを抱かせるのだ。罪悪感、不安、恐怖、この子は俺と関わる時は常に緊張してしまっている。
「美味い」と言うと雰囲気がパッと明るくなった。表情はあまり変わらないがその雰囲気は雄弁だ。

「どうした。何か話したいことがあるのか?」
「えっ」
派手に慌てる様子はないが動揺しているのを感じられる。しばらく視線を泳がせた末に話し始めると息が止まった。
「夢に鬼蜘蛛が出るんです」

「それは、どんな夢だ」
「僕の後ろに鬼蜘蛛がいて、誰かを食べるんです。男の人だと思われますが、日に日に鬼蜘蛛が大きくなってきて気持ちが悪いです」
背中を汗が伝った。まさかとは思う。これが俺の死ぬ暗示ならいい。だがもし俺が死ぬ時にこの子まで連れて行こうという魂胆なら?
許せない。否、許してはいない。あの日からずっと。俺の大切な人を奪った
あの日から。今度も俺の大切なものを奪おうというのか。
「また何かあればすぐに言え。どうにか……できるかはわからないが」
そんな軽い言葉しか出なかった。素直なこの子ははいと答えてそれ以降話はしなかった。

この子は絶対に連れて行かせない。俺の“宝物”なのだから。この子を連れて行くつもりなら俺がお前を連れて地獄へ行ってやる。

「鬼蜘蛛のこと、お前は何も気にすることはない」
そう言うと一瞬目を合わせてすぐに逸らして俯いてしまった。



その日の夢はまた同じように男の人を食らう夢だった。だが今日だけははっきりと顔が見えた。父だ。僕は父の腹を裂いてグチャグチャと食べている。後ろには重みのないはずの鬼蜘蛛がどっしりと乗っかっていた。
父だと認識した瞬間、叫び声を上げて覚醒した。飛び起きた自分は汗で服をぐっしょり濡らしていた。
「何があったんです!」
補佐官は声を聞きつけてすぐにやってきた。見知った顔に少しづつ落ち着きを取り戻してやっとのことで言葉を口にした。
「僕が、鬼蜘蛛が、父を食らう夢を見た。最悪だ」
その言葉に補佐官の表情が強張ったのがわかる。
「お前はわかるのか?この夢が何か」
「……俺には分かりませんよ鬼蜘蛛のことは」
「そうだろうな……」
「着替えましょう?それじゃ風邪を引く。眠るまで俺がそばにいますよ」
ズルズル布団を這い出し着替えを済ませ再度眠る用意をした。あまりに鮮明で君が悪い夢だったから眠気はどこかへいっていた。
「秀貴さん」「なんだ?」

「俺が秀人さんを殺します。それなら貴方はそんな夢見ないで済む」
一瞬理解できなかったが先ほどの夢も相まって沸々と怒りが湧き起こる。馬鹿なことを言うなと掴みかかると補佐官の表情は変わらず続けた。
「貴方のために今の俺ができることはそれくらいですから」
「お前!何か知っているな!?何だ!?言え!!命令だ!!」
意を決したように口を開いた補佐官の言葉は最悪最低のものだった。

「近々秀人さんは死ぬんです。鬼蜘蛛によって」

時間が、空間が止まった気がした。いや、止まったのは自分だけだった。時計の秒針が何も知らない自分のことを嘲笑っているように思えた。
「みんな、知っているのか」
「一部の部下と上司、俺と沖津家は」
「みんなじゃないか……」

知らなかったのは自分だけだった。加害する自分だけが。
「貴方は耐えられますか?貴方の大切な人をその手で奪うことができますか?俺だったら今すぐにでもあの人を殺せます。それで俺を恨んでください」
放心していると何故だか頭が異常に冷えてきた。父のことは未だ信じられないがあの夢のせいで納得させられてしまう。

そして、この目の前の男が何を言いたいのかわかる。
「お前を恨んで、僕がお前を捨てたらどうするんだ?」
「そうなったらその時考えますよ。俺には、それくらいしか、出来ないんです」


「それなら、僕のそばにいろ。僕から離れるな」
震える声で言うのは命令ではなく必死の懇願だった。今から起こる事態には一人で立ち向かうことはできない。自分を犠牲にしてまで寄り添ってくれようとする不器用な男と一緒でなければ立つことができないだろう。



日は高く空は青い冷たい風も春の香りを運びはじめた穏やかな朝。庭の桜の木も蕾をたくさんつけ暖かくなるのをじっと待っている。
だが自分の目の前には似つかわしくない鮮血のドロドロとした塊が覆い被さろうとしている。何かを言っているのか不愉快な音として鼓膜に届いた。
「連れて行くなら俺だけにしろ。あの子を連れて行くのは許さない」
あの子にはゆっくり生きて穏やかに死んでほしい。
「お前がいなければ、皆死なずに済んだ。あの子があんなに悲しむこともなかったのに」
長年蓄積した怨嗟がその身から溢れ出る。それを聞いているのか鬼蜘蛛から不愉快な音は出なくなっていた。
「父さん!!」
「補佐官!!」
そう叫ぶと少年が駆け寄るよりも早く補佐官は動いた。「離せ!命令だ!」と少年は暴れるも無表情の補佐官はじっと秀人を見つめている。やはりあの男に任せて正解だった。あいつは、少々心配なところもあるが、あの子を確実に守ってくれる。
その間鬼蜘蛛は自身の腰回りに巻き付いていた。
「父さん!」
「お前が気にすることは何もない。
お前の母を殺したのは俺だ。お前に罪など何もない」
「違います!僕が!僕が殺したんです!」
「補佐官、任せたぞ」「はい」

「秀貴、
お前は“秀貴”なんだ」
ドロドロとした液体に身体中を纏わりつかれて目の前が真っ暗になり、少年の絶叫も不愉快な音にかき消されて聞こえなくなった。

意識が途切れる直前に聞こえたのは女の、鬼蜘蛛のはっきりとした声だった。
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