17)占星術探偵「新しい登場人物が小説に現れるとき」

文字数 13,388文字

17ー1)

 「すいません、先生、少しだけお時間を下さい」

 私が中座して、トイレから戻ってきたら百合夫君が申し訳なさそうに言ってきた。

 「仕事の連絡が幾つも溜まっていて」

 百合夫君はスマホをいかめしい表情で眺めている。

 「だったら今日はここで」

 「いえ、先生、僕にそのような意地の悪いことを言うのはよして下さい。少し部下たちに指示を出せば終わる仕事です。でも五分か十分だけ、お時間を下さい」

 先生とお話し出来る貴重な機会を僕は絶対に手離しませんよ。イズンさんが到着するまで、ご一緒させてもらいます! 

 「わかった、何の問題もないよ、僕も仕事の連絡をしておこう」

 私はそんな返事を返す。普段は一人で仕事をしているので、人と一緒に居る時間が不慣れだ。しかも相手は百合夫君である。私は新入社員の入社一日目のように疲労感を覚えていた。
 これは丁度良い感じのブレイクタイムと言える。このタイミングで小休止を提案出来るのも、百合夫君のセンスのなせる業なのかもしれない。それは優しさであり、人心掌握術。

 というわけで、ここでしばしの休み時間だ。
 いや、これは休み時間というより、自由時間というのが正確だろうか。更に具体的に言えば、溜まっている仕事を出来るだけ消化するための時間。
 しかし私は忙しい百合夫君とは違い、連絡を要する緊急の仕事などなかった。スマホを確かめるまでもなく一つの着信履歴もない。
 百合夫君はそのまま私の前の席でメールを打ったり、抑えた小声で電話をしたりしている。本当に忙しそうである。
 そのような百合夫君を前に、手持ち無沙汰にコーヒーを飲んだり、文庫本を読むのは何となく惨めでもあるし、そんなことをすれば、仕事をしている彼に居心地悪いを思いをさせてしまうかもしれない。
 秘書の佐々木に何か用事はないかと電話をしてみようか、いや、先生に急用なんて、あるわけないですよと冷たい声で一蹴されるのがオチであろう。
 何かやることはないだろうか。ないこともない。私はこんなときであっても、自分の小説を読み返すことにする。さっきまで電車の中で読んでいたその続きだ。
 自作はスマホで読める。スマホをいじっていれば、何か重要な仕事をしているように見えるはずだ。
 実際、それは仕事である。そして緊急性があると言えばある仕事。

 その自作を私はどこまで読んでいただろうか。山吹美香が登場するシーンか。
 探偵飴野は助手の優森千咲を部屋から追い出して、シャワーを浴びて、髭を剃り、出掛ける準備をして。彼は山吹美香という女性に会いに行こうとしている。
 佐倉の親友であるかもしれないその女性、山吹美香に話しを聞き、捜査にとって有益な情報を様々と得る。
 それがこの先の展開のはずだ。

 思い返すにこのシーンを書くに当たり、作家である私はかなりの試行錯誤したかもしれない。つまり、確かな唯一の正解を見つけることが出来ずに、長々と悩み続けたということ。
 飴野と山吹、いったいこの二人をどのように出会わせるか? 
 見知らぬ人のもとを突然、尋ねて、情報を聞き出す。特にチャンドラー的なハードボイルド探偵作品はそのシーンの連続で出来ている。
 というわけであるのだから、探偵が参考人と会うシーンを適当に描くわけにいかない。作家がナーバスになるのも仕方がない。



17―2)

 探偵飴野は参考人である女性、山吹美香のもとを訪れる。そのシーンをいったいどのように描けばいいのか、私は様々な案を巡らしてみた。

 まず、こんなドラマチックな案を思いついた。山吹の部屋に忍び込み、帰ってきた彼女を待ち伏せするのだ。飴野は探偵である。それくらいのことは簡単なはず。
 部屋の明りをつけた瞬間、テーブルに男が座っていることに気づく。不法侵入者だ。彼女は身の危険を感じるだろう、逃げようとするだろう。飴野はその腕を掴む。掴んだまま、自分の身分を明かし、侵入した理由を説明する。
 なかなか派手なシーンだ。しかしあまりにリアリティがない。
 そもそも、飴野のキャラクターにそのようなデンジャラスな要素があっただろうか。突然、彼のキャラクターが変貌し過ぎではないか。こんなことをすれば、この作品全体のバランスが崩れてしまう。

 もっと緩やかな案も考えた。丁重な手紙、もしくはメールを出して、徐々に山吹の警戒心を解いていき、きちんとした約束をして、許可を得る。しごく真っ当な接近の方法。
 しかしタラタラとしていたら、山吹が佐倉に連絡してしまう可能性がある。「私のもとに探偵が来た。あなたのことを聞きたいらしいって」と。それより何より、退屈過ぎるアイデアだ。

 オーソドックスな案も考えた。彼女の部屋を訪ね、自分は探偵であることを明かして、佐倉のことについて教えて欲しいと玄関先で全て説明して・・・。

 このようなアイデアも考えてみた。山吹美香が美容師、もしくはそのアシスタントの職に就いていて、その店に飴野が客として訪れる。
 別に靴屋で働いていても構わない。魚屋であってもいいのだけど。普通に客として彼女に会い行って、その世間話の流れの中で、飴野は佐倉や若菜のことについて尋ねていくというわけである。
 山吹は驚くだろう。この目の前の客はいったい何者なのかといぶかしみ、恐怖さえ感じるに違いない。そこから飴野は巧みな話術で彼女を安心させて、重要な情報を聞き出さなければいけないのだ。
 しかし、この案の面白さはそこにあるに違いない。山吹の態度の変化。有り触れた客だと思った人物が、冒険と謎を運んで来る異界からの使者に変ずる様子。
 悪くないアイデアだと思ったが、山吹の職業選びで迷っているうちに、興味をなくしていった。

 どれもこれも決め手を欠いていた。これを書きたいというアイデアになかなか巡り合えなかったのである。
 それもこれも山吹美香という登場人物のディテールについて、作者が何も考えていなかったことが原因だろう。
 別にどのような人物であってもかまわないのだ。どんな職業であっても、どのような性格であっても。
 子供がいようが、夫がいようが問題ない。条件は一つ、佐倉と同じ年齢であることだけ。
 枠がない。とてつもなく自由度が高いわけだ。自由度を低めるために何か適当な制約を作っていかなければいけない。さもないと登場シーンすら書き出せない。

 そもそも最初の段階では、山吹は重要な登場人物ではなかった。いくつかの情報を飴野に提供すれば、もうそれで彼女の役割りは終わり。その程度の登場人物。
 山吹美香を個性豊かな魅力的人物にする必要はなかった。しかし平均的登場人物から印象的な場面を導き出すことは本当に難しい。そのせいで私はこのシーンを書きあぐねていたわけだ。

 では、むしろ逆の方向に向かおう。山吹を重要な登場人物に仕立て上げてみるのだ。
 とても単純な解決法。山吹の役割りをこの場面だけで終わりにしない。何ならば飴野と一緒にこの事件の謎を解く相棒、あるいは相談相手という役どころにまで昇格させる。
 このシリーズのレギュラー人物にしてしまうのだ。

 優森千咲、岩神美々、それと同等の脇役ポジション、探偵飴野の周りに出没する女性キャラの一人にしてしまえ。
 そんなことを決めた途端、モチベーションは急激に高まっていくものである。
 まず、山吹美香のキャラクターを考え出して、そこから導き出せる飴野との山吹の遭遇シーンを書けばいい。
 そういうわけで、以下がその展開だ。

 まず、占星術探偵飴野は山吹美香のホロスコープを詳しく探る。
 いったいどのような方法を選択すれば、彼女と協力関係を円滑に結ぶことが出来るのか、それを占星術で探ろうとする。
 とても好奇心が強くて、かなり大胆で物怖じしない性格。
 日々の有り触れた日常では満足出来ず、常に窓の外を見て、何か椿事が起きないものかと夢見ているような女性。
 飴野はホロスコープからこのような判断を下す。実際、山吹美香はこの作品に出てくる登場人物の中で最高に奇っ怪な変人を目指して造形したつもりである。
 いや、この作品のリアリティと合う程度の奇怪さに過ぎないので、それ程のレベルではないのだけど。小説史上、最高度の変人などを期待されてしまうと落胆されてしまうのは間違いないが。

 こんな性格の人物ならば、こんな接近方が適しているのではないか。
 探偵飴野は占星術でそれを練り上げた末、彼女のもとに電話をかける。

 「閉店三十分前、大阪で最も大きな本屋の五階で、『ヒッチコック映画術』を読みながら待て。佐倉彩について聞きたいことがある」

 飴野は山吹に、そんな謎めいたメッセージを送る。この女性にはこのやり方が効果的であると判断した上での酔狂。

 「はあ? 突然何ですか?」

 「来ればわかる」

 飴野は電話を切る。



17―3)

 新しい登場人物が小説に現れる、そのときはいつだって苦労するものだ。執筆は滞る。パタリと進行は止まってしまう。
 しかし仕方がない。そこに留まって、その人物について考えるしかない。それ以外の解決法は存在しないだろう。
 今日は何ページ書けたかなと見返す習慣はないが、前に進むことは快楽だ。達成感は麻薬のよう。その快楽があるから、私は病むことがないのだろう。
 ぼんやりとした不安が襲ってこない。虚無感に囚われない。無駄にライバルと争ったりしない。ましてや強がって、その相手を口汚く罵るなんて。
 政治や宗教に救いを求めたりもしない。大いなるものにすがったりしない。執筆のあとは朗らかに眠りの中へ落ちて、すっきりと目覚める。

 しかし、それもこれも「書ける」からだ。
 書けない時期だって来る。前に進まない時期のことである。惑星も逆行するように、執筆もそのような時期が来てしまう。停滞を運んでくるのが、多くの場合、新しい登場人物なのかもしれない。
 山吹美香も停滞を運んできた。山吹はどんな女性だろうか。どんな性格、口癖は何か、着ている服は? 
 登場人物を作るのはそれなりに時間がかかる。試行錯誤が必要だ。何せ一人の人間を作るのだ、というのは大袈裟ではあるが、やはりとても難しい作業。

 しかし新しい主要人物は、新しい友達が出来たような期待感だって、作家にもたらすに違いない。新しい友達が私たちを新しい世界に連れて行ってくれるように。
 物語の停滞感を突き破るのもまた、新しい登場人物であろう。
 そういうわけで山吹美香の登場である。

 季節は春。それなのに彼女はまだ厚手のコートを着ていた。ウールの素材の紺色のコート。
 特別寒い日でもない。山吹は季節などに拘らない性格なのだ。季節に応じて適切に自分を着飾るセンスがない。ましてやファッションのトレンドなど知りもしないから、季節を先取りしない。昨日、着たコートを今日も着て、この場にやって来た。昨日着たコートは冬が始まった頃から着続けている。
 しかし容姿は端麗だ。というよりも、可愛らしいというのが、私が描こうとした山吹のイメージ。
 この世界に、流行に、現実に、そういうものとピタリとはまっていない不器用な雰囲気がある。
 やることなすこと、どこかチグハグで、そんなある種の「か弱さ」が彼女の魅力。

 とはいえ、それがこの登場人物の魅力だと説明しても、読者はその通りに受け取ってくれるはずもない。
 その登場人物がどんなふうに魅力的であるかは、その人物の会話や行動、振る舞いなどから醸し出されるものである。
 この人物は美女だと書いても、そこに美女が現れたりはしないのだ。それが小説というもの。ましてや「魅力的な人物だ」と書いて、魅力が生じるわけもない。
 全ては作家がどのように描き出すかにかかっている。行間と、行そのものから、魅力を、美を、表現していかなければいけない。それはつまり、情報と描写の違いとでも言おうか。

 というわけで、そんな魅力的な新しい登場人物であるところの山吹美香は、待合場所に指定された書店にやって来た。

 「閉店三十分前、大阪で最も大きな本屋の五階で、『ヒッチコック映画術』を読みながら待て。佐倉彩について聞きたいことがある」

 飴野からのその奇怪な指令を受けて、彼女は恐る恐るその現場に現れたのである。
 大阪で最も大きな書店と言えば、茶屋町にある書店か、堂島にある書店かで迷ってしまうだろうが、五階にも売り場があるのは茶屋町の書店である。変更されていなければ、確か五階が映画コーナー。
 余りに大き過ぎる本屋なので、そこは閑散としている。この建物の五階の専門書のコーナーにまでエスカレーターで上がってくる客は少ないのだろう。それに閉店が近い時間帯。
 待ち合わせ場所として悪くない。まして、この場合、飴野にとって後ろ暗い会合なのである。
 
 生真面目なことに、山吹は指示された通り、その『ヒッチコック映画術』を開いて立ち読みしている。
 その本はは図鑑のように重い。B5判サイズの本だ。試しに計ってみたら約1キロ。それを立ち読みするのはなかなか労力。
 そんな重い本を読みながらも、その表情に緊張が漲っている。生まれて初めて万引きをする少女のように緊張している。いったいこれから何が起きるのか、キョロキョロと辺りを見渡したいのだろうが、それも出来ずに、ぎこちない表情で固まっている。

 山吹美香の誕生日から性格などを把握している飴野であるが、彼女の容姿は知らない。しかしその重い本を持っている女性であることは間違いない。ホロスコープから思い描いていたイメージとも合致する。
 待ち合わせ場所に相手がいる。それが恋愛相手であろうが、仕事の相手であろうがホッと心を撫で下すものである。空白に、あるべきピースが埋まっているという充足感。飴野もそう感じている。



17―4)

 飴野はしばらくの間、遠巻きにその対象を伺ったあと、わざと大きな足音を立てて近づいていく。そのためにこの革靴を履いてきた。靴の底が木で出来ている靴。
 脅かすためではない。「君に近づくぞ」という合図でありシグナル。

 「山吹美香さんだね」

 足音だけでなく、声も掛ける。それでも山吹は心臓が凍り付いたとでもいったリアクションを示す。

 「ストップ! これ以上近づいたら警察呼びます!」

 彼女はそんなことを言い出す。山吹は更にスマホを飴野に向かって掲げてくる。

 「これで電話を掛けますから」

 「警察を呼ぶだって? 今更、警察を呼んでも、彼らが発見するのは君の死体だろう。いや、それどころか君に電話出来る隙を一瞬も与えることなく、こちらはナイフで一突き出来る。ここに来た時点で、君の運命はこちらの手の中にあるんだ」

 飴野はそんなことは言わない。

 「君に危害を加えるつもりはない。君だって、そんなこと恐れていなかったはずだ。怪しい人物と会うリスクより、佐倉さんのために勇気を振り絞って、ここまでやってきた。君は佐倉さんのことを心配しているからだ」

 「本屋の監視カメラがあります。それに私は実家に住んでいます! もし私に何かあったら、すぐにノートパソコンを見てって母に言ってありますからね。今、このカメラで動画の撮影中なんです! この動画はスマホに記録されるだけじゃなくて、私のノートパソコンのほうにも同時に記録されていますから、あなたの顔はしっかりと写ってます」

 山吹は好奇心旺盛だ。利害など関係なく、面白そうな事件に首を突っ込みたくなる性格。
 その一方、それ相応の警戒心もある。自分の身を守る術も知っている。
 山吹のそのような資質を占星術で既に見抜いていたとばかりに飴野は頷く。

 「探偵だ、佐倉彩について調べている。彼女は婚約者を殺したかもしれない。知っているだろ、君も? 若菜真大という男性」

 飴野は山吹の目を見ず、あえて彼女が突き出してくるスマホのカメラに向かって話す。

 「だけどその罪を追求しようとは思っていない。真相が知りたいだけだ。依頼人は彼女だからね」

 「探偵ですって? あの子、また違う探偵を?」

 「違う探偵だって?」

 二人の目が合う。

 「どういうことだ、つまり、僕は彼女が雇った二人目の探偵ってことか。一人目は?」

 「知りません、私も知りたいくらいです」

 「その探偵のことを聞きたい」

 「その前に、こちらからも伺いたいことが。あなたはあの子が婚約者を・・・」

 殺したと、思っているのですか? 

 実は山吹も内心、それを疑っていたのである。その疑惑が、親友であった二人の間に距離感を生むことになった。
 若菜が失踪するまで、二人は頻繁に連絡を取り合っていたが、その事件を境にこれまでの密な関係は終わりを迎えていた。作中においてそのような設定。
 飴野がその事実を知っているはずはない。山吹の心の裡だって知らない。彼は山吹と佐倉の関係を計りながら、会話を進める。
 二人の関係が疎遠になっていることを、今、その言葉や表情から読み取っている段階。



17―5)

 山吹美香の態度は警戒心に溢れているが、会話の糸口くらいは掴めそうな手応えは感じられる。飴野の問い掛けの言葉に、彼女は牙を剥き出して反発しながらも、返答を返してくれてもいるから。
 いや、それよりもまず、飴野は占星術で下した自分の判断が的中していたことに深く安堵していた。
 佐倉の相談相手は山吹だという、その当て推量は見事に当たっていたようだ。我が占星術は万能であると改めて自信を深めている。

 それにしてもホロスコーープを眺めただけで、誰が彼女の親友か的中させたなんて! 
 占星術探偵飴野の星占いは外れる。決して的中なんてしない。
 それがこの作品の鉄則である。それでも、占いに対する信頼を失いはしないことこそが、彼が占星術探偵である根拠。
 そのパターンが繰り返されるはずなのに、このシーンでは見事に占星術が的中してしまっている。私はそのシーンを読み返しながら、こんなことでいいのだろうかと思わなくもない。

 まあ、確かにこの占いの的中自体、事件の本質にそれほど関わりはしない。些事に属する類のこと、物語の進展をテンポ良くするために、占星術を便利に使っただけと言える。
 それに実はここで的中したのはホロスコープ以外の有益な情報にも基づいている、ということにしてもいい。
 二人の実家が隣同士で、今も近隣に住んでいる、そのような情報も知っていた上での判断とか。
 捜査が始まってすぐ、若菜氏と佐倉彩本人の家族や友人の生年月日、それらを出来る限り教えて欲しいと飴野は頼んでいたはずだ。実は佐倉彩が提出したその知人リストの中に山吹美香の名前もあったとか。

 それでも、もう一方の推理も、占星術によって見事に的中してしまっている。佐倉はこの事件のことを親友に相談していて、その人物は重要なことを知っているに違いないというホロスコーープからの託宣。

 「若菜の行方を探して欲しい、それが依頼人である佐倉さんからの要望だ。しかしある種のアリバイ作りかもしれない。司法の手が自分にどの程度迫っているのか探ろうとしているのかもしれない。第一発見者が犯人であることが多いのと同じで、依頼人が犯人であることは多い。とはいえ彼女が殺ったかもしれない根拠は、まだその程度。捜査は始まったばかりだ」

 「では今のところ、佐倉が若菜さんを殺めた、その証拠なんて何もないわけですね」

 「ない、さっきも言った通り、その事件を解決することが私の仕事ではない。依頼人である佐倉さんの要求を満たすことが目的。しかし君もそれを疑っているわけか、もしかしたら犯人は彼女だって」

 「私は別に!」

 山吹は感情をあらわにして否定する。山吹は喜怒哀楽がはっきりした女性だ。飴野は彼女の心の中が、手に取るようにしてわかる気がする。

 「私は佐倉を信じています!」

 静かな本屋に彼女の鋭い声が響く。数少ない他の客が怪訝そうに振り向く。飴野は山吹を咎めるように声をひそめる。

 「しかし君は彼女のことを疑ってはいないが、不安には思っている。だからリスクを冒してまで、僕に会いに来たわけだ。この捜査に協力してくれれば、君のその不安だって解消することは出来るはずだ」

 山吹は銃のように飴野に向かって突き付けていたスマホを下ろして、その代わり飴野の顔を眺め回してくる。

 「佐倉から私のことを聞いたんですか? いえ、そんなはずはありませんね。あの子が言うわけがない」

 「君の存在をどうやって見つけたか、それは捜査上の秘密だ。言えない」

 「では私も協力しません。これで失礼します。私は彼女を信じていますから」



17―6)

 山吹は飴野の前から立ち去ろうという素振りを見せているが、彼はそれを真に受けない。彼女が飴野に関心を寄せていることは間違いない。飴野と関わりを持つことに、絶対的な拒否感はないようなのだ。
 しかし気軽に情報提供に応じることはないだろう。一度か二度は、飴野の協力依頼を撥ねつけるだろう。お高く留まった女性のように、男性からの告白に何度か首を振る。
 いや、それはあらゆる女性が行う儀式。男だって、ときにやる。首を横に振り、自分は軽い人間ではないことを示すわけだ。
 ある他者に何か大きな頼みごとをする過程において、そんな駆け引きを経る必要がある。
 そんなことはわかり切っているのである。わかった上で、その面倒な手続きを踏む必要があるのが人間関係。飴野はもっと意を尽くして、山吹を説得しなければいけない。あるいは自分が信頼出来る探偵であることを示す必要がある。

 「これで失礼します」と山吹は歩き始めた。その言葉通り、確かに彼の前から立ち去ろうとしている。
 しかし走り出してはいない。警備員を呼んだりもしない。まだ充分に談話出来るスピードで歩いている。

 「僕が得た手掛かりはまだ数少ない。まずは君という親友の存在、君は佐倉さんの相談相手だった」

 飴野は山吹の横を歩く。彼女はエスカレーターを下り出したので、彼は片方を空けるために彼女の前に出る。彼女はエスカレーターで立ち止まるタイプではない。動く階段をスタスタと下りていく。

 「知りません、何も言うことはありません。もう私に話しかけないで下さい」

 飴野に向かって、動物を追い払うような仕草を見せてくる。

 「佐倉さんが以前にも探偵を雇っていたという話しも詳しく聞きたい。どこの探偵事務所だろうか、その探偵が持ってきた情報は何か」

 「佐倉が隠しているのならば、私から言えるはずがないじゃないですか! 知りません。もう私に話しかけないで下さい」

 山吹は自分の耳を塞いで、目まで閉じる。エスカレーターの上でそのような仕草をするから当然、足元は危うくなり、エレベーターの降り際に転びそうになる。うわっ! と声を上げ、飴野をにらみつける。

 「まあ、確かに君の言う通りだ。佐倉さんのことを思いやるのならば、怪しげな探偵にペラペラと内実を話すほうがどうかしている」

 「ええ、私と佐倉は親友ですからね」

 「親友を裏切るわけにはいかない、君は正しいだろう」

 「当たり前です」

 そんなやり取りをしている間に、二人はその大きな書店を出た。夜である。夜の茶屋町はイルミネーションで賑わっている。山吹は書店を出て、駅のほうに向かっていく。

 「しかし佐倉さんがそんな隠し事をしているとは想像もしていなかった。以前に探偵を雇っていたとはね」

 「ふーん、こんなことを言うのは失礼ですが、あなたはこの仕事に向いておられないのではないでは? この程度のことも調べがついていないようでは、この事件を解決出来るとは到底思えませんね」

 「そうかもしれない、僕はまるで優秀な探偵ではない。佐倉さんは雇う探偵を間違ったに違いない」

 「簡単に認められるんですね」

 「ああ、本当に自信がなくなってきたんでね。僕は頼りない探偵だ。それでも君の協力があれば真相に近づける。君も彼女に疑惑を抱いている。そもそも君が彼女の無罪を信じているのならば、ここに来るはずがない」

 「私は佐倉を守るために来ただけです。金輪際、彼女に近づくなとあなたに警告しようと。でもあの子が自分の意思であなたを雇ったのなら、何も言うことはありませんが」

 「僕に警告するため? いや、君も不安で仕方がないに違いない。もしかしたら佐倉が若菜さんを殺めたかもしれないという恐怖。なぜ、そんなにも不安なのか? 君は若菜氏と佐倉彩との間の不和を知っていた。佐倉が破滅的な行為に出るかもしれない予感を覚えていた。・・・そうか、わかった」

 飴野は足を止めた。

 「最初に雇った探偵はそれを見つけ出したわけか。若菜真大がアルファ教団と関係しているという事実。君もアルファ教団のことを知っているな」

 「アルファ・・・」

 この言葉を聞いて、山吹もついに足を止めた。



17―7)

 山吹美香は飴野のことを、その一言で見直した。無能な探偵だと思っていたが、彼がアルファ教団のことを既に調べていたことに驚き、これまでの違う眼差しで飴野の横顔を見つめ始めたという展開だ。
 そこは阪急かっぱ横丁に通じる横断歩道前の出来事。
 それは梅田の真ん中を走る道路であるが、意外と交通量は少なくて、時間帯次第では信号などを使わずに渡ることが出来る。
 しかしその道を渡らせたら駅はぐっと近くなる、阪急梅田駅もJR大阪駅も。逢引の女を終電で逃すときと同じだ。この道路を渡らせてはいけない。飴野はギリギリのところでそれに成功したようだ。

 「アルファ教団、何なんですか、あれは。若菜さんはどうなっちゃったんですか? どうして佐倉という恋人がいるのに、あんな組織の会員になるなんて!」

 飴野が驚くくらいに、山吹は感情をあらわにし始めた。

 「私は言葉を失いましたよ。自分の恋人があんな組織の会員だったら・・・。誰だって耐えられるわけがありませんよ!」
 
 「ああ、異様な集団のようだね。佐倉さんがショックを受けたことは想像に難くない」

 「そうです。私だったらショック過ぎて、すぐにナイフで恋人の心臓を一突きしてますね! え、佐倉がそんなことをしたってわけじゃありませんよ。私は本当に知らないんです。あの子とそれについて何も話し合ってません。もうそんなことが出来る雰囲気じゃなくなって・・・」

 それは嘘ではないようだ。飴野と同じように、彼女にとっても佐倉は謎なのだと思う。
 そもそも、この女は嘘をつかない。それが山吹に対する飴野の印象だ。山吹という女性は喜怒哀楽がはっきりしていて、不器用で世間知らずで単純で。
 そして優しくお節介で、人との距離感を測ることに不得手過ぎて。

 「その探偵のことを教えて欲しい」

 飴野は改めて、その言葉を口にする。もう二人の関係性は変わった。いくらかの信頼が産まれているはず。
 それは外れていなかった。ついに山吹も口を開き始めた。

 「ある日、佐倉は婚約者の若菜さんの行動がおかしいって私に相談してきて。だったら二人で尾行しようってことになったんですけど、尾行なんかがバレたら、婚約関係も終わってしまうかもしれなくて、だから探偵に頼んでみればって」

 「君がアドバイスしたのか」

 「はい、そうです。探偵って存在にずっと前から興味があって、会ってみたかったんです。それでネットで調べて、最初にヒットした探偵事務所に依頼しました」

 徐々に山吹美香はその本領を発揮し始めているだろう。
 恋人の浮気を疑ったり、隠れたところで何か怪しい行動をしているのではないかと疑惑を抱いてしまったとき、それを晴らすため探偵を雇うというのはそれなりに合理的に違いないのであるが、果たして常識的な行動と言えるのだろうか。
 探偵が登場をする作品を書きながらも、そんなことを作者である私は考えてしまうのである。つまり、そんなものは小説に出てくる人物が取るような行動で。常識を逸脱した極端な選択ではないかと思ってしまうのだ。
 それこそ恋人に対する裏切りではないか。このようなことで軽々しく第三者に頼るということに違和感を覚える。
 少なくとも依頼人の佐倉の性格とは程遠い行動。
 彼女は自分の問題や悩みを一人で解決するタイプ。頼るとしても家族に友人に限られる。
 その時期、若菜氏はまだ失踪までは至ってないのである。彼の日頃の行動にちょっとした疑惑を抱き始めただけの時期。

 だから、探偵を雇って尾行しろとをけしかけたのは、山吹だったというのがここで明かされる事実。
 山吹美香は騒ぎ立てる女なのだ。大袈裟に事を荒立て、平然と周りを巻き込む。
 佐倉は山吹などと相談してしまったことで、婚約者若菜氏との関係をややこしくしてしまったとも言えるのかもしれない。

 「その探偵は若菜氏がアルファ教団に通っていることを見つけた。その教団の内実も調べて、佐倉さんに伝えた。それで二人の間は険悪になり、そして」

 「それ以降、佐倉は私を避けるようになったので、何が起きたのか私には」

 「ネットで調べて、最初にヒットした探偵事務所に依頼した、って?」

 「はい、そうです」

 飴野もこの業界の人間である。そのヒントだけで、どこの探偵事務所なのか推量出来た。
 仕事がないときは、大きな探偵事務所から下請けの仕事をしている。飴野の狭い人間関係でも、どうにか辿ればその事務所とつながるはずだ。
 佐倉の依頼を請け負った探偵が誰なのか、容易に判明するだろう。
 次の彼のアクションは定まった。



17―8)

 あの子は元気ですか? 山吹がそんなことを尋ねてくる。彼女がそのような言葉を発するのも、飴野への信頼感を深めた証しに違いない。

 「いや、病んでいるだろう。悪夢の中にいるといった趣さ」

 「そうですか。やっぱりそれは・・・」

 彼女が婚約者を殺したから? その言葉が続くはずであるが、山吹はそのような恐ろしい言葉を発することは出来ない。

 「君と話しが出来て良かった、貴重な情報、本当に感謝する」

 飴野は次に捜査するべきターゲットを見い出すことが出来た。佐倉が以前に雇っていたという探偵に会おう。
 しかし佐倉はなぜ再度、その探偵に依頼しなかったのか。若菜がアルファ教団に関わっていることを突き止めた探偵に、である。
 若菜失踪事件も彼に依頼すれば良かったではないか。飴野ではなくてその探偵に。
 彼の胸中にそのような疑問が到来する。なぜなのか。別に特別の事情などはないのか、それとも。
 その疑問を追求するためにも、その探偵に会うことが早急に必要だ。

 さて、これで山吹美香の役割りは終わりだ。しかし山吹はこの物語から退場する気などないといった様子で言ってくる。

 「協力出来ることがあったら、何でも言って下さい。私、あの子が心配なんです」

 「ああ、当然、これからも君に頼りたい、これが名刺だ。何か思い出すことがあったら連絡が欲しい」

 「これは事務所の住所ですか? 探偵事務所?」

 「ああ」

 「大きな事務所なんですか?」

 「いや、一人で仕事をしている」

 「そうなんですか。やっぱり尾行とかもするんですか?」

 「尾行? それはまあね」

 「銃は?」
 
 「え?」

 「も、持っているわけないですよね、というか、持っていたら法律違反だ」

 山吹美香は探偵という怪しげな仕事に興味津々である。
 そのように仕向けたのは飴野でもある。彼の過剰な演出の結果。それによって山吹の協力を得ることが出来るようになったが、何やら副作用も発症してしまったようだ。
 いや、山吹がこのようなことを尋ねてくるのは、それだけが理由ではない。

 「もしです。万が一」

 山吹は神妙な顔つきで言う。

 「若菜さんが亡くなってて、その犯人があの子だった場合、もしですよ! 絶対にありえないと思うんですが、そのときはさっきの約束を絶対に守って欲しいんです」

 「さっきの約束? ああ、僕の目的は彼女の罪の追求ではない。警察に突き出したいわけでもない」

 「信じていいんですね、その言葉を」

 「ああ、信じてくれ。でも君は?」

 「え、私?」

 しかし我々はそれを、つまり誰かの殺人という罪を、自分たちの胸の中にだけ収め続けられるものなのだろうか。ましてや、山吹という普通の女性にそんなことが可能か。
 罪は考え方を変えれば消え去るようなものでもなくて、モノのように確実にそこに実在しているもので。
 償いとか贖罪とか、何かそれなりの手続きを経なければ、消えるどころか弱まったりもしないものなのに。

 「そのもしもが起きていたとき、君にはその真実を教えるべきかどうか」

 「そ、それは是非、真実を教えて欲しいですね」

 でも絶対にあの子は、犯罪なんて犯していないと思いますけど。

 「わかった」

 友のことを想い、暗い不安に苛まれて、絶望的な空気をまとい始めた女を無残に残して、飴野はその場を立ち去っていく。
 山吹美香のすがるような眼差しが彼を追い掛けてくるが、探偵も、作者である私も、その女の感情の処理はもう面倒だとばかりに、断ち切るようにしてこの章を終わらせる。
 とはいえ、山吹の出番はこれで終わりではない。また登場する。それどころかこのシリーズの脇役として、飴野に付きまとい続けるであろう。というわけで、山吹美香の登場だ。



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