6)ロキの世界「サイコパスの勧め」

文字数 24,348文字

6ー1)

 その箱には丁寧にリボンが巻かれていた。ピンク色や水色や黄緑色のリボン。夕食会の出席者たちの誰もが、私に対して贈り物を用意してくれているのだ。
 それには緩い禁則がある。高価な物は受け取れないというルールだ。だからプレゼントはケーキとかチョコレートが多いので、遠慮することもない。そもそも、この夕食会の参加費が愚かしいほどに高価。

 しかし直接的に何か物を貰うのは、どのようなものであっても申し訳のない気持ちになる。
 夕食会の出席者は五人。五人から貰った贈り物を持って帰るのも大変である。貰うことも、礼を示すことも、持って帰ることも、全てが負担。
 とはいえ、だからこそ大変に有り難いことなのであろう。小説家だからと言って、人間関係のそういう負担から逃げるわけにはいかない。

 さて、夕食会は始まっている。私は初めて会う人には気後れするほうである。緊張を感じないわけがない。
 しかしである、ここでは一切の遠慮はいらない。せっかく夕食会に参加してくれたファンたちの前に恥ずかしがってなどいられない。
 誰もが私に逢いに来たのだ。出席者たちだって一秒たりとも退屈したくないだろう。私は自信を持ってその場を支配する。

 読者たちは高価な参加費を払って、この会合に参加してくれているのである。しかも私の小説サイトの有料会員。
 私は心の底からの感謝を伝え、あなたたち読者が私の人生の希望であり、光であり、生きている意味だと、そのような大げさな言葉を使わずに、さりげない言葉と態度でそれとなく伝えよう。

 しかし、そんなものは最初の挨拶に過ぎない。彼らを楽しませるためには、ここだけのトピック、新しい情報などが重要だ。

 「今、次の作品の構想中なんですよ」

 私は参加者たちの目を順番に見据えながら、言う。
 でも、まるで上手くいってなくてね。早く次の作品を発表しなければいけないんだけど、このままでは次の作品が出せるかどうか。

 いや、決してそのようなネガティブなことを口にしてはいけないのである。せっかく私の小説サイトの会員になってもらっているのである。
 この作家にこのまま着いていっていいものだろうかと、読者たちを不安にさせてはいけないはずだ。一人たりとて読者を逃がしたくなんてない。私はそれほど正直な愚か者ではない。
 とはいえ、嘘をつきたくもないのだ。

 「書きたいことがたくさんあって、次に何を書けばいいのか書きあぐねている状態なんだ」

 これが私にとっての誠実さである。
 実際、書きたいものが何もないわけではない。私のモチベーションは少しも枯れてはいない。
 ただ単に、何が何でもこれを書きたいという企画を見つけ出すことが出来ていないだけ。
 書きたい気持ちは、少しも衰えてはいないわけだ。次の作品も、あなたたちを楽しませるはずですよ! 

 今夜の夕食会の参加者たちは、皆、穏健な人たちばかりで、私のこの言葉を前に、「次の新作を期待しています」と大人の対応をしてくれる。先生の書いたものならば、どんな作品でも大歓迎です、と。

 小説サイトの会員たちは、月々の会費を払ってくれている。前作が完結して、新しい作品の発表が途絶えていても、彼らは会員でいてくれている。
 もちろん作品が完結すると、大勢の有料会員が脱退してしまうのだ。
 そういうことが起きてしまうのは、「今日」の小説サイトのシステムでは当然のことで、だから作家たちは出来るだけ空白の期間を埋めようと立て続けに作品を発表したり、会員向けの特別な特典を用意したりしている。
 そもそも、このようなイベントだってそうだ。読者を繋ぎ止めるための努力の一つ。
 しかし彼らが最も待ち望んでいるのは新作であるはず。いや、むしろ、そうあって欲しいというのが作家である私の望み。

 「次の作品も、占星術探偵シリーズですよね?」

 参加者の一人が私に尋ねてきてくれた。

 「ああ、それすらもまだ決まってなくてね」

 夕食会の模様ほど、つまらないものはないに違いない。社交辞令とお世辞と、それへの返答だけで出来ているだけ。イチイチ、それを描写する価値はないだろう。



6ー2)

 ときに作家に論争を挑むため、いや、ケンカを吹っ掛けるために、夕食会に参加しようとする読者だっている。
 作家への期待と落胆、満足と物足りなさ、愛と憎悪、関心と諦めが複雑に入り混ざっている態度。当然、そういう人でも読者だ。

 「デビュー当初の作品は素晴らしかったですけど、最近の作品はどうかと思っているんです!」

 私だってそのような言葉を何度も浴びせ掛けられてきた。
 こういう読者を避けるわけにはいかない。彼らが夕食会に参加を表明すれば、招待する。

 しかし気軽に呼ぶつもりもない。このようなときは、気心が知れて、私と同じくらいに弁が立つ会員を同席させるのである。
 論争になったときに私を助けてくる味方だ。
 とてつもなく卑怯で、臆病な手かもしれないが、自分のホームでわざわざ不利なケンカをするつもりはない。

 私に論争を挑もうとしている会員は、だいたいの場合、SNSにおいて、そのような気配を漂わせているものである。
 どの読者が私にとって危険な人物なのか事前に知れる。
 いや、逆に言えば、危険ではあっても、そうやって意見を表明してくれる相手だからこそ、招待することが出来るわけである。
 何の意見も表明をしていない相手のほうが不気味で、そういう相手こそ、夕食会に招待しにくい。
 作家の夕食会に参加したければ、ポジティブであろうネガティブであろうが、自分の意見は積極的に発するべきだということ。

 さて、論争相手が存在するように、私に恋愛感情を抱いている会員も当然、いる。
 異性の会員は多かれ少なかれ、そのような感情を抱いてくれているのかもしれない。
 しかもそれは私の作品の主題でもあるわけである。つまり、恋愛が終わった世界で、どのように生きるべきか。
 恋愛が終わった世界というのは、人々が恋愛をしない世界ということではない。
 よく誤解されることであるが、そこは恋愛感情が死滅した世界というわけではないのだ。
 むしろ、私の「占星術探偵」シリーズは恋愛について考察した作品であろう。
 これまでの結婚をゴールにした一対一の交際ではなくて、もっと多様な交際の模索。
 その多様なありかたを肯定するのが、このシリーズの主題だと言えるはず。

 「先生に恋をするとします、読者として、ファンとして。先生の仕事を追いかけ、毎日更新されるSNSを追いかけて。それを人生の中心に置いて、本当の恋人のように大切にする」

 夕食会も佳境に入った頃、すなわち占いの話題でひと盛り上がりして、やがてその話題が尽きてしまった頃、参加者の一人、ハンドルネーム「イズン」が、私にそのような話しを振ってきた。
 彼女が占いの話題に積極的に加わろうとしなかったのは、他の参加者たちもわかっていたと思う。彼女には個人的な質問があるのだという認識だ。
 それゆえか、皆、素直にその新しい話題に移った。

 「つまり、先生だって、その責任を引き受けてくれるわけですよね?」

 「ああ、うん、そうさ。現実のつながりも当然のこと尊重はするけれど、幻影的実存とのつながりも同じレベルで評価する。それが僕の小説のテーマの一つでもある。だから、その想いを拒絶したり、軽蔑したりするわけはない」

 幻影的実存。その呼び名を気に入っているわけでもなく、上手い名称だと誇らしげに思っているわけはないのだけど、とりあえずもっと良い名称を思いつくまではこれを使い続けるしかない。
 それは私が「占星術探偵」シリーズにおいてでっち上げた概念なのであるが、幻影的実存者はもちろん作家だけではない。俳優、音楽家、アイドル、ホスト、ホステス、むしろ割り合いとしては、このような職業のほうがはるかに多いに違いない。

 我々は「幻影的実存者」と恋愛することで、恋愛が終わった21世紀の世界を生きるのだ。
 そのつながりは淡く、緩く、しばしば肉体的接触を欠くが、しかし、間口は広くて、出入り自由で、継続的に接触出来る確証があって、そして多くの場合、幻影的実存は現実の恋人や配偶者よりはるかに容姿に優れ、何らかの才能に秀でていて、とても魅力的であり、我々を退屈させない。
 こうやって幻と交流して、孤独を癒して生きていく。
 そのような人生を一切の迷いなく肯定すること、それが「占星術探偵シリーズ」のテーマの一つ。



6―3)

 私が自分の小説でページを費やして描いてきたのは、幻影的実存者の実存よりも、幻影的実存者に憧れる側の人生のほうである。
 つまり、スターの内面を描くのではなくて、スターに憧れるファンの内面を描いてきたということ。ホステスの内面を描くのではなくて、その客の内面を描いていたということ。
 もちろんそれは当然のことで、そもそも、この世界には幻影的実存に憧れる側のほうが多数派であるわけで、読者の感情移入を誘うための戦略としても、私の選択は当たり前であろう。

 しかし図らずも、私自身は幻影的な実存でもあるのだ。
 自ら言うのは何やら恥ずかしいことであるが、この私に憧れを抱いてくれる読者が複数いるという事実。
 私はそれに対面して、どのように振る舞うべきか決断しなければいけない機会が、ときおり訪れる。
 端的に言えば、イズンと寝るべきかどうかという問題だ。いや、そこまでいかないとしても、個人的な関係を築くか。

 この読書会に参加して、私の作品のファンだと自称して、それどころか本気の恋愛感情を匂わせてくるイズンという女性。
 そんな彼女に魅力を感じないと言ったら噓になるだろう。あまりに安っぽい形容で心が引けるのであるが、私の小説に出てくるファムファタル的な登場人物が、目の前に存在しているかのような感触であった。
 もしかしたら意識して、そのような自分を演じ、自らを飾っているのかもしれない。
 あるいは逆に、自分の似姿が描かれていたので、私の小説の読者になった可能性もあるだろうか。

 彼女の「イズン」というハンドルネームも北欧神話に出てくる女神の名前らしい。「ロキ」という私のペンネームにインスパイアされたことは間違いない。
 いや、私のペンネームはその北欧神話から拝借したわけではなくて、ただ本名を崩しただけなのだけど。
 北欧神話にその名の神が存在していることを知って、シンパシーを抱き始めたのは後のことだ。彼女の名前だって、その種の偶然かもしれないが、どっちにしろ私たちはこうして出会ったわけだ。

 もちろん、私がイズンに手を出すなんて、ありえない選択肢なのである。ならば、イズンの隣に座っている女性には、私はなぜ手を出さないのだ? 
 いや、イズンの隣に座っている女性は、もしかしたら私にそのような類の欲望は抱いていないかもしれない。しかしその隣の隣の女性は? 今日は出席してはいないが、前回に出席したあの女性は? 彼女は私に、官能的な視線を送り続けていたではないか。

 幻影的実存でありながら、幻影的実存に憧れる実存と関係を持つケースは多い。すなわち、小説家でありながら、読者と恋愛関係になるというケース。
 そんなことは遥か昔、近代文学草創期から頻発したことではあろう。田山花袋や太宰治など、伝説的文豪たちがそのようなことをやらかしていたのではなかったか。
 歴史上の人物を出すまでもない。スターがファンに手を出すことは多い。
 ロックスターにはグルーピーと呼ばれるファンがまとわりついていた。彼らは平然とファンたちと関係を持っていたらしい。
 私もイズンに欲望を感じたのであれば、それに身を任せればいいではないか。

 しかし私はこれまで、いまだかつて一度もその欲望に屈したことがない。自慢することではないのかもしれないが、ないものはないのだ。 
 端的に言って、私はそれが怖いのであろう。
 幻影的実存と幻影的実存に憧れる者との関係について、それなりに考えてきた私にとって、そのような行為は気軽に行えるものではない。
 そのような行動に出るためには、一冊の小説を書き上げるくらいの言い訳というか、自己釈明が必要であるに違いない。

 「私にはその気になれば、こうやって二か月に一回くらいは先生と逢うことが出来ることは事実で」

 イズンは更にそのようなことを言ってくる。

 「ネットを通して、やり取りも出来る。作品の感想を送って、次の作品に大きな影響も与えることが出来るかもしれない」

 「うん、とても大きな影響を与えることが出来る」

 「それでも充分満足です。だけど、更にそれ以上のことを考えてしまうのが人間ですよね。そういう感情が作品に書かれていないとは思いませんが、先生がそれについて具体的にどう考えているのか知りたいと思いまして」

 それ以上のことを願ったとき、幻影的実存との関係が終わるとき。それが回答であろう。
 しかしそんなものは彼女を突き放すような冷たい正論だ。

 「こうやって出会ったとしても、そこから普通の恋愛に発展することもあるはずだ。しかしきっと、その普通の恋愛は退屈なのかもしれない。かつての関係のほうがずっと刺激的であった、なんてこともあり得る。だから重要なことはエスカレートしないこと。とはいえ、そんなことは容易ではないから文学作品のテーマにもなったのだけど」

 のらりくらりとした要領の得ない返事である。しかし、読者をつなぎとめるための返答としては、けっこう良い線をいっているのではないだろうか。

 「いずれにしろ、人生なんて何が起きるかわからない。自分だけに特別なことが起きるのが人生で、いつだって例外しかない」

 君と僕の間でも、何か始まることもあるかもしれない、私はそのようなことを暗に匂わせておく。



6―4)

 夕食会は二時間。終わりの時間が来たから断ち切るように終了させるのではなく、程よくタイムオーバーさせながら、名残惜しさを残して散会に持っていく。
 このあとに次の仕事があるから、これで終わりだなんて、そんなシラケる言い訳はしない。
 どっちにしろ二時間も語り合えば話題は尽きてくるもので、参加者たちも一人の時間を求め始める。
 誰もが大阪在住のわけではなくて、遠くからやってきている人もいる。帰りの電車の時間も気になってくる。狭い密室を出て、外の空気を吸いたくもなる。SNSの更新も気になり出す頃だ。
 そもそも私たちは気心の知れた友人同士ではないのだから、神経は疲れ果てる。

 この日も私たちは爽やかに別れたはずだ。
 一緒に駅のほうに歩いていくのも何か違う気がするので、私はレストランに残って参加者たちを見送る。その間、今日の遣り取りを思い出して、メモにしておく。
 夕食会を録音しておいてもいいが、そこまで熱心でもない。聞き返すのも面倒だ。自分の声を聴くのは苦痛である。
 それより何より夕食会終わりは、いつも後悔の念と反省でやり切れない気分になる。
 何か致命的なミスをしてしまったのではないかとか、参加者の期待に応えられずに、がっかりさせてしまったのではないかとか、気分も思考も暗いほうへ、下のほうへと転がり落ちていく。

 手応えなんて皆無だ。仕事のあとの達成感なんてない。
 書くことは快感で、一日の作業の終わり、いつだって気分は爽快なのであるが、夕食会はそれと逆で、どれだけ喋ってもそんな気分にはなれない。
 「大丈夫、別に嫌われたりはしてないはずだ」ということをを確認するために、私は今日のことをすぐさま振り返り、それを文章にしているのかもしれない。それは一種のセラピーのようなもの。
 今日だってすっきりした気分ではない。あんなこと言うべきではなかった。こう言うべきであった。きっと誤解されている。本当の真意が上手く伝わっていない。
 ネガティブな感情だけを抱えて、散会から三十分後、私はため息をつきながらレストランをあとにして、大阪の街を歩き始める。

 とはいえ、今日の私は不思議な高揚感も覚えていた。ただただ一方的な気分の落ち込みだけが襲ってくることはなかった。
 私を上機嫌にしている理由、それはあの女性との出会いが原因だろう。
 それは何か新しい選択肢が人生に追加されたような気分とでもいおうか、これまで開くことがなかった窓が開いて、そこから素晴らしい景色が見渡せることを知ったときの感じといおうか。
 その選択肢を選ぶかどうかに関係なく、そのような可能性が誕生したことに心浮かれているのである。

 そう、その選択肢を選ぶことはない。これは決して、私の人生の本質に変貌を迫って来るような出会いなどではない。
 そのような出会いだったなら、単純に浮かれてなどいられない。もっと焦りとか切迫感でソワソワしているに違いない。
 今、私はただ単に上機嫌なのだ。それがこの出会いの本質。
 つまり、私は何かアクションを起こすわけではない。何かを得ようとなんて思ってはいないということ。

 さて、夕食会からの帰路にいる私は、そのままの足で編集者の大野さんの自宅に向かっている。夕食会の後に会う約束をしていたのだ。
 執筆作業は何も進捗しておらず、大野さんと打ち合わせをする準備など何も整っておらず、億劫な約束でしかなかった。
 しかし夕食会を経て、何やら気分は一新されたようである。
 もしかしたら何か有益な話しが出来そうな気分。

 大野さんの部屋は中崎町にある。西梅田から歩いていけない距離でもない。浮かれている男にとっては遠くない。私は軽快にその距離を踏破していく。
 梅田の地下街のカレーライス屋で、チキンカツカレーをテイクアウトで注文していた。
 その店はスマホで注文出来る。指定した時間に店まで行って、カレーライスを受け取るだけだ。支払いもカードで済まされている。
 大野さんの家に行く前に、その店に寄っておくのも忘れてはいけない。



6―5)

 大野さんの部屋は大阪の街の真ん中にあって、梅田のネオンの灯りを静かに見下ろせるタワーマンションといったところ。
 東京でこのような部屋を借りるのは大変かもしれないが、大阪のマンションの家賃は驚くほどのものではない。とはいえ、彼女は優秀な編集者なので、東京でも高層マンションに住むことは簡単かもしれないが。

 大野さんの部屋を訪れると、いつものように彼女の一人娘、梨阿が私を出迎えてくれた。梨阿、十六歳の高校生だ。

 「あっ!」

 「いらっしゃい」とか「ようこそ」とかの挨拶もなく、梨阿は私の背後のほうをジッと見て言ってきた。

 「何か憑いているわ。けっこうヤバい奴が」

 「憑いているだって?」

 彼女には何か見えるらしい。我々には見えないもの。いわゆる、心霊的なものだ。
 両親が離婚して、孤独で不安定な幼少期を送ったせいで、憐れなことに彼女は病んでしまった。
 というわけでもないのだろうが、いつからか梨阿は霊感少女という属性を選択して、自分のアイデンティティにしている。

 とはいえ、それは私と彼女だけの秘密なのである。学校の友人や母親の前では、このようなことを口にしてはいないようだ。
 どうして私がその相手に選ばれたのかわからないが、それは光栄なことだと思う。このような打ち明け話から除外されるような者は、小説家になる資格がない気がする。

 「どうしよう?」

 私は彼女に問うてみる。何か憑いていると言われたのは初めてではないので、私は驚きもしないし、慄きもしない。

 「どうしようもないよ、私の力では祓ったり消したり出来ないし」

 「帰ったほうがいいのかってことさ。この部屋にそのけっこうヤバい奴を引き入れるわけにはいかないだろ?」

 「ううん、大丈夫、我慢するから。それ、女だと思うよ」

 「女の亡霊?」

 「それか、生霊かもしれない」

 イズンなのかもしれない。私が彼女のことをずっと考えていたから、梨阿はこのような形でそれを察知したのか。彼女の霊感には、こういう鋭さがある。

 「危険な女なのか?」

 「うん、かなりね」

 イズンとは関わらないほうが良い。それが梨阿からの警告か。
 しかし当然、私は彼女の霊感を否定はしないが、そんなものを信用もしていない。雑誌の最後のほうに掲載されている占いくらいの信ぴょう性だ。
 まあ、しかし私は占星術探偵シリーズの作者だから、雑誌の占いだって馬鹿にしたりはしないのだけど。

 「お邪魔します。余計なモノもついてきているようだけど」

 大野家のリビングルームは広い。少しくらい散らかっていても気にならないくらいのサイズ。柑橘系の温かい香りがする。私の部屋と香りがまるで違う。
 私はテーブルに座り、先程買ったカレーライスをすぐに食べ始める。梨阿がペットボトルの水を出して、コップに注いでくれる。

 彼女はカレーライスを食べる人間を初めて見たという態度で私をジロジロと見てきた。
 居心地が悪いに決まっているが、何か会話の話題を探すよりも、梨阿はこういう形で私とコミュニケーションを取りたい気分のようである。
 こっちを見るなよとも言えないので、私も適当に彼女を見返しながら、カレーライスを食べ続ける。

 「大野さんはいつ頃帰ってくるのだろうか?」

 しかし彼女の視線に居心地が悪くなってくる。私はこのようなありきたりな言葉を発して、その沈黙を打ち破ることにする。

 「もうすぐ帰ってくるって連絡があったけど。ねえ、今、面白いことが起きたわ。知りたい?」

 「うん」

 「カレーライスを三口食べたときに、後ろの女が消えた」

 「本当か・・・」

 カレーライスの美味しさが、イズンの存在を束の間、私の中から消し去ったのかもしれない。
 実際、三口くらい食べた頃、私はあの女性のことを忘れて、食事に熱中し始めたタイミングだ。梨阿はそれを見事に言い当てたと言える。

 「なあ、本当にその女の霊はヤバいのだろうか?」

 何やら彼女のその警告が、真実を突いている気になってきた。

 「それはもう大変。さっさとお祓いしてもらったほうが良いと思う」

 「いや、実はその生霊に心当たりがあるのだけど。その女性と関係を深めないほうがいいのかなって質問だよ」

 「当たり前じゃない! 止めておいたほうがいいに決まっている」



6―6)

 大野さんが帰宅して、その霊に関する話題は立ち消えた。母の前では、梨阿はこのような話しを絶対にしない。
 母の前では、無気力で、何事にも無関心な、冷めた少女を演じている。そういうわけで、私は呪われたままでいるしかないようだ。
 一方、大野さんは娘の前であっても、仕事の話しをすることに躊躇しない。大野さんは仕事場でも家庭でも同じ人格である。

 「先生、次の作品のテーマ、ナンパセミナーを主題にするのはどうですか?」

 大野さんは帰宅するや否や、キッチンのシンクで手を洗いながら、そのような提案をしてきた。
 大野さんとの次作構想会議が即座に始まったわけだ。

 「今日、面白い人に出会ったんです。私の編集者の友人が、今度その人の本を出そうと企画しているんですけどね。ナンパセミナー、というよりも恋愛講座と言ったほうが良いのでしょうか、その主催者で」

 「ナンパセミナーだって?」

 私は本気で困惑した。大野さんは私の小説に携わることが面倒になってしまったのかとすら思った。
 私は「恋愛が終わった世界」をテーマを描く作家なのに。

 「でも逆に『占星術探偵シリーズ』向きのテーマだと思いませんか? その人の話しを聞いてて、ずっとそのことを考えていたんです」

 「逆にも何も本当に真逆だって思う。ナンパというのは、とても勇気がいる行為だ。断られたときは、自分を全否定された気分になるはずなんだ。それを乗り越えて、他人に声を掛けるなんて凄いことだ」

 私が描いた恋愛の形は、そのような勇気を必要としない。恋愛相手を一方的に好きでいられる、その状態でも許される恋ばかりだった。
 占星術探偵の二作目では、スターなど有名人を相手に恋をしているファンを描いた。三作目は、金銭的な授受で、疑似恋愛を演じてくれる女性たちを描いた。
 いわば、自己承認を求めるという、多大なる勇気が必要とされる行為とは無縁の恋愛。
 こんなものは、恋愛とは呼べないぞ。相手を好きになり、その相手に自分を認めてもらう。お互いにお互いを認め合うこと、それこそが恋愛なのだ。
 そのような考えが当たり前の世界で、「承認無しの、一方的な恋愛でも恋愛」だと唱えてみたのが、私の占星術探偵シリーズの「恋愛の終わった世界」だったわけである。それはある種の読者にとって、慰めであり癒しだったと思う。
 もちろん、そういうことについて、これまで大野さんと何度も話し合っていたことであり、二人で共有していた問題意識だ。

 「恋愛は自分の承認を賭ける行為だ。人間と人間の間には、とても深くて大きな深淵が横たわっている。そこを飛び越えて、他人と仲良くなろうとする行為。失敗すれば、その深淵に落っこちて、墜落死だ」

 「墜落しても、死なないように指導するのがそのセミナーなんです」

 「はあ、なるほど」

 「そのためには、決して相手を愛さないことがコツだそうです」

 「愛さないか。そんなことが可能なのだろうか」

 「とりあえず、その人と会ってみて下さいよ。先生にインスピレーションを与えてくれるのは間違いないです」

 手洗いうがいを終えた大野さんは、私たちの座っているテーブルにやってくる。

 「しかし読者は驚くかもしれない。裏切りだと感じられる可能性すらある。もちろん、それをテーマとして取り上げても、そのような恋愛を肯定するかどうかは別だけど」

 「そうです、このテーマをどのように料理するのか先生次第です」

 「だけど、そんな怪しげなセミナーの講師とコミットするのは嫌だね。それにこっちにだって、自分なりの恋愛論がある」

 「本当に面白い人です、とんでもなく魅力的な。気に入るか気に入らないかは会ってから判断して下さい」

 「しかしなあ」

 ナンパセミナーなんて胡散臭い。別に忌み嫌いはしないが、そのようなセミナーを受講する人も主催する人も理解出来ない。それが私の率直な感想。
 まあ、しかし私も似たような存在だと世間からは思われているのかもしれない。「恋愛が終わった世界」やら「占星術」やら、充分に胡散臭いテーマを取り扱っている作家だ。

 「ナンパセミナーの先生ってどんな人? やっぱりホストみたいな感じなの?」

 梨阿が私たちの会話に入ってきた。

 「そんなタイプじゃない。何て言えばいいかな、とにかく会ってみないと彼の魅力は伝わらない。今から呼んだら来てくれるかな」

 「会えるのなら会ってみたいかも」

 「じゃあ、呼んでようかしら」

 「何だって? ここに呼ぶのかい?」

 「彼のほうは先生に会うことに積極的で、いつでも取材に応じるって言ってくれてるし。とりあえず電話してみるわ」

 大野さんは即座にスマホをいじり始めた。何やらピザのデリバリーを注文するくらいの軽やかさ。
 いや、その場合でも、メニューを前にして私たちは迷うだろうに。
 梨阿も会えるのなら会いたいと言いはしたが、今日すぐに会いたいと言ったつもりはなかったようだ。
 苦笑いしながら母親を見ている。彼女の母の行動は、私たちが予想している以上に迅速なのである。

 「じゃあ、待ってますね」と電話口で言っている。算段が付いたようだ。



6―7)

 その男はすぐにやって来た。大野さんが連絡をすると、「全然、行けるっすよ」と返事を返して、その数十分後には部屋のインターフォンのモニターに映っていたというフットワークの軽さ。
 ナンパセミナーの講師。しかし確かに想像していたタイプとはまるで違っていた。
 騒々しくもなく、チャラチャラしている感じでもない。彼はむしろ思索的な雰囲気を漂わせる青年であった。
 そのスーツ姿は普通のサラリーマンのような着こなしである。襟足を軽く刈り上げた黒髪で、派手さは少しもない。
 奥二重の目は細くて、恬淡としている感じ。色気のようなものがムンムンと漂っているわけではなくて、むしろあらゆる物事に対して執着心なんて無さそうな空気。
 つまりイタリアの伊達男タイプではない。平凡な賛辞としてよくある、「風のような印象」、そのような言葉を使いたくな男性だ。

 「彼が百合夫君よ」と大野さんが紹介する。

 「百合夫です、初めましてロキ先生」

 彼は顔を赤らめながら、私に握手の手を差し出してくるのである。読者と握手し慣れている私も、照れながら握手を交わす。

 「興味を持っていただいて、とても光栄です。先生の作品は拝読させていただいてまして、本当にリスペクトしていたんです。ねえ、大野さん?」

 その言葉はお世辞なんかじゃないって、口添えして下さいよ。
 そんな視線を彼は大野さんに向ける。そうだったかしらと、大野さんはおどける。その場は軽やかに弾み出した。

 私も素直に、その青年に好感を抱いてしまった。あの梨阿も自然と笑みを浮かべている。
 いや、梨阿には霊感があって、瞬時にその人の本質を見抜ける、なんてことは別にないわけで、彼女の判断がその人物を保証するわけでも何でもない。
 しかし彼女は内気で、へそ曲がりで、上辺の魅力に騙されないほうである。そんな梨阿も警戒心を解いているのだから、彼はかなりの好青年というわけだ。

 「大野さんの娘さんですね? チャーミングな女性ですね。大野さんもきれいだけど、さすがにその娘さんって感じです。でも実はもっと小さなお子さんだと思ってました。大野さんの娘さんだから小学生くらいだって。あっ、これ、お土産です。シュークリーム」

 もちろん、この爽やかさ、健康的な明るさは全て演技なのだろう。彼はその道のプロらしいのだ。当然である。その内実には底知れない闇が隠されているに違いない。
 いや、闇という言葉は大袈裟だ。ただ単に裏と表。本音と建て前。そういうものがはっきりと分かれている世界を生きているはず。なにせ恋愛セミナーの講師だというのだから。

 「不勉強で申し訳ないのだけど、君の恋愛セミナーのことは何も知らない。とにかく大野さんが君を買っていて。会ってみてくれとうるさくてね」

 私は言う。

 「大野さん、本当にありがとうございます。僕はロキ先生とこうやって会話出来ているだけで光栄です」

 「次の作品のことは何も決まっていない。極端なことを言えば、書くかどうかすら定かではないんだけど」

 「そうなんですか?」

 「いや、もちろん書きたい。これまで以上に面白い作品を完成させたいと思っている。そのために面白そうな人と会ったり、興味深いことを聞いて回ったりしようということで」

 「ああ、感動です。このような機会を与えてもらって本当に感謝ですよ!」

 百合夫君の恋愛セミナーとやらについて取材したとしても、その内容を一切採用しないこともあり得る。むしろそっちの可能性のほうが大きい。
 でも、そんな結果になれば、彼を少なからず傷つけてしまうとは思う。
 いや、それよりも取材したのだから、出来るだけそれを採用しなければいけないという圧力に曝されたくない。
 このようなちょっとした制限でも、小説家のストレスになるのだ。
 そのための防衛策として、この接見は取材というよりも、共通の友人を介した引き合わせ、そのような形にするべきだ。参考程度に話しを聞くというレベル。

 「百合夫君の恋愛セミナーの哲学と、ロキ先生の作品は相性が良いはずです。きっと共鳴し合うと思います」

 しかし大野さんはそんな私の心中を知らずか、あえて無視するつもりなのか、何としても私たちを結び付けようとしてくる。

 「百合夫君の話しを窺っているうちに、絶対に次の作品でそれを取り上げたくなりますよ!」



6―8)

 大野さんに促されるようにして、百合夫君はその話しを始めた。つまり彼の恋愛セミナーの特異さ、個性、他と違うところ。それについてのプレゼン。

 「ナンパなんて普通は成功しませんよ。街で声を掛けて、女性が応えてくれることなんて滅多にありません。それはどんな色男にだって、困難なミッションです。だから僕たちのセミナーはそんなものを推奨しない。しかしこの世の中において、男と女は出会い、恋をして、セックスを重ねる。すなわち、出会いは常に溢れているってことです。それを見逃さずに、人生を愛に満ちたドラマにするのか、それを逃して、退屈な人生を送るか、人生はその二種類に大別されるわけなんですよ、ロキ先生」

 「はあ」

 百合夫君は淀みなく話しているわけではなくて、ところどころ詰まりながら、言葉のチョイスを迷いながら、私たちに伝えてくる。
 しかし声は心地良くて、話すスピードもちょうど良い。聞き惚れてしまう話し方だった。

 「例えばですね、新幹線の隣の席に一人旅の女性が座ってくれば、絶対に声を掛けるんです。しかしわざわざ隣に座りに行くわけじゃない。出会いそのものは偶然なんです。偶然、買った指定席がその女性の隣だっただけ。そしてその女性が偶然、退屈していた。その偶然に乗じることが出来れば運命になります。しかし逃してしまえば」

 「逃してしまえば?」

 「無、です。イベントが発生しなかった退屈な人生ゲーム、それで終わりです」

 「まあ、それはそういうことになるだろうね」

 「我々の恋愛セミナーは女性と仲良くするための講座です。ゴールはセックスじゃありません。そのせいか、期待外れだとか、物足りないとか言って、すぐに辞めてしまう人も多いんですよね。もちろん、そんな受講者は辞めて頂いて結構なんですが、しかしセックスよりも、女性と仲良くなることのほうが尊いことだと僕は伝えたい。もちろん仲良くなれば、身体を重ねることもあるでしょう。結局、そういう連中の欲望だって満たされる。それは当然なんです。彼らの誤解を解くためにも、僕たちのセミナーの本質をもっと宣伝しないといけなくて、いいえ、先生の作品を利用しようとか、そういう思惑は・・・、ないと言えば嘘になります。正直に言いましょう、先生に取り上げてもらえれば、僕たちのセミナーの知名度は世界中に響くに違いない。そんなことになればそれは最高にハッピーなことで」

 「世界中に僕の読者はいないけれど、とにかく要領はわかった。無駄に声を掛けない。いわゆるナンパ的な行為はしない。その代わり、偶然の出会いに乗じる」

 「有り触れた方法だと思われてるかもしれませんね」

 百合夫君はフフフと笑う。

 「いやね、意外とソフトでマイルドだなとは思ったことは事実だけど」

 私もフフフと笑いながら言う。まだ彼は全てのネタを話してはいない。
 失礼のないように、百合夫君を少し挑発して、さっさと本題に入らせたい。彼は人の感情の機微を読むのが得意なのだろう、百合夫君はすぐに本題に入った。

 「実際、有り触れた方法ですよ。繰り返しになりますが、僕たちの日常は出会いに溢れている。その出会いを見逃さなければ、愛とセックスに溢れた人生になるんです」

 「そうだろうね」

 「まあ、それが大変なんですけれど。結局、偶然が出会いを運んできてくれたとしても、僕たちは女性に声を掛けられない。素敵な出会いのはずなのに、怖気ついてスルーしてしまう。当たり前です。チャーミングな他者はとても恐い」

 ねえ、皆さんもそう思うでしょ? と百合夫君は僕だけではなく、隣に座っている梨阿にまで声を掛ける。

 「というわけで、僕は偶然の出会いを逃さないための処方箋を二つ用意しています。一つは徹底的に偽のキャラクターを演じること。そして二つ目はサイコパスになること」

 「偽のキャラクター。サイコパス」

 不穏なフレーズが飛び出してきた。ソフトでマイルドな語り口の百合夫君の口から、そのような言葉が飛び出して来るなんて。
 しかし恋愛講座の主催者として、それなりにネットの世界では有名らしい。
 ソフトでマイルドなだけでは、人気者に成れるわけのない世界なのだから、これは当然のことだろう。

 「偽のキャラクターというのは、別人になりきるわけです。何も難しいことではありません。まるで別の過去。まるで別の履歴。そういうのを作り上げて、別の自分を演じる。嘘をついて交際するわけですから長続きはしませんが、刺激的な人生を送ることは出来る」

 「なるほど」

 「二つ目のサイコパスというのは詳しい説明が必要でしょう。簡単に言うと、サイコパスは傷つきません。でも我々は傷つきやすい。サイコパスは人生を満喫している。でも我々はウジウジして、退屈しているだけ。ならば人生を楽しむために、彼らを見習えばいいのです。実は今度、出す作品のタイトル、そうです、大野さんの御友人の編集者さんが担当して下さった僕の本が、『サイコパスの勧め』というタイトルで」



6―9)

 「一人の女性を愛して、その人のためにだけ生きるというのはとても尊い。僕だってそれが理想的だと思います。当たり前ですよ、ピュアな恋愛とはそのようなものでしょう」

 「サイコパスの勧め」とは何なのか、その話題に入る前に、まず、恋愛の大前提について言っておかなくてはいけないことがあります。
 百合夫君は言う。

 「だけど一人の女性を愛して、その愛を勝ち取る、そんなのは非現実なことだと僕は思うんです。とても難しいことだってことです。一人だけを愛し、一人だけを望んだら、その一人はどこまでも大きくなって、重くなっていって、それはやがて僕たちには手の届かない、聖なる存在になってしまう」

 「えーと、それは恋愛相手の無限の理想化というか、恋に恋するような態度というか、そういうことについて言おうとしているんだね?」

 「そうです、さすが先生ですね。言葉足らずの僕の言葉を汲み取って下さる。そのような恋愛のやり方を禁じるのが我々のセミナーです。そういうことをしてしまえば、たった『1』しか望んでいないはずなのに、逆に何も手に入らないってことになってしまう」

 「はあ」

 「たかが『1』です、一人だけの愛する女性、ささやかな『1』。一人だったらどうにかなるに違いない、そのような『1』。でもそのような『1』だったはずなのに、それはふと気づけば、とても巨大な『1』になってしまうのです。そんなことをすれば、『0』か『1』の選択肢の間だけを彷徨うことになる、孤独な人生を送ることになってしまうんです」

 「0か1なんて、まるでコンピュータだね」なんて言わないでおく。百合夫君が言いたいのはそういうことではないだろう。

 「僕たちは『1』を手に入れるために、極端なことを言うと『10』に恋をする必要があるというわけです。それもこれも決して絶対的な『1』を生じさせないために、です。絶対的な『1』はそれほどヤバいものなんです」

 「つまり、たくさんの女性に興味持て、と?」

 「はい、別にそれは女性を取っ替え引っ替えする、特別なナンパ師人生を送るためのアドバイスではありません。カサノバ的人生を奨励しているわけではありませんよ。これはあくまで普通の恋愛をする人に向けたメッセージ。一人の女性との恋愛を手に入れるためには、その一人だけを愛してはいけない」

 「ああ、なるほどね」

 私は何かコメントを返そうと思う。しかし私の言葉を遮るように、梨阿が声を上げた。
 そもそもこのような恋愛講座は男性向けだ。本来ならば、彼の講座を受講している生徒は男性ばかりのはずである。
 女性の前でこの恋愛哲学を披露するのは辛いに違いない。実際、梨阿は途中で眉を顰めたり、腕組みをしたりていた。

 「意味がわかりません。そういうの、女子のほうは嬉しくないと思うんですけど」

 そしてついに梨阿が異議を呈し始めた。彼女は内気な性格ではあるが、議論を戦わせるのは好きだし、自分の意見を主張することに積極的なほうだ。母譲りのお喋りな性格だ。

 「だって自分の好きな人が色んな女性に声を掛けて、アプローチしているなんて嫌だし、そんな軽い男性を好きになれません。私は一人だけを大切にする人しか無理です」

 素直な意見だ。十六歳らしい異議だと思う。この会話を盛り上げるために、あえて百合夫君に反対したわけではなくて、それが彼女の正直な気持ちなのだろう。
 百合夫君は梨阿の言葉を聞いて、「わかります。大変よくわかります」と大きく頷く。

 「そうです、当然ですよ。僕だって梨阿ちゃんと同じ考えです。多くの男性も実はそうです。一人の女性だけに自分のありったけの愛を注ぎたいのです。男性だって、複数の選択肢を前にしていると疲れますからね。結局、『1』に吸い寄せられていく」

 「え? だったら、それでいいと思うんですけど。男性も一人だけを愛したいなら、『10』の女性に声を掛ける必要はないじゃないですか?」

 「はい、しかしそのような男性は、恋愛が出来ない。一人の女性を大切に思う男子は、人を好きになったり、愛することは出来ますが、恋愛には踏み出せないんです。その手前で躊躇してしまう。例えば梨阿ちゃんがそんな男性を愛したとしても、その男性は梨阿ちゃんにアプローチを仕掛けてこないわけです。では、梨阿ちゃんから積極的にアプローチしますか?」

 「わ、私から?」

 「そうです。さりげないアプローチではありませんよ。決定的な告白です。梨阿ちゃんから、その男性に付き合って下さいと声を掛ければ、もしかしたら交際が始まるかもしれません。でもそれが出来なければ、いつまで経ってもそのタイプの男性は踏み出して来ませんよ。梨阿ちゃんの恋の物語は始まらないということです」

 「本当にそう?」

 梨阿が私に尋ねてくる。

 「いや、どうだろうか」

 違うとも言えない。その通りだとも思えない。百合夫君の言葉は極論に近いだろう。
 しかしそのような男性は存在するだろうし、百合夫君の言葉はそのような男性たちの心には響くに違いない。百合夫君についていこうと考える男性はいるということだ。

 「逆説的ですが、我々の恋愛セミナーの教えは女性にとっても得する話しだと思うんです。男性たちが恋に積極的になれば、女性だってその機会が多くなるということですからね」

 「でも浮気するような男は最悪ですが」

 「浮気が出来る男しか、恋愛は出来ないんです。悲しことですが、それが事実です」

 私はマジで無理だわ。
 梨阿は両手を挙げて、降参の仕草をしたり、手を交差させてバッテンを作ったりして、百合夫君の哲学を否定する。
 それが女性側の意見。しかし私は違う意見だ。それなりに彼に興味を感じている。



6―10)

 「何でしたっけ? 確かサイコパスがどうとかって言ってましたよね?」

 更に梨阿が百合夫君に言うのであった。

 「そういうのも嫌な感じだったんですけど。いえ、もちろん、何もかもわかった上で、嫌な感じを狙っているのはわかるんですけどね」

 梨阿は随分と挑発的である。しかし、本当に心の底から怒っているというよりも、あえてピュアな少女らしさを意識的に演じている気配もある。
 百合夫君があえて、嫌な感じを狙ってサイコパスなんて言葉を持ち出してきたように、梨阿もあえて不純なことを許せない自分を演じているよう。

 「はい、ではこの話題に入りましょう。まあ、実はサイコパスなんて人種が本当に存在するのかどうか僕もわかりません。しかしサイコパス的振る舞いというのは確かに存在していて、それがとても魅惑的に見えることもある」

 「えっ? そうですかね」

 「『コラテラル』ってハリウッドの映画観ましたか? あの映画のトム・クルーズなんて、まさにサイコパスといったキャラクターで、とても格好良い。社会のルール、倫理に囚われない超越的存在を演じていて、本当に魅力的です。おっと、しかしそういう表面的な格好良さを目指して、サイコパスになることを勧めているわけじゃない。サイコパスのような意識で生きろと促してているのだけど、サイコパスだと思われてしまったら女性にモテるわけがないですからね。それは梨阿ちゃんが考えている通りです。冷めた心のまま、優しい自分を演じることが出来るようになること。サイコパスであれというのはそういう意味です。とにかくサイコパスになるための九つの法則を紹介しましょう」

 百合夫君はスマホを取り出す。

 「えーと、何だっけな。セミナーで何度も話しているのに、九つもあると覚えられないんですよね」

 百合夫君は照れ笑いを浮かべる。「一つ思い出せば、残りも出てくるんですけど。これです」

 百合夫君が紹介したサイコパスの勧め、九の法則というのはこのような感じである。
 人から善人だと思われる努力をしろ。
 嘘をつけ。むしろ真実は隠せ。
 人の弱みを見つけたら、それにつけ込め。
 恥ずかしいことをしても、恥ずかしがる必要はない。
 他人は全て自分よりも劣った生き物として認識しろ。
 約束を守るときと破るときを、意識的に使い分けろ。
 人を信用するな。裏切られても気にしてはいけない。
 相手が何を望んでいるのかだけを考えろ。自分の感情を優先するな。

 以上の九つ。当然、梨阿は更に不快そうに表情を歪める。本当に最悪ですという態度。
 百合夫君はそんな梨阿を前にして、言い訳をするではなくて、ひたすら困った顔をする。

 「わかりますよ、梨阿さんの気持ちは。でもこれだけ強い心を持たなければ、恋愛なんて始められない」

 「本当に理解不可能な世界です」

 「でも女性から何かを奪えと唆しているわけではない。積極的に恋をして、女性たちを喜ばせろ、という勧めです」

 「百合夫さん、この子を相手にしても時間の無駄よ。梨阿はまだまだ子供だから。本当の意味において人間関係で悩んだことなんて一度もない」

 母親の大野さんが言う。

 「そんなことないよ」

 「梨阿には理解出来ないかもしれないけど。とにかく百合夫君の言うサイコパス的人格を演じ切られたら、男性たちは刺激的な人生を楽しめるってわけよね?」

 大野さんは私に百合夫君の恋愛講座を小説で扱って欲しいのである。それなのに自分の娘がその邪魔をしていることに苛々している。

 「そうです。女性に声を掛けることを躊躇しない人格が出来上がる。つまり必然的に成功率も上がります。しかも僕の『サイコパスの勧め』で上手くいくのは恋愛だけじゃありません。他の人間関係だって、仕事だって、勉強だって、全てが好転していきますよ」

 自己啓発セミナーにつきものの、安易な売り文句ではある。しかし実際、サイコパス的な人格の人間が成功したり出世していることは事実なのだと思う。過大な広告というわけでもないだろう。



6―11)

 「僕をモデルにした登場人物が、人殺しの悪役でも全然ありですよ」と百合夫君は笑っていた。
 それでも結果的に宣伝になるのなら、彼にとって損なことではないのであろう。
 百合夫君は私のような、それなりに名の通った作家からの承認を求めているのだ。
 いや、承認などではない。私が自分の作品で彼を否定したとしても、百合夫君は別に怒りはしないのかもしれない。
 恋愛講座など、所詮いかがわしいもの。百合夫君だってそれを十分に理解している。
 とにかく彼が望んでいるのは、今よりもっと世間に知られるとこと。知名度上昇だ。そのためならば、何度でも取材に応じますという態度である。
 
 大野さんは乗り気である。我が編集者は私に、百合夫君の存在を喧伝するインフルエンサーの役割を担って欲しいようなのだ。
 百合夫君の知名度は上がる。一方、私は新しい小説の題材を得る。誰も損をしないコラボレーション。というのが大野さんの理解。
 実際、興味深いテーマである。占星術探偵シリーズ向きのテーマなのかもしれない。
 私の熱心な読者の中からは反発が出る可能性もあるが、それ以上の反響も期待出来る。

 しかし私は大きな手応えを感じるまでには至ってない。それを小説にへと高めるまでには、まだまだパーツが足りない。
 彼との会話の中で、何かインスピレーションが湧いたわけではなかった。
 書ける、と感じたときには、心の底から、本当にどうしようもないくらいの喜悦が沸き上がってくるものだ。
 目の前に光の道が現れるような錯覚。だけど今、私はそういうのを感じていない。

 「小説にならないかもしれないよ、大野さん」

 百合夫君の帰宅後、私は彼女と二人きりになって、そのことについて話し合う。
 梨阿も自分の部屋で就寝の準備を始めた。私たちは完全な仕事モードで真剣に意見を交わす。

 「書きたくないということですか?」

 「いや、違うけどさ。彼が嫌いじゃない。このテーマも嫌じゃない。しかし書ける可能性を感じない」

 「まだ何か足りないということですね」

 「うん、しかしその何か足りないパーツが簡単に見つかる可能性が感じられない。だとすれば、このテーマ自体が出発点になり得ないというわけで」

 「では、先生が以前から話しておられた、あのテーマと組み合わせるのはどうですか?」

 「あのテーマ? それって」

 ビートルズなどのロックや音楽について正面から取り上げるという企画か。私が数年前から書いてみたいと望んでいた題材。大野さんが即座に蹴ったテーマだ。

 「そんなのは無理だね。百合夫君の恋愛哲学とジョンレノン。どうやって組み合わせればいいだろうか。下手をしたら、どちらも台無しになってしまう。共倒れってやつだ」

 「でも先生は書きたいことが書けます。百合夫君のテーマを取り上げたら、読者は飛びついてくれる。上手くいけば、その二つが同時に満たされるわけで」

 「大野さんの言いたいこともわかる。ありえない作戦じゃないけどさ。だけどどちらのテーマも中途半端にしか追求出来ないで、結果的に愚作を書いてしまう羽目になりそうだ」

 「そうですか」

 身を乗り出して私を説得しようとしていた大野さんは、ゆっくりと背筋を伸ばしていく。

 「先生がそのような不安を抱いているのだとしたら、もちろん結論は急ぎません。何より優先されるべきことは、素晴らしい作品を書き上げることですから。ゆっくり考えましょう」

 本当に残念そうな表情であったが、大野さんはそんなことを言葉を掛けてくる。
 まだまだ私たちの間には信頼関係はあるようだ。作品を少しでも早く完成させること、小説を売ること、百合夫君の宣伝をすること、そんなことよりもまず優先すべきことがあるという点で、我々は一致しているのだ。
 それはすなわち傑作を書き上げる。その目的で繋がっている。
 いや、果たしてそれが大野さんの本音かどうかはわからないのだけど。取り合えず一端は譲歩して、改めて作戦を練り直して私を説得しようと考えているかもしれない。
 それでも一瞬、譲歩してくれたことに感謝しよう。

 「もちろん検討はする。百合夫君の企画についてはこれからじっくりと考えてみるよ」

 心の底で何を企んでいるのであれ、大野さんが寛大なところを見せてくれたのだから、私もそれに誠実に応えなければいけない。
 その実、つながらないアイデアなんてないのだ。こちらの努力次第でどうにでもなることは事実。
 大野さんの持ちかけた企画だって、私の工夫でどうにでも転がる。捨て去ってしまうには勿体のないものに違いない。
 大野さんは編集者としての勘で、この企画は私に向いていると思っているはずなのだ。これは世間で受けると。
 それにこんな可能性だってある。私が正式に断れば、大野さんは他の作家にこの企画を流してしまうかもしれない。そしてその作家が、これを見事にヒット作に仕立て上げる可能性。
 私は聖人でも何でもない。むしろ俗物に近い人間。こんなことになれば、どうしようもないくらいのジェラシーと後悔に襲われるだろう。

 「前向きに考えたいと思っているよ。いつまでも答えを出せばいいかな?」

 「そうですね、十日後くらいまでにはそれなりの回答は欲しいです。百合夫君も関わっていることなので」

 十日の猶予期間しかないのか。いや、短過ぎる猶予期間も、大野さんの交渉術の一つであろう。
 いずれにしろ、これからの十日間、このことについて死に物狂いで検討しなければいけない。



6―12)

 大野さんが持ち込んできたコラボレートの企画に対して、私があまり前向きな態度を見せなかったので、少しばかり気づまりな雰囲気が漂っていた。彼女はもっと私が乗り気な態度を見せるに違いないと楽観していたようだった。
 その気づまりを解消してから別れるのが、私たちの作法だ。それこそが、重要な仕事のパートナーとの関係を長続きさせる秘訣のようなもの。

 「ところで先生、梨阿も小説を書きたいって言い出したんですけど。聞いてませんか?」

 何か面白い世間話しはないものかとを探していた私に、大野さんが先にこんなことを言ってきた。

 「梨阿が小説を書くって?」

 「そうなんです。こんなことが起きるなんて。先生も驚くでしょ?」

 彼女はこの世界のあらゆる小説を軽蔑していた。「作り話しは嫌い」というのが、梨阿の言い草だったのだ。
 自分の母親が小説に携わる仕事をしているからこその反抗なのだろうか。
 こういうのは反骨精神が旺盛な性格の子供に、起こりがちなことかもしれない。親の仕事に対する特に理由もない反抗。
 そうであったのにそれを引っ込めたのだとすれば、梨阿も大人になったということだろうか。

 とはいえ、彼女も人並みにこの世界の名作にはとりあえず目を通しているようである。
 夏目漱石、ドストエフスキー、ゲーテ、スタンダール、三島由紀夫、そして私の作品。話題のベストセラー作品だって読んでいたようだ。
 しかし書きはしなかった。小説は読むだけものではなくて、書くのもありだという常識の中で育った彼女が、書かずにいたのだ。それはやはり大いなる反抗であったと思う。

 「実はあの子の親友が小説を書いていて、その作品がかなり評判になったようなんです。梨阿はその作品が気に入らないみたいで、自分ならもっと凄いのが書けるって言ってて」

 「ああ、なるほど。彼女らしいね。でも、そんな動機で書き続けることは難しいが」

 友達に負けたくないからとか、自分のほう面白い小説が書けるからだとか、そのような低俗な動機で小説など書けるわけがない。と言い切れるわけではないが、外部的要因を動機にするのはでは弱いと思う。
 しかし書きたくて堪らないという、内的脅迫があれば書けるというわけでもない。
 いったい何が小説を書かしめるのだろうか。孤独、退屈、それは必須条件であるが、孤独と退屈を埋める方法は他にもいくらでもある。

 「で、大野さんは何とアドバイスを?」

 「困ったことがあれば、ロキ先生に聞いてみればって」

 「僕のほうに押しつける気なのか。しかし今日、二人でいたとき、そんな話題は出なかったけど」

 「ということは、書く気がなくなったのかもしれませんね」

 「僕が書きあぐねているんだ。頼りにならないと思われたのかもしれない」

 「いえ、百合夫君が来て、聞くタイミングをなくしただけだと思いますよ。もしあの子が先生にアドバイスを求めたら、何て言いますか?」

 「小説を書いたことのない相手にどんなアドバイスが必要かなんて、とても簡単だ。書きたい小説の真似をしろと言えばいいだけさ」

 「はあ、なるほど。でもそんな作品がなければ?」

 「見つかるまで探すしかないね。そもそも、真似したい小説もないのに、小説家を志すべきではないのだけれど」

 「先生はどんな作品を手本にしたんですか?」

 「さあね、忘れた。随分昔の話しだ」

 「そんな重要なこと、忘れるものですか?」

 「最初に真似をする対象は、その程度の思い入りしかない作品でもいいってことさ。一つや二つでもないしね」

 「そういうものですか。わかりました。とにかく梨阿にアドバイスをしておきます」



6―13)

 深夜二時を過ぎている。身体はそれほどでもないが、頭はすっかり疲れている。終電がなくなっていたので、タクシーで帰路につく。
 私はタクシーに乗り込み、「そういえば」とスマートフォンを取り出す。今日の夕食会の参加者の感想をチェックするためだ。
 それは何やらテストの答え合わせのようで、かなりナーバスな気分になるが、向き合わなければいけない回答。
 幸いにも芳しい感想が並んでいる。「面白くなかった」「落胆した」「ガッカリした」などという呟きはないようだ。
 もちろんネットであっても、軽々しく本音を漏らしはしないものである。私がエゴサーチをするのは明らかなのであるから。
 しかし建て前であっても褒め言葉が並んでいることは安心するべきことであろう。
 とりわけ私は、イズンの呟きをハラハラしながらチェックする。生霊を呼び込んでしまったくらいに、私が執着し始めた読者の女性。
 彼女のタイムラインにもポジティブな言葉が並んでいた。ありきたりな感想だと言えばそうではあるが、別にこんなところで個性を期待してはいない。
 特に私はこの言葉に安堵を覚えた。「イメージ通りの人で安心した」という書き込みだ。

 「ああ、良かった」

 私は口に出して言ってしまう。運転手さんが怪訝そうな顔をするが、無駄に話しかけたりするタイプの人ではないようだ。

——ねえ、私に小説の書き方教えてよ。

 スマートフォンにはそのようなメッセージも入っていた。梨阿からだ。大野さんがけしかけたのか、彼女はその話題を私にぶつける気になったようだ。

——どれくらい本気かによるね。

 私は即座に返す。

——本気になりれるように、上手く教えて欲しいわけで。

 梨阿もすぐに返してくる。最低の返信だ。私に彼女のモチベーションを上げる仕事もしろと依頼してきたわけだ。

——おいおい、本気で言っているのか。

——冗談。とにかく書きたいから教えてよ。もしかして私に教えるの嫌なの? 私たち友達でしょ? 友達が困っているんだから、助けるのが当たり前じゃないのですか? それともプロの小説家は気安くそんなこと出来ないって言いたいの? 月謝を払えとか? ケチだわ。心が狭過ぎる。

——わかった、教えてあげるよ。

 これだけ罵倒を浴びせかけてくるのだ。それなりに本気だということにしよう。いや、そもそも、こっちは別に断る気などなかったのであるが。

——しかし、どうして小説なんて書く気になったのか知りたいね。

 そのような質問をしようと思って、止めた。親友への対抗意識だと大野さんが言っていたではないか。
 彼女の親友が小説を発表して、その作品が好評を得たらしい。
 とはいえ、それが全ての理由でもないであろう。これだって建て前なのだ。
 小説を書きたいなんて欲望は、それよりもっと下世話なもの。いや、そもそも彼女だってどのような欲望が自分を執筆に駆り立てているのか自覚していないに違いない。
 私はその親友にも好奇心を感じる。梨阿と同じ年ならば十六歳か十七歳か。ちょっとした天才少女ではないか。
 同世代に受けているだけの作品なのかもしれないが、その年齢で作品を完成させただけでも凄いことだ。

——いつから教えてくれるの? 

 梨阿はせっかちだった。

——別に、いつでも。

 スケジュールを確認するまでもなく、明日も明後日も、誰かと会ったり取材旅行などの予定はない。夕食会もなければ、講演、講義、サイン会なども皆無。

——じゃあ、明日、放課後、事務所に行くよ。

——わかった、好きにしてくれ。

 秋のとば口に立っているはずなのだけど、まだ夏の生暖かい空気が残っている大阪の街をタクシーは走っている。街はとっくに寝静まっていた。私の一日もようやく終わりかけている。
 一日の終わり。夕食会に参加してくれた読者が今日の感想をつぶやいてくれたように、私も今日の感想を書かなければいけない。
 それは当然の礼儀。こうやって私たちは、ネットの向こうのリアルな人たちと、幻想を育んでいくのだ。
 百合夫君も私のSNSを読んでくれているだろう。いや、大野さんも、さっきやり取りした梨阿も、それどころか私の両親だって。

——夕食会に参加してくれた方々、本当にありがとう! 今日はもしかしたら、僕の人生において岐路になるような日になったかもしれない。

 少し大袈裟な表現であるが、私はこのような文章で今日という日を称えることにする。

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