8)ロキの世界「小説の学校」
文字数 17,742文字
8-1)
作家には二種類いると言えるのかもしれない。自分の過去の作品を読み返すタイプと、一切、そんなものを読みはしないというタイプ。
いや、書いている最中に自分の作品を読み返さない作家なんて存在はしないはずだから、言い直すべきかもしれない。発表した自作を読み返すことに快を覚えるタイプと、それが苦痛で堪らないというタイプと。
結論から言うと、絶対的に読み返すべきであると思うのである。
それは鏡を見ることや、自分が写った動画を観るくらい気恥しい行為であるかもしれず、過ぎ去った過去にこだわり続けているような虚しさを感じたりするかもしれないが、読み返すことによって自作の短所や欠点に気づけたりするはずだ、というのは当たり前過ぎる正論。
次に何を書くべきか教えてくれるのも、きっと過去の自分の作品である。他人からの批評を熟読するより、それはずっと有益な行為ではないかと思う。
優れた作家とは、自分の過去の作品を読み返すことが出来る者のこと。そんな信条が私にはあるわけでもないのだけど、とにかくしばらくの間はその作業に勤しむとしよう。
苦しく辛い行為である。かなりの自己愛が必要だ。中途半端なナルシストには不可能な苦行。それでもやり遂げるのである。
という覚悟のもと、私は自分の作品を読み返していたのだけど、この日、その作業はあっという間に邪魔が入った。梨阿が事務所にやってきたのだ。
いや、彼女が来るのはわかっていたことであるが、私が予測していた時間より随分と早かった。
放課後、学校が終わってから、だから夕方過ぎくらいにやって来るだろうと踏んでいたのに、まだ昼下がりという時間帯の襲来だ。
事務所は同じマンションの向かいの部屋。彼女が事務所に来た気配も耳に届く。
佐々木から来客が来たというメールも来た。もう少し読み返し作業は続けていたかったが、私は事務所に向かうことにする。
事務所の扉を開けると、やはり梨阿がソファに座っている。学校の制服姿である。
普段、パジャマに近い部屋着の彼女しか見たことがなかったので、その恰好は新鮮だった。街ですれ違う匿名の女子高生という趣き。梨阿ですら、このような変身を遂げるとは意外だ。
彼女の存在によって、見慣れた自分の部屋が、いつもと違う光景に変貌しているようだ。自分の事務所なのに、この部屋に踏み入れることに躊躇してしまいそうになる。
私は居心地の悪い思いをしながら部屋に入る。
しかしこれは梨阿に女性性を感じているというより、はるかに年の離れた別の世代を前にして気後れしているのだろう。学校に属しているということをその身なりでアピールしてくる梨阿はストレンジャーのよう。
梨阿は佐々木と談笑しているわけでもなく、二人とも無言で、スマートフォンを弄ったり、ノートパソコンに向かって仕事をしたりしていた。
何やら異様な光景であったが、二人はほぼ初対面だから仕方がない。
お互いの存在は知っているはずであるが、顔を合せたことはなかったのかもしれない。梨阿も佐々木も、上辺の会話で沈黙を埋め合おうとするタイプでもないから、こうなるのは当然。
「おはよう。今、起きたの?」
梨阿が嫌味を込めて挨拶をしてくる。佐々木と長い時間、二人きりであったことが、彼女の機嫌を損ねたに違いない。
「起きたのは二時間前だけど。ちょっと仕事をしていたのさ」
どう考えても寝起きに見えないだろ? 私は整髪料のついたヘアースタイルと、すぐに心斎橋でも梅田でも散歩出来る服装をアピールする。しかし彼女は特に表情を変えない。
「いつも十時間くらい寝てるんでしょ?」
「いや、だから寝起きではないよ」
「私も作家になってそのような自堕落な生活を送りたいって願望もあるんだけどね、でも、やっぱり小説なんて書くの辞めようかなって思ってて」
梨阿はスマホを置いて、足を組み直した。制服のスカートは長めで、別に危うい隙間などはない。しかし私はそちらに視線が誘われそうになって、居心地の悪い思いをする。
「何だって?」
「だって迷惑でしょ? 仕事だって忙しいみたいなのに、私のために時間を割くなんて」
8―2)
確かに密室の中に閉じ籠り、自分の作品のことだけを考えていたい。
そのような願望だって間違いなくこの私の中にあるのだけど、実際にその願いが叶えば、その生活の苦しさと退屈さに音を上げることもわかっている。適度に外に出る必要がある。
気晴らしというか、休息というか、ちょっとした刺激というか。
ジョギングによる疲労感のような、散歩による解放感のような、これくらいの本当にささやかな刺激。梨阿との交流はこの程度のささやかなイベントに打ってつけのはず。
とはいえ、そのイベントが発生する時間は出来るだけ自分のコントロール下に置きたい。当たり前だ。向うの都合でこちらの仕事時間をかき乱されたくはない。そうなれば、それはもうささやかなイベントではなくなる。
だから突然、事務所に来るなということは彼女に強く言い聞かせる必要があるだろう。
夕方がいい。5時過ぎだ。来るならば5時、つまり17時だ、その時間に来い。それについて強く言い聞かせる必要がある。
しかし来ること自体を拒む気はない。つまり、彼女が事務所に遊びに来ることは少しも迷惑ではない。
というわけで、私は梨阿の来訪を歓迎したいわけであるが、しかし開口一番「やっぱり小説なんて書くの辞めようかな」などと言ってきて、私を驚かしてくる。
とはいえ、私は梨阿のその言葉を真に受けていないのだけど。
彼女は試しているのだ。別に金銭的なものは発生しないのに、師と弟子の関係になったことに気後れしている。
そんなこと少しも迷惑ではないということを、私の口で言わなければいけないわけだ。それによって彼女は気まずさから解放され、安心出来るという次第。面倒な手続きである。
「いや、人に何かを教えるということは、自分にも大いなるリターンがあると思う」
私は言ってやる。
「ふーん、そんなものなんだ」
「小説を書くとは何か、自分でも改めて考えられるからね」
それは事実だろう。嘘は言っていない。
「ああ、なるほど」
「君も学ぶことはあるだろうが、僕だって君のお陰で重要なことに気づくかもしれない」
「何か約束していたんですか?」
佐々木が口を挟んできた。梨阿が事務所に訪れたときに、今日は何の用なのかくらい訊いていそうなのに、二人はそのような会話も交わしていなかったようだ。
「小説を書いてみたいって思っているんです」
「梨阿ちゃんが?」
しかし私の前では仲の良い姉妹のような態度で、二人は朗らかに話し始める。
「はい、ママが編集者だし、もし私にそこそこの才能があれば、簡単にその仕事に就けると思うんです。だから就職活動の一つみたいなものです」
梨阿はそういう性格だ。打算的で計算高いのではなくて、自分がどう思われるか考えて、先回りしてそれに言及しておくというタイプ。だからその言葉も真に受けてはいけない。
「書いてみても一切興味が湧かなければ、違う道を探すつもりですし。佐々木さんは書いたりしないのですか?」
「私は書かない」
「どうしてですか?」
「書きたいと思ったこともないし、書きたいこともない。どうして自分は書かないのか、考えたこともなくて」
「でもここで働いているじゃないですか?」
「それは偶然、先生に雇われたからで。法律事務所で雇われていたら、そこで秘書の仕事を淡々とするだけ」
「佐々木はそういう女なんだ」
私は言う。
「そういう女ってどういうことですか?」
少しだけ感情を込めて、佐々木は言い返してきた。
「彼女には僕たちの知らない秘密があって、きっとその何かで、強烈なハッピネスを感じている。出世したり、自己実現したりとか、そんなことで生き甲斐を覚えたりしない」
「ふーん、そうなんだ」
「秘密なんて何もありませんよ」
「しかしその強烈なハッピネスを感じることの出来る人生の楽しみが何なのか、まるで想像出来ないのだけどね」
「そのようなもの、何もありません、本当ですよ。梨阿ちゃんはどんな小説を書きたいの?」
自分の話題から話を逸らすためか、佐々木は質問をした。
「ああ、はい。私は自分で何が書きたいかなとか、何が書けるかなとかずっと考えてて、何となく一つの答えに辿り着いたような気がして、ホラーです」
「ホラー?」
「そう、ホラー小説」
8―3)
そう言えば私の小説、「占星術探偵」の中の一節で、ホラー小説は最先端のジャンルではないかと語り会っている場面があった。主人公の飴野林太郎と、友人の占い師マーガレット・ミーシャとの会話である。
言うまでもなく私は占星術師でもないし、占いの研究家でも愛好家でもない。小説のために、その分野の知識を齧っただけの生半可者である。
SF作家が、科学の一部を自作の中で好き勝手に利用するのと同じようにして、私は占星術という知の体系を便利に利用させてもらっている。
SF作品の中のエセ科学が大目に見られるように、私のエセ占星術解釈も多めに見てもらいたいわけであるが。
「『月』は詩。ポエムを象徴していると思わない?」
マーガレット・ミーシャは霊感などで占うのではなくて、飴野と同じ西洋占星術の占い師であることは既に紹介していたと思う。
「だから月と水星がアスペクトを取っている人は詩人的な才能を持っているという解釈が可能であると思うの」
マーガレット・ミーシャと名乗ってはいるが日本人であることも説明した。
大阪の難波千日前でバーのママをしている。彼にとってただ一人、占星術について語り合える友達。
「そうだね、月は地球の最も古い馴染みの友人。詩も文学において最も古いジャンルの一つ。面白い解釈だ。しかし『月』は生活なども象徴しているから、随筆も意味しているかもしれない。枕草子などを考慮に入れると、随筆も古い文学のスタイルだ」
飴野とマーガレット・ミーシャは夜の大阪で酒を飲みながら、お互いの実力を試すようにして占星術談議に花を咲かせる。
これはどのようなホロスコープの持ち主が小説家に向いているか、二人が雑談を交わしているというシーン。
そんな会話で、飴野は事件解決の糸口を思いついたりすることもあるが、物語の筋とまるで無関係な会話をすることのほうが多い。
とはいえ、占星術についてのペダンチックな会話が、「占星術探偵」シリーズの売りの一つだ。
アンケートやSNSの意見からも、これこそ読者が求めているものだと私は確信している。
「だとすれば『金星』は愛の星。ラブストーリーだろうね」と飴野。
「愛は文学の基本でしょうね。つまり、全ての文学において重要で、金星のパワーを使えない小説家は、大衆的な成功を手に入れることは出来ない。実際、金星と水星がコンジャンクションしている作家は多いわ」
「火星は冒険小説とか戦争を扱った作品だろうか」
「そう、戦記物とか。でも、ミステリーも火星的だと思うのだけど、どう?」
「そうだね、謎を探索するという意味では、そのままズバリ火星だろうね」
このシーンにおいて、飴野が会話の受け手の側だ。マーガレット・ミーシャが考えてきた占星術解釈を聞いている立場。マーガレットは自分と同じくらい知識のある飴野に、自分の思い付きが受け入れられるか試している。
「木星は?」
「ビルディングロマンス、主人公が成長していく物語ね。困難を乗り越える作品。いわゆる大衆的な小説全般が木星的だと言えるのじゃないかしら」
「うん、木星は幸福や豊穣を象徴する惑星。読者は木星的物語を読んでも、嫌な読後感を感じたりしない。ではその対の意味を持つ土星は、いわゆる純文学?」
「確かに人間の真実を描くという意味では純文学だけど、新聞とかノンフィクションかもしれないと思うわけよ。それにこれは文学史にジャンルとして登場してきた順番に解釈出来るはずで」ととミーシャ。
「純文学なんて分野が登場するのは近代以降か」
「そう、新聞の登場のほうが早かったみたい。だから天王星が純文学だと思うわけよ」
「天王星が発見されるのは18世紀。フランス革命の二年後ってことになっている」
「いはゆる近代が始まる時期がその頃でしょ? 天王星はサイエンス・フィクションと解釈したいところだけど、でもSFを生み出したのはジュール・ヴェルヌか、H・G・ウェルズらしく、彼らが作品を発表したのは19世紀で」
「海王星の発見がその頃だね」
「海王星はSF、ファンタジー小説と解釈するほうがしっくりと来る。でもこんな意見を世間に発表なんてしようものならば、とんでもない数の異論が押し寄せてくるでしょうね」
こんな会話、あなたとだけしか出来ないわとマーガレットは笑う。
「残るは冥王星。冥王星の発見は20世紀だ。その解釈は死とか冥府」
「恐怖と定義することも出来るのじゃないかしら」
「ってことはホラー小説か」
「その通り、恐怖やスリルを与えることを目的としている。知的というよりも本能に訴えかけてくる作品の系列よ。見事に文学のジャンルが出揃ったと思わない? 冥王星以降に発見された惑星はないでしょ。だからホラー小説が今のところ最先端のジャンルだと解釈出来る」
さて、梨阿がこの一説を読んだのかどうかは知らないが、とにかく彼女はホラー小説を書きたいと言い出す。
8―4)
というわけで梨阿はなぜホラー小説が書きたいのか、その根拠を語り出す。
「私が嫌いな小説って、悪い人が出てきて、主人公たちがそいつを退治するって話しで。まあ、確かに面白いものもあると思う。スカッとするのかもしれない。でも私自身はそんな小説なんて書きたくないし、そんな物語を考えたくもなくて。悪い人を書きたくないっていうか。先生もでしょ? 先生の作品って、そういう展開少ないじゃない?」
「いわゆるエンターテイメント小説だね。ハリウッド映画やドラマ、マンガなんかは、ほとんどそのような公式で作られていると思う。主人公が善なる存在で、強い悪と対時して、そいつらを成敗する。それが物語の駆動力となる作品だ」
「うん、そういうのは嫌」
「ある意味、一般大衆が好む作品ではある。僕だって嫌いじゃない。読んでも面白い。そして実際のところ書くのはとても難しい。こうやって書けば作品として成立するという方程式があっても、悪を描くにはそれなりのセンスが必要だと思う。読者の憎しみを掻き立てる悪、それを成敗する物語」
「何かに悩んでいる主人公が、色々と頑張って努力して、最終的にその悩みから解放されるって作品も嫌」
更に梨阿は言う。
「それはこの世の中のほとんど全ての物語を否定している発言だね」
「嘘?」
「エンターテイメント作品だけじゃない。純文学作品だって、ミステリーだって、ファンタジーだって、ラブストーリーだって、多くのドラマがそうやって作られている。主人公の前に何らかの障壁が発生して、その障壁を努力や工夫で乗り越える物語。あるいは乗り越えること自体を諦めて、別の価値観を見つけるとか。それを放棄すると長編を書くのは難しいな」
「本当に? やっぱり小説を書くのって面倒ね」
「そのタイプの物語を、あえて否定する純文学作品は多い。しかしそのタイプを知り尽くしていないと上手く否定も出来ないし」
いや、そもそも、そのドラマの方程式を無視してしまえば、どんな筋の物語を書けばいいのか途方に暮れてしまうのだ。物語はそこまで自由なものではない。
梨阿も一度、書いてみればわかるはずである。物語の公式が私たちをどれだけ助けてくれるのか。
「うん、ますますやる気がなくなってきた」
「君のやる気を挫く気はないんだ」
「それを勉強しなければ小説が書けないんだとしたら、勉強してもいいけど。でもさ、ちょっと思っていたんだけど、ホラーはそういうドラマ、必要じゃなくない?」
梨阿は言った。梨阿にしては自信なさげな態度ではあるが。
「ホラーは読者をとにかく恐がらせればいいんでしょ?」
「ああ、なるほど、君が企んでいるのはそういうことか」
天王星時代に生まれた小説は、近代的自我を確立するための道程が描かれた作品。海王星的な小説は、アイデアを重視したジャンル小説。たとえばSFやファンタジー。
そして感情や生理現象に直接訴える冥王星的な小説。その中の代表がホラーではないのか。それが「占星術探偵」で交わされた飴野とマーガレット・ミーシャの会話の骨子であった。
その意見自体を、作者である私自身が信じているわけではないのだけど。
しかしホラー小説は不思議なジャンルではないかと私自身も思う。
前頭葉ではなくて扁桃体が反応する文学とでも呼ぼうか。恐怖は爬虫類の脳でも感じることの出来る原始的感情。ホラー、バイオレンス、ポルノ、それらは冥王星時代ゆえの作品と呼ぶことが出来るのではないか。
「それに私、変な声が聞こえたり、変な人影が見えたり、私の人生がホラー的だし。私が書けるのはホラー小説しかないって結論に達したんだけど」
「わかった、君はそれを書けばいい」
梨阿は霊感の持ち主らしい。そのような能力が、ホラー小説の執筆に役に立つのかどうか知らない。
いや、きっと何の役にも立たないであろう。まあ、しかし梨阿が書きたいことを書けばいい。単純な話しだ。
「僕はホラー小説にそれほど通じてはいない。しかしホラーでも小説は小説だからね。いわゆる基本作法などは教えられる」
「早く自分の作品を完成させたいわ」
「気の早い話だ」
「で、有名になりたい」
8―5)
「本当はさ、作家になりたくても誰かに教えてもらう必要なんてないよね? ほとんどの作家に教師なんていないでしょ?」
梨阿が言ってくる。彼女はそういうことをいちいち確認しなければ、気が済まない性格のようである。
「まあね、その通りだと思う。小説の構造なんて単純だよ。プログラミングでゲームを作るより、はるか簡単だし、英語の習得よりも短時間で可能だ。独学でも充分さ。しかし小説の作法が書かれた指南書みたいなものは発売されているし、僕だってそれに目を通したりしているから」
「ふーん」
「君の母親が編集者ではなくて、友人に小説家がいないのであれば、独りで学ぶしかないだろうけれど」
「私の母は編集者で、その友人に作家がいるから、それを利用させてもらってもいいってことね?」
「しかも、その作家は次の作品を書きあぐねていて、時間を持て余しているしね」
「わかった、何から始めるべき?」
これで心置きなく、小説の書き方を教えてもらってもいい。彼女はそれを表情には現わさないが、そのような理解に至ったようで、心なしか声は弾んでいるようである。
「まずは基本中の基本、『私』を語り手にして、短編を仕上げることから始めるべきだろう」
私は特に悩むことなく、適当に思いついたことを口にする。
小説を書いてみるために何から始めるべきかなんてことに正解などあるのだろうか。そんなものないに違いない。とにかく書いてみればいいだけ。
「『私』を語り手にして、短編を仕上げろ」と言ってみたが、ただ単にもっともらしいことを言ってみただけ。それが第一歩として最適かどうか不明だ。しかしその意見を押し通すことにする。
「その『私』はもちろん、君の分身などでなくていい。君が作り上げる登場人物。一人称の『私』を視点にして、物語を語り切ること。それが最初の課題としよう」
「『私がその幽霊らしきものと遭遇したのは、ある冬の夜の出来事だった』みたいな物語を書けばいいわけね」
「そういうことだ。一人称の文章はブログやらと変わらない。君が普段書いている文章でいいわけさ」
「いやだ、私は小説の文体を作り上げたい。っていうか、そもそもブログなんて書いてないけど」
「どんな文章であって、それと気づかないうちに自分独自の文体で書いているはずだよ。歩き方や行動に自分の癖が出てしまうのと同じで、適当に書いた文章にも、自分の癖が出てしまう」
「それが文体なの?」
「さあ、文体なんて曖昧な定義で使われているから、よくわからないのだけど」
「独自の文体って響きに憧れているの」
「よくわかるよ。僕だってそうだった。小説なんて書こうと思うならば、それくらいの意気込みは必要だろう。しかし意識して作り上げた文章も文体なら、自然と書いた文章も文体なんだよ。だから僕がまず君にアドバイス出来ることがあるとすれば、特別な文体を作り上げることに時間を費やすよりもまず、今の君の言葉で小説を書け! ってことだ。きっと自分独自の文体なんてものを試行錯誤していると、時間だけが無駄に過ぎていく」
「わかった。じゃあ、私の文体に個性がない、なんて指摘はしないでね」
「当然だよ」
私だって、一行読まれただけで誰が書いたかわかるような斬新な文体を作り上げたいなどと夢見ていた時期がある。
いや、今でもそんなことを夢見ている自分がいることも確かだ。そんな夢もきっと、次の作品を書こうという動因の一つ。
「テフの書いた小説って普通の文章なんだよね」
「テフ?」
「塚本テフ」
例の梨阿の親友のことらしい。その親友も小説を書いている。いや、その親友が書き始めたから、彼女も書きたいと言い出した。
私は梨阿にこれほどの影響を与えたその謎の作家のことがずっと気になっていた。
実はどうやってその子のことを聞き出そうかと考えていたのであるが、私が切り出さずとも、その人物の話題がテーブルに上がったようだ。
「テフの文章は普段に話しているみたいな言葉で書かれているんだけど。私の好みじゃない」
「その子の文章を読んでみたいね」
「どうぞ、勝手に読めば。塚本テフか、テフテフって検索すれば、作品が出てくるから」
私はタブレットを取り出して、すぐに検索する。ある小説サイトが引っかかっる。メジャーな商業小説サイトである。
「恋愛小説よ。学校を舞台にした作品。大人が読んでも面白くないよ、きっと」
「でも同年代には人気なんだろ?」
「そうね。かなりの売れっ子っぽい」
梨阿は言う。隠す気はなかったのか、隠しようがなかったのか、その口調には嫉妬が溢れている。
「あっ、そうだ、私もテフみたいなペンネームを考えないと。大野梨阿じゃ普通過ぎる」
8―6)
「カップル・コード」というスマホのアプリがあるらしい。
一言で言えば恋人同士で共有するSNSといったところで、画面の右側は彼氏の書きこむスペース、左側は彼女。
それは例えば異性愛者の場合は、ということであるが。どのようなカップルであろうが、とにかく一つのアプリを共有して、二人の思い出を書き上げていくというシステム。
そんな気恥しいアプリが流行るなんて驚きであるが、そういうものを受け入れることが出来る層がこの国には存在しているらしい。いや、それが青春を生きるということなのであろう。
塚本テフは学園を舞台にしたその小説で、「カップル・コード」を大々的に扱っている。
私は彼女の小説の最初の十数ページをさらりと読む。
その文章は散文というよりも、詩、つまりはポエムに近い。少し気恥しくなってしまう少女ポエム。
しかしそのポエムのセンスは悪くないように思う。クオリティは高く、濃度は濃い。
物語の内容も、ありふれたセンチメンタルな恋愛小説というわけでもない。
誰々は誰々のことが好きだとか、期末テストがどうとか、学園祭とか部活とか、そのような内容で、ページは尽くされているのかと思っていたが、そうではなさそうだ。
何やら、塚本テフは登場人物たちを描くよりも、そのアプリ「カップル・コード」を描くことに全力を傾注しているようである。
つまり、「カップル・コード」によるコミュニケーションのあり方というか、最新のテクノロジーによって変化した我々の人生の描写というか。
いはばこれはSFであり、文化人類学的読み物であり、それでいて青春恋愛小説的面白味もあって。
「興味深い。面白い小説だ」
「本当に? 私の親友だから、気を使っているとかなしに?」
「気を使うなら、イマイチだって言ったほうが君は喜ぶだろ?」
「そんなことないけど」
「まあね、この界隈の小説のことはよく知らない。今、こういうのが流行っていて、高校生作家たちが皆こんな感じばかりだったら、ただ上手いだけってことになるのだろうけど。でも感想欄を読む限り、そうでもなさそうだ。読者たちはこの小説が特別で、個性的だと讃えている」
「うん、変な小説」
「彼女が切り開いた新しい道だとすれば、凄いことだ。君がこの作家に勝つのは大変だよ。友達だって?」
「親友。学校ではこの子としか喋らないからね」
「それは君も焦るわけだ」
「別にテフに勝ちたいとか、悔しいとかじゃないんだけど。クラスメートたちは私たちを比べてくるし、母のせいで、学校では私も文学少女として通っているからね」
「どんな子だろうか?」
「テフもロキ先生のファンだって」
「お互いファン同士か」
「ここに連れて来ようか? 前からテフに頼まれてたしね。彼女は飛んで喜ぶよ」
私は返事を返さない。
是非、会いたいと言えば、梨阿は勿体つけてここに彼女を連れて来ないだろう。会いたくないと言ったら、それを真に受けて、やはり連れて来ない。何も答えないでおくと、私のテフに対する印象を図るために、彼女を連れてくるかもしれない。
いや、そんな心理的な駆け引きをしてまで、テフという少女に会いたいわけでもないのだけど。むしろテフと会って、その接し方を間違えると、梨阿との友情まで失ってしまうかもしれない。
しかし私の知らない心理的過程を経て、梨阿は即座に決断を下したようだ。スマホを取り出して、テフなる人物とコンタクトを図り出した。
「来るって」
やがて梨阿は言う。「駅まで迎えに行ってくる」
8―7)
「自分の小説を執筆しなければいけないという本来の義務から逃避して、教師を始めるんですか? しかもノーギャラで」
梨阿が部屋を出たあと、佐々木がデスクから声を掛けてくる。しばらくぶりに聞いた佐々木の声だ。
梨阿と私の会話に、途中から一切の興味をなくしたように沈黙していたのである。しかし私たちの会話をしっかりと盗み聞きしていたようだ。
しかも塚本テフって子の小説、面白いですねと付け足てくる。彼女も検索をして、すぐに目を通していたようだ。
「君は梨阿が嫌いみたいだね」
「向こうが私を嫌っているんです。好き嫌いが激しそうな子だから」
「梨阿にも同じ質問をしてみるよ。君は佐々木が嫌いみたいだねって」
「『向こうが私を嫌っているんです。好き嫌いが激しい人だから』って答えるんでしょうか?」
「さあね」
どうでもいい話題だ。そもそも、別に二人に仲良くしてもらいたいわけでもない。
「テフって子が来るらしい。彼女の友達で、一応、僕の読者だ。コーヒーくらいは用意してやってくれよ」
私は部屋が散らかってないか確かめながら、鏡の前に立って、自分の身だしなみもチェックする。
「お客様が来られたときにお茶を出すのは秘書の仕事でしょうか? 少しお時間を下さい。契約内容を確かめさせて頂きますから」
佐々木は面倒なことを言って私を責めてくる。いわゆるフェミニズム的文脈に則った文句というものか。それとも労働環境に関わる嫌味なのか。
しかし文句を言いながらも、彼女は台所に向かってくれる。
「気に入らなければ裁判でもしてくれ」
「わかりました」
いや、確かに佐々木の言う通りである。来客にコーヒーを出すことは別に秘書の仕事ではない。そっちの話題ではなくて、佐々木の言う通りなのは、自分の作品に向き合わず、梨阿に小説指南なんてしている場合なのかという指摘のほう。
これからしばらく、これに時間を取られるのかと思うと、うんざりしてくる。こんなことで丈夫なのかと自分が心配になる。
「まあ、だけどさ、人に何か教えるというのは有用なことだよね。小説執筆なんて曖昧な行為だと尚更。それによって、自分の中で方法論が確立されるからね」
私は自分に言い聞かせるように口に出す。
「何ですか?」
「教師だって、それなりに遣り甲斐があるってことさ」
「先生がそう思うのならば、それでいいのではないでしょうか」
技術的な方法論も重要であるが、執筆がどれだけ人生を豊かにするか、それも伝えたい。執筆は実人生にも大いなる影響を及ぼすものであること。
何やら人生論のような、あるいは自己啓発のような薫陶であるけど、私はその効果も信じてもいる。
ところで、梨阿たちはまだ帰ってこない。私はテフのことをよく知るために、更に塚本テフの小説を読み進めることにする。
読み切りの短編の集積だ。短編ごとに主人公たちの顔ぶれは変わり、その関係性も変わる。
「カップル・コード」というアプリがその魅力を発揮するのは、安定的な関係を築いているカップルよりも、不安定な、曖昧な関係のカップルのほうであろう。
付き合ってはいる。しかし本当に、相手は自分のことを愛してくれているのだろうか、それを示す確たるものが何もない、そんな時期の恋人たちの関係。そのときの「カップル・コード」でのやり取りはスリリングだ。テフという作家はそれを見事に描いていると思う。
こんな小説を書きあげた高校生はどのような人物か、関心を抱かざるを得ない。ちょうど、ドアの向こうにざわめきが近づいてくる気配がした。
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塚本テフは小柄な少女だった。銀縁の眼鏡をかけていて、手首は折れそうなくらいに細い。髪は茶色がかっていて少し癖毛、色白だけど、しかし不健康な感じはない。
というのも驚くほどに快活で、よく笑い、よく喋るのである。何か我々とは別の種族のよう、つまり、エルフとかそういう類の妖精ではないかと言いたくなるような。
「ロキ先生、本当に会いたかったんです。この子に会わせて欲しいと何度も頼んでいたんですけど。時期が来たらねって答えばかりで。はい? その時期が来るのいつ? って感じで。でもようやくラスボスを倒せたみたいです。ミッション突破」
早口だ。話すスピードは速い。私たちが無意識に留めているレベルの思いつきすらも言葉にして、会話のの中に挟み込んでくるのだろうか。私も佐々木もその勢いを前にして後ずさりしたくなる。
「塚本テフよ。やっぱり会わせるべきじゃなかったかな」
梨阿はいつもの温度の低い声で言う。
「どうしてよ、もうこれからは、こんな感じの焦らしプレーやめてよ、あっ、サインが欲しいです、先生。それを家宝にします。私が国だったら、国宝です。実は私の母も先生のファンなんです。父は多分、先生のことは知りませんけど、普通の会社員なんで。ありきたりな人で、決して夢を見ないんです。私、魚屋の娘に生まれたかったです、魚が本当に好きなんで。まあ、別に父親が魚屋だからって、先生の読者になるわけではないと思いますが。でも魚屋が父ならば、何でも許せるって言うか。魚が好きなんです。えーと、つまり何が言いたいかというと」
「次の小説の主役は魚にするとか」
「さ、採用です、先生、そのアイデア。ピクサーのあのアニメ観ました? 大好きな映画なんです。今度はここに母も今度連れてきても良いですか? って、良いわけないですよね、先生のサイン、スマホケースと、あと、母のためにもどこかに書いて欲しいです。今日、先生に会えることがわかってたら、家から先生の本を持ってきましたよ。あれ、スマホがない? 忘れたかも。学校かな、ヤバい、どうしよう、梨阿!」
テフがソファで暴れ始める。学校帰りなので制服姿である。彼女はやはり真面目なのかスカートの丈は長いほうであるが、腰を浮かして制服のブレザーのポケットをあさったり、ソファの横に置いたカバンに手を伸ばす。
「さっき、私と電話してたじゃない。あのときは学校を出てたでしょ?」
そんな彼女をたしなめるような視線を、梨阿は向ける。手も足も良く動くので、彼女のスカートの裾が乱れることは確かで、梨阿はそれに対して苛立っている。
「そうだっけ? じゃあ電車に落としたのかな。終わりだ。今頃、スマホだけ電車に乗って宝塚まで行っているかも。私たちが乗ってたのって宝塚線だったよね? 川西能勢口行きだっけ? どっちにしろ兵庫県。大阪から出て行った。あの中にはけっこう大事な情報が収められていたのに。これまでの私の思い出が。あ! あった、カバンの中にありました、奥のほうです」
「あったって?」
「ありました、でもこれ、本当に私のでしょうか? 実は入れ替わったとか? ないですね、私のでしょうね」
彼女の描く小説には、そそっかしい雰囲気はない。静謐というのは違うとしても、用心深い計算に満ちている。
まだ彼女の作品を少ししか読んではいないが、実際の彼女の空気感と、小説が醸し出す雰囲気が違うのは明らかだ。
それが小説の面白いところなのかもしれない。彼女は執筆するとき、少し違う自分になっているということなのだ。
8―9)
「先生、スマホを落としたことありますか?」
「どうだったかなあ」
「スマホを落としたことがある作家と、スマホを落としたことがない作家では、小説の内容も変わってくると思うんです。先生はないタイプだと思っていました」
「いや、あるよ」
「あれ、ありましたか」
「落としたことがあるけど、すぐに見つかった」
「なるほど、それで、ですね」
私はなぜ小説を書かずに、若い女性たちを前にしてこのような不毛な会話に興じているのだろうかと我に返る。本当ならパソコンの前で、新作の準備に取り掛かっているはずなのである。
しかし塚本テフは新しい刺激をもたらしてくれるかもしれない。それは梨阿の存在も同じだ。
いや、そのように考えなければやっていられない。私が欲しい刺激、それは次の作品のヒント。
「先生、私は先生の描く大阪が好きなんです。かなり好きだと言ってもいいかもしれません。私の小説の舞台は具体的にはどこでもなく、いえ、むしろ関東のどこかのフワッとした匿名の街で。普通のテレビのドラマとか映画とかが舞台にしている都市です。関東の小説家は、当たり前のように舞台をそこにしてますよね? 私も無意識にそっちに影響されていたわけです。でも次の小説は大阪を舞台に描きます。そして私の師匠はロキだとインタビューとかで答えます。スマホを落としても、大阪の人がそれを拾って、警察に届けたんですよね? 先生の大阪は、そんな大阪です」
「私のホラー小説の舞台、どうしようかな」
梨阿がその話題に乗ってくる。
「そうなんです、先生、この子も書くんです。止めて下さい、小説を書くのって苦しいですよね?」
「苦しくなったらすぐに辞めるから。でも苦しむ前に辞める気はない」
「この子、私をライバルだと思っているんです。何でも私に勝ちたいタイプなんです。そんなことをしたら普通は友情が壊れると思いませんか? 私は親友と競いたくない。これまでの文学史において兄弟とか姉妹で作家をやっている例ってほぼ皆無よ。梨阿、何でだと思う? それはまあ、いないわけじゃないと思うけど、ブロンテ姉妹とか、でも圧倒的に少数派なの。家族同士で争うのは避けてるわけよ」
「あなたと家族じゃないけど」
「家族よりも危うい関係よ、友達に過ぎない。だから尚更、競い合うのは危険だって思うのだけど」
「別にそういうのじゃない。私は私のペースでやるだけだから」
「私を負かす気です。でも負けないから」
「ロキ先生があんたの小説、そこそこ面白いって褒めてたよ」
「そこそこ、ですか? でも、ありがとうございます。その言葉、録音するんで、もう一度言って下さい」
「いや、かなり面白いって褒めたはずだ」
本当にスマホで私の言葉を録音しようとし始めたテフに呆れてしまうが、私は言う。
「え、どっちですか、でも私は前向きだから、『かなり面白い』って言われた時間線を選びます。では、これに向かってお願いします、どうぞ」
8―10)
作家塚本テフも次の作品に思い悩んでいるようだった。今、書いている作品のシリーズが一段落ついたあと、次は何を書くべきか、それが見えないというのだ。
あらゆる作家が突き当たる壁であろう。彼女にアドバイス出来ることなんてない。私なんてその悩みを、テフが悩んでいるよりも長期に渡り、悩んでいるのだ。
「次に書きたいことは何もないのかい?」
しかし私は何かアドバイスめいたことをするために、そのようなことを尋ねる。
「あります、幾つかあるんです。でもこれだっていうのがないわけでして、先生、私はどうすればいいんでしょうか?」
あんたの悩み相談コーナーじゃないんだけど。そんな視線を梨阿が送るが、私はその相談コーナーに乗る。
「わからない。僕も次の作品に悩んでいる。しかし悩んでいる時間があるのならば、とにかく何かを書くしかないんだよね」
「ああ、なるほど、さすが先生です、蒙が開きました。つまり、悩むな、書け、ってこっとですね」
テフは私の声を録音しているようであるが、更にノートにメモまで始めた。過剰な態度である。生徒役を必要以上に勤めようとしている。馬鹿にしているのかもしれない。しかし何かコミカルで、嫌みな感じはない。
「そうだね、悩むな、書け」
しかしその言葉から最も遠いところにいるのが、今の私だ。こんなことを言える立場なのだろうか。そう思いながらも更に続ける。
「捨てるつもりで書け、どうせ捨てるんだから。そんなことを言ってた作家がいたはずだ」
「おお、それは大胆ですね。書いたのに捨てるなんて」
「ああ、捨てるために書けばいいんだ。何も書かないよりも、ずっといい」
こんなこと、これまで考えたことなかった。これは書くに値する企画だと、心の底から思えたときに書き始めていた。悩みながら書くスタイルは自分のものではない。
書きたいと絶対的に確信出来た企画。それに出会ったとき、私は満を持してその仕事に取り掛かり始めていたのだ。
いや、本当にそうだったろうか?
今までだって、これでいいのだろうかと半信半疑の中、とりあえず書き始めていたのかもしれない。
結果的に捨てることになってしまうのではないのか、そんな恐怖を感じながらも仕事を進めていたはず。実際、捨てた文章は数知れない。
作品が順調に進み始めたら、最初に感じていた半信半疑の気分をすっかり忘れてしまうだけなのだ。
ましてや完成したとなると、まるでその作品を書くことがそもそも自分の運命でもあったような錯覚に囚われてしまう。本来はそんなことは絶対になかったはずなのに。
「わかりました、捨てるために書きます!」
テフが元気な声で言う。私も同じ気分だった。とにかく何か書き始めよう。捨てるために。
私は梨阿の小説の教師を務めることになったが、いったい何を教えればいいのか思いつかなかった。小説のルール、決まり事、人称の問題、ドラマの作り方がどうとか、そのようなことを教えることになるのだろうかと漠然と思っていた。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。今、はっきりとわかった気がする。
とにかく書くこと。書くことで得ることが出来るカタルシス。彼女に教えたいことはそれに尽きる。
書くことは素晴らしい。書けば、自分が変わる。その小説が誰かの心に届かなくても、自分自身は成長する。
痩せる。美しくなる。恋人が出来る。頭が良くなる。胡散臭いパワーストーンのような効果を発揮することはないかもしれないが、しかし何かしらポジティブな出来事が自分の世界に巻き起こるはず。少なくとも私はそうだった。
8―11)
梨阿とテフは、騒めきと共に去った。しかし後日、この事務所にまた来るという予告を残して。しかも二人で。
梨阿は自分一人が生徒になることに、遠慮があるのかもしれない。それとも私と二人きりでは会いたくないのだろうか。
いや、それならば私に教えを乞うことはないはずだ。彼女は私のことを嫌ってはいないと思う。
むしろ梨阿は、私に対して恋心を抱いているのではないか、そんな自惚れを感じてしまうこともある。だから、こうして私との時間を作ろうとしているのだ。
おいおい、お前は何て自意識過剰なのだ。そう笑われるかもしれない。
思えば子供のときから、私はこのようなことばかりを考えて生きていた気がする。もしかしたら、この人は自分のことが好きなのではないのかと。
自惚れに酔いながら、警戒を抱きながら、誰に接しても、そのように考えてしまうのだ。それは女性だけではなくて、男性に対してもそうである。あらゆる人たちが、私に恋をしている世界。
いや、それは別に私だけが病んでいる問題ではないだろう。多くの人間が、人と接するときに病む過剰な自意識なのではないか。
人は皆、多かれ少なかれ、自分に対して興味を寄せてくる者に対し、誤解をしてしまう。もしかしてこの人は私のことが好きではないのかと。
当然、その逆もある。こうやって熱心にコミュニケーションを取ろうとする自分は、恋心を抱いていると誤解を与えてしまうのではないのか。その誤解を恐れて、積極的な自分にストップをかける。
むしろ、このようなことを考えないほうが少数派に違いない。つまり、この類の自意識に囚われない人だけが、積極的に人と関わることが出来るということ。
もちろんのこと、「もしかしたら好きではないか?」と思ってしまう病を患う者はその一方、「もしかしたら嫌われているのではないか」と誰に対しても不安に思うという病も併発しているだろう。
それはコインの裏と表。我々はその両極端を行ったり来たりしているのだ。
「恋愛が終わった世界」とやらを描いている小説家の私は、常日頃からそのようなことを考えていた。むしろそんなことに囚われているからこそ、こんな作品を書くことになったのか。
さて、そういうわけで、梨阿が私に惚れているかもしれない、私はそんなことを考えてしまっている。自意識過剰だと思いながらも、それを拭い去ることも出来ない。
彼女は大野さんの娘だ。恋愛の相手にはならない。大野さんがそのようなことを許すはずがないではないか。年齢だって離れている。ありえない未来だ。私が彼女に対して、積極なモーションを掛けることはない。
とはいえ、彼女の存在は邪魔ではないし、小説を書くとはどういうことか、それについて教えるのも嫌ではない。梨阿という生徒がいるからこそ、改めてそのようなことを考えるモチベーションになっている。
この先どれくらい続くかわからないが、私も梨阿も、いくらかの気まずさを覚えながら、この事務所で逢い、同じ時間を過ごすだろう。それでいい。
「随分と静かになったな」
「そうですね」
さて、孫が帰っていったあとの老夫婦のような会話を、私と佐々木は交わす。
佐々木がテーブルの上のコーヒーを片付けている。これも秘書の仕事ですかと言われそうなので、私も後片付けを手伝う。
白いブラウスに紺色のロングスカート。胸の膨らみは、黒のカーデガンが隠している。アクセサリーの類は何一つつけていない。化粧はしているが薄く、香水の香りもないに等しい。佐々木は空気のように透明だ。
佐々木も私に恋をしているに違いない。
当然、私はそんな自意識に駆られている。そしてきっと、佐々木もそう思っているに違いない。先生は私のことが好きだと。
シャイで、非社交的な佐々木も、私と同じ自意識を病んでいる人種。佐々木といると、微妙に気まずい雰囲気になるのはそのせいか。
作家には二種類いると言えるのかもしれない。自分の過去の作品を読み返すタイプと、一切、そんなものを読みはしないというタイプ。
いや、書いている最中に自分の作品を読み返さない作家なんて存在はしないはずだから、言い直すべきかもしれない。発表した自作を読み返すことに快を覚えるタイプと、それが苦痛で堪らないというタイプと。
結論から言うと、絶対的に読み返すべきであると思うのである。
それは鏡を見ることや、自分が写った動画を観るくらい気恥しい行為であるかもしれず、過ぎ去った過去にこだわり続けているような虚しさを感じたりするかもしれないが、読み返すことによって自作の短所や欠点に気づけたりするはずだ、というのは当たり前過ぎる正論。
次に何を書くべきか教えてくれるのも、きっと過去の自分の作品である。他人からの批評を熟読するより、それはずっと有益な行為ではないかと思う。
優れた作家とは、自分の過去の作品を読み返すことが出来る者のこと。そんな信条が私にはあるわけでもないのだけど、とにかくしばらくの間はその作業に勤しむとしよう。
苦しく辛い行為である。かなりの自己愛が必要だ。中途半端なナルシストには不可能な苦行。それでもやり遂げるのである。
という覚悟のもと、私は自分の作品を読み返していたのだけど、この日、その作業はあっという間に邪魔が入った。梨阿が事務所にやってきたのだ。
いや、彼女が来るのはわかっていたことであるが、私が予測していた時間より随分と早かった。
放課後、学校が終わってから、だから夕方過ぎくらいにやって来るだろうと踏んでいたのに、まだ昼下がりという時間帯の襲来だ。
事務所は同じマンションの向かいの部屋。彼女が事務所に来た気配も耳に届く。
佐々木から来客が来たというメールも来た。もう少し読み返し作業は続けていたかったが、私は事務所に向かうことにする。
事務所の扉を開けると、やはり梨阿がソファに座っている。学校の制服姿である。
普段、パジャマに近い部屋着の彼女しか見たことがなかったので、その恰好は新鮮だった。街ですれ違う匿名の女子高生という趣き。梨阿ですら、このような変身を遂げるとは意外だ。
彼女の存在によって、見慣れた自分の部屋が、いつもと違う光景に変貌しているようだ。自分の事務所なのに、この部屋に踏み入れることに躊躇してしまいそうになる。
私は居心地の悪い思いをしながら部屋に入る。
しかしこれは梨阿に女性性を感じているというより、はるかに年の離れた別の世代を前にして気後れしているのだろう。学校に属しているということをその身なりでアピールしてくる梨阿はストレンジャーのよう。
梨阿は佐々木と談笑しているわけでもなく、二人とも無言で、スマートフォンを弄ったり、ノートパソコンに向かって仕事をしたりしていた。
何やら異様な光景であったが、二人はほぼ初対面だから仕方がない。
お互いの存在は知っているはずであるが、顔を合せたことはなかったのかもしれない。梨阿も佐々木も、上辺の会話で沈黙を埋め合おうとするタイプでもないから、こうなるのは当然。
「おはよう。今、起きたの?」
梨阿が嫌味を込めて挨拶をしてくる。佐々木と長い時間、二人きりであったことが、彼女の機嫌を損ねたに違いない。
「起きたのは二時間前だけど。ちょっと仕事をしていたのさ」
どう考えても寝起きに見えないだろ? 私は整髪料のついたヘアースタイルと、すぐに心斎橋でも梅田でも散歩出来る服装をアピールする。しかし彼女は特に表情を変えない。
「いつも十時間くらい寝てるんでしょ?」
「いや、だから寝起きではないよ」
「私も作家になってそのような自堕落な生活を送りたいって願望もあるんだけどね、でも、やっぱり小説なんて書くの辞めようかなって思ってて」
梨阿はスマホを置いて、足を組み直した。制服のスカートは長めで、別に危うい隙間などはない。しかし私はそちらに視線が誘われそうになって、居心地の悪い思いをする。
「何だって?」
「だって迷惑でしょ? 仕事だって忙しいみたいなのに、私のために時間を割くなんて」
8―2)
確かに密室の中に閉じ籠り、自分の作品のことだけを考えていたい。
そのような願望だって間違いなくこの私の中にあるのだけど、実際にその願いが叶えば、その生活の苦しさと退屈さに音を上げることもわかっている。適度に外に出る必要がある。
気晴らしというか、休息というか、ちょっとした刺激というか。
ジョギングによる疲労感のような、散歩による解放感のような、これくらいの本当にささやかな刺激。梨阿との交流はこの程度のささやかなイベントに打ってつけのはず。
とはいえ、そのイベントが発生する時間は出来るだけ自分のコントロール下に置きたい。当たり前だ。向うの都合でこちらの仕事時間をかき乱されたくはない。そうなれば、それはもうささやかなイベントではなくなる。
だから突然、事務所に来るなということは彼女に強く言い聞かせる必要があるだろう。
夕方がいい。5時過ぎだ。来るならば5時、つまり17時だ、その時間に来い。それについて強く言い聞かせる必要がある。
しかし来ること自体を拒む気はない。つまり、彼女が事務所に遊びに来ることは少しも迷惑ではない。
というわけで、私は梨阿の来訪を歓迎したいわけであるが、しかし開口一番「やっぱり小説なんて書くの辞めようかな」などと言ってきて、私を驚かしてくる。
とはいえ、私は梨阿のその言葉を真に受けていないのだけど。
彼女は試しているのだ。別に金銭的なものは発生しないのに、師と弟子の関係になったことに気後れしている。
そんなこと少しも迷惑ではないということを、私の口で言わなければいけないわけだ。それによって彼女は気まずさから解放され、安心出来るという次第。面倒な手続きである。
「いや、人に何かを教えるということは、自分にも大いなるリターンがあると思う」
私は言ってやる。
「ふーん、そんなものなんだ」
「小説を書くとは何か、自分でも改めて考えられるからね」
それは事実だろう。嘘は言っていない。
「ああ、なるほど」
「君も学ぶことはあるだろうが、僕だって君のお陰で重要なことに気づくかもしれない」
「何か約束していたんですか?」
佐々木が口を挟んできた。梨阿が事務所に訪れたときに、今日は何の用なのかくらい訊いていそうなのに、二人はそのような会話も交わしていなかったようだ。
「小説を書いてみたいって思っているんです」
「梨阿ちゃんが?」
しかし私の前では仲の良い姉妹のような態度で、二人は朗らかに話し始める。
「はい、ママが編集者だし、もし私にそこそこの才能があれば、簡単にその仕事に就けると思うんです。だから就職活動の一つみたいなものです」
梨阿はそういう性格だ。打算的で計算高いのではなくて、自分がどう思われるか考えて、先回りしてそれに言及しておくというタイプ。だからその言葉も真に受けてはいけない。
「書いてみても一切興味が湧かなければ、違う道を探すつもりですし。佐々木さんは書いたりしないのですか?」
「私は書かない」
「どうしてですか?」
「書きたいと思ったこともないし、書きたいこともない。どうして自分は書かないのか、考えたこともなくて」
「でもここで働いているじゃないですか?」
「それは偶然、先生に雇われたからで。法律事務所で雇われていたら、そこで秘書の仕事を淡々とするだけ」
「佐々木はそういう女なんだ」
私は言う。
「そういう女ってどういうことですか?」
少しだけ感情を込めて、佐々木は言い返してきた。
「彼女には僕たちの知らない秘密があって、きっとその何かで、強烈なハッピネスを感じている。出世したり、自己実現したりとか、そんなことで生き甲斐を覚えたりしない」
「ふーん、そうなんだ」
「秘密なんて何もありませんよ」
「しかしその強烈なハッピネスを感じることの出来る人生の楽しみが何なのか、まるで想像出来ないのだけどね」
「そのようなもの、何もありません、本当ですよ。梨阿ちゃんはどんな小説を書きたいの?」
自分の話題から話を逸らすためか、佐々木は質問をした。
「ああ、はい。私は自分で何が書きたいかなとか、何が書けるかなとかずっと考えてて、何となく一つの答えに辿り着いたような気がして、ホラーです」
「ホラー?」
「そう、ホラー小説」
8―3)
そう言えば私の小説、「占星術探偵」の中の一節で、ホラー小説は最先端のジャンルではないかと語り会っている場面があった。主人公の飴野林太郎と、友人の占い師マーガレット・ミーシャとの会話である。
言うまでもなく私は占星術師でもないし、占いの研究家でも愛好家でもない。小説のために、その分野の知識を齧っただけの生半可者である。
SF作家が、科学の一部を自作の中で好き勝手に利用するのと同じようにして、私は占星術という知の体系を便利に利用させてもらっている。
SF作品の中のエセ科学が大目に見られるように、私のエセ占星術解釈も多めに見てもらいたいわけであるが。
「『月』は詩。ポエムを象徴していると思わない?」
マーガレット・ミーシャは霊感などで占うのではなくて、飴野と同じ西洋占星術の占い師であることは既に紹介していたと思う。
「だから月と水星がアスペクトを取っている人は詩人的な才能を持っているという解釈が可能であると思うの」
マーガレット・ミーシャと名乗ってはいるが日本人であることも説明した。
大阪の難波千日前でバーのママをしている。彼にとってただ一人、占星術について語り合える友達。
「そうだね、月は地球の最も古い馴染みの友人。詩も文学において最も古いジャンルの一つ。面白い解釈だ。しかし『月』は生活なども象徴しているから、随筆も意味しているかもしれない。枕草子などを考慮に入れると、随筆も古い文学のスタイルだ」
飴野とマーガレット・ミーシャは夜の大阪で酒を飲みながら、お互いの実力を試すようにして占星術談議に花を咲かせる。
これはどのようなホロスコープの持ち主が小説家に向いているか、二人が雑談を交わしているというシーン。
そんな会話で、飴野は事件解決の糸口を思いついたりすることもあるが、物語の筋とまるで無関係な会話をすることのほうが多い。
とはいえ、占星術についてのペダンチックな会話が、「占星術探偵」シリーズの売りの一つだ。
アンケートやSNSの意見からも、これこそ読者が求めているものだと私は確信している。
「だとすれば『金星』は愛の星。ラブストーリーだろうね」と飴野。
「愛は文学の基本でしょうね。つまり、全ての文学において重要で、金星のパワーを使えない小説家は、大衆的な成功を手に入れることは出来ない。実際、金星と水星がコンジャンクションしている作家は多いわ」
「火星は冒険小説とか戦争を扱った作品だろうか」
「そう、戦記物とか。でも、ミステリーも火星的だと思うのだけど、どう?」
「そうだね、謎を探索するという意味では、そのままズバリ火星だろうね」
このシーンにおいて、飴野が会話の受け手の側だ。マーガレット・ミーシャが考えてきた占星術解釈を聞いている立場。マーガレットは自分と同じくらい知識のある飴野に、自分の思い付きが受け入れられるか試している。
「木星は?」
「ビルディングロマンス、主人公が成長していく物語ね。困難を乗り越える作品。いわゆる大衆的な小説全般が木星的だと言えるのじゃないかしら」
「うん、木星は幸福や豊穣を象徴する惑星。読者は木星的物語を読んでも、嫌な読後感を感じたりしない。ではその対の意味を持つ土星は、いわゆる純文学?」
「確かに人間の真実を描くという意味では純文学だけど、新聞とかノンフィクションかもしれないと思うわけよ。それにこれは文学史にジャンルとして登場してきた順番に解釈出来るはずで」ととミーシャ。
「純文学なんて分野が登場するのは近代以降か」
「そう、新聞の登場のほうが早かったみたい。だから天王星が純文学だと思うわけよ」
「天王星が発見されるのは18世紀。フランス革命の二年後ってことになっている」
「いはゆる近代が始まる時期がその頃でしょ? 天王星はサイエンス・フィクションと解釈したいところだけど、でもSFを生み出したのはジュール・ヴェルヌか、H・G・ウェルズらしく、彼らが作品を発表したのは19世紀で」
「海王星の発見がその頃だね」
「海王星はSF、ファンタジー小説と解釈するほうがしっくりと来る。でもこんな意見を世間に発表なんてしようものならば、とんでもない数の異論が押し寄せてくるでしょうね」
こんな会話、あなたとだけしか出来ないわとマーガレットは笑う。
「残るは冥王星。冥王星の発見は20世紀だ。その解釈は死とか冥府」
「恐怖と定義することも出来るのじゃないかしら」
「ってことはホラー小説か」
「その通り、恐怖やスリルを与えることを目的としている。知的というよりも本能に訴えかけてくる作品の系列よ。見事に文学のジャンルが出揃ったと思わない? 冥王星以降に発見された惑星はないでしょ。だからホラー小説が今のところ最先端のジャンルだと解釈出来る」
さて、梨阿がこの一説を読んだのかどうかは知らないが、とにかく彼女はホラー小説を書きたいと言い出す。
8―4)
というわけで梨阿はなぜホラー小説が書きたいのか、その根拠を語り出す。
「私が嫌いな小説って、悪い人が出てきて、主人公たちがそいつを退治するって話しで。まあ、確かに面白いものもあると思う。スカッとするのかもしれない。でも私自身はそんな小説なんて書きたくないし、そんな物語を考えたくもなくて。悪い人を書きたくないっていうか。先生もでしょ? 先生の作品って、そういう展開少ないじゃない?」
「いわゆるエンターテイメント小説だね。ハリウッド映画やドラマ、マンガなんかは、ほとんどそのような公式で作られていると思う。主人公が善なる存在で、強い悪と対時して、そいつらを成敗する。それが物語の駆動力となる作品だ」
「うん、そういうのは嫌」
「ある意味、一般大衆が好む作品ではある。僕だって嫌いじゃない。読んでも面白い。そして実際のところ書くのはとても難しい。こうやって書けば作品として成立するという方程式があっても、悪を描くにはそれなりのセンスが必要だと思う。読者の憎しみを掻き立てる悪、それを成敗する物語」
「何かに悩んでいる主人公が、色々と頑張って努力して、最終的にその悩みから解放されるって作品も嫌」
更に梨阿は言う。
「それはこの世の中のほとんど全ての物語を否定している発言だね」
「嘘?」
「エンターテイメント作品だけじゃない。純文学作品だって、ミステリーだって、ファンタジーだって、ラブストーリーだって、多くのドラマがそうやって作られている。主人公の前に何らかの障壁が発生して、その障壁を努力や工夫で乗り越える物語。あるいは乗り越えること自体を諦めて、別の価値観を見つけるとか。それを放棄すると長編を書くのは難しいな」
「本当に? やっぱり小説を書くのって面倒ね」
「そのタイプの物語を、あえて否定する純文学作品は多い。しかしそのタイプを知り尽くしていないと上手く否定も出来ないし」
いや、そもそも、そのドラマの方程式を無視してしまえば、どんな筋の物語を書けばいいのか途方に暮れてしまうのだ。物語はそこまで自由なものではない。
梨阿も一度、書いてみればわかるはずである。物語の公式が私たちをどれだけ助けてくれるのか。
「うん、ますますやる気がなくなってきた」
「君のやる気を挫く気はないんだ」
「それを勉強しなければ小説が書けないんだとしたら、勉強してもいいけど。でもさ、ちょっと思っていたんだけど、ホラーはそういうドラマ、必要じゃなくない?」
梨阿は言った。梨阿にしては自信なさげな態度ではあるが。
「ホラーは読者をとにかく恐がらせればいいんでしょ?」
「ああ、なるほど、君が企んでいるのはそういうことか」
天王星時代に生まれた小説は、近代的自我を確立するための道程が描かれた作品。海王星的な小説は、アイデアを重視したジャンル小説。たとえばSFやファンタジー。
そして感情や生理現象に直接訴える冥王星的な小説。その中の代表がホラーではないのか。それが「占星術探偵」で交わされた飴野とマーガレット・ミーシャの会話の骨子であった。
その意見自体を、作者である私自身が信じているわけではないのだけど。
しかしホラー小説は不思議なジャンルではないかと私自身も思う。
前頭葉ではなくて扁桃体が反応する文学とでも呼ぼうか。恐怖は爬虫類の脳でも感じることの出来る原始的感情。ホラー、バイオレンス、ポルノ、それらは冥王星時代ゆえの作品と呼ぶことが出来るのではないか。
「それに私、変な声が聞こえたり、変な人影が見えたり、私の人生がホラー的だし。私が書けるのはホラー小説しかないって結論に達したんだけど」
「わかった、君はそれを書けばいい」
梨阿は霊感の持ち主らしい。そのような能力が、ホラー小説の執筆に役に立つのかどうか知らない。
いや、きっと何の役にも立たないであろう。まあ、しかし梨阿が書きたいことを書けばいい。単純な話しだ。
「僕はホラー小説にそれほど通じてはいない。しかしホラーでも小説は小説だからね。いわゆる基本作法などは教えられる」
「早く自分の作品を完成させたいわ」
「気の早い話だ」
「で、有名になりたい」
8―5)
「本当はさ、作家になりたくても誰かに教えてもらう必要なんてないよね? ほとんどの作家に教師なんていないでしょ?」
梨阿が言ってくる。彼女はそういうことをいちいち確認しなければ、気が済まない性格のようである。
「まあね、その通りだと思う。小説の構造なんて単純だよ。プログラミングでゲームを作るより、はるか簡単だし、英語の習得よりも短時間で可能だ。独学でも充分さ。しかし小説の作法が書かれた指南書みたいなものは発売されているし、僕だってそれに目を通したりしているから」
「ふーん」
「君の母親が編集者ではなくて、友人に小説家がいないのであれば、独りで学ぶしかないだろうけれど」
「私の母は編集者で、その友人に作家がいるから、それを利用させてもらってもいいってことね?」
「しかも、その作家は次の作品を書きあぐねていて、時間を持て余しているしね」
「わかった、何から始めるべき?」
これで心置きなく、小説の書き方を教えてもらってもいい。彼女はそれを表情には現わさないが、そのような理解に至ったようで、心なしか声は弾んでいるようである。
「まずは基本中の基本、『私』を語り手にして、短編を仕上げることから始めるべきだろう」
私は特に悩むことなく、適当に思いついたことを口にする。
小説を書いてみるために何から始めるべきかなんてことに正解などあるのだろうか。そんなものないに違いない。とにかく書いてみればいいだけ。
「『私』を語り手にして、短編を仕上げろ」と言ってみたが、ただ単にもっともらしいことを言ってみただけ。それが第一歩として最適かどうか不明だ。しかしその意見を押し通すことにする。
「その『私』はもちろん、君の分身などでなくていい。君が作り上げる登場人物。一人称の『私』を視点にして、物語を語り切ること。それが最初の課題としよう」
「『私がその幽霊らしきものと遭遇したのは、ある冬の夜の出来事だった』みたいな物語を書けばいいわけね」
「そういうことだ。一人称の文章はブログやらと変わらない。君が普段書いている文章でいいわけさ」
「いやだ、私は小説の文体を作り上げたい。っていうか、そもそもブログなんて書いてないけど」
「どんな文章であって、それと気づかないうちに自分独自の文体で書いているはずだよ。歩き方や行動に自分の癖が出てしまうのと同じで、適当に書いた文章にも、自分の癖が出てしまう」
「それが文体なの?」
「さあ、文体なんて曖昧な定義で使われているから、よくわからないのだけど」
「独自の文体って響きに憧れているの」
「よくわかるよ。僕だってそうだった。小説なんて書こうと思うならば、それくらいの意気込みは必要だろう。しかし意識して作り上げた文章も文体なら、自然と書いた文章も文体なんだよ。だから僕がまず君にアドバイス出来ることがあるとすれば、特別な文体を作り上げることに時間を費やすよりもまず、今の君の言葉で小説を書け! ってことだ。きっと自分独自の文体なんてものを試行錯誤していると、時間だけが無駄に過ぎていく」
「わかった。じゃあ、私の文体に個性がない、なんて指摘はしないでね」
「当然だよ」
私だって、一行読まれただけで誰が書いたかわかるような斬新な文体を作り上げたいなどと夢見ていた時期がある。
いや、今でもそんなことを夢見ている自分がいることも確かだ。そんな夢もきっと、次の作品を書こうという動因の一つ。
「テフの書いた小説って普通の文章なんだよね」
「テフ?」
「塚本テフ」
例の梨阿の親友のことらしい。その親友も小説を書いている。いや、その親友が書き始めたから、彼女も書きたいと言い出した。
私は梨阿にこれほどの影響を与えたその謎の作家のことがずっと気になっていた。
実はどうやってその子のことを聞き出そうかと考えていたのであるが、私が切り出さずとも、その人物の話題がテーブルに上がったようだ。
「テフの文章は普段に話しているみたいな言葉で書かれているんだけど。私の好みじゃない」
「その子の文章を読んでみたいね」
「どうぞ、勝手に読めば。塚本テフか、テフテフって検索すれば、作品が出てくるから」
私はタブレットを取り出して、すぐに検索する。ある小説サイトが引っかかっる。メジャーな商業小説サイトである。
「恋愛小説よ。学校を舞台にした作品。大人が読んでも面白くないよ、きっと」
「でも同年代には人気なんだろ?」
「そうね。かなりの売れっ子っぽい」
梨阿は言う。隠す気はなかったのか、隠しようがなかったのか、その口調には嫉妬が溢れている。
「あっ、そうだ、私もテフみたいなペンネームを考えないと。大野梨阿じゃ普通過ぎる」
8―6)
「カップル・コード」というスマホのアプリがあるらしい。
一言で言えば恋人同士で共有するSNSといったところで、画面の右側は彼氏の書きこむスペース、左側は彼女。
それは例えば異性愛者の場合は、ということであるが。どのようなカップルであろうが、とにかく一つのアプリを共有して、二人の思い出を書き上げていくというシステム。
そんな気恥しいアプリが流行るなんて驚きであるが、そういうものを受け入れることが出来る層がこの国には存在しているらしい。いや、それが青春を生きるということなのであろう。
塚本テフは学園を舞台にしたその小説で、「カップル・コード」を大々的に扱っている。
私は彼女の小説の最初の十数ページをさらりと読む。
その文章は散文というよりも、詩、つまりはポエムに近い。少し気恥しくなってしまう少女ポエム。
しかしそのポエムのセンスは悪くないように思う。クオリティは高く、濃度は濃い。
物語の内容も、ありふれたセンチメンタルな恋愛小説というわけでもない。
誰々は誰々のことが好きだとか、期末テストがどうとか、学園祭とか部活とか、そのような内容で、ページは尽くされているのかと思っていたが、そうではなさそうだ。
何やら、塚本テフは登場人物たちを描くよりも、そのアプリ「カップル・コード」を描くことに全力を傾注しているようである。
つまり、「カップル・コード」によるコミュニケーションのあり方というか、最新のテクノロジーによって変化した我々の人生の描写というか。
いはばこれはSFであり、文化人類学的読み物であり、それでいて青春恋愛小説的面白味もあって。
「興味深い。面白い小説だ」
「本当に? 私の親友だから、気を使っているとかなしに?」
「気を使うなら、イマイチだって言ったほうが君は喜ぶだろ?」
「そんなことないけど」
「まあね、この界隈の小説のことはよく知らない。今、こういうのが流行っていて、高校生作家たちが皆こんな感じばかりだったら、ただ上手いだけってことになるのだろうけど。でも感想欄を読む限り、そうでもなさそうだ。読者たちはこの小説が特別で、個性的だと讃えている」
「うん、変な小説」
「彼女が切り開いた新しい道だとすれば、凄いことだ。君がこの作家に勝つのは大変だよ。友達だって?」
「親友。学校ではこの子としか喋らないからね」
「それは君も焦るわけだ」
「別にテフに勝ちたいとか、悔しいとかじゃないんだけど。クラスメートたちは私たちを比べてくるし、母のせいで、学校では私も文学少女として通っているからね」
「どんな子だろうか?」
「テフもロキ先生のファンだって」
「お互いファン同士か」
「ここに連れて来ようか? 前からテフに頼まれてたしね。彼女は飛んで喜ぶよ」
私は返事を返さない。
是非、会いたいと言えば、梨阿は勿体つけてここに彼女を連れて来ないだろう。会いたくないと言ったら、それを真に受けて、やはり連れて来ない。何も答えないでおくと、私のテフに対する印象を図るために、彼女を連れてくるかもしれない。
いや、そんな心理的な駆け引きをしてまで、テフという少女に会いたいわけでもないのだけど。むしろテフと会って、その接し方を間違えると、梨阿との友情まで失ってしまうかもしれない。
しかし私の知らない心理的過程を経て、梨阿は即座に決断を下したようだ。スマホを取り出して、テフなる人物とコンタクトを図り出した。
「来るって」
やがて梨阿は言う。「駅まで迎えに行ってくる」
8―7)
「自分の小説を執筆しなければいけないという本来の義務から逃避して、教師を始めるんですか? しかもノーギャラで」
梨阿が部屋を出たあと、佐々木がデスクから声を掛けてくる。しばらくぶりに聞いた佐々木の声だ。
梨阿と私の会話に、途中から一切の興味をなくしたように沈黙していたのである。しかし私たちの会話をしっかりと盗み聞きしていたようだ。
しかも塚本テフって子の小説、面白いですねと付け足てくる。彼女も検索をして、すぐに目を通していたようだ。
「君は梨阿が嫌いみたいだね」
「向こうが私を嫌っているんです。好き嫌いが激しそうな子だから」
「梨阿にも同じ質問をしてみるよ。君は佐々木が嫌いみたいだねって」
「『向こうが私を嫌っているんです。好き嫌いが激しい人だから』って答えるんでしょうか?」
「さあね」
どうでもいい話題だ。そもそも、別に二人に仲良くしてもらいたいわけでもない。
「テフって子が来るらしい。彼女の友達で、一応、僕の読者だ。コーヒーくらいは用意してやってくれよ」
私は部屋が散らかってないか確かめながら、鏡の前に立って、自分の身だしなみもチェックする。
「お客様が来られたときにお茶を出すのは秘書の仕事でしょうか? 少しお時間を下さい。契約内容を確かめさせて頂きますから」
佐々木は面倒なことを言って私を責めてくる。いわゆるフェミニズム的文脈に則った文句というものか。それとも労働環境に関わる嫌味なのか。
しかし文句を言いながらも、彼女は台所に向かってくれる。
「気に入らなければ裁判でもしてくれ」
「わかりました」
いや、確かに佐々木の言う通りである。来客にコーヒーを出すことは別に秘書の仕事ではない。そっちの話題ではなくて、佐々木の言う通りなのは、自分の作品に向き合わず、梨阿に小説指南なんてしている場合なのかという指摘のほう。
これからしばらく、これに時間を取られるのかと思うと、うんざりしてくる。こんなことで丈夫なのかと自分が心配になる。
「まあ、だけどさ、人に何か教えるというのは有用なことだよね。小説執筆なんて曖昧な行為だと尚更。それによって、自分の中で方法論が確立されるからね」
私は自分に言い聞かせるように口に出す。
「何ですか?」
「教師だって、それなりに遣り甲斐があるってことさ」
「先生がそう思うのならば、それでいいのではないでしょうか」
技術的な方法論も重要であるが、執筆がどれだけ人生を豊かにするか、それも伝えたい。執筆は実人生にも大いなる影響を及ぼすものであること。
何やら人生論のような、あるいは自己啓発のような薫陶であるけど、私はその効果も信じてもいる。
ところで、梨阿たちはまだ帰ってこない。私はテフのことをよく知るために、更に塚本テフの小説を読み進めることにする。
読み切りの短編の集積だ。短編ごとに主人公たちの顔ぶれは変わり、その関係性も変わる。
「カップル・コード」というアプリがその魅力を発揮するのは、安定的な関係を築いているカップルよりも、不安定な、曖昧な関係のカップルのほうであろう。
付き合ってはいる。しかし本当に、相手は自分のことを愛してくれているのだろうか、それを示す確たるものが何もない、そんな時期の恋人たちの関係。そのときの「カップル・コード」でのやり取りはスリリングだ。テフという作家はそれを見事に描いていると思う。
こんな小説を書きあげた高校生はどのような人物か、関心を抱かざるを得ない。ちょうど、ドアの向こうにざわめきが近づいてくる気配がした。
8―8)
塚本テフは小柄な少女だった。銀縁の眼鏡をかけていて、手首は折れそうなくらいに細い。髪は茶色がかっていて少し癖毛、色白だけど、しかし不健康な感じはない。
というのも驚くほどに快活で、よく笑い、よく喋るのである。何か我々とは別の種族のよう、つまり、エルフとかそういう類の妖精ではないかと言いたくなるような。
「ロキ先生、本当に会いたかったんです。この子に会わせて欲しいと何度も頼んでいたんですけど。時期が来たらねって答えばかりで。はい? その時期が来るのいつ? って感じで。でもようやくラスボスを倒せたみたいです。ミッション突破」
早口だ。話すスピードは速い。私たちが無意識に留めているレベルの思いつきすらも言葉にして、会話のの中に挟み込んでくるのだろうか。私も佐々木もその勢いを前にして後ずさりしたくなる。
「塚本テフよ。やっぱり会わせるべきじゃなかったかな」
梨阿はいつもの温度の低い声で言う。
「どうしてよ、もうこれからは、こんな感じの焦らしプレーやめてよ、あっ、サインが欲しいです、先生。それを家宝にします。私が国だったら、国宝です。実は私の母も先生のファンなんです。父は多分、先生のことは知りませんけど、普通の会社員なんで。ありきたりな人で、決して夢を見ないんです。私、魚屋の娘に生まれたかったです、魚が本当に好きなんで。まあ、別に父親が魚屋だからって、先生の読者になるわけではないと思いますが。でも魚屋が父ならば、何でも許せるって言うか。魚が好きなんです。えーと、つまり何が言いたいかというと」
「次の小説の主役は魚にするとか」
「さ、採用です、先生、そのアイデア。ピクサーのあのアニメ観ました? 大好きな映画なんです。今度はここに母も今度連れてきても良いですか? って、良いわけないですよね、先生のサイン、スマホケースと、あと、母のためにもどこかに書いて欲しいです。今日、先生に会えることがわかってたら、家から先生の本を持ってきましたよ。あれ、スマホがない? 忘れたかも。学校かな、ヤバい、どうしよう、梨阿!」
テフがソファで暴れ始める。学校帰りなので制服姿である。彼女はやはり真面目なのかスカートの丈は長いほうであるが、腰を浮かして制服のブレザーのポケットをあさったり、ソファの横に置いたカバンに手を伸ばす。
「さっき、私と電話してたじゃない。あのときは学校を出てたでしょ?」
そんな彼女をたしなめるような視線を、梨阿は向ける。手も足も良く動くので、彼女のスカートの裾が乱れることは確かで、梨阿はそれに対して苛立っている。
「そうだっけ? じゃあ電車に落としたのかな。終わりだ。今頃、スマホだけ電車に乗って宝塚まで行っているかも。私たちが乗ってたのって宝塚線だったよね? 川西能勢口行きだっけ? どっちにしろ兵庫県。大阪から出て行った。あの中にはけっこう大事な情報が収められていたのに。これまでの私の思い出が。あ! あった、カバンの中にありました、奥のほうです」
「あったって?」
「ありました、でもこれ、本当に私のでしょうか? 実は入れ替わったとか? ないですね、私のでしょうね」
彼女の描く小説には、そそっかしい雰囲気はない。静謐というのは違うとしても、用心深い計算に満ちている。
まだ彼女の作品を少ししか読んではいないが、実際の彼女の空気感と、小説が醸し出す雰囲気が違うのは明らかだ。
それが小説の面白いところなのかもしれない。彼女は執筆するとき、少し違う自分になっているということなのだ。
8―9)
「先生、スマホを落としたことありますか?」
「どうだったかなあ」
「スマホを落としたことがある作家と、スマホを落としたことがない作家では、小説の内容も変わってくると思うんです。先生はないタイプだと思っていました」
「いや、あるよ」
「あれ、ありましたか」
「落としたことがあるけど、すぐに見つかった」
「なるほど、それで、ですね」
私はなぜ小説を書かずに、若い女性たちを前にしてこのような不毛な会話に興じているのだろうかと我に返る。本当ならパソコンの前で、新作の準備に取り掛かっているはずなのである。
しかし塚本テフは新しい刺激をもたらしてくれるかもしれない。それは梨阿の存在も同じだ。
いや、そのように考えなければやっていられない。私が欲しい刺激、それは次の作品のヒント。
「先生、私は先生の描く大阪が好きなんです。かなり好きだと言ってもいいかもしれません。私の小説の舞台は具体的にはどこでもなく、いえ、むしろ関東のどこかのフワッとした匿名の街で。普通のテレビのドラマとか映画とかが舞台にしている都市です。関東の小説家は、当たり前のように舞台をそこにしてますよね? 私も無意識にそっちに影響されていたわけです。でも次の小説は大阪を舞台に描きます。そして私の師匠はロキだとインタビューとかで答えます。スマホを落としても、大阪の人がそれを拾って、警察に届けたんですよね? 先生の大阪は、そんな大阪です」
「私のホラー小説の舞台、どうしようかな」
梨阿がその話題に乗ってくる。
「そうなんです、先生、この子も書くんです。止めて下さい、小説を書くのって苦しいですよね?」
「苦しくなったらすぐに辞めるから。でも苦しむ前に辞める気はない」
「この子、私をライバルだと思っているんです。何でも私に勝ちたいタイプなんです。そんなことをしたら普通は友情が壊れると思いませんか? 私は親友と競いたくない。これまでの文学史において兄弟とか姉妹で作家をやっている例ってほぼ皆無よ。梨阿、何でだと思う? それはまあ、いないわけじゃないと思うけど、ブロンテ姉妹とか、でも圧倒的に少数派なの。家族同士で争うのは避けてるわけよ」
「あなたと家族じゃないけど」
「家族よりも危うい関係よ、友達に過ぎない。だから尚更、競い合うのは危険だって思うのだけど」
「別にそういうのじゃない。私は私のペースでやるだけだから」
「私を負かす気です。でも負けないから」
「ロキ先生があんたの小説、そこそこ面白いって褒めてたよ」
「そこそこ、ですか? でも、ありがとうございます。その言葉、録音するんで、もう一度言って下さい」
「いや、かなり面白いって褒めたはずだ」
本当にスマホで私の言葉を録音しようとし始めたテフに呆れてしまうが、私は言う。
「え、どっちですか、でも私は前向きだから、『かなり面白い』って言われた時間線を選びます。では、これに向かってお願いします、どうぞ」
8―10)
作家塚本テフも次の作品に思い悩んでいるようだった。今、書いている作品のシリーズが一段落ついたあと、次は何を書くべきか、それが見えないというのだ。
あらゆる作家が突き当たる壁であろう。彼女にアドバイス出来ることなんてない。私なんてその悩みを、テフが悩んでいるよりも長期に渡り、悩んでいるのだ。
「次に書きたいことは何もないのかい?」
しかし私は何かアドバイスめいたことをするために、そのようなことを尋ねる。
「あります、幾つかあるんです。でもこれだっていうのがないわけでして、先生、私はどうすればいいんでしょうか?」
あんたの悩み相談コーナーじゃないんだけど。そんな視線を梨阿が送るが、私はその相談コーナーに乗る。
「わからない。僕も次の作品に悩んでいる。しかし悩んでいる時間があるのならば、とにかく何かを書くしかないんだよね」
「ああ、なるほど、さすが先生です、蒙が開きました。つまり、悩むな、書け、ってこっとですね」
テフは私の声を録音しているようであるが、更にノートにメモまで始めた。過剰な態度である。生徒役を必要以上に勤めようとしている。馬鹿にしているのかもしれない。しかし何かコミカルで、嫌みな感じはない。
「そうだね、悩むな、書け」
しかしその言葉から最も遠いところにいるのが、今の私だ。こんなことを言える立場なのだろうか。そう思いながらも更に続ける。
「捨てるつもりで書け、どうせ捨てるんだから。そんなことを言ってた作家がいたはずだ」
「おお、それは大胆ですね。書いたのに捨てるなんて」
「ああ、捨てるために書けばいいんだ。何も書かないよりも、ずっといい」
こんなこと、これまで考えたことなかった。これは書くに値する企画だと、心の底から思えたときに書き始めていた。悩みながら書くスタイルは自分のものではない。
書きたいと絶対的に確信出来た企画。それに出会ったとき、私は満を持してその仕事に取り掛かり始めていたのだ。
いや、本当にそうだったろうか?
今までだって、これでいいのだろうかと半信半疑の中、とりあえず書き始めていたのかもしれない。
結果的に捨てることになってしまうのではないのか、そんな恐怖を感じながらも仕事を進めていたはず。実際、捨てた文章は数知れない。
作品が順調に進み始めたら、最初に感じていた半信半疑の気分をすっかり忘れてしまうだけなのだ。
ましてや完成したとなると、まるでその作品を書くことがそもそも自分の運命でもあったような錯覚に囚われてしまう。本来はそんなことは絶対になかったはずなのに。
「わかりました、捨てるために書きます!」
テフが元気な声で言う。私も同じ気分だった。とにかく何か書き始めよう。捨てるために。
私は梨阿の小説の教師を務めることになったが、いったい何を教えればいいのか思いつかなかった。小説のルール、決まり事、人称の問題、ドラマの作り方がどうとか、そのようなことを教えることになるのだろうかと漠然と思っていた。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。今、はっきりとわかった気がする。
とにかく書くこと。書くことで得ることが出来るカタルシス。彼女に教えたいことはそれに尽きる。
書くことは素晴らしい。書けば、自分が変わる。その小説が誰かの心に届かなくても、自分自身は成長する。
痩せる。美しくなる。恋人が出来る。頭が良くなる。胡散臭いパワーストーンのような効果を発揮することはないかもしれないが、しかし何かしらポジティブな出来事が自分の世界に巻き起こるはず。少なくとも私はそうだった。
8―11)
梨阿とテフは、騒めきと共に去った。しかし後日、この事務所にまた来るという予告を残して。しかも二人で。
梨阿は自分一人が生徒になることに、遠慮があるのかもしれない。それとも私と二人きりでは会いたくないのだろうか。
いや、それならば私に教えを乞うことはないはずだ。彼女は私のことを嫌ってはいないと思う。
むしろ梨阿は、私に対して恋心を抱いているのではないか、そんな自惚れを感じてしまうこともある。だから、こうして私との時間を作ろうとしているのだ。
おいおい、お前は何て自意識過剰なのだ。そう笑われるかもしれない。
思えば子供のときから、私はこのようなことばかりを考えて生きていた気がする。もしかしたら、この人は自分のことが好きなのではないのかと。
自惚れに酔いながら、警戒を抱きながら、誰に接しても、そのように考えてしまうのだ。それは女性だけではなくて、男性に対してもそうである。あらゆる人たちが、私に恋をしている世界。
いや、それは別に私だけが病んでいる問題ではないだろう。多くの人間が、人と接するときに病む過剰な自意識なのではないか。
人は皆、多かれ少なかれ、自分に対して興味を寄せてくる者に対し、誤解をしてしまう。もしかしてこの人は私のことが好きではないのかと。
当然、その逆もある。こうやって熱心にコミュニケーションを取ろうとする自分は、恋心を抱いていると誤解を与えてしまうのではないのか。その誤解を恐れて、積極的な自分にストップをかける。
むしろ、このようなことを考えないほうが少数派に違いない。つまり、この類の自意識に囚われない人だけが、積極的に人と関わることが出来るということ。
もちろんのこと、「もしかしたら好きではないか?」と思ってしまう病を患う者はその一方、「もしかしたら嫌われているのではないか」と誰に対しても不安に思うという病も併発しているだろう。
それはコインの裏と表。我々はその両極端を行ったり来たりしているのだ。
「恋愛が終わった世界」とやらを描いている小説家の私は、常日頃からそのようなことを考えていた。むしろそんなことに囚われているからこそ、こんな作品を書くことになったのか。
さて、そういうわけで、梨阿が私に惚れているかもしれない、私はそんなことを考えてしまっている。自意識過剰だと思いながらも、それを拭い去ることも出来ない。
彼女は大野さんの娘だ。恋愛の相手にはならない。大野さんがそのようなことを許すはずがないではないか。年齢だって離れている。ありえない未来だ。私が彼女に対して、積極なモーションを掛けることはない。
とはいえ、彼女の存在は邪魔ではないし、小説を書くとはどういうことか、それについて教えるのも嫌ではない。梨阿という生徒がいるからこそ、改めてそのようなことを考えるモチベーションになっている。
この先どれくらい続くかわからないが、私も梨阿も、いくらかの気まずさを覚えながら、この事務所で逢い、同じ時間を過ごすだろう。それでいい。
「随分と静かになったな」
「そうですね」
さて、孫が帰っていったあとの老夫婦のような会話を、私と佐々木は交わす。
佐々木がテーブルの上のコーヒーを片付けている。これも秘書の仕事ですかと言われそうなので、私も後片付けを手伝う。
白いブラウスに紺色のロングスカート。胸の膨らみは、黒のカーデガンが隠している。アクセサリーの類は何一つつけていない。化粧はしているが薄く、香水の香りもないに等しい。佐々木は空気のように透明だ。
佐々木も私に恋をしているに違いない。
当然、私はそんな自意識に駆られている。そしてきっと、佐々木もそう思っているに違いない。先生は私のことが好きだと。
シャイで、非社交的な佐々木も、私と同じ自意識を病んでいる人種。佐々木といると、微妙に気まずい雰囲気になるのはそのせいか。