10)ロキの世界「救済」
文字数 10,012文字
10ー1)
子供の頃の私は物語の中毒患者だった。それをドラッグのように定期的に摂取していなければ、胸が苦しくて堪らなくて、どうしようもなくなって、発狂寸前になって、実際に発狂したこともあるようだし、発狂してしまったから、私は小説家になったのだと思う。
子供の頃の私は物語を求めて、本屋を彷徨い、レンタルビデオショップを彷徨った。
どんな物語でもいいわけではない。そのときの私の心が求めている物語。それを摂取しなければ満たされない。
しかしそんなものを運良く見つけることが出来るわけがない。だから心満たされることなど滅多になかった。ある時期までの私の人生は、ずっと渇きの中で苦しんでにいた。
いや、もっと正確に言うと、私が求めていたのは物語ではなかったとも思う。それほど高度というか複雑なものではなくてもよくて。
シーン、風景、シチュエーション。どの言葉が最も最適なのだろうかわからないが、連続的というよりも刹那的なもので。
しかし面倒なのでとりあえず、それを「物語」と呼ぶことにする。私の胸の中には物語が渦いていて、その心の中の物語と相応する物語を摂取しなければ心が満たされず、苛々したり、焦燥感を感じたり、とにかく乾いて渇いて苦しかったということが言いたいのである。
当然、自分で自分を癒すよう試みてもいた。自分の欲しい物語を自分で妄想して、それを頭の中で反芻する。
しかしそれは自慰のようなもので、心満たされるものではなかった。他者が関わる必要があったのだ。
他人が書いたこと、他人が描いたもの、他人が撮影したものに価値があったのだと思う。私は物語を誰かに与えられたかったのだ。
だから私の作品が、誰かに求められるという事実が理解出来る。若い頃の私のように、他者の物語に飢えている人間はたくさんいるはずなのだ。
そんなものはいくらでも書き換え自由なのに、その展開は作者のちょっとした気まぐれなのに、不変なるものとして受け止める読者たち。
私はそのような読者のピュアさを軽んじるのではなくて、心の底から尊びたいと思っている。
書かれたものは絶対的なものだという錯覚。若い頃の私もそのような読者であったのだ。
さて、このような少年時代を歩んでいた者が辿る人生には、二つのパターンがあると思う。
この渇きが苦しくて、他のもっと手軽なものに助けを求めてにいく者。
すなわち物語などとは縁を切って、スポーツや交友関係、セックス、仕事、その他、自己実現に重みを置く生き方。現実的で健康的、まっとうな人生。
もう一方。自分が物語を作る側に回る人生。他者から与えられる物語の魅力を感じながらも、それだけの人生に限界を覚えて、遂に溜まらず自らも物語の創作に向かう生き方。
私は少しずつ、遠回りしながらであったが、書く側の人間になっていった。自分が読みたいシーン、ドラマ、風景、シチュエーションを描き始めたのである。
やがて頭の中でしか思い描くしかなかったものを、どうにか形にすることが出来るようになった。
小説という形に落とし込んでいけば、自分の妄想に過ぎなかったものも、一つのモノとなる。
自分の中から出てきた妄想なのに、他者性を帯びるとでも言おうか。
その事実は驚きだった。書くようになって、私の中から物語への飢餓感は一掃された。
あの情緒不安定は消え去ったと思う。私はようやく、人並みに人生を楽しむ資格を手に入れることが出来た。
そんなことすら思う。もう無駄な心配事に悩まされずに済むようになった。
書くようになって、更に大きく変質したことがある。
物語をそれほど重視することがなくなったという逆説。もしかしたら、物語への飢餓感が満たされるようになったのは、それも一因なのかもしれない。物語を書くようになって、もうそんなものはどうでもよくなった。
書くようになって、別のものが重要さを帯び始めた。今度は「言葉」が重要になったのである。
それまでまるで意識していなかったもの。言葉というものが、物語と同じくらい重みを持ち始めた。
そしてあの飢餓感は、切迫感へと形を変えたかもしれない。その病は癒えたが、違う病が身体を巣食い始めたのである。
常に何かを書いていなければ心が落ち着かないという切迫感である。
10―2)
常に何かを書いていなければ心が落ち着かない、そんな切迫感に苛まれている。それが私の人生。いや、きっと全ての作家の宿命。
だから私は一刻も早く、さっさと次の作品に取り掛かりたいと思うのだけど、しかし何となく漠然と書き始めることなど、私には不可能だ。
強烈なテーマ、大いなるモチベーション、その両方が必要なのである。どちらかが欠けていたら、もう前には進めない。
テーマが決まり、モチベーションが醸成されると、自然と様々なイメージやアイデアが湧き出てくるものである。
イメージ、アイデア、思いついたシーンやセリフを片っ端から書きまくる。
それが一定量溜まって、そのアイデアやイメージを上手い具合に繋ぎ合わせたら、はい、小説の完成、とはいかないけれど、大まかに言えば、私にとっての執筆とはこのようなものであろうか。
それは確かに、繋ぎ合わせる作業に膨大な時間が掛かるのであるが。
数か月どころではない、数年を費やすのが当たり前である。
簡単に繋がらない場合もある。新しいアイデアを付け加える必要だって生じる。いや、むしろそれが当然だ、断片と断片を繋ぎ合わせるため、その接面を削ったり、新たに何かを付け加えたりしなければいけないだろう。
繋ぎ合わせるための方法だって一つではない。セメントで繋げるのか、釘か接着剤が必要なのか、あるいは別の何かを使うべきなのか。
とはいえ、繋ぎ合わせることが基本的な作業であることは事実だから、実は執筆の作業なんて気楽であるとも言える。
とにかく、それにだけ専念すればいいのだ。ある種の事務的仕事である。大変なのは本格的に書き始めるまで。それに至るまでの試行錯誤の時期。
しかし執筆とは繋ぎ合わせることと同義だとしても、繋ぎ合わせさえすれば、それで作品は書き上がったりしない。
小説を完成させるとなると、まだもう一つ重要な作業が残っている。繋ぎ合わせた後にすべきことがもう一つ。
自然と湧き出てきたイメージやアイデアは重要だ。それこそ、私が書きたいと思っていたものであり、自分の意識やら無意識から湧き出たものであり、過去の経験に基づく自分にとっての何か価値あるものであり、作家性の結晶であると思う。
これが「私」なのである。
しかしここには「私」しかないわけだ。
その次に気合いを込めて、必ずやらなければいけないことがある。考えることだ。
そう書くと何を当たり前のことを言っているのかと失笑されるかもしれない。それまでは考えていなかったのか? と。
その通り、あまり考えていなかった。だからここで必死に考える必要がある。
ここまでに自分は、いったい何を書いてきたのか、それについてじっくりと考える作業が必要だと思うのである。
それはラストシーンの近辺。作品が終わりに近づいてきた頃。
出来るだけ深く、長い時間、考えなければいけない。考えることで、「私」しか存在していないかもしれない作品の外側に出て、未知の何かに遭遇出来るはずなのだ。
ラストシーンとは、小説の回答のようなものだと思う。そしてラストシーンに至るまでの文章は、長い設問なのである。
作家とは自ら設問をこしらえ、その設問に自らで答える者のことではないのか。
10―3)
作品を完成させられるか、途中で投げ出してしまうかどうか、それはひとえにモチベーションを最後まで維持出来るかどうかにかかっているだろう。
またまた何を当たり前のことを言っているのか、そう思われるかもしれないが、この話題を続ける。
素晴らしいアイデアを思いついても、この作品が傑作になりそうな予感を感じたとしても、あるいは連載を始めてすぐに数多くの読者に支えられたとしても、モチベーションが呆気なく枯渇してしまうことがあるはずだ。
あるとき突然、心に蓋をされたようにして、すっかりやる気がなくなってしまうのだ。
そうなってしまうと終わりだ。書き上げることは出来ない。これこそが当たり前の事実。
そうであるわけだから、どうやって最後までモチベーションを維持し続けるかが、作品を完成させるための必須条件だというわけである。
このテーマで書こうという情熱、この作品を書き続けようという意思、それが旺盛になったり消えてしまいそうになるメカニズムを、何となく私は掴んでいるつもりでいる。
つまり、プロットの書き方にかかっているのではないだろうか、それが私の導き出した答えだ。
何を書くか、どのように書くか、それを整理したものがプロットというものである。いわば小説の設計図のようなもの。
小説家だけでなく、漫画家やシナリオライターなど物語を扱うクリエーターにとって、プロットなるものは必須であろう。
私もプロットを事前に書いておかなければ、小説を書き進めることは出来ない。プロットがない状態というのは、たとえるならば、これまで一度も足を踏み入れたことのない場所を、地図無しで散策するようなもの。
もちろん、そのような散歩にも魅力はあるだろう。驚くべき出会いや発見もあるかもしれない。
しかし目的地もなくただ彷徨っているだけとも言えるわけで、何か面白いものを見つけられるかどうかは運次第。その散歩自体、ただの時間の浪費になってしまうことだってありえるわけだ。
だから旅をするときは地図が必須である。そしてどのルートを旅するのか計画した予定表も。
しかしその地図に自分が歩く予定ルートを記して、分刻みの予定表を拵え、それを忠実になぞるような旅。そんなものは堅苦し過ぎる。ただ単に予定をこなすだけ。そのような旅が楽しいだろうか。
いや、旅と地図のメタファーはこれくらいでやめておこう。小説を書くことと旅はそれほど似てはいない。まるで正確なメタファーになっていないから。
とにかく何が言いたいかというと、こういうことだ。プロットをきっちりと書き詰めると肝心のものが失われてしまうのだ。
この場合、小説を書く気がなくなってしまうということ。最も重要な、あのモチベーションが早い段階で消えてしまうのだ。
プロットという設計図と、小説という完成品とはまるで別物ではある。
そんなこと口にするまでもない。設計図が商品になりはしない。それでもプロットをしっかりと書くのは、それなりの労力が必要である。かなり時間だって費やす。
それを完成させると、達成感だって感じる。不確かだった作品の全体像がクリアになっていく。
しかしどうやらそれこそが、私のモチベーションを失わせる原因になるらしい。
つまり、プロットを完成させ、作品の全体像なるものがクリアーになってしまうことで、モチベーションが、もっと具体的に言えばおそらくそれは好奇心、好奇心というとても重要なものが失われてしまうのだ。
この小説は果たしてどのような作品になるのだろうかと、小説家も執筆しながら、自分の小説の行方を楽しみにしているはずなのである。
それなのに完璧なプロットを書いてしまうと、それらが全て判明してしまうということ。
執筆しながら探すべきだと思うのである。この小説はどこに向かっているのかと。それこそが書き続けるためのモチベーションを維持する秘訣。
更にまとめると、こういうことになるだろうか。プロットは必要である。それがなければ書き始めることも出来ない。
しかし詳細過ぎるプロットではいけない。完全なプロットが完成してしまうと、肝心の作品を書き続けるモチベーションが消えてしまう。
モチベーションを維持するためには、ちょうど良い塩梅の出来のプロットが重要。
地図は持っている。目的地もある。しかし視界は霧で閉ざされている。しかも何やらこの村には獣が出現するらしい。
いや、また地図と旅のメタファーに戻ってしまった。ストップだ。
何を書きたいかわかっている。そこに向かって進んでいる。書きたいシーンを、いくつも揃えている。
しかし書き進めながらも、何か大きな謎のようなものも抱えている。いや、謎というより、モヤモヤとした不確かなものと言い換えるべきであろうか。
書かなければ、そのモヤモヤは解消しない。それを解消するために必死になって書く。これが執筆へのモチベーション。
さて、今の私は、そのモヤモヤが含まれた丁度良い塩梅のプロットすら書くことが出来ないでいるわけであるが、どうしたものであろうか。
10―4)
いや、私は編集者の大野さんから一つのアイデアを授かったのである。「恋愛セミナー」という題材だ。今の私の手元にアイデアが何もないわけではない。
まあ、正確に言うと、授かったというよりも、預かったというのが近いだろう。一時的に預かっている状態である。
その題材で書けるかどうか、今は考えている時期。書けないとか書かないと判断すれば、返却しなければいけないわけだ。
果たしてそれを主題にして、私は満足出来る作品を書き上げることが出来るのか。
編集者の大野さんは、私にその企画を熱心に勧めてくる。世間に受ける題材だと、彼女は算段しているからだ。
彼女の指図通りにその題材を扱えば、ちょっとした評判を得ることはあるかもしれない。運が良ければ商業的な成功を得る可能性だってある。
しかし大野さんが指示通りの仕事をしても、そこが限界である。そもそも私はそんなことのためだけに書いてはいない。
言葉にするとあまりにキザというか、ありきたりな物言いになってしまうのだけど、私は作品の質を重視していて、それを追い求めるために書いている。
つまり、そのテーマを出来るだけ深め、自分なりに料理して、自らの文学に昇華したいという動機のもと、小説というものを書いていると考えている。
百合夫君の主催する「恋愛セミナー」は大変に魅力的な題材だと思うが、それをいったいどのように料理すればいいのか、「自らの文学」になり得るのだろうか。
下手をすると、百合夫君のセミナーの内容を紹介だけで終わってしまうかもしれない。
百合夫君は面白い人物である。だから尚更、彼の魅力に負けてしまう可能性がある。
そもそものところ、私の小説であるところの占星術探偵シリーズは「恋愛が終わった世界」を舞台としている。
占星術シリーズの第四作目においても、この世界観は維持されるだろう。とりあえずそのつもりだ。
むしろ「恋愛セミナー」という題材を扱うとなれば、尚更、この世界観を舞台にするべきであると思う。この企画は、私が「恋愛が終わった世界」を描いているからこそ、持ち込まれた企画に違いない。
しかし、その舞台と「恋愛セミナー」という題材はいったいどのような折り合いがつけられるというのだろうか。
恋愛セミナーをテーマにして書いてみるのはどうかと提案してきたのは、編集者の大野さんであるが、「恋愛セミナー」が「恋愛の終わった世界」とどのように繋がるかなんて、大野さんは考えていない。
そもそも編集者の大野さんはテーマの追求などには興味がない。私だって彼女にそのような役割りを期待していない。
彼女の役割りは、どのような題材を選択すれば多くの読者に受け入れられるかを考えることにあると思う。
大野さんはポピュラリティーの追求。私は自分の作家性を追求する。そんな役割分担だろうか。
自分の作家性に拘れば、読者が離れていくかもしれない。書きたいものをただ書き連ねていくだけの小説なんて、自己満足でしかないから。
もちろん書きたいから書くわけである。しかし第三者、優秀な編集者の客観的なアドバイスとのバランスも重要で、それに素直に従い続けているから、私はプロの小説家の端くれとしていまだ存在することが出来ているに違いないのだ。
その企画には商業的な勝算があると大野さんが踏んだのならば、きっとそれなりに上手くいくはずだ。
だからもう覚悟を決めて、それをどう書くかという段階にさっさと進むべきかもしれない。
「占星術探偵」が活躍する「恋愛の終わった世界」で、「恋愛セミナー」なるものはどのように機能するか。
そんなことを考える一方で、まだ何かを決めるのは早い、そんな気もするのである。
心がすっきりと晴れない。「これだ!」という確信が一欠けらもない。
端的に、書きたいという意欲が湧いてこない。
しかしちょっとした不安や気掛かりなどが、執筆に没頭すると鮮やかにかき消える。それも事実だ。
始まりなんてどうでもいい。とにかく書けばどうにかなるという考え。
早く書きたいと私は思う。
いや、まだこれではないと、もう一人の私が止める。
10―5)
ところで「恋愛の終わった世界」とはいったい何なのだろうか。自分でもその答えを見失ったり、勘違いをしてしまうことがしばしばある。
人類が恋愛を一切しなくなる世界ではない。
恋愛の終わった世界とは、結婚に至る普通の恋愛、それをが当たり前だとする価値観に立たない恋愛。
ありとあらゆる恋愛のバリエーションを否定しない世界。むしろ普通ではない恋愛の形を積極的に肯定しているのが、恋愛の終わった世界。
「恋愛の終わった世界」で、登場人物たちは恋をしているのだ。しかし普通の恋愛の形ではない恋愛。その相手はアイドル、俳優、ミュージシャン、作家でもいい。有名人が対象。
その相手からの見返りなんてない。すなわちフィジカルな接触などを。
相手が自分のことを知っているかどうかも定かではない。それでも普通の恋愛と同じくらい熱く燃え上がり、幸福を感じる人たち。彼らは恋愛の終わった世界に順応して、充実した生を送っている。
占星術探偵の二作目、「占星術探偵対憂国少女」はそのような趣旨の作品。いわゆる疑似恋愛についての物語。
しかし「疑似恋愛」という言葉には否定的なニュアンスが込められているはずだ。私がその言葉を使用すべきではないだろう。それだって本物だというのが、「恋愛の終わった世界」の本質。
三作目では、それが更に現実的なレベルになっている。登場人物たちの恋愛相手は、アジア一の歓楽街、魔都大阪で働く商売女たち。
彼らは彼女たちに、金銭を払い、恋愛に似た感情を受け取る。
いや、恋愛に似た感情ではなくて、それだっても恋愛だと断定する。金銭によってつながっているだけの関係であるが、新しい形の恋。
私はそのようなことを一応のテーマとして、三つの作品を書いてきたということになる。
そして占星術探偵三部作のどの作品も、クライマックスには幻滅や絶望が待っていた。
つまり、「恋愛の終わった世界」には救済なんてないということだ。
それは占星術探偵シリーズが準拠しているハードボイルドというジャンルの特性だからというのがその理由だとしても、別に私はハードボイルド作家でもない。そんなものいつでも逸脱すればいい。
それでも本当の救済を描けないのは、いまだにそれを見つけることが出来ないからに違いない。
恋愛の終わった世界での恋愛。つまり普通の恋愛ではない、結婚がゴールにない関係。そのような恋愛に、安定した幸せなどがあるのだろうか。
ない。どこかでの時点で、幻滅、絶望がやってくる。
もちろん普通の恋愛であっても、幻滅、絶望に遭遇するだろう。投げやりな言い方をすれば、どんなものにでもいずれ終わりが来るのが人生というものであるだから。
だからこそ、この世界において文学とか芸術などというものが存在し得る余地があるに違いない。
この世の苦悩を解消してくれる救済なんてない。少なくとも安易な救済は。
それでも何とか生きていくことにする。その苦悩は付きまとい続けて、逃げることは出来ない。だからこそ自分自身を変える。
自分の価値観とか、あるいは考え方、もしくは受け取り方を変える。それが文学や芸術などが与えてくる視座というか、その役割りに違いない。
社会や他者を変えようとするのが政治的な活動だとして、それでも変えることが出来ないものが無数に存在していて、そのとき救いとなるかもしれないのが文学や芸術。
とても自己啓発的な物言いになってしまうが、おそらくそういうことであろう。
「占星術探偵シリーズ」において、結局、希望や救済を描き出せていないように思われても、「恋愛の終わった世界」という舞台やその世界観が、この世の常識やこれまでの価値観などを相対化しているはずである。
そのような書き方でしか現わされない、ささやかな救済や希望を描いたという自負がなくもないのであるが。
10―6)
「恋愛の終わった世界」において、明快な救済や希望は見い出すことは不可能かもしれないなどと考えるその一方。
いや、しかしいつかの未来には、幻滅にも絶望にも行き着かない「恋愛の終わった世界」以後の「恋愛」を、いとも簡単に得ることが出来る時代が来るのではないと思ったりもするのだけど。
例えばエアコンがあれば、どんな猛暑の夏でも快適に過ごせることが出来るようになったように、冷蔵庫や電子レンジが、料理などという面倒な作業を大幅に割愛することが出来るようになったように。進化したテクノロジーが、恋愛が終わった世界に救済をもたらすのだ。
政治でも芸術でも文学でもなく、救済をもたらすのは技術。
つまり、近未来を舞台にしたSF小説においてならば、完全な救済を描くことが出来るかもしれないなんて思ったりする。
そう、これも書いてみたいと思いながら、いまだに踏み出すことが出来ていない企画である。
果たして恋愛などというものが、猛暑や面倒な家事と同じ程度のもので、テクノロジーが進化さえすれば、それに関する全ての悩みが掻き消えるのか、結論は別れるだろう。いや、だからこそ小説として描く意義もあるとも言える。
近未来、テクノロジーはどのような順番で、私たちの欲望に応えてくれるのだろうかと考える。
リアリティのある会話が出来るAIがまず開発されるのだろうか。
本物の人間がそこにいる仮象は、VRの技術が与えてくれるであろう。いや、それよりも最終的には感触が重要だ。人体と同じ感触を持つロボットが誕生する。私たちが恋愛相手に求める全てを、テクノロジーが応えてくれる未来。
このとき完全なる「恋愛の終わった世界」が始まるわけだ。それは非現実ではない。このまま世界が進歩していけば、いつか必ず訪れるはずの未来ではないだろうか。
人類は仮象と恋愛をする。種の存続は精子バンク、体外受精による妊娠、人工子宮などによって代替されるだろう。恋人も結婚も家族もない未来。
今、私たち生きているこの時代において、このような未来の夢を、それなりのリアリティと共に思い描くことが出来るというのは幸せなことのように感じる。
私が生きている間にも実現されるかもしれないということなのだ。これらの全てが、現在のテクノロジーの延長線上にあり、平凡な想像力でも思い描くことが出来る。
逆に言うと、それはどんな読者でも納得させることが出来る近未来像であるから、SFとしては弱いわけであるが。
実際、このようなアイデアのもとで書かれた作品は既に数多く発表されている。アンドロイド、ロボット、ドールなどその呼称は様々であるが、技術の進化によって誕生した新しき存在。それと共に生きる人生、そんなことを描く作品群だ。
それは硬質なSFであったり、最先端の現代文学であったり、欲望を満たすためのポルノ的作品であったり、波乱万丈のエンタメ作品であったりと様々であるが。
その未来の描き方もユートピアであったり、ディストピアであったり。そして当然、作品の質も玉石混合ではあるのだけど、今日のこの世界において一つの確かなジャンルとして隆盛しつつある。
それについて、また後に詳しく言及することになるだろう。「恋愛の終わった世界」を描く作家と言われている私にとって、決して無縁ではないジャンル。
とはいえ、そのような救済のあり方を私が描くべきかどうかは疑問である。
その競争の激しいジャンルに参入するべきだと思えない。様々なことを考慮すると、私が近未来のAIをテーマにした作品を書くことはない気がする。
何にせよ、今は占星術シリーズに意識を集中したい。
「恋愛の終わった世界」であろうが、「恋愛セミナー」について書こうが書くまいが、私の次の作品はおそらく探偵小説である。
近未来に逃げる気はない。ファンタジーの分野にも行かない。この時代で生きていくしかないのだ。
子供の頃の私は物語の中毒患者だった。それをドラッグのように定期的に摂取していなければ、胸が苦しくて堪らなくて、どうしようもなくなって、発狂寸前になって、実際に発狂したこともあるようだし、発狂してしまったから、私は小説家になったのだと思う。
子供の頃の私は物語を求めて、本屋を彷徨い、レンタルビデオショップを彷徨った。
どんな物語でもいいわけではない。そのときの私の心が求めている物語。それを摂取しなければ満たされない。
しかしそんなものを運良く見つけることが出来るわけがない。だから心満たされることなど滅多になかった。ある時期までの私の人生は、ずっと渇きの中で苦しんでにいた。
いや、もっと正確に言うと、私が求めていたのは物語ではなかったとも思う。それほど高度というか複雑なものではなくてもよくて。
シーン、風景、シチュエーション。どの言葉が最も最適なのだろうかわからないが、連続的というよりも刹那的なもので。
しかし面倒なのでとりあえず、それを「物語」と呼ぶことにする。私の胸の中には物語が渦いていて、その心の中の物語と相応する物語を摂取しなければ心が満たされず、苛々したり、焦燥感を感じたり、とにかく乾いて渇いて苦しかったということが言いたいのである。
当然、自分で自分を癒すよう試みてもいた。自分の欲しい物語を自分で妄想して、それを頭の中で反芻する。
しかしそれは自慰のようなもので、心満たされるものではなかった。他者が関わる必要があったのだ。
他人が書いたこと、他人が描いたもの、他人が撮影したものに価値があったのだと思う。私は物語を誰かに与えられたかったのだ。
だから私の作品が、誰かに求められるという事実が理解出来る。若い頃の私のように、他者の物語に飢えている人間はたくさんいるはずなのだ。
そんなものはいくらでも書き換え自由なのに、その展開は作者のちょっとした気まぐれなのに、不変なるものとして受け止める読者たち。
私はそのような読者のピュアさを軽んじるのではなくて、心の底から尊びたいと思っている。
書かれたものは絶対的なものだという錯覚。若い頃の私もそのような読者であったのだ。
さて、このような少年時代を歩んでいた者が辿る人生には、二つのパターンがあると思う。
この渇きが苦しくて、他のもっと手軽なものに助けを求めてにいく者。
すなわち物語などとは縁を切って、スポーツや交友関係、セックス、仕事、その他、自己実現に重みを置く生き方。現実的で健康的、まっとうな人生。
もう一方。自分が物語を作る側に回る人生。他者から与えられる物語の魅力を感じながらも、それだけの人生に限界を覚えて、遂に溜まらず自らも物語の創作に向かう生き方。
私は少しずつ、遠回りしながらであったが、書く側の人間になっていった。自分が読みたいシーン、ドラマ、風景、シチュエーションを描き始めたのである。
やがて頭の中でしか思い描くしかなかったものを、どうにか形にすることが出来るようになった。
小説という形に落とし込んでいけば、自分の妄想に過ぎなかったものも、一つのモノとなる。
自分の中から出てきた妄想なのに、他者性を帯びるとでも言おうか。
その事実は驚きだった。書くようになって、私の中から物語への飢餓感は一掃された。
あの情緒不安定は消え去ったと思う。私はようやく、人並みに人生を楽しむ資格を手に入れることが出来た。
そんなことすら思う。もう無駄な心配事に悩まされずに済むようになった。
書くようになって、更に大きく変質したことがある。
物語をそれほど重視することがなくなったという逆説。もしかしたら、物語への飢餓感が満たされるようになったのは、それも一因なのかもしれない。物語を書くようになって、もうそんなものはどうでもよくなった。
書くようになって、別のものが重要さを帯び始めた。今度は「言葉」が重要になったのである。
それまでまるで意識していなかったもの。言葉というものが、物語と同じくらい重みを持ち始めた。
そしてあの飢餓感は、切迫感へと形を変えたかもしれない。その病は癒えたが、違う病が身体を巣食い始めたのである。
常に何かを書いていなければ心が落ち着かないという切迫感である。
10―2)
常に何かを書いていなければ心が落ち着かない、そんな切迫感に苛まれている。それが私の人生。いや、きっと全ての作家の宿命。
だから私は一刻も早く、さっさと次の作品に取り掛かりたいと思うのだけど、しかし何となく漠然と書き始めることなど、私には不可能だ。
強烈なテーマ、大いなるモチベーション、その両方が必要なのである。どちらかが欠けていたら、もう前には進めない。
テーマが決まり、モチベーションが醸成されると、自然と様々なイメージやアイデアが湧き出てくるものである。
イメージ、アイデア、思いついたシーンやセリフを片っ端から書きまくる。
それが一定量溜まって、そのアイデアやイメージを上手い具合に繋ぎ合わせたら、はい、小説の完成、とはいかないけれど、大まかに言えば、私にとっての執筆とはこのようなものであろうか。
それは確かに、繋ぎ合わせる作業に膨大な時間が掛かるのであるが。
数か月どころではない、数年を費やすのが当たり前である。
簡単に繋がらない場合もある。新しいアイデアを付け加える必要だって生じる。いや、むしろそれが当然だ、断片と断片を繋ぎ合わせるため、その接面を削ったり、新たに何かを付け加えたりしなければいけないだろう。
繋ぎ合わせるための方法だって一つではない。セメントで繋げるのか、釘か接着剤が必要なのか、あるいは別の何かを使うべきなのか。
とはいえ、繋ぎ合わせることが基本的な作業であることは事実だから、実は執筆の作業なんて気楽であるとも言える。
とにかく、それにだけ専念すればいいのだ。ある種の事務的仕事である。大変なのは本格的に書き始めるまで。それに至るまでの試行錯誤の時期。
しかし執筆とは繋ぎ合わせることと同義だとしても、繋ぎ合わせさえすれば、それで作品は書き上がったりしない。
小説を完成させるとなると、まだもう一つ重要な作業が残っている。繋ぎ合わせた後にすべきことがもう一つ。
自然と湧き出てきたイメージやアイデアは重要だ。それこそ、私が書きたいと思っていたものであり、自分の意識やら無意識から湧き出たものであり、過去の経験に基づく自分にとっての何か価値あるものであり、作家性の結晶であると思う。
これが「私」なのである。
しかしここには「私」しかないわけだ。
その次に気合いを込めて、必ずやらなければいけないことがある。考えることだ。
そう書くと何を当たり前のことを言っているのかと失笑されるかもしれない。それまでは考えていなかったのか? と。
その通り、あまり考えていなかった。だからここで必死に考える必要がある。
ここまでに自分は、いったい何を書いてきたのか、それについてじっくりと考える作業が必要だと思うのである。
それはラストシーンの近辺。作品が終わりに近づいてきた頃。
出来るだけ深く、長い時間、考えなければいけない。考えることで、「私」しか存在していないかもしれない作品の外側に出て、未知の何かに遭遇出来るはずなのだ。
ラストシーンとは、小説の回答のようなものだと思う。そしてラストシーンに至るまでの文章は、長い設問なのである。
作家とは自ら設問をこしらえ、その設問に自らで答える者のことではないのか。
10―3)
作品を完成させられるか、途中で投げ出してしまうかどうか、それはひとえにモチベーションを最後まで維持出来るかどうかにかかっているだろう。
またまた何を当たり前のことを言っているのか、そう思われるかもしれないが、この話題を続ける。
素晴らしいアイデアを思いついても、この作品が傑作になりそうな予感を感じたとしても、あるいは連載を始めてすぐに数多くの読者に支えられたとしても、モチベーションが呆気なく枯渇してしまうことがあるはずだ。
あるとき突然、心に蓋をされたようにして、すっかりやる気がなくなってしまうのだ。
そうなってしまうと終わりだ。書き上げることは出来ない。これこそが当たり前の事実。
そうであるわけだから、どうやって最後までモチベーションを維持し続けるかが、作品を完成させるための必須条件だというわけである。
このテーマで書こうという情熱、この作品を書き続けようという意思、それが旺盛になったり消えてしまいそうになるメカニズムを、何となく私は掴んでいるつもりでいる。
つまり、プロットの書き方にかかっているのではないだろうか、それが私の導き出した答えだ。
何を書くか、どのように書くか、それを整理したものがプロットというものである。いわば小説の設計図のようなもの。
小説家だけでなく、漫画家やシナリオライターなど物語を扱うクリエーターにとって、プロットなるものは必須であろう。
私もプロットを事前に書いておかなければ、小説を書き進めることは出来ない。プロットがない状態というのは、たとえるならば、これまで一度も足を踏み入れたことのない場所を、地図無しで散策するようなもの。
もちろん、そのような散歩にも魅力はあるだろう。驚くべき出会いや発見もあるかもしれない。
しかし目的地もなくただ彷徨っているだけとも言えるわけで、何か面白いものを見つけられるかどうかは運次第。その散歩自体、ただの時間の浪費になってしまうことだってありえるわけだ。
だから旅をするときは地図が必須である。そしてどのルートを旅するのか計画した予定表も。
しかしその地図に自分が歩く予定ルートを記して、分刻みの予定表を拵え、それを忠実になぞるような旅。そんなものは堅苦し過ぎる。ただ単に予定をこなすだけ。そのような旅が楽しいだろうか。
いや、旅と地図のメタファーはこれくらいでやめておこう。小説を書くことと旅はそれほど似てはいない。まるで正確なメタファーになっていないから。
とにかく何が言いたいかというと、こういうことだ。プロットをきっちりと書き詰めると肝心のものが失われてしまうのだ。
この場合、小説を書く気がなくなってしまうということ。最も重要な、あのモチベーションが早い段階で消えてしまうのだ。
プロットという設計図と、小説という完成品とはまるで別物ではある。
そんなこと口にするまでもない。設計図が商品になりはしない。それでもプロットをしっかりと書くのは、それなりの労力が必要である。かなり時間だって費やす。
それを完成させると、達成感だって感じる。不確かだった作品の全体像がクリアになっていく。
しかしどうやらそれこそが、私のモチベーションを失わせる原因になるらしい。
つまり、プロットを完成させ、作品の全体像なるものがクリアーになってしまうことで、モチベーションが、もっと具体的に言えばおそらくそれは好奇心、好奇心というとても重要なものが失われてしまうのだ。
この小説は果たしてどのような作品になるのだろうかと、小説家も執筆しながら、自分の小説の行方を楽しみにしているはずなのである。
それなのに完璧なプロットを書いてしまうと、それらが全て判明してしまうということ。
執筆しながら探すべきだと思うのである。この小説はどこに向かっているのかと。それこそが書き続けるためのモチベーションを維持する秘訣。
更にまとめると、こういうことになるだろうか。プロットは必要である。それがなければ書き始めることも出来ない。
しかし詳細過ぎるプロットではいけない。完全なプロットが完成してしまうと、肝心の作品を書き続けるモチベーションが消えてしまう。
モチベーションを維持するためには、ちょうど良い塩梅の出来のプロットが重要。
地図は持っている。目的地もある。しかし視界は霧で閉ざされている。しかも何やらこの村には獣が出現するらしい。
いや、また地図と旅のメタファーに戻ってしまった。ストップだ。
何を書きたいかわかっている。そこに向かって進んでいる。書きたいシーンを、いくつも揃えている。
しかし書き進めながらも、何か大きな謎のようなものも抱えている。いや、謎というより、モヤモヤとした不確かなものと言い換えるべきであろうか。
書かなければ、そのモヤモヤは解消しない。それを解消するために必死になって書く。これが執筆へのモチベーション。
さて、今の私は、そのモヤモヤが含まれた丁度良い塩梅のプロットすら書くことが出来ないでいるわけであるが、どうしたものであろうか。
10―4)
いや、私は編集者の大野さんから一つのアイデアを授かったのである。「恋愛セミナー」という題材だ。今の私の手元にアイデアが何もないわけではない。
まあ、正確に言うと、授かったというよりも、預かったというのが近いだろう。一時的に預かっている状態である。
その題材で書けるかどうか、今は考えている時期。書けないとか書かないと判断すれば、返却しなければいけないわけだ。
果たしてそれを主題にして、私は満足出来る作品を書き上げることが出来るのか。
編集者の大野さんは、私にその企画を熱心に勧めてくる。世間に受ける題材だと、彼女は算段しているからだ。
彼女の指図通りにその題材を扱えば、ちょっとした評判を得ることはあるかもしれない。運が良ければ商業的な成功を得る可能性だってある。
しかし大野さんが指示通りの仕事をしても、そこが限界である。そもそも私はそんなことのためだけに書いてはいない。
言葉にするとあまりにキザというか、ありきたりな物言いになってしまうのだけど、私は作品の質を重視していて、それを追い求めるために書いている。
つまり、そのテーマを出来るだけ深め、自分なりに料理して、自らの文学に昇華したいという動機のもと、小説というものを書いていると考えている。
百合夫君の主催する「恋愛セミナー」は大変に魅力的な題材だと思うが、それをいったいどのように料理すればいいのか、「自らの文学」になり得るのだろうか。
下手をすると、百合夫君のセミナーの内容を紹介だけで終わってしまうかもしれない。
百合夫君は面白い人物である。だから尚更、彼の魅力に負けてしまう可能性がある。
そもそものところ、私の小説であるところの占星術探偵シリーズは「恋愛が終わった世界」を舞台としている。
占星術シリーズの第四作目においても、この世界観は維持されるだろう。とりあえずそのつもりだ。
むしろ「恋愛セミナー」という題材を扱うとなれば、尚更、この世界観を舞台にするべきであると思う。この企画は、私が「恋愛が終わった世界」を描いているからこそ、持ち込まれた企画に違いない。
しかし、その舞台と「恋愛セミナー」という題材はいったいどのような折り合いがつけられるというのだろうか。
恋愛セミナーをテーマにして書いてみるのはどうかと提案してきたのは、編集者の大野さんであるが、「恋愛セミナー」が「恋愛の終わった世界」とどのように繋がるかなんて、大野さんは考えていない。
そもそも編集者の大野さんはテーマの追求などには興味がない。私だって彼女にそのような役割りを期待していない。
彼女の役割りは、どのような題材を選択すれば多くの読者に受け入れられるかを考えることにあると思う。
大野さんはポピュラリティーの追求。私は自分の作家性を追求する。そんな役割分担だろうか。
自分の作家性に拘れば、読者が離れていくかもしれない。書きたいものをただ書き連ねていくだけの小説なんて、自己満足でしかないから。
もちろん書きたいから書くわけである。しかし第三者、優秀な編集者の客観的なアドバイスとのバランスも重要で、それに素直に従い続けているから、私はプロの小説家の端くれとしていまだ存在することが出来ているに違いないのだ。
その企画には商業的な勝算があると大野さんが踏んだのならば、きっとそれなりに上手くいくはずだ。
だからもう覚悟を決めて、それをどう書くかという段階にさっさと進むべきかもしれない。
「占星術探偵」が活躍する「恋愛の終わった世界」で、「恋愛セミナー」なるものはどのように機能するか。
そんなことを考える一方で、まだ何かを決めるのは早い、そんな気もするのである。
心がすっきりと晴れない。「これだ!」という確信が一欠けらもない。
端的に、書きたいという意欲が湧いてこない。
しかしちょっとした不安や気掛かりなどが、執筆に没頭すると鮮やかにかき消える。それも事実だ。
始まりなんてどうでもいい。とにかく書けばどうにかなるという考え。
早く書きたいと私は思う。
いや、まだこれではないと、もう一人の私が止める。
10―5)
ところで「恋愛の終わった世界」とはいったい何なのだろうか。自分でもその答えを見失ったり、勘違いをしてしまうことがしばしばある。
人類が恋愛を一切しなくなる世界ではない。
恋愛の終わった世界とは、結婚に至る普通の恋愛、それをが当たり前だとする価値観に立たない恋愛。
ありとあらゆる恋愛のバリエーションを否定しない世界。むしろ普通ではない恋愛の形を積極的に肯定しているのが、恋愛の終わった世界。
「恋愛の終わった世界」で、登場人物たちは恋をしているのだ。しかし普通の恋愛の形ではない恋愛。その相手はアイドル、俳優、ミュージシャン、作家でもいい。有名人が対象。
その相手からの見返りなんてない。すなわちフィジカルな接触などを。
相手が自分のことを知っているかどうかも定かではない。それでも普通の恋愛と同じくらい熱く燃え上がり、幸福を感じる人たち。彼らは恋愛の終わった世界に順応して、充実した生を送っている。
占星術探偵の二作目、「占星術探偵対憂国少女」はそのような趣旨の作品。いわゆる疑似恋愛についての物語。
しかし「疑似恋愛」という言葉には否定的なニュアンスが込められているはずだ。私がその言葉を使用すべきではないだろう。それだって本物だというのが、「恋愛の終わった世界」の本質。
三作目では、それが更に現実的なレベルになっている。登場人物たちの恋愛相手は、アジア一の歓楽街、魔都大阪で働く商売女たち。
彼らは彼女たちに、金銭を払い、恋愛に似た感情を受け取る。
いや、恋愛に似た感情ではなくて、それだっても恋愛だと断定する。金銭によってつながっているだけの関係であるが、新しい形の恋。
私はそのようなことを一応のテーマとして、三つの作品を書いてきたということになる。
そして占星術探偵三部作のどの作品も、クライマックスには幻滅や絶望が待っていた。
つまり、「恋愛の終わった世界」には救済なんてないということだ。
それは占星術探偵シリーズが準拠しているハードボイルドというジャンルの特性だからというのがその理由だとしても、別に私はハードボイルド作家でもない。そんなものいつでも逸脱すればいい。
それでも本当の救済を描けないのは、いまだにそれを見つけることが出来ないからに違いない。
恋愛の終わった世界での恋愛。つまり普通の恋愛ではない、結婚がゴールにない関係。そのような恋愛に、安定した幸せなどがあるのだろうか。
ない。どこかでの時点で、幻滅、絶望がやってくる。
もちろん普通の恋愛であっても、幻滅、絶望に遭遇するだろう。投げやりな言い方をすれば、どんなものにでもいずれ終わりが来るのが人生というものであるだから。
だからこそ、この世界において文学とか芸術などというものが存在し得る余地があるに違いない。
この世の苦悩を解消してくれる救済なんてない。少なくとも安易な救済は。
それでも何とか生きていくことにする。その苦悩は付きまとい続けて、逃げることは出来ない。だからこそ自分自身を変える。
自分の価値観とか、あるいは考え方、もしくは受け取り方を変える。それが文学や芸術などが与えてくる視座というか、その役割りに違いない。
社会や他者を変えようとするのが政治的な活動だとして、それでも変えることが出来ないものが無数に存在していて、そのとき救いとなるかもしれないのが文学や芸術。
とても自己啓発的な物言いになってしまうが、おそらくそういうことであろう。
「占星術探偵シリーズ」において、結局、希望や救済を描き出せていないように思われても、「恋愛の終わった世界」という舞台やその世界観が、この世の常識やこれまでの価値観などを相対化しているはずである。
そのような書き方でしか現わされない、ささやかな救済や希望を描いたという自負がなくもないのであるが。
10―6)
「恋愛の終わった世界」において、明快な救済や希望は見い出すことは不可能かもしれないなどと考えるその一方。
いや、しかしいつかの未来には、幻滅にも絶望にも行き着かない「恋愛の終わった世界」以後の「恋愛」を、いとも簡単に得ることが出来る時代が来るのではないと思ったりもするのだけど。
例えばエアコンがあれば、どんな猛暑の夏でも快適に過ごせることが出来るようになったように、冷蔵庫や電子レンジが、料理などという面倒な作業を大幅に割愛することが出来るようになったように。進化したテクノロジーが、恋愛が終わった世界に救済をもたらすのだ。
政治でも芸術でも文学でもなく、救済をもたらすのは技術。
つまり、近未来を舞台にしたSF小説においてならば、完全な救済を描くことが出来るかもしれないなんて思ったりする。
そう、これも書いてみたいと思いながら、いまだに踏み出すことが出来ていない企画である。
果たして恋愛などというものが、猛暑や面倒な家事と同じ程度のもので、テクノロジーが進化さえすれば、それに関する全ての悩みが掻き消えるのか、結論は別れるだろう。いや、だからこそ小説として描く意義もあるとも言える。
近未来、テクノロジーはどのような順番で、私たちの欲望に応えてくれるのだろうかと考える。
リアリティのある会話が出来るAIがまず開発されるのだろうか。
本物の人間がそこにいる仮象は、VRの技術が与えてくれるであろう。いや、それよりも最終的には感触が重要だ。人体と同じ感触を持つロボットが誕生する。私たちが恋愛相手に求める全てを、テクノロジーが応えてくれる未来。
このとき完全なる「恋愛の終わった世界」が始まるわけだ。それは非現実ではない。このまま世界が進歩していけば、いつか必ず訪れるはずの未来ではないだろうか。
人類は仮象と恋愛をする。種の存続は精子バンク、体外受精による妊娠、人工子宮などによって代替されるだろう。恋人も結婚も家族もない未来。
今、私たち生きているこの時代において、このような未来の夢を、それなりのリアリティと共に思い描くことが出来るというのは幸せなことのように感じる。
私が生きている間にも実現されるかもしれないということなのだ。これらの全てが、現在のテクノロジーの延長線上にあり、平凡な想像力でも思い描くことが出来る。
逆に言うと、それはどんな読者でも納得させることが出来る近未来像であるから、SFとしては弱いわけであるが。
実際、このようなアイデアのもとで書かれた作品は既に数多く発表されている。アンドロイド、ロボット、ドールなどその呼称は様々であるが、技術の進化によって誕生した新しき存在。それと共に生きる人生、そんなことを描く作品群だ。
それは硬質なSFであったり、最先端の現代文学であったり、欲望を満たすためのポルノ的作品であったり、波乱万丈のエンタメ作品であったりと様々であるが。
その未来の描き方もユートピアであったり、ディストピアであったり。そして当然、作品の質も玉石混合ではあるのだけど、今日のこの世界において一つの確かなジャンルとして隆盛しつつある。
それについて、また後に詳しく言及することになるだろう。「恋愛の終わった世界」を描く作家と言われている私にとって、決して無縁ではないジャンル。
とはいえ、そのような救済のあり方を私が描くべきかどうかは疑問である。
その競争の激しいジャンルに参入するべきだと思えない。様々なことを考慮すると、私が近未来のAIをテーマにした作品を書くことはない気がする。
何にせよ、今は占星術シリーズに意識を集中したい。
「恋愛の終わった世界」であろうが、「恋愛セミナー」について書こうが書くまいが、私の次の作品はおそらく探偵小説である。
近未来に逃げる気はない。ファンタジーの分野にも行かない。この時代で生きていくしかないのだ。