4)ロキの世界「ジョン・レノンの評伝」

文字数 14,917文字

 4ー1)

 自分の文章を手直ししている時間が好きだ。文章はそう簡単に完成しない。新たな誤字脱字は次々と生まれいく。気づかなかったのではなく、読み返す度に誕生してしまうのだ。
 そうに違いない。さもなければ、何度読み返しても、どうして一向に根絶されないのかわからない。
 作家は自らでそれを淡々と直していくのである。地味な作業ではあるが、とても重要な仕事である。その仕事を経なければ、原稿は完成しない。
 
 私たちが相手にしなければいけないのは誤字脱字だけではない。独りよがりの表現、伝わりにくい文意、平凡な表現などなど、数限りなく存在する。
 その作業にだってストレスを感じない。仕事が先に進んでいるという手応えを一切感じることは出来ないが、ずっと同じところに留まっているという停滞感に苛まれてしまうが、それでも虚しさを感じない。
 むしろそのような作業に癒しを感じる。誰か他の人に委ねるにはもったいない。むしろ手直しをするために、作品を書いているのではないかという気さえする。

 それにである。展開に行き詰まり、モチベーションが枯渇しかけて、どうにも筆が進まないときこそ、これまで書いてきた文章を振り返るのが大いに役立つのものである。
 そこで見つけたちょっとした矛盾、文章や展開に飛躍がある箇所を手直しすることで、その行き詰まりを打破することが出来たり、次の新たな展開につながったりすることがある。

 しかしそれもこれも書きかけの作品を振り替える作業のことである。一度は完成して、発表した作品を読み返す作業のことではなくて。
 私が今、やり始めている作業はそっち。完成して、発表してしまった作品を振り返る作業である。

 別に一度、発表した文章に手を加えてはいけないわけではないが。主な作品発表の舞台はネットであるから、いつでも訂正は可能だ。
 とはいえ、大幅に改稿するにはそれなりの覚悟が必要であり、今、そんなことをする気はさらさらない。
 そもそも私は今、改稿するために読み返しているわけではない。
 だったら何のために過去の作品を振り返っているのかと言えば、次に書くべき作品を見つけられず、新たな作品へのモチベーションがまるで沸いてこないから。
 もっと端的に言えば、この作業以外に何もすることがないから、仕方なく自分の作品を読み返しているだけとも言える。

 しかし、これまでだって過去の作品を読み返しながら、次の作品を練ってきた。
 新しい作品を書くための助走として、これは私にとって必要な作業だと言える。言うなれば、新作を書く前の儀式のごときもの。
 自分の過去の作品など絶対に読みたくないという作家もいるだろう。その感情もよくわかる。
 手直し出来ないわけではないと言ったが、やはり安易に手出しも出来ない。それもまた事実だ。
 大幅な改稿をしてしまえば、なぜこの部分を書き直したのか、その旨を読者に説明する必要だって生じてしまう。一つを直せば、他の文章と矛盾を来たすかもしれない。
 やはり一度発表した作品には軽々しく手が加えられないというのが、この世の決まりかもしれない。
 もちろん誤字脱字を直すことは問題ないとしても、内容に関わるパートを頻繁に訂正修正を繰り返されるのは、読者にとって愉快なことではないはずだ。

 だったら発表した作品を読み返すのは、触れたいのに触れられないものを、ただ羨まし気に眺めるだけの行為に違いない。
 何やら過去にタイムトリップをすることに似ている。過去の事件に介入すれば、未来は改変されてしまうから、そこでは何もしてはならないというタイムトリップSFの原則と同じ。

 過去の作品を読み返すのは精神的に少しも楽な作業ではない。失敗作だったという結果を突きつけられることもある。そのときの落胆たるや。
 むしろ自作を読み返して、これは傑作だという感想を得られることなどあり得るだろうか。
 このように書くべきべきだった、こんなふうに展開させるべきだった、そんな反省と後悔が渦巻くに決まっている。それが自分の作品を読み返すという行為の現実。
 それでも読み返しておかなければいけないときがある。



4―2)

 恐々と覗き見るように過去の作品を読み返していると、PCのメールソフトが点滅して、「1」という数字を表示した。
 スマホも揺れている。その二つが同時に反応するということは、どこかのショップからの営業メールではなさそうだ。
 私はすぐにメールをチェックする。
 大野さんからの連絡だった。今日の夜、改めて新作の打ち合わせをしないかという提案だ。
 彼女は少しでも早く、私に次の作品を書いて欲しいのだろう。まあ、当然、それが彼女の仕事であり、役割ではある。
 あるいは彼女のほうで新しい企画やアイデアを用意しているのかもしれない。
 今日は読者との夕食会があるから、それが終わってから自宅を訪ねることを私は伝えた。

 彼女が働く会社を訪ねたり、私の事務所に来てもらうこともあるが、大野さんの自宅にも度々お邪魔している。
 作家も編集者も、仕事の時間とプライベートの時間の区別は曖昧だ。深夜であっても仕事をするときはする。
 それに大野さんとは仕事仲間というよりも、家族ぐるみの付き合いでもあると言える。彼女の娘とも顔馴染み以上の仲だ。
 夕食会ではろくな食事が出来ないはずであるから、大野さんの自宅でゆっくりと何かを食べることにしよう。
 大野さんの手料理をご馳走になるというのではなくて、コンビニかどこかで買った弁当を持ち込むだけなのだけど、大野さんの自宅は居心地の良さを提供してくれる。
 私はきっと、カレーライスでも食べながら、書いてみたい小説の話しを大野さんにすることであろう。
 そして大野さんはそれを片っ端から否定してくる。いつものやり取りである。
 
 何を書けばいいのか書きあぐねている私ではあるが、まるで書きたいものがないわけではない。
 しかし書きたいものを書くだけでは、それなりの収入を得ることは出来ない。それもよく理解している。
 私は、私のキャリアのためになる作品を書かなければけないのである。そこがとても難しい。
 そしてそれはどうやら自分の力だけで測ることが出来ない。そのための相談相手が編集者である。

 仕事として書くべきものと、自分の書きたいものが分裂しているのならば、その二作をそれぞれ同時に執筆すればいいのではないかと思ったことがある。
 例えば昼は仕事のための作品。夜は自分の書きたい作品。もしくは奇数日は仕事の作品、偶数日は自分のための小説、そんな方法で。
 しかしそれは力が分散されてしまい、どちらの作品にも良い影響をもたらさないという決断に至った。

 全ての時間を一つの作品に賭けることに大きな意味があると思うのである。
 自分が書きたいと思っている作品。読者が読むと値すると判断してくれる作品。その二つのニーズを同時に満たす作品を執筆しなければいけないのだ。そのためだけに全ての時間を費やす。
 それはもちろんとても難しいことであり、滅多にそのような奇跡が起きないことは理解している。
 書いている途中にその二つが離れてしまうこともあるだろう、どちらか一方が消滅してしまうことも。
 そうであるのだから、せめて執筆開始時くらい、その二つが満たされた状態で書き始めなければいけないと思うのだ。
 書きたいことを書いていなければ、書き続けられるモチベーションは維持されないし、その書きたいことが読者にとって魅力的でなければ、そもそも書く意味もない。
 とにかく、その二つが満たす。さもなければ書き始めることは出来ない。そう自分に言い聞かせている。



4ー3)

 ビートルズに大衆的成功をもたらした貢献者、マネージャーのブライアン・エプスタインはマゾヒストだった。
 突然、いったい何を語り出すのかと驚かれるかもしれないが、もしかしたら私が書くかもしれないビートルズ評伝では、このようなことに触れたりするのかもしれない。
 ブライアン・エプスタインはある一つの典型的なタイプに属するマゾであった。彼は暴力的な香りを漂わせる男性に惹かれる性癖があったようなのである。
 街で好みの男性を拾っては連れて帰り、深い関係になるが、貴金属や時計を奪われたり、金をせびられたり、殴られては顔に大きな痣を作ったり。彼の評伝はそのようなエピソードで彩られている。

 いや、もしかしたら私は、誰かのエピソードと取り違えているかもしれない。
 だって、このような性癖を有する文化人、アーティストは多い。いわゆるゲイのマゾヒストたち。
 例えば二十世紀の画家フランシス・ベーコン。彼は恋人に殴られた自分の顔をモチーフに絵を何枚も描いたりしている。自分の屋敷に侵入してきた泥棒を恋人にしたこともあるとか。
 映画監督のピエル・パオロ・パゾリーニもそう。SF作家のサミュエル・R・ディレイニーもホームレス同然の男を拾って、自分の愛人にしている。そしてフランスの小説家ジャン・ジュネ。
 ジャン・ジュネの小説には、この性癖が極めて丁寧に描かれているはずだ。ゲイのマゾヒストとはどのような人間か知りたければ、彼の小説を読めばいい。

 ビートルズのマネージャーのブライアンも、このような典型的なゲイのマゾヒストであったわけであるが、しかし私はもちろん、別にその性癖について何か揶揄めいたことを言いたいわけではない。
 ある時期まで健全なアイドルだったビートルズには、実はこのような類の闇があったんだと告発したいわけでも全然ない。そもそも別にそんなもの、たいしてスキャンダラスな話しでもない。
 ゲイのマゾヒスト、ブライアンが、全てを捧げて惚れ込んでしまった男、それがジョン・レノンだったことに注目したいのだ。

 ブライアンがビートルズのマネージャーを買って出たのは、革ジャンを着てロックンロールを歌う若き日のジョンの姿を見て、一目惚れしたのが動機らしい。
 ブライアンは最初、性欲という劣情に尽き動かされ、ビートルズに近づいたのかもしれない。
 彼は思ったに違いない、レノンに殴られたり罵声を浴びせかけられたりして、その支配の下に膝まずきたいと。
 ジョン・レノンは、ゲイのマゾヒストを夢中にさせる暴力的魅力に溢れた男性であったわけだ。
 すなわち、フランシス・ベーコンの顔を殴りまくったピーター何とかやらジョージ何とかやら、ジャン・ジュネが描いたスティリターノやリュシアンなどと同じ。ゲイのマゾヒストのお眼鏡に適うヤバい男だった。

 実際、ジョン・レノンはかなりデンジャラスなエピソードに溢れている。
 後期ビートルズ時代の、眼鏡をかけ、ひょろりとした姿をした、ジーザス・クライスト風の恰好からは想像もつかない。
 平和を訴える「イマジン」の歌詞などから、愛と平和の使者というイメージがあるが、若き頃のジョンは荒れ狂う魂そのものであった。
 デビュー前に路上強盗を働いて、人を殺しかけたとか、パーティーでジャーナリストを殴り回したとか、酒を飲んで暴れ回っていたとか、そのような具体的なエピソードは事欠かないが、しかしそんなものを参照するまでもなく、ジョン・レノンのパワフルなボーカルや、インタビューを受けるときのその佇まいには、うっとりとするような暴力性が漂っているはずだ。



4―4)

 ビートルズをスーパーアイドルとして売り出すことに成功したマネージャー、ブライアン・エプスタインがゲイのマゾヒストであったことなど、どうでもいい。
 それと同じくらい、ジョン・レノンがサディストであったかどうかも、どうもでいい。私が指摘したいのはこういうことではない。
 フランシス・ベーコンの恋人たち、ジュネの愛人たち、パゾリーニと寝た男たち、ブライアンから高級時計を奪った輩たち。
 ゲイのマゾヒストたちを夢中にさせた悪い男たちは、作品も文章も何も残していない。ただ男を殴って、金をせびっていただけだ。
 その選ばれし特別な男たちには自己表現の趣味もなければ、自分の考えを文章で発したいという欲望もなかった。
 きっと、そのような教養も知性もなかっただろう。ただ少し魅力的に、そこに存在していただけ。それだけで自足していた。
 殴られているほうの男たちが、歴史に残るブリリアントな作品を残しているのとは対照的に。

 一方、ジョン・レノンである。
 彼は強烈なバイオレンスを漂わせ、ゲイのマゾヒストを強烈に惹きつけたワルだったわけであるが、知性も教養も高かった。
 自分の考えていること、感情、気分を、言葉や作品に落とし込むことが出来たクリエーター。それも歴史に残る最高レベルの。
 つまり、何が言いたいかというと、こういうこと。ジョン・レノンはそういう種類の男たちの中で、歴史上最初に自己表現をした存在だったのではないか。
 惹きつける側、愛される側が内面を吐露し始めた最初の人間。
 そういう部分もビートルズの新しさ、ジョン・レノンの新しさだったのではないかというようなことを言いたいのだ。

 「強烈なバイオレンスを漂わせ、ゲイのマゾヒストに愛されたワル。それって、いわゆる不良ってことですよね?」

 しかし編集の大野さんに言われたのである。

 「うん? まあ、そうなのかな」

 「その不良が自己表現し始めたメディアがロックだった。先生の言っていることはそういうことになりませんか?」

 「え? そんなありきたりなことを言ったつもりはないのだけど」

 「でも、そうですよね」

 「そうなのかな・・・」

 「そういうことになると思います、途中までは凄く興味深いお話しだったんですけど。着地がありきたりではないでしょうか」

 「しかしただの不良と、強烈なバイオレンスを漂わせ、ゲイのマゾヒストを性的に惹きつけたワルというのはイコールじゃない。不良という言葉には性的な要素がないからね」

 「そうでしょうか」

 大野さんは私がビートルズの話しを始めると機嫌が悪くなる。ビートルズを題材にした新作を書きたいと提案す度に返ってくるセリフは一つだ。「そんな作品、読む人なんていませんよ」というフレーズ。
 彼女はとにかく占星術探偵シリーズの続編を待っている。それは間違いないことであるが、それ以上に大野さんは私がロックについて書いたとしても、広範な読者を得ることは出来ないと編集者として冷徹に判断しているらしい。ビートルズを語る私の切り口に、面白みを感じてくれないのである。



4―5)

 「ジョン・レノンは本当に凄いアーティストだったんだよ。一人の思想家としても、とても抜きん出た存在だったと思う。僕たちはまだ彼の凄さを理解していない。ただ単に、ゲイのマゾヒストに好かれただけの男ではない」

 私は過去に大野さんに向かってこのようなプレゼンをしたこともある。

 「ジョン・レノンはキリストやブッダみたいな思想家だったってことを上手く論証したい。いや、キリストやブッダみたい思想家っていうのはかなり安っぽい表現だな。ジョン・レノンはジョン・レノンだ。とにかく、とあるアイデアを思いついたんだ。ジョン・レノンのとんでもない器の大きさについての論証さ。彼は『競争よりも共有』という価値観を生きていたと思うんだ」

 「はあ、それもありきたりな感じですね。いはゆるニューレフト的な。シェアって概念ですよね」

 「違う、ありきたりな先入観に囚われているのは大野さんのほうだな。学生運動やヒッピーが全盛期の時代だったから、レノンはそんなふうに振る舞ったわけじゃないさ」

 そもそもの問題として、私と大野さんとでは音楽の趣味が合わない。だいたいのところ、彼女はロックというカルチャーについて何もわかっていない。
 どうやら彼女が聞いているのはクラシックばかり。しかも有名な交響曲の一楽章だけを集めたコンピレーションとか。それから国内外のヒット曲をいくつか。
 彼女はきっとメロディーしか聞かないタイプである。

 「何て説明すればいいだろうか。後続のロックバンドの多くがビートルズに憧れ、彼らのようになりたがった。それなのに多くのバンドが真似し切れなかったものがある。何だと思う?」

 「さあ、わかりませんね」

 こんなことで頭を悩ましたくないとばかり淡白な返事を返してくる。

 「それは端的に言えば、一つのグループに二人の主役を擁する体制だよ。そもそも、ビートルズはジョンのバンドだった。ポール・マッカートニーはあとから加入した。それなのにジョンはポールにも、このバンドで目立つことを許した。凄いと思わないかい?」

 「マッカートニーさんに才能があったから、じゃないんですか?」

 「それは当然だけど。普通、自分を脅かす才能は追い払うものだよ。自分のためにバンドを結成したんだから。自分が目立つため、自分が歌うためのバンドさ。だから、多くのバンドはワンマンバンドなんだよ。ローリング・ストーンズやザ、フー、レッド・ツェッペリンみたいに役割分担が上手く出来ていたとしても、ソングライターは一人で」

 「まあ、確かにそうですねえ」

 バンドという形態のややこしさについて何もわかっていないに違いない大野さんも、この説明については理解を示してくれたようだ。

 「ビートルズ解散後、ジョン・レノンは妻のオノ・ヨーコにも歌わせる。自分のソロアルバムなのにね。彼の曲と妻の曲が交互に入っていて、だからレノンファンには評判が悪いよ。そのアルバムを買う人のほぼ100パーセントがレノンファンなのに、妻の歌を聞かされるなんて具合に。しかしジョン・レノンは妻の曲も必要だと考えた。その共作は世間的には失敗例だけど、しかし成功すれば、それはそのままジョンとポールを擁するビートルズになる。同じなんだよ、どちらもレノンの考え方が投影されている」

 「はあ・・・」

 「この視点から、改めて彼の人生を振り返るんだよ。ビートルズがどうしてあれほど特別だったのか、論証することも出来るかもしれない、とにかく今までにないジョン・レノン像を書くことが出来るはずだ」

 私は熱を込めて言う。

 「あまりにナイーブすぎる言い方になってしまうかもしれないけど、誰もが一人で生きている中、ジョン・レノンだけはそうじゃなかった、二人で生きるという選択肢を選んだっていうかさ」

 もちろん大野さんの反応はイマイチだった。



4―6)

 「ジョン・レノンの評伝を書くのならば、彼の人生とかアーティススト性を一言で現わす言葉が必要だと思う。その評伝を貫くテーマはさっき言った通り、『競争よりも共有』って類のことだとして、その思想性をレノンが自ら使用した言葉で置き換えたい。というわけで、そういう言葉をそれとなく探してみたんだけど」
 
 いつだって大野さんの反応は芳しくないが、私はこんなふうにしてビートルズ企画談義を繰り広げてきた。

 「『ラブ』なんかが最初に思いつく単語だろう。ビートルズと言えば、『ラブ』というイメージだろ? ジョン・レノンにはそのままズバリ『ラブ』という曲もある」

 「はあ、そうなんですか」

 「いや、だけど当然ありきたり過ぎて却下だとして。次に思いつく言葉は『ピース』だろうか。平和活動家としてのレノンさ。でもそれは一面に過ぎないのは言うまでもない。それよりむしろその二つをくっつけた『ラブ&ピース』が、その時期の彼の合言葉だったろうか」

 「知っています。一般的イメージがそれですね」

 「そのイメージを形成した曲が『イマジン』で、その曲の歌詞から気の効いたフレーズを取り出すとすれば『ドリーム』とか。『ドリーム9』という曲もあるし。それとまるで逆、『リアル』などもけっこう頻出するワードだと思う。『リアルラブ』という曲も書かれているし、それと似たところでは『トゥルース』、つまり真実とかもレノン的だと思う」

 「まるでピンと来ませんね」

 「うん、もちろん、どれもこれも陳腐なキーワードにしか思えない。何もジョン・レノンを言い表せてない。そもそも何か一つの単語でそのクリエーターを言い表すなんて、とても難しいことなのだけど」

 大野さんがピンと来ないのは多分、私がビートルズ評伝を書くというこの企画そのもののことだろう。しかし私はそれに気づかない振りをして更に話しを進める。

 「難しい、本当に難しいんだ。だけどそれなりに的を射抜いている気がする回答を思いついてはいる。さっき『ラブ&ピース』が重要なキーワードの一つだと言ったけど、ヒントはそこにある。でも『ラブ』でも『ピース』でもない。その二つを繋ぐ『&』さ。それこそがジョン・レノンのアーティスト性を一言で現わすことの出来るコンセプトではないだろうか」

 その回答を思いついたときは、「してやったり」とまでは言い過ぎであるが、突破口を開くことは出来たなくらいの手応えは感じたのである。
 正直なところ、興奮すらした。これならいけるという感触である。
 しかし恐ろしいほどに、大野さんは無反応だった。

 「&? 記号ってことですか?」

 「説明しよう。そもそも、レノンのキャリアはレノン&マッカートニーという特殊な形態で出発した。ほら、まずとても重要な『&』が出てきただろ? それがジョン&ヨーコに変わる」

 レノン&マッカートニーで仕事に成功して、その次、ジョン・レノンはジョン&ヨーコのコンビで、生活でも成功を収めようとばかりに、その新たな&記号を押し出してくる。
 それが成功したのかどうかは様々に解釈出来るだろう。早過ぎた死を失敗の結果と取るか、今でも伝説として語り継がれていることを成功と取るか。

 「で、それから『ラブ&ピース』だ。愛と平和をつなげるセンスとはいったい何だろうか。愛で溢れれば平和になる、というニュアンスはあるのだろうけど、それより、その言葉で一つの新しい単語みたいなものが出来上がったかのようだ」

 とはいえ、ラブ&ピースというそのフレーズを、ジョン・レノンが発明したかどうか知らないのだけど。
 実のところ、歌詞にその言葉がそのまま出てきたことがあるのかも調べていない。インタビューでそれを発したことがあるかどうかすら不明である。
 ちゃんと調べる必要がある。しかしそれを確かめるためにも、その評伝を書きたいと思うわけである。

 「この『&』という記号。決して対比のために使われることはないのさ。並列のための『&』なんだ。どことなく似ているものを並べて、新しい観念を帯びた言葉を作り上げる手法っていうかね。トルストイに『戦争と平和』という作品がある。あれは戦争と平和という相異なるものを対比するための&の使用法だ。ポール・マッカートニーに『エボニー&アイボニー』って曲があるのだけど、あれは黒と白の対比だ。それらとは違うってわけさ。対比させるための&ではなくて、似ているものを並べるための『&』」

 「いくらか説得力を増してきたとは思います。だけど『&』という言葉に強烈なインパクトがありませんよね。詩的さもなければ、思想性もない」

 「確かに素っ気ない記号だよ、その通りさ。だけどそれがジョン・レノンっぽいとすら思うのだけどね」

 「そうなんですね、ファンにはそのニュアンスが伝わったとしても、普通の読者には希求しないと思うって意味です」

 「もしその企画を作品にするのなら、その本の題名はズバリこうだ、『「ジョン・レノン、「&」を生きた男』!」

 大野さんは呆れたように首を振る。

 「決して売れるとは思いませんね。どの編集者だってゴーサインは出しませんよ」



4―7)

 私がビートルズ論を熱心に語る。それに対するこれまでの大野さんのリアクションを見てきて、もはや、選択肢が三つに絞られているのを感じる。
 大野さんとの契約を破棄して、そのビートルズ評伝のために新たな編集者を雇う。
 大野さんを説得して、お互いの妥協点を探り、修正しながらこのテーマと向き合う。
 その企画を諦めて、別の作品を模索する。
 その三つだ。いや、大野さんと袂を分かつのは、ビートルズがジョージ・マーティンと決別するのと同じくらいの悪手である。
 それは避けたいところである。だから何とかして妥協点を見つけるか、諦めて別のテーマを探るか。実際のところ私の選択肢はその二つだけ。さあ、どうしたものだろうか。

 いや、徐々に私の決断は後者に傾いてきてはいる。
 小説ではなくて評伝を書くなんてあまりにリスクのある試みだ。それが私の仕事なのだろうか。
 しかも相手はビートルズ。まだまだ準備だって足らない。
 奇跡が起きて、それが完成したとしても誰も読んでくれない可能性だってある。誰も読まない作品執筆に三年も四年も費やす気になれないことは確かである。
 いや、果たして三年か四年で完成するだろうか。それも不明である。
 とりあえず私はプロの作家で、秘書という贅沢なスタッフを雇っている身分としても、ただ書きたいことを書いていればいいわけでもない。私には維持していかなければいけないものがある。
 だからこそ大野さんという編集者と一緒に仕事をしているのだ。彼女の判断がいつでも的中するわけではないが、少なくとも過去の三つの作品は成功している。
 その意見を尊重しないわけにいかない。だったらこの企画は諦めよう。そして次の作品はやはり占星術探偵シリーズ、その四作目を書く。

 私にも読者がいて、彼や彼女たちが待っているのはそれ。その期待に応えないでどうするのか。
 そもそもの問題として、小説家としての私は占星術探偵シリーズを書きたくないわけでは少しもない。
 その作品から逃げたくて、ビートルズがどうとかと夢見ているのではないのだ。
 むしろ私は占星術探偵シリーズをこの先も書き続けていきたいという決意だって強烈に所有している。
 あの馴染みのキャラクターたちを動かしたい。その作業はとても楽しい。
 楽しいだけではない。まだまだ可能性だって感じる。
 その執筆作業にマンネリズムを感じたりしていない。この次の作品でも、これまでになかった何か新しい語り口を見つけたり、他の作品で決して扱われてこなかったテーマと向き合ったり出来るに違いない。
 占星術探偵という我が作品はそのような可能性を持ったシリーズのはずなのだ。

 しかしこのシリーズに自分の小説家人生の全てを投入してしまうことにだって迷いがある。
 他のことがしたい。冒険がしたい。別の可能性を模索したい。
 浮気したい、不倫がしたい、火遊びがしたい。気心の知れた妻を放置して、他の女性と遊びたい。
 まさにそんな欲望なのだけど。
 あるいはビートルズについて書くのは、イギリスへのちょっとしたバカンス旅行だとも言えるだろうか。リヴァプール、ロンドンへの旅。
 しかも歴史を超えた旅行、60年代のイギリスへ。占星術シリーズの舞台である大阪を離れるわけだ。
 さらば、大阪よ。そんなことを言い放ちたい。そのような誘惑も感じたりする。



4―8)

 「先生、もうそろそろ夕食会の準備を」

 もう今にもビートルズ論を書くことを決意しかけた私をまるで咎めるように、秘書の佐々木から連絡が来た。

 「まさか、お忘れではありませんでしたよね?」

 「まさか、忘れるわけないだろ」

 彼女が私に連絡をする手段は、直接この部屋にまで言いに来ること。テキストでメッセージを送ってくること。音声でメッセージを送ってくること。
 その三つの手段があると思うのだけど、佐々木はそれを気分や重要度において使い分けているに違いない。
 今回は音声だ。彼女の声がネットを通して、私のイヤホンを震わしてきた。
 これは二番目に重要な要件のときの連絡方法だろうか。時間が押し迫っているときは直接言いに来る。まだまだ余裕があるときはメール。
 その中間だから、ダラダラとしている余裕はないが、慌てるほどでもないという意味。

 「もう出掛ける用意は出来ているさ」と私は返事を返す。

 60年代イギリスへの旅行なんて夢だ、戯言だ、私は現実に戻らなければいけない。
 秘書の佐々木からの連絡を受けて、私は我に返った。
 私が次に書くべき作品は、やはり占星術探偵シリーズとなるのだろう。
 さっきも打ち明けたように別にこの作品を書きたくないわけではないのである。それ以外の企画を模索していることは何かそのシリーズから逃げているように見えてしまうのだけど、そうではない。
 まだ多少の時間的余裕があるうちに、まるで違う可能性に想いを馳せてみているといったところ。
 結局のところ、私は占星術探偵シリーズ第四作目を書くことになるに違いない。それならばそれでいい。全力を尽くそう。

 しかし問題があって、占星術探偵シリーズ第四作目ですら、次に何を書くべきか、まるでアイデアがないということ。
 いや、それが皆無だから、別の企画を夢見ているという側面だってある。
 本来なら頭を悩ませるべきは第四作目で何を書くかと考えるべきなのである。編集者の大野さんも私にそのような態度を望んでいるだろう。

 おっと、さっさと準備をしなければいけないのに、まだ考えることに夢中になっている。
 その作業に夢中になると、出かけるのが億劫になる。夕食会の延期を願い出たい気にすらなってしまう。
 しかし、書くこと、書き続けること、それが重要であるのは当然であるが、読者との直接的交流も重要である。それは現代の作家の収入源の一つでもあるから。

 多くの小説家たちは、「お茶会」や「夕食会」、「意見交換会」など、その名称や形式に多少の差異はあれど、それなりに高額な料金を請求して、自分と交流することの出来る権利を売っている。
 私のような作家にも、わざわざそれなりの金額を払ってまで会いに来てくれる読者は存在する。
 そういうわけでこの私も、月に一回ほどの割合で読者との交流会を実施している。それはとても重要な仕事。
 その交流会に参加出来るのはファンクラブの会員だけである。多くの小説家たちが、特定のファンを月額会員として囲おうと必死なのである。

 さっさと出掛ける準備をしなければいけないが、少しだけ「今日」の小説家のシステムを説明しておこう。
 「今日」の作家たちの作品の発表場所はネット上である。出版社ではなく、小説投稿サイトがその役割りを担っている。
 駆け出しの作家や、無名な作家たちは、自作の小説がどれだけ読まれたかで、その月々のアクセスに応じた収入がサイトから支払われるだけであるが、それなりにキャリアの長い作家や、売れっ子作家たちはファンクラブシステムも併用していて、その会員登録した読者から直接、会員料金を徴収している。

 もちろん、月額の料金を支払ってくれている会員には、それなりに特別なサービスを提供しなければいけない。
 一般の読者よりも先に新作を読むことが出来る権利、未発表作品を読むことが出来る権利、まだ草稿段階の作品に目を通すことが出来る権利、そして作者と直接交流出来る権利。
 新作を更新していない期間は、どうしてもファンクラブから脱会する読者が増えてしまう。そんなファンたちを繋ぎ止めるためにも、様々なサービスに勤しまなければいけないわけだ。
 夕食会などの直接的交流は、最も需要のあるサービスだ。

 その仕事、嫌いではないが特に好きでもない。読者から直接的な賛辞を聞いても何やら空々しいだけだし、それを素直に受け取ることは出来ない。
 それに大切な読者だ。お客様だ。こっちも不必要なくらいに気を使ってしまう。かなり精神的に消耗させられてしまうのである。
 執筆に集中しているときには尚更、その仕事に向かうのが気が重くなる。面倒だという感情だ。
 とはいえ、書きあぐねているときには気分転換になろう。何かちゃんとした「仕事」をやっているという手応えも感じられる。



4ー9)

 髭を剃り、スーツに着替えて、髪の毛を整える。しかし見繕いを済ませば、それで準備は終わりではない。さっさと出掛けたいのだけど、まだやることが残っている。
 今日の夕食会の参加者の人となりについても、それなりに予習しておかなければいけない。
 いや、今日の五人を選定した時点でそれなりにリサーチはしているが、更に詳しく知っておく必要がある。
 それ次第で、こちらも話す内容を変えなければいけない。
 別に講義やトークショーではなくて、ただ単に夕食を食べながらの雑談に過ぎないが、沈黙は禁物だし、読者を楽しませるのはホストの責務である。
 
 先程、秘書の佐々木から手渡された資料に、参加する会員たちの情報が記載されている。
 ファンクラブの会員なので、それなりの情報を提供してもらっている。どこに住んでいるか、年齢、職業、性別。そんな基本的な情報。
 しかしそれ以上にその相手の人柄がわかるのがSNSだ。その流した投稿を読めば、どのような趣味嗜好の人物であるのか判然とする。
 私の小説のどこに興味を持ったのかも何となく明らかになり、この夕食会でどのような話題を話せば楽しませることが出来るか焦点も定まるということである。

 私の読者は、占星術探偵シリーズのファンがほとんどである。それが私の主要な作品なのだから当然である。
 中には私の小説を愛しているというよりも占星術に興味があり、それを大きく取り扱っているがゆえに、私に興味を持った読者もいる。
 いや、むしろそのような読者のほう多いくらいである。
 私の小説のファンクラブが他の作家たちよりもいくらか賑やかなのは、それが原因であることは間違いない。いわゆる占星術クラスタたちが参加してくれているからだ。

 私はその事実を悲観などせずに、静かに受け止めている。今日の参加者たちも、占星術が好きな人たちが何人も集まっているようだ。
 そしてファンクラブに入っている読者のほとんどが女性なので、今日も当然、全員女性である。

 「ああ、そうか。今日はこの人が来るわけか」

 私は夕食会に参加するその五人のSNSのページを一斉に開ける。そしてその中の一つのハンドルネームを前に手を止める。
 ハンドルネーム、「イズン」という女性。
 年齢は二十代半ば。それなりの熱心さで、私の小説の感想を書いてくれている。そして、その批評眼はなかなかの鋭さなのである。

 私の小説、「占星術探偵」シリーズのテーマの一つは恋愛の終わった世界をどうやって生きるか。
 彼女はそのテーマを受け止めて、それについてかなり真面目に論じてくれている。占星術好きが集まるファンの中では目立つ存在だった。今日、その読者と会えるらしい。

 ところで、自分の小説の読者というのは、とても不思議な存在だ。
 自作には本当に多くの時間と労力を注ぎ、精一杯の魂を込めたつもりであるが、果たして、その作品は愛される価値が本当にあるのだろうかと自問してしまう。
 私はとんでもないゴミを産んでしまったのではないか、そんな不安に襲われる。こんなもの誰かに読んでもらう価値はあるのか、理解してもらう価値はあるのか。

 「とても面白い。興味深い。理解出来る。共感出来る」

 そう言ってくれる読者とは、果たして何者なのであろうか。

 神? 友達? 家族? 

 心の底から愛おしくて、涙が出るくらいに有り難くて仕方ない。皮肉でも何でもなく、真心からそう思うのだ。

 しかし私の小説を読み、それを愛してくれているが、多くの読者はどこか微妙に誤解したり、曲解したりしているものであって。
 そして誤読している読者ほど、熱烈で盲目的なファンであったりする。誤解をしているからこそ、愛は成立しているのかもしれない。
 そう思うと、愛とはいつか破綻する幻だろう。

 そんなわけであるから、夕食会での意見交換なども、幻の破綻を早めてしまうための行為に思える。
 それがわかっているのに、その仕事に時間を費やしてしまうのは読者のためなのだろうか。手早な現金獲得のためだけの仕事に過ぎない気がする。

 さて、準備は整った。

 「夕食会のレストランに向けて出発」

 私はSNSにその言葉を流して、家を出る。
 西梅田にあるイタリアレストランの個室を、夕食会のために予約してある。
 私の事務所がある駅から阪急宝塚線の急行で一本だ。梅田まで電車に乗り、目的のレストランまでは徒歩で十分くらいか。
 充分、時間に余裕のある出発だった。このまま行けば、夕食会が始まる一時間前には梅田に到着するだろう。自分の主催する夕食会に遅れるわけにはいかないから、当然の行動であるが。

 目的地近くのカフェで少し仕事をする時間がありそうだ。
 とはいえ、原稿を書くとかではなく、過去の作品を読み返す仕事くらいしかないのだけど。
 その前に私はお初天神に寄って、今日の夕食会の成功を祈っておく。特に神を信じているわけではないが、祈りとか願いのようなものの力は信じているということであろうか。つまり、無意識の暗示の効力だ。
 家を出た頃はまだ明るかった空の色はすっかりと陰っている。


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