2)ロキの世界「架空のSNS」

文字数 21,057文字

2ー1)

 私、つまり占星術探偵シリーズの作者であるこの私のことであるが、その私はコーヒーを飲みながらスマホをいじって、自作のアクセス数や評価をチェックしている。
 事務所の近く、駅前のカフェなどでその作業に勤しむこと、それが執筆を始める前に行う儀式の一つである。
 昨日のアクセス数は、一昨日に比べて増えても減ってもいない。もう見慣れた数字である。これがこの小説の価値、というよりも私の作家としてのパワーだろう。
 まあ、こんなものだ。ベストセラーとは程遠い。これ以上のアクセス数を誇る作品はいくらでもある。何なら私だって書いたことがある。
 新作を発表した週は、その平常時の数の十数倍が当たり前である。しかし読者たちは徐々に脱落していって、連載を開始してから一か月も過ぎた頃には、だいたいこれくらいの数字に落ち着く。
 これに満足しているわけではないが、それほど数字を気にすることはなくなった。私は淡々と作品を書き続けて、それを更新していくだけ。

 「今日」の小説家たちがどのように活動しているのか、我々が生きている「今日」より未来に生きている読者に説明する必要はないだろうが、「今日」よりも過去に生きる読者には説明が必要だろう。

 「今日」というこの現代、紙の書物は徐々に電子化されたり、ネットにアクセスすることで読まれるものとなった。
 つまり、作品は書物という形で発表されることが減少していった。
 その代わり、それはネットの世界に移っているのだ。多くの作家たちが、自作の小説を小説サイトにアップしているというわけである。

 この私も世の趨勢に倣って、ネットの世界に居場所を移した。
 いや、私の場合、出版社が大手を振って、世界を支配していた時代に作家であったことはなかったので、そのときのことはよく知らない。
 ネットに小説を発表すること、これが私にとっての当り前の世界だから。

 それなりに大きな変革であると思う。この時代の流れについて来れず、消えた作家たちも多い。ついて行く気がなくて、昔の世界に留まっている作家だって大勢いる。
 とはいえ、この新世界に戸惑っている読者だって多いのである。
 誰も彼もが紙で作品を読むことは止めたわけではない。
 そんな私だってまだまだ紙の書物を買うのだから、電子と紙が併存しているというのが「今日」の状況であろう。

 しかし旧世界はいずれ消え失せえるだろう。街路から馬車が消えて、自動車に取って代わったようにして、なんて比喩は余りに陳腐であるが。
 私たちは今、かつてない変革の時代、新世界と旧世界のちょうど狭間の時期に生きているに違いない、なんてことだって言うつもりもない。
 本当にそんなこと思ってもいない。
 今が二つの世界の狭間だとしたら、それは十年前だってそうだったと言える。二十年前だってそうだって言える。百年前だって、二百年前だって。
 人は誰でも、自分の生きているその時代を、変革の只中だと思ってしまう病に罹っているに違いない。
 だから私たちが生きているこの「今日」が、時代の特別な変革期だなんて言えるはずがないのだけど。
 しかし思わず、そう言いたくもなるくらいに、変わり続けていることは事実であろう。



2―2)

 おそらく一般の読者たちは、この新世界で作家たちがどのように稼いでいるのか知らないはずだ。知らないけれど、いくらか興味はあると思う。
 それはまあ、旧世界のときの作家がどのように稼いでいたのかだって詳しく知らなかったはずだから、もしかしたらそんなことはどうでもいいのかもしれないが。
 しかし原稿料や印税というものの存在は知れ渡っていたのだから、「今日」の世界においてそれらに代わるものは何なのか、少し説明しておこうと思う。
 これがこの世界の新しい姿であり、小説家である私の生活の全てでもあるのだから避けて通ることは出来ない。
 ということで、その例の小説サイトの仕組みについての簡単な解説である。

 作家たちはいまや、ブログを更新するような手軽さで、小説の新しいチャプターを発表することが出来るようになった。
 出版社が出版していた雑誌や書物に代わり、小説投稿サイトの運営会社が運営している小説投稿サイトが発表の舞台である。
 特に面倒な手続きや契約もない。作家たちは自分の作風に適ったサイト、自分の小説を気に入ってくれそうな会員が多く在籍してそうなサイトを選び、自作の小説を発表する。

 小説家は自分の作品のアクセスの数によって、収益を得ることが出来る。これが原稿料や印税に代わるものというわけだ。
 個人的に企業などとスポンサーと契約している場合は、そのスポンサーからも収益を得ることが出来る。
 その場合、自分の小説のページに広告が掲載されたりもする。
 既にたくさんの熱狂的な読者を獲得している作者は、ファンクラブのような会員形式で読者から直接会員料金を受け取り、小説を発表しているケースもある。
 多くの作者が小説投稿サイトでの発表と、会員形式での発表、その二つの方法を併用していることが多い。

 私だってその例に漏れない。小説投稿サイトを使って、まだ私の小説を読んだことのない新しい読者を獲得しながら、会員形式のサイトを使って、既に獲得した読者をしっかりと握って離さないようにしている。
 小説投稿サイトの収益は、読者が月々支払う会員料金に賄われている。
 月々の会員料をを支払うことで、読者はその小説サイトの全ての小説が読み放題という次第だ。

 というのが小説サイトの大まかな説明であるが、あまりに大雑把だったろうか。しかしこれ以上、詳細に語っても仕方ない。
 とにかく小説サイトでのアクセス数と自身のファンクラブでの月額会員費によって、作家の暮らしは成り立っているということだ。
 その収入が、原稿料と印税の時代と比べて上回ったりするのか下回るのかはその作家によって違うだろう。この時代に適応するタイプの作家と、そうでない作家がいる。
 このような小説発表のスタイルが隆盛を極めて、出版の世界が大きく様変わりしたことは言うまでもないだろうが、その中でもとりわけ大きく変わったのは、今まで出版社に雇われていた編集者たちの働き方だろうか。

 小説家の収入の事情の他に触れておくべきことがあるとすれば、編集者という存在、この話題に違いない。
 小説投稿サイトに雇用されて、そこで働いている編集者もいるが、作家に直接雇われる編集者もいる。
 とりわけ、腕利きの編集者はフリーの編集者として、作家と直接契約を結んで、その仕事をサポートしている。
 小説というのは完全な個人的創作の営みに思えて、その実、誰かとの共同作業だったりもする。
 なかなか独りきりで書くのは難しい。あまりに孤独な作業なので、相談相手が重要だ。その相手がしばしば編集者であるわけだ。
 この私にも専属の編集者がいる。大野さんがその人だ。
 大野さんは私とほぼ同年代の女性である。十六歳の娘がいるが独身。
 私は男性なので、別の男の意見は不必要。というわけではないのだけど、女性の編集者と共に仕事をしている。



2―3)

——ロキ先生、新作の進捗具合はいかがですか? 

 編集者の大野さんから、そのようなメッセージが毎日来る。当然だ、それが彼女の仕事だから。
 今日も私のスマートフォンにメッセージが来ている。私は少しも迷うことなく、昨日と同じ返事を返す。
 「新作の進捗具合、いまだ芳しからず」
 
 進捗具合も何も、次に何を書くべきかすら決まっていない。
 先日、占星術探偵シリーズ三部作が一区切りついた。それはとても誇らしいことであるが、その結果、私は大いなる迷いの中にいた。
 占星術シリーズの四作目を書くか、それとも別の作品、新境地に打って出るべきか。

 しかしその二つの選択肢の間で迷っているわけではない。
 占星術シリーズの四作目を書くとしても、いったいどのようなテーマで書くか、まるで別の作品を書くとしても、何を書くか。つまり、今のところ何も決まっていないのである。

 いや、実は、ビートルズについて書きたいと思ったりしている。
 あまりに唐突な発言に戸惑われるかもしれない。これまでの作品で私はそのような話題を扱ってきたわけでもないのだから。
 主人公の探偵飴野はビートルズはおろか、音楽についてもそれほど言及しない。占星術探偵シリーズの中にロックミュージックは流れていないのだ。
 しかし作者の私自身にとってそれはけっこう重要なジャンルで、これらの音楽だけを聞きながら日々を暮らしているわけではないとしても、そういう音楽をかなり聴きまくってきたことは事実だ。
 いや、それどころかビートルズとかロックについての本を読んだり、それについて考えたりすることは私の趣味の一つで、何ならば生活の中心をなしていると言ってもいいくらい。

 そういうわけで、改めてきちんとビートルズについて書きたい。そのようなモチベーションは日ごとに高まってきていたりする。しかし編集者の大野さんは反対している。

 「先生の作品のイメージから遠いと思います。『占星術探偵シリーズ』の読者と重なるところも少ないはずです」

 「読者は驚くだろうね」

 「それに先生の世代がこのようなものを書くことに必然性もあるとは思えません」

 「確かに後追いで、リアルタイムで聞いてないくせに、何を適当なことを偉そうに書きやがってって言われるかもしれない。それはわかっているのだけど」

 「先生が書きたいというのは、具体的に言えばビートルズの評伝ですか?」

 「うん、わからないけどさ。多分、そんなものになるんだろうね」

 「それは小説家の仕事でしょうか?」

 「ああ、うん、どうだろうね。ジャーナリズムに近いのかな」

 「先生にとってビートルズは重要かもしれませんが、世間的にはそれほどでもありませんよ」

 「わかった、じゃあ、ジミ・ヘンドリックスにしようかな」

 大野さんは更に険しい表情で首を傾げる。
 私だって最近、薄々気づいてはいたが、どうやらロックなどに興味を持っている人は、私が想像しているよりもかなり少数派のようである。
 世間はそれ程、そのジャンルに興味がない。

 「ロック年代記でもいい」

 しかし私は続ける。

 「ロックについて書きたいんですか?」

 「わからないけど」

 「それを小説にするわけですよね?」

 「うん、わからないね」

 「わからないことばかりじゃないですか!」

 ところで、私は決して逃れることの出来ない死病を患っている。絶対に死ぬことが確定しているのだ。
 それが五十年後か、十年後か、明日なのかはわからないのだけど。
 しかし死ぬのは定まっている。その足音だって感じられる。
 少しずつ顔に皺が増えている。若い頃と比べると、肌の具合が明らかに変貌した。頭髪や陰毛に白髪が混ざり始めている。自分が日に日に醜くなっていること実感させられる。
 つまり、老いという死病。
 
 醜くなるだけではない。体力の低下も深刻だ。知能も衰えていく。そしてその果てに死。私の死はとても孤独なものになるだろう。
 死が怖い。老いるのが怖い。それなのに時間だけは虚しく流れていく。それが怖い。とても怖い。そして悲しい。本当に悲しくなって、死にたくなってくる。

 だから私は書かなければいけないのだ。虚しく流れていくだけの時間を、せめて何か有意義なものに変えたい。そうじゃないと、この虚無に耐えられない。
 しかし、限られた時間しか残されていないから、本当に書きたいものを書きたい、なんて平凡なことを思ってもいない。
 限られた時間しかないのだから、重要なものを書きたいのだ。
 失敗作や誰も評価しない作品を書いて、無駄な迂回なんてしたくない。
 たとえそれが書きたい作品であったとしても、絶対に嫌なのである。
 書きたいものを書くのは当然であるが、自己満足で終わるかもしれない作品に時間を費やしたくもない。
 何を書くべきか、何が書きたいか、その両方がバッチリと一致する題材を見つけたい。
 しかしそれが容易いことではなくて、私は次回作を前に手をこまねいているのだ。



2―4)

 人生に意味などないだろう。ましてや共通の目的なんてあるはずがない。
 しかし私はその無意味さに耐えられないタイプの性格のようである。
 それはただ単に、私が魚座生まれだからかもしれないし、B型だからかもしれない。星とか血が、私をそんなふうにしている。
 それとも、未婚で子供がいないせいなのかもしれない。あるいは星座とか血液型など関係なく、既婚とか未婚など無関係に、誰もがそう思っているのかもしれない。
 いずれにしろ私はそれが嫌なのだ。虚しく流れていくだけの時間を、意味あるものにしたい。
 その手段が言葉だと思っている。時間を言葉に変えるということ。執筆という行為。
 人生を振り返ったとき、過去に残された膨大な言葉の蓄積が、充実感か幸福感のようなものを、きっと与えてくれるはずだ。
 私はそれを確信している。私は小説家になって良かったと思う。それがあらゆる選択肢の中で、最上の人生なのではないかとすら思ってしまう。
 まあ、創作することが出来れば、どのジャンルでも良かったと思うが。
 哲学、詩、絵画、音楽、工芸。とにかく作品を作るということ、それが最も意味のある人生なのだ。

 作品の力は凄い。それは容易に時間も超えるし、国境も超える。
 私は別に人間的魅力に富んだほうではない。しかしそんな私でも、不特定多数の人間に興味を持たれ、ときに熱烈に愛されるのは、私が創作した作品のおかげだろう。
 「作品」が愛されて、そのおまけとして、それを作った私にも興味を持たれるわけだ。
 遠い町に住む若い女性が、わざわざ逢いに来るなどという出来事、私が小説家でなければ決して起きえないことであろう。驚くべきことであるが、私のサインのために大勢の人が列を作ることだってあるのだ。

 それはあらゆるクリエーターが同じだと思う。例えばあのジョン・レノンも。彼がこれだけ愛されているのだって、彼が作った曲のおかけである。
 彼がもし創作をしていなければ、世界の人たちは彼のことを知ることはなかったであろう。
 ジョン・レノンはただの偏屈な皮肉屋として、リバプールのどこかで人生を終えたはず。
 たとえそのジョン・レノンにも、あのレノンと同じだけの人間的魅力があり、同じだけの音楽的才能があったとしてもである。
 作品を作る。ただそれだけで、我々の人生は激変するのである。その行為にはいったいどれほどの価値があるだろうか。

 古代ギリシアの哲学用語か何かに、観照という概念があるらしい。
 それは創作して発表することと、全く対をなすような概念であるようなのだけど。
 「かんしょう」と読むらしいが鑑賞ではない。「観照」はギリシア語でテオーリア。
 「観照」とは何かというと、心の裡に様々な想念やら想いが沸き上がっているが、それらを形にせず、表現など一切することなく、ひたすら己だけでそれを見つめ、認識し続けるという態度、のことらしい。
 ある種、瞑想のようなものであろうか。
 まあしかし、瞑想は心を無にすることを目的とするのならば、まるで方向性は違うが。
 観照という行為は無と関わるものではない。表現すべき得る何かを頭の中に巡らせているのだから。ただ、その思考を自分の中に留めて、一切外に出さないのである。

 古代ギリシアにおいてはこの観照が最上の人間的行動であったらしい。
 来世の存在や神の啓示が信じられていた時代においては、こんなことに意味があったということなのだろうか。
 それは自らのの中でのみ完結しているのであるが、一見、そう思えて実は神や、それに類する超越的存在とアクセスしているわけであるから。
 しかし来世にも神にも一切の価値がなくなった現在においては、そんなことは何の意味も意義ももたらしはしないはず。
 社会や他者にアクセスする必要がある。だから「観照」に代わること、創作して、作品とすること、それこそが最上の行動に思えるのである。
 私はそれを信じて疑わないし、そのような時代に生きているはず。



2―5)

 まだもう少し、音楽というかロックの話題が続く。
 ロックミュージックの黄金時代は60年代中盤から70年代初頭だろう。
 私はその時代をリアルタイムで知らない。今の人が明治の文学を読むように、あるいはシェイクスピアなどの古典を読むようにして、過去の音楽を自分の意思で掘り起こしているのである。

 今の音楽に魅力を感じないわけではまるでない。こんな私でも常に新しい音楽を探していることは事実だ。
 「今日」という時代、あらゆる音楽は簡単に聞けるのである。
 新しくても古くても、何ならば魅力的であろうがそうでなかろうが、それが音楽であるのなら私は何でも聞く。
 とはいえ、好きなジャンルは何かと聞かれたら、何ら臆することなく、「ロックミュージックさ」と答えることにする。
 それが自分の全てではないと心の端で思いはしても。「何でも聞きます」なんて最悪な回答だけは避けたい。
 最も好きな音楽は、63年から2005年までのロックミュージックだと言い切ってしまおう。

 音楽への愛を必死にアピールしようとしているが、音楽は私にとって自己表現の手段などではなく、趣味とすら言えなくて、言ってしまえばただ生活のBGMである。
 壁紙や家具と同じカテゴリー。あるいは 酒とか飲み物。
 文学とは違うのだ。つまり、自分のものではないということである。

 自分とは別の存在たちが、私の理解出来ない天賦の才能を使い、私が到底耐えることが出来ない反復的努力によって身体能力を向上させ、自由であるように見えながら面倒な決まり事を律儀に遵守して、艱難辛苦の末に拵え上げられた創作物。
 それは家具や飲み物のような必需品でありながら、空から降ってくる雨とか恩寵のような奇跡的何か。
 どんなものであっても、それはそれだけで、既にそれなりの価値があり、私ごときの卑小な趣味をもって好き嫌いを選り好みをして良いものではない。
 音楽はそのようなもの。

 一方、私にとっての文学はこのようなものではない。まず自分で作る物であり、私の延長上に存在しているもの。

 確かに読書という行為は音楽を聞くのと同じくらいに愉快で楽しい。
 どんな退屈な作品でも参考にすべき箇所はあり、私は常にどこを剽窃しようかと目を光らせながら読んでいるのであるから、その時間は常に有意義である。それが素晴らしい作品であれば尚更。

 しかし何と言うべきか、家具や飲み物や音楽のように、文学は私にとってそれだけで価値があるものではなくて、自分が認めたものだけに価値のあるもので、文学というもの自体を愛しているのかどうか不明瞭であり、いや、不明瞭ではなくて愛していないことは明らか。
 愛というよりもそれは自己表現のためのとても重要な手段だから、愛などと生温いことを言っていられない。

 自己表現なんて言葉を安易に使ってしまった。書くことで自分を表現していると思っていないのに。
 しかし書けないと死んでしまいたくなるのだ。生活費を稼げなくなるからではなく、心が満たされなくなるからだ。
 文学に対して愛はない。しかしそれに生存がかかっている。自分が生きるために、私はそれを書いている。

 書かなければいけないというわけである。書けないままでは生きていることにならない。時間を無駄に過ごしているだけ。一刻も早く、次の作品に着手したい。
 しかし書いているだけでは満足も出来ない。素晴らしい作品を書きたい。愛される作品を書きたい。
 その要求も強くて、私はなかなか新しい一歩を踏み出すことが出来ない。



2―6)

 書けないという鬱屈を心に抱えているのにも関わらず、その癖、私はまるで何の悩みもない人のような表情でコーヒーをサッパリと飲み終え、何も悩んでいない人のような表情と足の運びでスタスタと歩き、駅前の喫茶店をあとにして自分の事務所にへと帰っている。

 駅前のその喫茶店から、私の事務所までは徒歩で七分くらいか。「ケンタッキー・フライド・チキン」のカーネルサンダースの看板を横目に、まっすぐ歩く。その通りには「ソフトバンク」、「ワイモバイル」、リラクゼーションのマッサージ屋、靴の修繕や合鍵を作る店などが並び、またもや携帯ショップの「au」。
 小学校の前の四車線が交わるスクランブル交差点の、歯医者と花屋の間の通りを行けば、あっという間に駅前の商店街の雰囲気は消え、住宅が増え始める。
 稲荷山神社の横の茂みを過ぎて、古ぼけたクリーニング屋の隣が私の事務所のあるマンションだ。

 事務所には秘書の佐々木が既に出社していた。
 おかえりなさいなどと言うわけでもなく、彼女は視線だけで私を出迎える。

 佐々木はキーボードをカチカチ叩いて、何か熱心に仕事をしているようだ。
 まあ、どうせ大した仕事ではない。雇い主の私が何も仕事をしていないのに、秘書の彼女に有意義な仕事などあるわけがない。

 秘書の佐々木は二十代半ばの女性。何かやりたいことがあったわけでもなかったようで、それが得意だから大学院で勉強ばかりして、やがて社会に出ずにはいられなくなり、特に就職活動をするわけでもなく、まるでしなかったわけでもなく、何となく私の事務所に辿り着いたよう。
 と、佐々木から発せられた情報によって、私はそのように思い込んでいるが、実は彼女なりの秘めた目標などがあって、密かにその何かに情熱を傾けているのかもしれない。彼女はこういう女性だと型に嵌めるのは早計だろう。
 とはいえ、その何かを知らない私にとって、今の佐々木はただ目の前の仕事を最小限のエネルギーでこなすだけの人生を送る女。

 ところで、それなりに売れている作家に秘書がいるのは、別に今日的現象ではないであろう。それはずっと昔からそうであったはず。
 しかし「今日」の作家たちは以前の作家に比べると、より独立性が高くなったことは事実のはずで、ただ書いていたものを編集者に渡せばいいという時代は終わった。
 自分の作品の魅力を自ら発信しなければいけない。作家の仕事は多様になり始めたというわけである。
 そういうわけで、「今日」の作家の秘書所持率は、以前よりもずっと高まっているであろう。
 私のようなベストセラー作家ではない身分でも秘書がいる。

 我が秘書の佐々木は、添加物なしの天然由来の製品だけで出来た石鹸やら香水やらを売っているショップの店員と、本屋の地味な店員を併せたような雰囲気の女性だ。
 何か服装や化粧に気合いが入っていたり、調子の良いときは、お洒落なカフェの店員ふうにもなるが、私の前でその調子の良い状態を示すことは滅多にない。
 英語には堪能だ。フランス語にも多少は通じているようだ。確実に私よりも頭は良い。学歴も上。私の秘書にはもったいないくらいの履歴書の持ち主。
 ただ彼女には覇気というか何というか、情熱のようなものがなくて、その知性をこの現代で生かす術を知らないよう。だから私なんかの秘書などという地位に甘んじている。
 作家の秘書の仕事は別に難しいものではない。仕事のスケジュール管理と電話当番、ホームページやらの更新作業。そして調べものの手伝い。
 佐々木はそれらの仕事を無難にこなしている。他の秘書の仕事振りを知らないから比べる相手はいないが、有能の部類だと思う。



2―7)

 「今日は夕食会の日です、覚えておられましたか、先生?」

 仕事の始まりの儀式というところであろうか、佐々木は秘書らしく、今日のスケジュールを報告してきた。

 夕食会、もちろん覚えている。それなりに気の抜けない緊張感のある仕事だ。

 「参加予定の会員さんは?」

 私は今朝届いた郵便物や、佐々木に集めるように頼んでおいた資料をチェックしながら尋ねる。
 ネットで注文した商品や本も、彼女が受け取ってくれているのだ。秘書は便利な存在である。

 「参加者は五人で、初めて夕食会に参加する方々ばかりです。今のところ、欠席者はおられません」

 夕食会は「今日」を生きる作家にとって重要な仕事の一つである。簡単に言えば、それはファンクラブの会員との交流会だ。
 多くの作家たちがその仕事をして、会員たちの心を繋ぎ止める努力に注意を払い、同時に小銭も稼いでいる。
 私も作家として、その仕事に勤しんでいる。
 緊張感のある仕事ではあるが、それほど神経をすり減らすものでもない。
 読者たちからの質問に適当に返したり、こちらから自分の作品について話したりするだけ。
 苦手な仕事ではない。むしろ、得意分野だ。
 講演会などよりもはるかに楽な部類である。夕食を一緒に食べるわけであるから時間の無駄にもならない。夕食会が終わると同時に、仕事も食事も終わるということだ。

 もちろん、いくつかの注意点はある。例えば夕食会に何度も参加しているベテランの会員と、初めて参加する新人の会員を、同じ夕食会に参加させるべきではないとか。
 話題のストックは決して少ないわけではないが、やはり数は限られている。
 新人の会員にとっては初めて聞く話しであっても、ベテランの会員にとっては聞き飽きた話しだということもあるだろう。
 少し調節すれば、そのようなミスは防ぐことが出来るのであるから、それくらいの配慮はすべきこと。

 ベテランの会員とは気心が知れている。しかし彼らに対しては出来るだけ新しい話題を用意する必要がある。
 一方、初めての参加者の場合、どのような人がやって来るのか不安があるが、これまでに話したことのある話題を使い回しても問題はない、という言い方をすれば手を抜いているように思われるかもしれないが、新しい話題を捻り出す必要はないことは事実で、それに関しては気が楽である。

 とはいえ、参加する会員たちのSNSなどをチェックして、彼らが私のどのようなところに興味を持っているのか、下調べようなものは必須の作業だ。
 私の読者は意外と多様なのである。
 小説のテーマよりも占星術に興味を持っている読者も多く、そのような相手に文学論を披露しても退屈させてしまうだけ。
 私は、小説よりも占星術なんてものに興味を持っている読者だって歓待したいと思っている。
 佐々木から受け取った資料に、参加する会員たちの情報が記載されていた。それをじっくりと読んで、今日の夕食会で話すべきことを練っておこう。
 その作業だってストレスにはならない。次の作品を書きあぐねている今の私にとって、ちょうど良い時間潰しである。

 「夕食会に出かける時間になったら、連絡が欲しい」

 「わかっています」

 私はさっさと自室に戻ることにする。
 彼女とは世間話しを長々と交わすような間柄ではない。かと言って、無言ですれ違っても気まずくならない程度の信頼感はある。
 事務所の向かいにある部屋が私の自室であり、仕事部屋でもある。
 ここから数秒の場所にある。秘書がいなかったときはこの事務所で仕事をしていて、プライベートの部屋と仕事部屋を別々にしていたが、佐々木が来てからはその部屋を彼女に譲り、寝起きしている自分の部屋で執筆もするようになった。

 「早く新作に取り掛からないと、君に給料も支払うことが出来なくなる」

 別に世間話しに興じる気はなかったのであるが、私はため息交じりにそんなことを口にしてしまう。

 「そうですね、来期も一緒に仕事が出来るように、一刻も早く仕事に取り掛かって下さい。引っ越しするのは面倒ですから」

 「そんなこと何の問題もないじゃないか。次の雇い主も大阪に住んでいる作家を選べばいいだけだ」

 「簡単に見つかるとは限りませんから」

 「今の部屋が気に入ってるのかい?」

 「はい、近くの公園が気に入ってるんです」

 「公園を気に入るとかいうセンスが僕には皆無で、全く理解出来ないけど。今の部屋に君が住み続けられるように頑張ってくるか」

 作家である私と、佐々木の間には秘書を斡旋する仲介会社のようなものが介在している。
 彼女はそこに雇われているという形だ。私が作家として失墜していっても、複数の外国語に堪能な佐々木はすぐに新しい雇い主を見つけることであろう。
 私が書けるかどうかは、彼女にとってそれほど大きな問題でもない。
 もちろん、私にはそれなりに実績はある。過去の三作品は自分でも満足する作品を書くことが出来たし、世間でも受け入れられた。
 次の大作を書かなくても、その過去の遺産、短編、エッセイ、失敗作でも意欲作と認められるレベルの作品なんかを適当に書き散らしていれば、秘書を雇うレベルの収入は維持出来るかもしれない。
 しかしだ。そんなことでは精神は満たされない。心の安寧は訪れない。
 全ての情熱を捧げられるような作品に取り掛からなければ、それを得ること出来ない。

 先生が傑作を書き上げられるように、精一杯に尽くすのが私の仕事です。頑張って下さい。なんてセリフを佐々木は口にしない。
 感情の起伏も、暑苦しさも、私に対する妙な期待も気遣いも、ない。その全てが彼女の長所だろう。
 特に挨拶もなく、彼女と別れて、私は自分の部屋に戻る。



2―8)

 本当にどうでもいいことであるが、私はタバコは吸わない。まあしかし、そのせいか執筆しているときに飲み物は欠かせない。
 酒以外だったら何でもいいのだけど、近頃はもっぱらコーヒーだ。
 コーヒーに少し牛乳を入れる。フランス語で言うところのカフェラテ。英語で言えばコーヒーミルク。日本語で言えば珈琲牛乳。
 机の左側にコーヒーカップを置いて、数分に一回、口をつける。純度の高い酒のようにちびちびとそれを飲みながら、私は何かを書くわけだ。

 その机の上にはパソコンのディスプレイが二つ並んでいる。
 小説を書くとき、その二つの画面をフルに利用している。かなり大きなサイズのディスプレイだ。
 ノートパソコンでは作業はしない。あの小さなディスプレイが好みではない。キーボードの感触も気持ち良くない。
 ノートパソコンで作業するときは、旅先や長距離移動中の列車、飛行機の中でだけ。
 カフェで執筆をすることもほとんどない。カフェでやることは、混乱しているアイデアをまとめたり、資料を読んだりするときくらいだろうか。

 私にとって執筆とは、一日中自分の部屋の中に籠って、淡々とこなす作業である。
 決して苦しくもなく、面倒でもない。特別なことではなくて、日常。
 短期間に集中して熱中するものではないのだ。そのような非日常的な営みではない。毎日少しずつ、進めていく仕事。

 とはいえ、あまりに長時間の作業だ。一日中というのは大袈裟ではない。
 私は何の苦も無く、一日中、デスクの前に居られるのだけど、しかしずっとその間、小説を書くことだけに集中出来ない。
 そもそも集中すべきだと別に思っていない。
 私は小説を書きながらドル円の動きに心を配り、SNSで独り言を発し、他人のブログを見たり、ネットで買い物をしたりしている。

 そしてBGMとして音楽を聴いている。
 音楽、私が最も愛するもの。先程からそればかりを繰り返しているが。しかし何なら私が小説を書き始めたのは、音楽鑑賞のついでと言ってもいいくらいである。
 音楽を聴いているとき手は空いているから、止む無く書き出したというわけだ。

 当然のこと、「今日」という時代、CDなどで音楽を聴くわけもなく、私は音楽配信サイトを使ってパソコンから流れる音楽に耳を傾ける。
 誰にでも、子供の頃の夢で叶ったことと叶わなかったことがあると思う。
 私の場合、二つの夢が叶った。一つは小説だけを書いて、それなりに生活が出来ればいいなという夢。
 もう一つは、音楽を好きなだけ聞ける環境を手に入れたいという夢。

 若い頃、CDショップに通う度、いつか大金持ちになって、ちょっとでも関心を抱いたCDの全てを手に入れたいと思ったものである。
 それにはどれだけの潤沢な収入と浪費癖が必要であろうか。
 しかし今、それが叶っている。大金持ちになれたからではなくて、テクノロジーの進歩とか社会の価値観の変化によって、それが叶う世界になったからなのだけど。
 ありとあらゆる音楽が無料に近い値段で簡単に聞けるようになった「今日」のこの環境は、私が子供のときに見ていた夢の生活そのものなのだ。
 この状況は本当にありがたい。少しの留保もなく夢の生活を送ることが出来ていると言い切れる。
 
 私は先の金曜日に発表されたばかりのアメリカの新人アーティストのポップミュージックを聞くことにする。
 イヤホンの奥でその音楽が鳴り始めた。
 そして二つ並べてあるPCのディスプレイの右側のスペースで「ワード」を開く。作品執筆が本格的に始まれば、そればかり見つめることになるだろう。
 一方、空いている左端のスペースには、「フロート」のタイムラインが流れている。

 私は小説を書きながら、しかし書く作業にだけ集中したりすることなく、常にネットの情報に触れているということはさっき言及した。
 その情報に触れていないと頭がおかしくなりそうになるというわけでは全然ないのだけど、いくらか気になってしまうのを認めないわけではない。
 ネットに流れている情報というのは、この世の中で起きている事件やニュースのことである。
 ネットに特有の情報など存在しない。ただ単にありきたりなニュースが、リアルタイムに近い速度でこっち側に届くだけ。
 どこかで隕石が落ちたとか、どこの株価が暴落し始めたとか、外国の国民投票の結果とか、そんなことは別にどうでもいいことなのであるが、その気になれば平然と無視することも出来る程度のものなのだけど。
 別に煙草を酒のように健康を害するわけでもないのだから、罪のない嗜好品だろうと思うが、果たしてどうであろうか。

 どっちにしろ、これは私だけが特別に患っている個人的な症状ではないだろう。
 今、世界中の人間がそれに罹患しているはず。しかもそのタイムラインには私の話題だって流れることがあるのだから、それから離れて生きてはいけない。

 そのような情報を集めるツールとして、最も適しているのがSNSのタイムラインであることは疑問の余地はない。
 そのSNSの名称が「フロート」。これについて説明する必要などないだろう。
 この日本だけではなく、世界中で最もユーザーの多いSNS。そのSNSは私の小説でも重要なアイテムの一つにもなっている。
 ところで、私はその有名なSNSの呼称を、そのまま小説の中でも流用している。それについては、それなりに迷いがあった。



2―9)

 現代を舞台にしているのだから、作品の中で登場人物がSNSを使用するのは当然だろう。そのとき、「SNSを見た」というような文章で終わらせるのは味気ない。
 しかし現在、流通している代表的なSNSだって、ほんの数年後には消滅してしまうかもしれない。使い勝手が良かったのに、運営している会社の都合でシステムを改悪してしまったりして。
 改善したつもりなのかもしれない。しかしユーザーたちのニーズを読み違え、ずれてしまう。その会社の株価は下降して、やがて消滅。
 そのようなことが起きなくても、より使い勝手の良いSNSが出て、乗り換えられてしまうこともあるだろう。
 消滅すれば当然、それに関する記憶は忘却の彼方に消えてしまう。今の私たちの常識が、少し先の未来の人に通用しなくなる。
 つまり、今、当たり前のように流通しているSNSの名称を、小説作品の中でそのまま使うべきかどうかという問題である。
 そのSNSの名称をそのまま使うと、その衰退や消滅と共に、自分の作品も古びてしまうなんてことがあるかもしれない。
 いや、その名称をそのまま使用すること自体が、作品を安っぽくしてしまう気もする。

 時代の移り変わりとともに、代表的なSNSのサービスが変わったとしても、SNSである限り、その本質が変わることはないはずだ。
 つまり自分の文章なり写真なり動画なりを、全世界に公開するという基本的システム。

 それならば、架空のSNSをでっち上げることも一つの方法かもしれないと考えたりもした。
 それは自分好みの、いくらかの理想や願望を込めたSNSを、小説の中で作り上げることが出来ることを意味する。
 まだまだネットは発達していくだろう。私たちが生きている時代は草創期に違いない。
 現実のSNSにはないシステムを、小説の中で夢見ることが出来るわけだ。そういうのもまた、小説を書く醍醐味の一つ。

 架空のSNSを作ってみたいという誘惑、それに魅了されたことも事実であった。その一方で、時代性を表すために、今のSNSをこのまま使用するべきだという考えもあった。
 架空のSNSを作り上げることこそがチープな行為ではないかという価値観。所詮、それは現実のパロディに過ぎないわけである。リアリティのない二番煎じ。
 いや、そもそもSNSにこうして浮かれていること自体、一時的な現象なのかもしれないではないか。
 数年後にはあっという間に廃れて、そんなものを使用している人類などいなくなっている可能性だってある。
 SNSの流行なんてそれくらい儚いものなのに、架空のSNSを夢見るなんて! そのはしゃぎ振りを後世の人々に嘲笑われかねない。

 さあ、どうすべきであろうか。私は迷った。
 いや、実際のところ、それほど迷ってはいなかったのかもしれない。結局、今、流通しているSNSをそのまま使わせてもらっているのだから。つまり「フロート」だ。

 フロートは水のメタファーで語られる。タイムラインと呼ばれる大河に、自分の言葉を流していくというイメージ。
 そんなこと今更説明することもないであろうが、数年も経てば共有することが出来ない常識になっているかもしれないので。
 書き込んだり、アップロードすることを、「流す」というのが、その利用者の間で使われる俗語。
 精霊流しのように、あるいは死体も流れるというガンジスのように、私たちはタイムラインに様々なモノを「流す」。

 フロートは、ときおり氾濫したりする。書き込み過多でサーバーダウンすることの意。
 フロートは、座礁したり、漂流したり、転覆したり、釣られたり、凪いでいたり、干上がったり。全て河や船のメタファーで語られるわけだ。

 フロートはコミュニケーションツールではない。この目的のために作られたものではないという意味において。
 もちろんコミュニケーションも可能である。見知らぬ人のアカウントに、意見を具申しようと思えば可能だ。
 しかしフロートの世界ではそれはマナー違反である。もちろん、それがどうしたとばかりに横行しているが。
 それよりも独り言。ふと思い浮かんだ言葉を、誰に言うでもなく、大いなる河に流して成仏させるといったイメージ。

 とはいえ、ネットとつながっている全世界の人が、その河を眺めることが出来るのである。
 思い浮かんでしまったからといって、垂れ流せばいいというわけではない。怨念に満ちた呪詛は河を濁らせたりするだろう。そのようなアカウントは敬遠されるだけ。
 フロートはコミュニケーションのための言葉ではない言葉を使って、不特定多数とコミュニケーションするためのツール。
 いや、ということはやはり、コミュニケーションのために作られたのかもしれない。
 その誰かの独り言に対して、独り言で返すのだ。独り言であるはずなのに、自分へのそれとない批判に思えて、歪み合う原因にもなって、大いなるストレスと対立を生むことになる。
 その一方で、孤独が癒されもする。自分は一人ではないという安心感を得られる。少なくとも、ちょっとした暇つぶしには格好だ。

 私たちはそんなSNSに、それなりに深く依存しているわけである。
 私はパソコンのディスプレイの隅に常時、フロートのタイムラインを流している。
 世間を賑わすニュースも、自分の作品の評判も、友人や知り合いとの連絡、家族や古い友人の近況すら、フロートに流れていく言葉によって情報を得る。

 さて、以上が、私がの小説を執筆するときの環境であるわけであるが、PCのスイッチを入れ、あらゆるソフトを立ち上げ、イヤホンには音楽が流れ、コーヒーも用意した。
 執筆の準備は万事整ったわけである。
 しかし何より肝心のものが、ここにはまだない。書きたいことも、書くべきことも見つかっていない。



2―10)

 書くに値するモチベーションが何も思い浮かばない。それなら小説を書いている小説家を主人公にした小説でも書いてみようか、なんてことを考えてみる。
 すなわち、小説家の日常をテーマにするのだ。小説家が次の作品のアイデア探しに苦しんでいる姿を描くという具合に。
 しかしその小説の中の小説家も、次の作品を書きあぐねているのである。
 すると、その小説の中の小説家もまた、次の作品のアイデアが思い浮かばないので、仕方なく小説家を主人公にした小説を書き出したりするかもしれない。
 ならば当然のようにして、その小説の中の小説家が書いたその小説の中の小説家もまた、小説家を主人公にした小説を書き始めてしまうだろう。
 何やらこれは、鏡の中の鏡の中の鏡のように、無限に仮想が続くような現象。
 いずれ読者たちは、どれがその作家の語りなのか、どれが小説の中の小説家の語りなのか、把握出来なくなってしまうに違いない。
 迷宮のような小説だ。検討してみる価値はあるだろうか。いや、こんな作品に微塵の価値もないに違いない。
 しかし小説家を主人公にした、「書くこと」をテーマにした小説を執筆してみたいとは思っていた。ありきたりな日本的私小説ではない形の、小説家を主人公にした小説。

 書いてみたい小説という題目ならば、いくらでも語り続けることが出来る。
 温めているが、まだ実現に至っていない企画の数々、というよりも、いつか書くことが出来れば素敵なことだなと夢見ている作品が実はけっこうたくさんある。
 例えば、と挙げればきりがないのだけど、例えばインストメンタル文学というものを夢想したことがある。
 まあ、その呼び名はどうでもいい。BGM文学という呼び方もありだ。
 つまり、メッセージ性がなくて、派手な物語がなくて、生々しくなくて、ギトギトしていなくて、煽情的なエロスなどなく、政治的な主張などなく、深刻な悩みなど描かれていなくて、涙もなく、悲しみもなく、叫びもなく、成長もなく、静かで、お洒落で、読んでいて心地が良いだけの作品。
 環境音楽のような小説だ。夜のバーで演奏されている、ピアノ、ウッドベース、ドラム、何らかのホーン、そのような楽器で形成された、洗練度だけは極められている上等な音楽。
 それでいて客たちの会話を邪魔しない、自己主張のない音楽、そんな音楽のような小説を書いてみたいなんて思ったことがある。
 いや、私は誤解をしているのかもしれないが。夜のバーなどで演奏されているBGMのような音楽には、メッセージ性がなく、生々しさがなく、ギトギトしていなくて、煽情的なエロスがなく、政治的な主張はなく、涙も、悲しみも、叫びもなく、静かで、お洒落で、ひたすら心地の良いだけに違いないという勘違い。
 作曲家や演奏家はそのようなことを考えていない可能性はある。むしろそれは無礼な規定。
 だったら贈り物の花のような小説という呼び方のほうが適しているだろうか。中庸で当り障りがない、何を贈ればいいのか困ったとき、消去法で選ぶときの花のような小説。

 贈り物の花束のような小説というよりも、私はむしろ贈り物に相応しい小説、贈り物そのものの小説を書きたいのかもしれない。
 実際、小説を本屋で買って、それを贈り物にしたいと思ったことが何度かある。私の他にも、そんな人は多いはずだ。しかし贈り物に相応しい小説など意外と少ない気がする。
 だって夏目漱石やカフカ、ドストエフスキーなどを贈られて喜ぶ異性などがいるのだろうか。
 重たくて堅苦しいもの、それはまるで「負担」が贈られてきたようなものだ。感想などを求められようものならば最悪である。
 その作品自体は素晴らしいが贈り物としては相応しくはない。もちろん、文学的な趣味を共有している相手ならば取り繕うことはない。哲学書でも何でも送りつけてやればいい。
 しかし対象は他者、自分のことを知って欲しい相手、好きになって欲しい異性とか、そのような存在への贈り物なのだ。

 贈り物の花束のような小説、それはまだ世の中に出回っていないのならば、自分で描いて一山当てよう。
 しかし情熱が湧かない。そこまで悪いアイデアはないと思うのだけど、具体性が伴っていない。自分がなすべき仕事だと思えない。却下だ。



2―11)

 戦時中の日本、軍国主義時代を舞台にしたノワールを書いてみたいなんて考えたこともある。
 一寸先も見えないくらいの黒い霧が立ち込めていたあのときの日本。その暗い闇の中、探偵役は憲兵辺りにするのはどうだろうか、殺人事件なり陰謀事件の謎を解く小説。
 当然、どこかで政治的な存在との接触、歴史との遭遇もあるだろう、とてもスケールの大きな小説になるに違いない。
 書いてみたい、書けるものならば。
 しかしまだまだ勉強不足なのだ。私は歴史を知らな過ぎる。その時代の空気を知らない。風俗を知らない。どんなものを食べていて、どんなテーブルを使用していたのか知らない。
 軍国時代の日本なんて、中世のヨーロッパ並みに遠い世界。
 何せ、その時代を知っている者たちが今もたくさん生きている。限りないほどの資料がある。いったいどこまで勉強すれば、読者たちを納得させることの出来るリアリティを持った世界が書けるのだろうか想像もつかない。
 それに肝心なアイデアが足りない。キーとなるアイデア。アイデアがなければ、モチベーションも高まらない。

 明治か大正時代を舞台にした、怪盗ものを描いてみたいなんて考えもある。
 アリュセーヌ・ルパンのような怪盗紳士が、華麗に宝石や現金を奪い去っていく物語。
 こちらは明るく解放的な時代が舞台だ。軽いノリの小説。少なくともノワールにはならないだろう。
 きっとその怪盗紳士は会話が上手く、洒脱で、恋多き男であり、端的にとても魅力的。
 しかし彼の人生は逃避。それだけに彩られている。
 追い回してくる警察から逃げ、遊んで捨てた女性たちから逃げ、踏み倒した借金の取り立てから逃げ、どこにも安息出来ない。
 その代わり、何の責任も負わず、全ての約束を平気で踏み躙り、欲しいものは盗んで手に入れ、借りたものは絶対に返すことなく、どんな悪をなしても罪悪感を抱くことはない。そんな特異なキャラクターは読者を楽しませるはずだ。
 逃げる怪盗紳士。彼を追いかけるのは、女性刑事にしようか。
 二人は愛と憎悪、嫉妬と執着、恋愛にも似た濃厚な感情で結びついている。
 彼は彼女をからかい、挑発する。彼女は感情的になって、自分のプライドを賭けて、彼を捕まえようとする。
 いや、このような小説ならば別に明治大正を舞台にする必要はないのかもしれない。現代を舞台にしても書けるに違いない。
 しかしこれは一種のファンタジーである。この世界と地続きではないことが重要であろうから、別の工夫が必要になってしまう。

 それを書きたいのであれば、書けばいい。しかしこの作品も結局、何か決め手に欠けているという判断。
 主人公の男性と女性が列車に乗り、あるいはバスに乗り、日本を旅して回るだけの作品を書いてみたいなんてことも考えたことがある。
 紀行文学と呼ぶべきか、そこにミステリー要素も込めたい。先程、言及したBGM文学のように派手なドラマはない、エッセイに近いノリの作品。
 主人公の男性と、連れの女性、二人はどのような関係なのか、恋人ではないはずだ、同じ宿で寝泊まりするが、関係を結ぶことはない。よそよそしい。気を使い合っている。それでも、二人でいる。
 なぜ旅をしているかもわからない。二人が並んで長距離列車に乗っている場面だけが浮かんでいる。同じ宿で眠っている光景と共に。
 書きたいイメージはある。しかし具体性がない。まだまだ作品にはならないだろう。だから、この作品を書くこともない。

 結局、まだ私は次も占星術探偵シリーズを書くのだろうか。編集者の大野さんはそれを望んでいることは確かだ。



2―12)

 とはいえ、今は自由だとは言えるのだ。
 何にも制約されていない。どこまでも空想を広げることが出来る。次の作品では、今一番書きたいことを書こう、そんな喜びを噛み締めながら机に向かえる。
 何か新しい試みに挑戦してみよう。そのような希望を抱けたりもする。
 確かに不安ではある。心細いことも事実だ。次の作品が完成するのかという不安。次に書きたいことが何も見い出せないかもしれないという不安。
 それでも、これからどんなことでも為せそうな全能感、ではないが、さっきも言った通り、それは自由だろう。
 その自由の感覚は、書いていないときであっても、私を自由な気分にしてくれる。
 ポテトサラダを作っているときでも、新しい靴を買おうとしているときでも、読書中も、扉を開ける瞬間にも、この自分は何でも自由に書ける立場にいることをふと思い出して、とてつもない幸福感に包まれることがあるのだ。

 しかし当然のこと、その自由を永遠に続けてはいけないのだ。いつまでもこのバケーションに耽っているわけにはいかないのだから。
 いずれは定めなくてはいけない。切断しなくてはいけない。諦めなければいけない。さもなければ、次の作品を完成させることは出来ない。
 その作業は不可避である。この経緯を経なければ、作品などというものを完成させることは出来ない。
 そのときに自由は消えてしまう。それはもうきれいさっぱりと。自ら、その自由を殺さなければいけないのだ。
 さっきまで乗っていた馬から降りて、ここに住処を作ると決断する。獲物を射るための弓を置いて、耕すための鍬に持ち替える。狩猟民から農耕民になるかのごとく。大地に杭を打ち範囲を定める。この外には出てはいけないと、自らで領域を狭めていく。
 つまり、これは書かない、これを書くという峻別。書きたいことであっても、諦めなければいけないことがたくさん出て来るであろう。
 何か一つを定めることによって、それに合わないものは捨てざるを得なくなる。結婚することによって、一人の相手に定めるのと同じだ。
 その一つ以外の可能性を全て諦める。さっきのように理想の小説を夢見ている時間はなくなる。

 しかし、これでようやく一つの定まった作品に向かって進んでいくことが出来る。ただの夢想家から、小説家への大いなる変貌。
 自由を失うが仕事を得る。自由の代わりに手にするものだって多い。
 手にするものとは、とてもありきたりなことであるが、つまりは着実な成果とか、結果であろうか。
 作品が出来上がっていくのだ。小説家にとって、これほどの喜びはない。
 どれほど意欲的で、野心的な夢想であろうと、完成した作品より尊いなんてことはあり得ないのだから。

 諦めて、切断して、定めよう。一行目が次の行を呼び、その次の行が更に次の行を決定する作業。あの懐かしい日々。
 朝、いや、私が起きるのは昼過ぎであるが、その日、目覚めたときに、今日するべき作業が定まっているという日々。
 早く書くことを決めてしまいたい。それこそが作家の日常。
 しかしまだ少し自由でいたいなどと思う私もいる。何を書くか、様々な可能性の中で夢を見ていたい。私はその思いの中で揺れている。
 きっと、本当に書きたいことと出会ったとき、そんな迷いは断ち切れるはずなのだ。これまでも、そのようにして決断してきたはずだ。

 とりあえず今、私に出来ることは過去の作品を振り返ることか。そこに次の作品に繋がるヒントがあるに違いない。「占星術探偵対アルファオーガズム教団」というシリーズ最初の作品。
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