13)占星術探偵「架空の文学評論の本」
文字数 11,597文字
13ー1)
占星術探偵シリーズの作者である私だけども、占星術の信奉者ではない。理解者ですらないだろう。
占星術や運命などについて突き詰めて考えると、私の頭は限界に達して、この作品を書き続ける意欲を失ってしまいそうになる。
そもそも占星術も運命も、科学に接続しないものだ。最も重要なところで非科学のほうへ飛躍してしまっている。
占星術と真っ向から向き合おうとすれば、その「飛躍」を前に困惑するのは必至。
この小説の趣旨は占星術とは何かを描くことではないのだけど、だからと言って、それを適当に扱うわけにもいかない。
まがりなりにも主人公は占星術探偵と名乗っているのだ。それなりのリアリティも重要である。何より、占星術という知へのリスペクトが。
それが欠ければ終わりだ。こんなものはオカルトに過ぎないと軽侮しながら書き続けることなんて絶対に出来ないということ。
占星術とはどのようなものなのか、自分なりに考えながら書いているつもりであるが、果たしてそれは何なのだろうか。
わからないという回答しか発することは出来ない。いったいどのようにして惑星が人間の性格や行動に影響を与えるというのか。
私にはまるでわからないのだけど、しかし一つだけ確実なことは、占星術探偵自身はそれを信じているということ。
彼は何の迷いも戸惑いもなく、星と共に生きている。いずれ星たちが何らかの真理をもたらしてくれると信じている。
飴野は本気である。飴野の占星術の心酔者である岩神美々も、本気だ。飴野の友人の占星術師の先輩のマーガレットも同様である。
彼らが占星術の運命論について会話を交わすとき、軽蔑も冷笑も疑念もない。真実について話すときの熱量で話しをしている。
というわけで、またもや私は自作の読み返し作業をまたもや始めたのである。百合夫君と別れ、一人で心斎橋にまで買い物に出かけ、そのミッションも無事に終え、自宅に帰る電車の中。作品はネットにアップされているから、スマホでも何でも気軽に読める。
ストーカー行為を働いている、とある男について占って欲しいと、岩神美々が飴野の事務所を訪れたシーン、その続きである。
先の章において、岩神美々という登場人物がどれだけ占星術の魔力に取り憑かれているのか説明した。
彼女は刑事であるにもかかわらず、そのオカルトに頼り、捜査にまで使用している。
その事実に大変な後ろ暗さを感じながらも、彼女はそれを止めることが出来ない。同僚たちに隠れ、コソコソと占星術師と密会しては、大阪府警だけが手に入れることが出来る捜査情報を探偵に横流ししている。それと引き換えに占星術の助けを借りている。
占星術探偵とこの刑事の関係をこのようにまとめると、何か大変に反社会的な印象を与えてしまうが、二人は決して悪を為している気などない。
占星術の魔力を捜査に活用しているが、それは私利私欲のためではなくて、あくまで刑事としての仕事を熱心の追求するあまりのこと。
実際、占星術の力が捜査に役立っているのである。たくさんの大阪府民がそれに助けられている、という理解。この占星術師との協力関係は出来るだけ永く続けられるべきである、岩神美々という大阪府警の刑事はそう確信している。
「でも残念だわ、飴野探偵。今のところ、あなたの仕事に役立つような情報を我々は持ち合わせていない」
というわけであるから、美々は申し訳なさそうにその言葉を口にする。
彼女は大変義理堅く、生真面目なタイプである。ストーカー事件の協力をしてもらっている。それなのに飴野が取り掛かっている事件について、彼女から何も有益な情報提供を出来そうにない。
その事実に素直に心を痛めているし、飴野の役に立つことが出来なくなれば、占星術師からの協力を得ることも難しくなる可能性がある。それを恐れてもいる。
「そうか、残念だね」
「若菜真大という男性ね、明日、署で彼のことを探ってみる」
「そうして貰えると有り難いね。意外と僕はこの事件に苦労するかもしれない」
13―2)
今のところ、何も協力出来そうにないと言いながらも、いや、そうであるからこそ、岩神美々は飴野に対して親身な態度を見せる。
その事件についての相談に積極的に応じて、自分の考えをいくつか披露してみる。
「その女が婚約者を殺めた。でも死体は見つかってないわけでしょ? 女性一人で、そんな完全犯罪が可能なのか」
「まあ、決して不可能ではないだろうけども」
「例えば共犯者がいたなんて可能性は?」
「共犯者か。どうだろうか、いや、その可能性はあるね」
飴野は美々の会話を交わしながら、ホロスコープを眺めている。
「佐倉には心を許せる親友がいたに違いない。11ハウスと12ハウスの充実がそれを現わしているはずだ。でもその人物がこの事件に関係しているかどうかはわからない。いや、それもホロスコープが教えてくれる」
ネイタルのホロスコープと、トランジットのホロスコープを重ねて作る「二重円」と呼ばれる便利なものが存在する、らしい。
それを使うと、ある時期の天体の動きが、その人物にどのような影響を与えていたのか見て取ることが出来る、という。
マウスの左をクリックするごとに、現在時の二重円は一か月ごとに過去を遡っていく。彼女の生まれた日、ネイタルとトランジットが完全に重なる0歳まで、飴野はカチカチとマウスをクリックし続ける。
ホロスコープも二重円も、抽象的な図である。記号と線だけで出来た、きわめて空疎な図象。
占星術の修練を積んだ者だけが、そこに渦巻く激しいドラマを読み取ることが出来る。その知識のない者には、建物の設計図かクラシック音楽のスコアと同じくらい、無味乾燥なもの。
美々も千咲もそれなりの知識はあるが、飴野とはレベルが違う。彼と同じスピードでは読み取ることなど出来ない。二人はあっという間に置いていかれる。
ところで、ホロスコープというものは、それなりに面倒な計算をしなければ作成することは出来ない。
西暦何年何月何日、大阪のとある場所の水星の位置を正確に割り出すのは簡単ではない。分厚い資料を横目にしながら、複雑で長い数式を説く必要があるはずなのだ。
しかしどんなに煩雑な手続きが必要であったとしても、パーソナルコンピューターなる現代が生んだ機械が、すぐにそれを計算してくれる。それどころか、わかりやすい図に変換してくれるたりもするのである。その図がホロスコープ。
高度な占星術が大衆化されるのに、PCやスマホの普及がどれだけ寄与しただろうか。
そんなものがなかった時代、それはほんの十数年前のことであるが、全ての計算は手作業で行われていた。今となれば、気が遠くなる作業。
さて、飴野は口を開く。
「君の言う通り、別の誰かが、この事件に何らかの形で関わっている可能性はがあるね。事件前、彼女は何者かと、かつてないほどに親密感を増したことを星は教えてくれている。失踪した婚約者とは別の誰か、11ハウスと12ハウスが象徴する何者かだ。つまり、友人と言えるような人物」
ほら、この星たちがそれを現わしている。飴野はモニターに映ったホロスコープを指差す。
「しかし共犯者というよりも、相談相手といったほうが正確かもしれないな。何らかの事情を知っているかもしれないが、その親友が法を犯したなんてことはないだろう」
「女性? それとも男性?」
「それはわからない。性別の如何はホロスコープが絶対に教えてくれないことの一つだ。だけど同級生のような存在だろうか。極めて対等な相手に違いない」
「一人、それとも複数人?」
「それも振れ幅がある。一人、多くても二人」
「絶対にその人物を突き止めるべきよ。それは占星術とか関係なく、捜査の常套手段だから」
13―3)
探偵飴野は岩神美々に指摘され、改めてホロスコープを見直し、あることに気づいた。佐倉に共犯者と呼べるような何者かがいた可能性。
その何者かは彼女の親友の存在で、その事件についても何らかの形で関係しているに違いない。
その何者かを探し出すことが、探偵飴野が次に取るべき行動となるだろう。
とはいえ、重要な情報を持っているかもしれないその親友を見つけるため、探偵飴野は佐倉を尾行したり、電話を盗聴したりするわけではない。
占星術探偵の捜査の方法は当然、そういうときであっても占星術を使うであろう。
彼女の学生時代の全ての同級生たちの名簿のようなものを手に入れて、一人ずつホロスコープを作り、この中の誰が親友的な存在なのか推測する。
このやり方で彼女の唯一無二の親友が誰なのかズバリと的中させる、この小説はそのようなミステリーである、もしくはアンチミステリー。
そういうわけで探偵飴野は占星術でその親友を割り出すことになるのだけど、それはもう少し先の展開。
まだ事務所で飴野と岩神美々のやり取りは続いている。
実はこれからの会話こそ、美々をこのシーンに登場させた目的であったのだが、前振りが少し長過ぎた。
ようやくその場面に到着だ。岩神美々という重要人物の登場シーンであるからこそ仕方はないが、それにしても彼女の紹介に時間を費やし過ぎた気がする。
「君に見てもらいたい映像がある。失踪者若菜氏の本棚なのだけど」
そろそろ帰り支度を始めていた美々を引き留めるように、飴野は言うのであった。
PCのディスプレイには、先程まで千咲と共に観ていた例の動画が残っていた。若菜の部屋の様子を撮影した動画だ。それは本棚を大写しのまま一時停止で止まっている。飴野はその動画を再生する。
今のところ、飴野が捜査で持ち返ってきた唯一の収穫である。佐倉の部屋を訪れ、若菜真大の部屋を撮影した短い動画。
たくさんの本が並んでいる本棚は、若菜という男性のパーソナリティーを知ることの出来る手掛かりが秘めているはずだ。実際、飴野はそれを丹念に調べもしていた。
もしかしたら美々から何か情報を得られるかもしれないと、彼はその動画を岩神美々に見せることにする。
「本棚が何か重要だとでも?」
「さあね」
背表紙に書かれた題名を、しっかり確認することの出来るサイズ。ピントも合っている。カメラはゆっくりと、左から右へ、上から下へ順番に本棚を捉えていく。
「さっきも話題に出した例の冥王星がもたらした自己変革の件。そこには水星も関わっている。そしてその変革は9室を舞台としているということもあり、素直に解釈すると何らかの手がかりが本棚に秘められていると読めなくもなくて」
「失踪した男性は、けっこう几帳面なタイプね」
美々は真剣な眼差しでその動画を見つめてくれている。
「どんな本を読んでいるかよりも、そういう部分に興味を持つのが刑事か」
「そんなこともないけれど。でも本の高さが合うように並べている」
「職業はデザイナーさ。美には敏感なんだ。いや、美というより秩序に敏感なのだろうか。だけど世の中のデザイナーの部屋がこんなふうに整っているのか知らないが」
この動画の最後のほう、体調の悪かった佐倉が倒れて、飴野が抱き救うという場面も写されている。カメラを手に持っているのは飴野自身であるから、その様子は不明瞭であるが、しかしだからこそ、その二人の男女の間で何が起きたのかと妙な想像を起こさせる。
千咲を嫉妬させた場面である。美々にもそれを見せて、その反応を伺おうというのか、だとすれば飴野は随分な男である。
しかし彼はそのようなタイプではない。むしろ彼はそういうことに無頓着な男なのだ。それよりも捜査。事件解決が重要。
その場面に辿り着く前、美々が声を上げた。
「あっ、あの本」
13―4)
若菜真大は日常をそのままにして立ち消えた。
彼が意味ありげに残していったものなど何もない。空っぽになったタンスや引き出しなども見当たらないようだ。謎のメモのなどもっての外。壁や床に血の飛び散った気配、浴室で死体が解体された跡も存在しない。
若菜は普段通りに財布と携帯電話と鞄を持ち、出勤して、そこから消息を絶った。
いや、警察がそう判断したように、明らかに自らの意思で家を出たのは間違いないのだろう。
スーツケースはなくなっている。そこに着替えや私物を入れられるだけ入れて出ていったようである。
何の準備も用意もなく消え失せたわけではない。現金もカードも通帳も持ち出されている。計画的な失踪なのだ。
つまり、全てがあり来たり。成人した男性が恋人とともに住んでいた家を出ただけである。
確かに若菜真大は社会からも消え失せたことは事実なのだけど、それは非日常な出来事であると思うのだけど、そうであってもミステリー作品の最初の1ページ目として弱過ぎはしないだろうか。
作者である私はこの場面にそれなりに大きな謎を設えておくことが必要だったのではなかろうか。
事件をほのめかすような謎のメッセージ、殺人の痕跡、犯罪を誤魔化すためのトリックの名残り。何かおかしいもの、本来ならばここにあるはずのない物があったり、あるいは逆になかったり。
ミステリー小説というのは、何かが起きた痕跡のシーンを起点にして、最後の解決のカタルシスまで突き進んでいくジャンルであろう。その極めて特別な始点を、もっと派手に飾る必要があったのではないだろうか。
いや、この小説にだってそういうものがないわけでもない。
占星術探偵シリーズ第一作目、そのミステリーの起点を作るのは飴野が見たホロスコープの配置である。
我らが探偵が依頼人佐倉彩から生年月日を尋ねて、ホロスコープを作り、即座に判断を下した結論。失踪者若菜は殺されたのではないだろうか、目の前のこの女性に、という推測。その解釈こそ、ミステリーの始まりの合図。
佐倉の態度に怪しいところはない。若菜の残した部屋にも何ら異常な気配は見当たらない。しかし佐倉と若菜のホロスコープに殺人の気配、二人の間にある嫉妬、怒り、悲しみを読み取った。
ホロスコープのサインなど、現実とは何ら関係のないものだ。それを啓示だと考える者は占星術師だけ。
しかしそれは現場に残るちょっとした違和感を名探偵だけが見い出して、そこから事件性を感じ取るのと同義なのである。
占星術の独断を起点にして、占星術探偵の捜査は開始される。その推理に基づいた歪んだ世界で、探偵飴野は迷い翻弄され、無駄な遠回りをしながら、それなりの真実に到達する。それが占星術探偵シリーズの一つのパターン。
占星術探偵の推理の独自性を強調すればこういうことになるが、とはいえ、この探偵が物証を軽視することだってない。いや、物証を見つけるための手段が占星術である。
さて、初めてその物証のようなものが発見されるシーンが来たわけだ。それは岩神美々の手助けによって起こる。
13―5)
「あっ、あの本」
岩神美々がそう声を上げた。若菜の本棚を撮影した動画を見せたとしても、彼女から何か情報が得られるなんて期待も想定もしていなかった飴野は、少し驚いた表情で美々のほうを見る。
「少し戻して。上の棚の」
「どれ、これ?」
「そう、それ」
「文学とアナルオーガズム」という単行本だった。刑事のくせに恥ずかしがって、彼女はその題名を口に出さない。いや、刑事であることと、何かを恥ずかしがることは何の関連もないだろうが。
隣で見ていた千咲もこの題名を読み、「はあ? 何ちゅう題名や」という小さな悲鳴を上げる。
「この本は今、別の部署が密かに注視しているところで。色々と悪い噂が聞こえている、いわくありの自己啓発セミナーが発行元で」
「それは知らなかった」
ようやくこの小説の主人公の我が探偵は例の教団に遭遇する。いや、あらすじを説明していると長く感じるだけで、実際の私の作品はもっとテンポよく展開しているはずであるが。
「小島獅子央?」
飴野は画面に目を凝らして、その本の著者の名前を読み上げる。
「そう、こじまししお」
「他にも小島作の本が数冊並んでいるね。ただ単に所有しているだけではなさそうだ。それなりに彼はこの教団に入れ込んでいた可能性があるのかもしれない」
「ベストセラーってわけでもない本よ」
「とはいえ、彼は文学好きの読者家だ。この本棚に並んでいても、そこまで違和感はないとも言える」
「まあ、そうね。一般の本屋でも手に入る本だし」
「で、この教団のトラブルって?」
「簡単に脱退しにくいっていう有り勝ちなトラブルなんだけど」
「彼がそのトラブルに巻き込まれたって可能性もあるわけか」
「それともう一つ、最近、その教団の施設の中で自殺者が出たそうで。別に事件性はないようなんだけど」
「その身元は?」
「ちゃんと判明していたはずよ」
「ということは若菜氏ではないね。出来ればその自殺者の詳しい情報が欲しいのだけど」
飴野は即座にネットでニュースの検索をしてみるが、その事件について何もヒットしてこない。
「自殺者の身元ね。まあ、その程度なら何とかなるでしょう」
「ありがとう、まず僕はその教団を探ってみるよ」
飴野はその情報にちょっとした手応えを受ける。ホロスコープが示した象徴に適合する現実と出会ったという感触である。
「新興宗教のカルト教団なのかい?」
「自己啓発セミナーのはずよ。教団を自称しているけれど、仏教系でもキリスト教系でもない」
自己啓発のセミナー、それはまさに冥王星的な何か、占星術探偵はそのように考える。
「若菜真大の人生を大きく動かした何かは、この教団なのかもしれない」
「本当? さっきのお返しが出来て良かった」
美々は自分の情報が彼の捜査に役に立ったことを素直に喜んでくれている。
13―6)
自分で言うのもなんだけど、カルト教団を題材にしたミステリー小説、これほど魅力のない作品があるだろうか。
手垢のついた題材ではないか。多くの作家が手掛けてきたテーマである。もはや新鮮味の欠片もない。
この国では、実際にカルト教団が大きな事件を起こしたりもした。拵え物では現実に勝てない。その現実に比べられ、私の小説の卑小さを笑われるのがオチだ。
それでもカルト教団を書くことにしたのは、ただ単に私がそういうことに無自覚だったからかもしれないし、それなりに新しいことが書けるという勘違いが原因だったかもしれない。
そもそも、「カルト教団について書きたい」というモチベーションが、私にこの作品を書かせたわけではない。
それは副産物のようなものでしかなくて、本当に書きたいことは違うところにあった。
この作品の企画を進めているうちに、カルト教団が浮上してきて、それを描写せざるを得なくなったというのが正しいところであろうか。
というわけで、、アルファオーガズム教団である。
その教団の謎が、若菜氏失踪事件の謎とほとんどそのまま重なるのであるから、この物語にとって最重要な組織。
私はカルト教団と連呼してきたが、この組織をそのように定義していいのか知らない。正しくは自己啓発セミナーであろう。
その組織を立ち上げたカリスマが神格化され始めて、カルト教団の様相を呈してきたのだ。
どっちにしろカルト教団もセミナーも、私たち素人から見れば同じようなものだ。閉鎖的で秘密主義的で、最悪の場合、外部に対して攻撃的で、信者たちは言葉巧みに騙されていて、無限に搾取されている愚か者たちばかりで。
伝統的な宗教と関係してはいなくても、彼らは超越的な何かを信じている。例えば宇宙とか超能力とかを。つまり、とても怪しい組織。
とはいえ、占星術を駆使して捜査を行う探偵と、その占星術に心酔している刑事に、「怪しい組織」と呼ばれたくもないであろう。飴野も美々も充分に怪しくて異常である。
「このセミナーの特色は? つまり、どんなことを教えているんだろうか」
飴野は何気なく美々に尋ねる。
「さ、さあ、私もよくわかんないけど。ネットで調べてみれば? それなりに様々な風評が流れているようだし」
「ああ、なるほど、この本で描かれているようなことを実践しているわけか」
美々の反応を見て、彼は勘づくが、即座にネットでも調べ始めている。
「文学とアナルオーガズム」という書物が、小島獅子央の原点であり代表作。その作品に彼の思想の全てがある、らしい。これ以外の著作も存在しているが、それらはその代表作の焼き直しに過ぎないという。
若菜氏の本棚には、小島獅子央の書いたそれ以外の著作も並んでいる。「自己変革の法」「生まれ変わるために」「あなたはまだ、全ての能力を発揮してはいない」「密教秘密の修行法」などなど、極めてあり来たりな自己啓発的フレーズを題した本。「文学とアナルオーガズム」というセンセーショナルな作品は、それらに紛れて並んでいる。
「本当にこの教団について、私は全然知らないのよ。とにかく日本全国に組織があって、会員数は増加の傾向にあって。会員は男性だけで。そこがポイントなんでしょうね。自分の恋人がこんな組織に関わっていると知れば、ケンカや口論になっても不思議じゃない。別れる原因にもなるに十分」
「つまり、このセミナーに通っていたことが、婚約者佐倉の怒りに火をつけた。そして別れ話がこじれて、殺人、か」
「その推理、筋は通っているかもしれない」
「占星術的にも矛盾しない。彼女はこの事実に怒り、彼を殺めた。それとも直接手を下すことはなくても、その事実を知った彼女は彼を詰り、追い詰めたのかもしれない」
11―7)
若菜真大はそのいかがわしいセミナーの会員であった。婚約者の佐倉はそれを知り、二人の間に諍いが生じた。
そして何か血生臭い事件が起きた。
具体的証拠の欠片もない。ただ見知った事実をつなげただけの推理である。しかし占星術で思い描いた判断にも通じる。
飴野は真相に辿り着いた気がする。美々も非常に満足そうな表情をしている。彼女の提供した情報で、一気に捜査が進んだのだから。
もちろん、その推理が呆気なく破綻していくのがミステリー小説の展開というものであろう。
登場人物や読者が何となく想定していた世界と、徐々に違う様相を見せ始めること、探偵も読者も、次々と明らかになる真実に翻弄される、それを楽しむジャンル。
「まず、その失踪者がこの教団と関わっていたことを証明しなければいけない。そして次に、彼女がその事実を知っていたという事実の証明。動機はこれで説明出来るはずだ。次は手段。どうやって彼を殺し、この世界から跡形もなく消し去ったのか。これは難しいだろうね。再びホロスコープを分析する必要があるだろう。だけど、こちらが真相に近づいていけば、彼女から何かを語り出してくれるかもしれない。容疑者とはそういうものだろ?」
「でも彼女は容疑者であるけれど、依頼人でもあるわけでしょ。そこはどうなの? 自分でやった犯罪を、自分で依頼するなんて」
「容疑者が捜査の状況を知りたくなるのは不思議ではないはずだ。自分の犯行がいつ発覚してしまうか不安で仕方がないから、それに立ち会っていたいわけだ」
依頼人が犯人であったミステリー作品は、これまで数多く生み出されてきたはずだ。つまり、依頼人が容疑者であっても、読者は不満を感じることはない。それは同時に、驚きもないということであるが。
「その一方、全てを誰かに話してしまいたいという衝動も抱えていると思う。誰かに話して楽になりたい。罪をわかち合いたい。しかしその相手は、警察や司法ではないのかもしれない。だから場合によっては、もし彼女が犯人であったとしても、僕は警察に引き渡す気はない」
「殺人者を見過ごすの?」
美々は言った。
「そういうことになるね」
探偵は法の外にいる、わけではないが、法律に縛らているわけでもない。
「それは困る・・・。だから、この言葉、聞かなかったことにするけど」
「ああ、そうしてくれ」
「でも本当にそれでいいの?」
いいとも悪いとも返事をしない。飴野も迷いの中にいる。というよりも、全ては成り行き次第という気持ち。
罪とは何か、正義とは何か、もはや二人は議論など交わしはしない。この話題については何も踏み込むことなく、飴野と美々は別れた。
和やかに、またすぐに会うことを約束して。当然である、彼女は探偵の仕事を助けてくれる大切なパートナーであるから。
岩神美々と一緒に、飴野の助手の千咲も出ていった。
「お腹空いた、もう私、死ぬ寸前やねんけど。美々さんは平気なん?」「私もペコペコよ」「うそ? 全然、そういうふうに見えへんわ」などと会話を交わしながら、「ほんなら、またね」と千咲は飴野に手を振る。
ようやく岩神美々の最初の登場シーンは終わりである。飴野は事務所に一人になった。
この辺りで飴野も眠りにつき、次の日の朝を迎えて、気分を一新させたいところなのだけど、もう少し同じ夜が続く。
13―8)
そのような経緯を経て、飴野はアルファオーガズム教団なるものの存在を知ることになった。この組織を調べ、その組織と対峙して、この組織と交渉したりする。この先、飴野の捜査はその作業に費やされるだろう。
アルファオーガズム教団、略してアルファ教団という組織がこの失踪事件の大きな鍵を握っている。
そうであるのだから、飴野がこの組織のことを知ることになる過程、それをどのようなシーンとして描くか、作家のセンスを問われる部分であったろうと思う。特にミステリー作家としての腕前が。
さりげなく、しかしそれなりに印象的に。
果たして私のその仕事は正解であったのか、読み返しながら、いや、これを書いているときからずっと自問自答していた。
教団が何らかのトラブルを抱えているということを、予感させてはいけなかったのではないだろうか。つまり、刑事である美々の口からアルファ教団の存在を知るという展開が、物語の面白さを損なってしまう可能性。
それでは警察がマークするほどの怪しい組織という印象を読者に与えてしまうことになるだろう。
犯人は佐倉だ、というミスリードをしていたかったのに、あっさりと違う可能性を提示してしまった気がするのだ。
そんな反省や後悔など、読者は知りたくもないであろうが。しかし自作を読み返せば、そういう類のことばかりを思い出すものである。
アルファ教団は公序良俗に反する組織である。性的な意味において非常にアブノーマルで、デンジャラスで、不気味な組織。
しかし、実際のところ、それだけの組織である。
その事実もこれからの展開でのちのち明らかになっていくことであるが、また先回りして言及しておくと、この教団は別に外の世界に対して攻撃的ではない。
何か大いなる目標を掲げる組織でもない。世の中を変えたりとか、革命を志したりとか、そのような野望など皆無。
いわば規模の大きな秘密クラブといった程度。暴力的なこととは無縁の組織。これがアルファ教団の実態である。
いや、確かに男と女の関係を切り裂くことはあるだろう。そこに足を踏み入れてしまった男たちは、女に背を向けて独りで生き始めるのであるから。
何せ目指されるのはアナルオーガズム体得。それを約束して会員を集めているわけである。アルファ教団は全ての女性の敵。
その事実を前に飴野は思ったわけだ。「婚約者がこんな組織に関わっていたのだ。佐倉が彼に殺意を抱くのも仕方がない。やはり犯人は彼女であったか」と。
それと同時に若菜という男性についての彼の印象も決された。
その男はアルファ教団という自己啓発セミナーに救いを求めた人物。若菜は佐倉との関係にも悩んでいた。彼は一種の不能者であったに違いないという推測。
飴野は若菜という男を大変に侮っているかもしれない。それはホロスコープを見てすぐに。
そして今、彼がアルファ教団の会員ではないかという可能性が浮上して更に。
弱い男に違いない。そのような誤解の中に陥ったのだ。
しかしそれは間違い。捜査をしていくうちに、若菜真大はそのような人物ではなかったことが明らかになる。
彼が想像もしていなかった事実に突き当たることになるわけだ。それこそミステリーというジャンルの一つのパターン。
しかし若菜真大という男性の正体。最初の占星術では読み取ることの出来なかった具体的事実を、探偵飴野が知るのはまだもう少し先。
そこに行きつくには、幾つもの列車を乗り換え、運河を舟で進み、気が遠くなるくらいに街を歩き回る必要があるだろう。
そのとき彼の頬を死がかすめたり、誰かの唇がかすめたり、鳥の翼がかすめたり。
占星術探偵シリーズの作者である私だけども、占星術の信奉者ではない。理解者ですらないだろう。
占星術や運命などについて突き詰めて考えると、私の頭は限界に達して、この作品を書き続ける意欲を失ってしまいそうになる。
そもそも占星術も運命も、科学に接続しないものだ。最も重要なところで非科学のほうへ飛躍してしまっている。
占星術と真っ向から向き合おうとすれば、その「飛躍」を前に困惑するのは必至。
この小説の趣旨は占星術とは何かを描くことではないのだけど、だからと言って、それを適当に扱うわけにもいかない。
まがりなりにも主人公は占星術探偵と名乗っているのだ。それなりのリアリティも重要である。何より、占星術という知へのリスペクトが。
それが欠ければ終わりだ。こんなものはオカルトに過ぎないと軽侮しながら書き続けることなんて絶対に出来ないということ。
占星術とはどのようなものなのか、自分なりに考えながら書いているつもりであるが、果たしてそれは何なのだろうか。
わからないという回答しか発することは出来ない。いったいどのようにして惑星が人間の性格や行動に影響を与えるというのか。
私にはまるでわからないのだけど、しかし一つだけ確実なことは、占星術探偵自身はそれを信じているということ。
彼は何の迷いも戸惑いもなく、星と共に生きている。いずれ星たちが何らかの真理をもたらしてくれると信じている。
飴野は本気である。飴野の占星術の心酔者である岩神美々も、本気だ。飴野の友人の占星術師の先輩のマーガレットも同様である。
彼らが占星術の運命論について会話を交わすとき、軽蔑も冷笑も疑念もない。真実について話すときの熱量で話しをしている。
というわけで、またもや私は自作の読み返し作業をまたもや始めたのである。百合夫君と別れ、一人で心斎橋にまで買い物に出かけ、そのミッションも無事に終え、自宅に帰る電車の中。作品はネットにアップされているから、スマホでも何でも気軽に読める。
ストーカー行為を働いている、とある男について占って欲しいと、岩神美々が飴野の事務所を訪れたシーン、その続きである。
先の章において、岩神美々という登場人物がどれだけ占星術の魔力に取り憑かれているのか説明した。
彼女は刑事であるにもかかわらず、そのオカルトに頼り、捜査にまで使用している。
その事実に大変な後ろ暗さを感じながらも、彼女はそれを止めることが出来ない。同僚たちに隠れ、コソコソと占星術師と密会しては、大阪府警だけが手に入れることが出来る捜査情報を探偵に横流ししている。それと引き換えに占星術の助けを借りている。
占星術探偵とこの刑事の関係をこのようにまとめると、何か大変に反社会的な印象を与えてしまうが、二人は決して悪を為している気などない。
占星術の魔力を捜査に活用しているが、それは私利私欲のためではなくて、あくまで刑事としての仕事を熱心の追求するあまりのこと。
実際、占星術の力が捜査に役立っているのである。たくさんの大阪府民がそれに助けられている、という理解。この占星術師との協力関係は出来るだけ永く続けられるべきである、岩神美々という大阪府警の刑事はそう確信している。
「でも残念だわ、飴野探偵。今のところ、あなたの仕事に役立つような情報を我々は持ち合わせていない」
というわけであるから、美々は申し訳なさそうにその言葉を口にする。
彼女は大変義理堅く、生真面目なタイプである。ストーカー事件の協力をしてもらっている。それなのに飴野が取り掛かっている事件について、彼女から何も有益な情報提供を出来そうにない。
その事実に素直に心を痛めているし、飴野の役に立つことが出来なくなれば、占星術師からの協力を得ることも難しくなる可能性がある。それを恐れてもいる。
「そうか、残念だね」
「若菜真大という男性ね、明日、署で彼のことを探ってみる」
「そうして貰えると有り難いね。意外と僕はこの事件に苦労するかもしれない」
13―2)
今のところ、何も協力出来そうにないと言いながらも、いや、そうであるからこそ、岩神美々は飴野に対して親身な態度を見せる。
その事件についての相談に積極的に応じて、自分の考えをいくつか披露してみる。
「その女が婚約者を殺めた。でも死体は見つかってないわけでしょ? 女性一人で、そんな完全犯罪が可能なのか」
「まあ、決して不可能ではないだろうけども」
「例えば共犯者がいたなんて可能性は?」
「共犯者か。どうだろうか、いや、その可能性はあるね」
飴野は美々の会話を交わしながら、ホロスコープを眺めている。
「佐倉には心を許せる親友がいたに違いない。11ハウスと12ハウスの充実がそれを現わしているはずだ。でもその人物がこの事件に関係しているかどうかはわからない。いや、それもホロスコープが教えてくれる」
ネイタルのホロスコープと、トランジットのホロスコープを重ねて作る「二重円」と呼ばれる便利なものが存在する、らしい。
それを使うと、ある時期の天体の動きが、その人物にどのような影響を与えていたのか見て取ることが出来る、という。
マウスの左をクリックするごとに、現在時の二重円は一か月ごとに過去を遡っていく。彼女の生まれた日、ネイタルとトランジットが完全に重なる0歳まで、飴野はカチカチとマウスをクリックし続ける。
ホロスコープも二重円も、抽象的な図である。記号と線だけで出来た、きわめて空疎な図象。
占星術の修練を積んだ者だけが、そこに渦巻く激しいドラマを読み取ることが出来る。その知識のない者には、建物の設計図かクラシック音楽のスコアと同じくらい、無味乾燥なもの。
美々も千咲もそれなりの知識はあるが、飴野とはレベルが違う。彼と同じスピードでは読み取ることなど出来ない。二人はあっという間に置いていかれる。
ところで、ホロスコープというものは、それなりに面倒な計算をしなければ作成することは出来ない。
西暦何年何月何日、大阪のとある場所の水星の位置を正確に割り出すのは簡単ではない。分厚い資料を横目にしながら、複雑で長い数式を説く必要があるはずなのだ。
しかしどんなに煩雑な手続きが必要であったとしても、パーソナルコンピューターなる現代が生んだ機械が、すぐにそれを計算してくれる。それどころか、わかりやすい図に変換してくれるたりもするのである。その図がホロスコープ。
高度な占星術が大衆化されるのに、PCやスマホの普及がどれだけ寄与しただろうか。
そんなものがなかった時代、それはほんの十数年前のことであるが、全ての計算は手作業で行われていた。今となれば、気が遠くなる作業。
さて、飴野は口を開く。
「君の言う通り、別の誰かが、この事件に何らかの形で関わっている可能性はがあるね。事件前、彼女は何者かと、かつてないほどに親密感を増したことを星は教えてくれている。失踪した婚約者とは別の誰か、11ハウスと12ハウスが象徴する何者かだ。つまり、友人と言えるような人物」
ほら、この星たちがそれを現わしている。飴野はモニターに映ったホロスコープを指差す。
「しかし共犯者というよりも、相談相手といったほうが正確かもしれないな。何らかの事情を知っているかもしれないが、その親友が法を犯したなんてことはないだろう」
「女性? それとも男性?」
「それはわからない。性別の如何はホロスコープが絶対に教えてくれないことの一つだ。だけど同級生のような存在だろうか。極めて対等な相手に違いない」
「一人、それとも複数人?」
「それも振れ幅がある。一人、多くても二人」
「絶対にその人物を突き止めるべきよ。それは占星術とか関係なく、捜査の常套手段だから」
13―3)
探偵飴野は岩神美々に指摘され、改めてホロスコープを見直し、あることに気づいた。佐倉に共犯者と呼べるような何者かがいた可能性。
その何者かは彼女の親友の存在で、その事件についても何らかの形で関係しているに違いない。
その何者かを探し出すことが、探偵飴野が次に取るべき行動となるだろう。
とはいえ、重要な情報を持っているかもしれないその親友を見つけるため、探偵飴野は佐倉を尾行したり、電話を盗聴したりするわけではない。
占星術探偵の捜査の方法は当然、そういうときであっても占星術を使うであろう。
彼女の学生時代の全ての同級生たちの名簿のようなものを手に入れて、一人ずつホロスコープを作り、この中の誰が親友的な存在なのか推測する。
このやり方で彼女の唯一無二の親友が誰なのかズバリと的中させる、この小説はそのようなミステリーである、もしくはアンチミステリー。
そういうわけで探偵飴野は占星術でその親友を割り出すことになるのだけど、それはもう少し先の展開。
まだ事務所で飴野と岩神美々のやり取りは続いている。
実はこれからの会話こそ、美々をこのシーンに登場させた目的であったのだが、前振りが少し長過ぎた。
ようやくその場面に到着だ。岩神美々という重要人物の登場シーンであるからこそ仕方はないが、それにしても彼女の紹介に時間を費やし過ぎた気がする。
「君に見てもらいたい映像がある。失踪者若菜氏の本棚なのだけど」
そろそろ帰り支度を始めていた美々を引き留めるように、飴野は言うのであった。
PCのディスプレイには、先程まで千咲と共に観ていた例の動画が残っていた。若菜の部屋の様子を撮影した動画だ。それは本棚を大写しのまま一時停止で止まっている。飴野はその動画を再生する。
今のところ、飴野が捜査で持ち返ってきた唯一の収穫である。佐倉の部屋を訪れ、若菜真大の部屋を撮影した短い動画。
たくさんの本が並んでいる本棚は、若菜という男性のパーソナリティーを知ることの出来る手掛かりが秘めているはずだ。実際、飴野はそれを丹念に調べもしていた。
もしかしたら美々から何か情報を得られるかもしれないと、彼はその動画を岩神美々に見せることにする。
「本棚が何か重要だとでも?」
「さあね」
背表紙に書かれた題名を、しっかり確認することの出来るサイズ。ピントも合っている。カメラはゆっくりと、左から右へ、上から下へ順番に本棚を捉えていく。
「さっきも話題に出した例の冥王星がもたらした自己変革の件。そこには水星も関わっている。そしてその変革は9室を舞台としているということもあり、素直に解釈すると何らかの手がかりが本棚に秘められていると読めなくもなくて」
「失踪した男性は、けっこう几帳面なタイプね」
美々は真剣な眼差しでその動画を見つめてくれている。
「どんな本を読んでいるかよりも、そういう部分に興味を持つのが刑事か」
「そんなこともないけれど。でも本の高さが合うように並べている」
「職業はデザイナーさ。美には敏感なんだ。いや、美というより秩序に敏感なのだろうか。だけど世の中のデザイナーの部屋がこんなふうに整っているのか知らないが」
この動画の最後のほう、体調の悪かった佐倉が倒れて、飴野が抱き救うという場面も写されている。カメラを手に持っているのは飴野自身であるから、その様子は不明瞭であるが、しかしだからこそ、その二人の男女の間で何が起きたのかと妙な想像を起こさせる。
千咲を嫉妬させた場面である。美々にもそれを見せて、その反応を伺おうというのか、だとすれば飴野は随分な男である。
しかし彼はそのようなタイプではない。むしろ彼はそういうことに無頓着な男なのだ。それよりも捜査。事件解決が重要。
その場面に辿り着く前、美々が声を上げた。
「あっ、あの本」
13―4)
若菜真大は日常をそのままにして立ち消えた。
彼が意味ありげに残していったものなど何もない。空っぽになったタンスや引き出しなども見当たらないようだ。謎のメモのなどもっての外。壁や床に血の飛び散った気配、浴室で死体が解体された跡も存在しない。
若菜は普段通りに財布と携帯電話と鞄を持ち、出勤して、そこから消息を絶った。
いや、警察がそう判断したように、明らかに自らの意思で家を出たのは間違いないのだろう。
スーツケースはなくなっている。そこに着替えや私物を入れられるだけ入れて出ていったようである。
何の準備も用意もなく消え失せたわけではない。現金もカードも通帳も持ち出されている。計画的な失踪なのだ。
つまり、全てがあり来たり。成人した男性が恋人とともに住んでいた家を出ただけである。
確かに若菜真大は社会からも消え失せたことは事実なのだけど、それは非日常な出来事であると思うのだけど、そうであってもミステリー作品の最初の1ページ目として弱過ぎはしないだろうか。
作者である私はこの場面にそれなりに大きな謎を設えておくことが必要だったのではなかろうか。
事件をほのめかすような謎のメッセージ、殺人の痕跡、犯罪を誤魔化すためのトリックの名残り。何かおかしいもの、本来ならばここにあるはずのない物があったり、あるいは逆になかったり。
ミステリー小説というのは、何かが起きた痕跡のシーンを起点にして、最後の解決のカタルシスまで突き進んでいくジャンルであろう。その極めて特別な始点を、もっと派手に飾る必要があったのではないだろうか。
いや、この小説にだってそういうものがないわけでもない。
占星術探偵シリーズ第一作目、そのミステリーの起点を作るのは飴野が見たホロスコープの配置である。
我らが探偵が依頼人佐倉彩から生年月日を尋ねて、ホロスコープを作り、即座に判断を下した結論。失踪者若菜は殺されたのではないだろうか、目の前のこの女性に、という推測。その解釈こそ、ミステリーの始まりの合図。
佐倉の態度に怪しいところはない。若菜の残した部屋にも何ら異常な気配は見当たらない。しかし佐倉と若菜のホロスコープに殺人の気配、二人の間にある嫉妬、怒り、悲しみを読み取った。
ホロスコープのサインなど、現実とは何ら関係のないものだ。それを啓示だと考える者は占星術師だけ。
しかしそれは現場に残るちょっとした違和感を名探偵だけが見い出して、そこから事件性を感じ取るのと同義なのである。
占星術の独断を起点にして、占星術探偵の捜査は開始される。その推理に基づいた歪んだ世界で、探偵飴野は迷い翻弄され、無駄な遠回りをしながら、それなりの真実に到達する。それが占星術探偵シリーズの一つのパターン。
占星術探偵の推理の独自性を強調すればこういうことになるが、とはいえ、この探偵が物証を軽視することだってない。いや、物証を見つけるための手段が占星術である。
さて、初めてその物証のようなものが発見されるシーンが来たわけだ。それは岩神美々の手助けによって起こる。
13―5)
「あっ、あの本」
岩神美々がそう声を上げた。若菜の本棚を撮影した動画を見せたとしても、彼女から何か情報が得られるなんて期待も想定もしていなかった飴野は、少し驚いた表情で美々のほうを見る。
「少し戻して。上の棚の」
「どれ、これ?」
「そう、それ」
「文学とアナルオーガズム」という単行本だった。刑事のくせに恥ずかしがって、彼女はその題名を口に出さない。いや、刑事であることと、何かを恥ずかしがることは何の関連もないだろうが。
隣で見ていた千咲もこの題名を読み、「はあ? 何ちゅう題名や」という小さな悲鳴を上げる。
「この本は今、別の部署が密かに注視しているところで。色々と悪い噂が聞こえている、いわくありの自己啓発セミナーが発行元で」
「それは知らなかった」
ようやくこの小説の主人公の我が探偵は例の教団に遭遇する。いや、あらすじを説明していると長く感じるだけで、実際の私の作品はもっとテンポよく展開しているはずであるが。
「小島獅子央?」
飴野は画面に目を凝らして、その本の著者の名前を読み上げる。
「そう、こじまししお」
「他にも小島作の本が数冊並んでいるね。ただ単に所有しているだけではなさそうだ。それなりに彼はこの教団に入れ込んでいた可能性があるのかもしれない」
「ベストセラーってわけでもない本よ」
「とはいえ、彼は文学好きの読者家だ。この本棚に並んでいても、そこまで違和感はないとも言える」
「まあ、そうね。一般の本屋でも手に入る本だし」
「で、この教団のトラブルって?」
「簡単に脱退しにくいっていう有り勝ちなトラブルなんだけど」
「彼がそのトラブルに巻き込まれたって可能性もあるわけか」
「それともう一つ、最近、その教団の施設の中で自殺者が出たそうで。別に事件性はないようなんだけど」
「その身元は?」
「ちゃんと判明していたはずよ」
「ということは若菜氏ではないね。出来ればその自殺者の詳しい情報が欲しいのだけど」
飴野は即座にネットでニュースの検索をしてみるが、その事件について何もヒットしてこない。
「自殺者の身元ね。まあ、その程度なら何とかなるでしょう」
「ありがとう、まず僕はその教団を探ってみるよ」
飴野はその情報にちょっとした手応えを受ける。ホロスコープが示した象徴に適合する現実と出会ったという感触である。
「新興宗教のカルト教団なのかい?」
「自己啓発セミナーのはずよ。教団を自称しているけれど、仏教系でもキリスト教系でもない」
自己啓発のセミナー、それはまさに冥王星的な何か、占星術探偵はそのように考える。
「若菜真大の人生を大きく動かした何かは、この教団なのかもしれない」
「本当? さっきのお返しが出来て良かった」
美々は自分の情報が彼の捜査に役に立ったことを素直に喜んでくれている。
13―6)
自分で言うのもなんだけど、カルト教団を題材にしたミステリー小説、これほど魅力のない作品があるだろうか。
手垢のついた題材ではないか。多くの作家が手掛けてきたテーマである。もはや新鮮味の欠片もない。
この国では、実際にカルト教団が大きな事件を起こしたりもした。拵え物では現実に勝てない。その現実に比べられ、私の小説の卑小さを笑われるのがオチだ。
それでもカルト教団を書くことにしたのは、ただ単に私がそういうことに無自覚だったからかもしれないし、それなりに新しいことが書けるという勘違いが原因だったかもしれない。
そもそも、「カルト教団について書きたい」というモチベーションが、私にこの作品を書かせたわけではない。
それは副産物のようなものでしかなくて、本当に書きたいことは違うところにあった。
この作品の企画を進めているうちに、カルト教団が浮上してきて、それを描写せざるを得なくなったというのが正しいところであろうか。
というわけで、、アルファオーガズム教団である。
その教団の謎が、若菜氏失踪事件の謎とほとんどそのまま重なるのであるから、この物語にとって最重要な組織。
私はカルト教団と連呼してきたが、この組織をそのように定義していいのか知らない。正しくは自己啓発セミナーであろう。
その組織を立ち上げたカリスマが神格化され始めて、カルト教団の様相を呈してきたのだ。
どっちにしろカルト教団もセミナーも、私たち素人から見れば同じようなものだ。閉鎖的で秘密主義的で、最悪の場合、外部に対して攻撃的で、信者たちは言葉巧みに騙されていて、無限に搾取されている愚か者たちばかりで。
伝統的な宗教と関係してはいなくても、彼らは超越的な何かを信じている。例えば宇宙とか超能力とかを。つまり、とても怪しい組織。
とはいえ、占星術を駆使して捜査を行う探偵と、その占星術に心酔している刑事に、「怪しい組織」と呼ばれたくもないであろう。飴野も美々も充分に怪しくて異常である。
「このセミナーの特色は? つまり、どんなことを教えているんだろうか」
飴野は何気なく美々に尋ねる。
「さ、さあ、私もよくわかんないけど。ネットで調べてみれば? それなりに様々な風評が流れているようだし」
「ああ、なるほど、この本で描かれているようなことを実践しているわけか」
美々の反応を見て、彼は勘づくが、即座にネットでも調べ始めている。
「文学とアナルオーガズム」という書物が、小島獅子央の原点であり代表作。その作品に彼の思想の全てがある、らしい。これ以外の著作も存在しているが、それらはその代表作の焼き直しに過ぎないという。
若菜氏の本棚には、小島獅子央の書いたそれ以外の著作も並んでいる。「自己変革の法」「生まれ変わるために」「あなたはまだ、全ての能力を発揮してはいない」「密教秘密の修行法」などなど、極めてあり来たりな自己啓発的フレーズを題した本。「文学とアナルオーガズム」というセンセーショナルな作品は、それらに紛れて並んでいる。
「本当にこの教団について、私は全然知らないのよ。とにかく日本全国に組織があって、会員数は増加の傾向にあって。会員は男性だけで。そこがポイントなんでしょうね。自分の恋人がこんな組織に関わっていると知れば、ケンカや口論になっても不思議じゃない。別れる原因にもなるに十分」
「つまり、このセミナーに通っていたことが、婚約者佐倉の怒りに火をつけた。そして別れ話がこじれて、殺人、か」
「その推理、筋は通っているかもしれない」
「占星術的にも矛盾しない。彼女はこの事実に怒り、彼を殺めた。それとも直接手を下すことはなくても、その事実を知った彼女は彼を詰り、追い詰めたのかもしれない」
11―7)
若菜真大はそのいかがわしいセミナーの会員であった。婚約者の佐倉はそれを知り、二人の間に諍いが生じた。
そして何か血生臭い事件が起きた。
具体的証拠の欠片もない。ただ見知った事実をつなげただけの推理である。しかし占星術で思い描いた判断にも通じる。
飴野は真相に辿り着いた気がする。美々も非常に満足そうな表情をしている。彼女の提供した情報で、一気に捜査が進んだのだから。
もちろん、その推理が呆気なく破綻していくのがミステリー小説の展開というものであろう。
登場人物や読者が何となく想定していた世界と、徐々に違う様相を見せ始めること、探偵も読者も、次々と明らかになる真実に翻弄される、それを楽しむジャンル。
「まず、その失踪者がこの教団と関わっていたことを証明しなければいけない。そして次に、彼女がその事実を知っていたという事実の証明。動機はこれで説明出来るはずだ。次は手段。どうやって彼を殺し、この世界から跡形もなく消し去ったのか。これは難しいだろうね。再びホロスコープを分析する必要があるだろう。だけど、こちらが真相に近づいていけば、彼女から何かを語り出してくれるかもしれない。容疑者とはそういうものだろ?」
「でも彼女は容疑者であるけれど、依頼人でもあるわけでしょ。そこはどうなの? 自分でやった犯罪を、自分で依頼するなんて」
「容疑者が捜査の状況を知りたくなるのは不思議ではないはずだ。自分の犯行がいつ発覚してしまうか不安で仕方がないから、それに立ち会っていたいわけだ」
依頼人が犯人であったミステリー作品は、これまで数多く生み出されてきたはずだ。つまり、依頼人が容疑者であっても、読者は不満を感じることはない。それは同時に、驚きもないということであるが。
「その一方、全てを誰かに話してしまいたいという衝動も抱えていると思う。誰かに話して楽になりたい。罪をわかち合いたい。しかしその相手は、警察や司法ではないのかもしれない。だから場合によっては、もし彼女が犯人であったとしても、僕は警察に引き渡す気はない」
「殺人者を見過ごすの?」
美々は言った。
「そういうことになるね」
探偵は法の外にいる、わけではないが、法律に縛らているわけでもない。
「それは困る・・・。だから、この言葉、聞かなかったことにするけど」
「ああ、そうしてくれ」
「でも本当にそれでいいの?」
いいとも悪いとも返事をしない。飴野も迷いの中にいる。というよりも、全ては成り行き次第という気持ち。
罪とは何か、正義とは何か、もはや二人は議論など交わしはしない。この話題については何も踏み込むことなく、飴野と美々は別れた。
和やかに、またすぐに会うことを約束して。当然である、彼女は探偵の仕事を助けてくれる大切なパートナーであるから。
岩神美々と一緒に、飴野の助手の千咲も出ていった。
「お腹空いた、もう私、死ぬ寸前やねんけど。美々さんは平気なん?」「私もペコペコよ」「うそ? 全然、そういうふうに見えへんわ」などと会話を交わしながら、「ほんなら、またね」と千咲は飴野に手を振る。
ようやく岩神美々の最初の登場シーンは終わりである。飴野は事務所に一人になった。
この辺りで飴野も眠りにつき、次の日の朝を迎えて、気分を一新させたいところなのだけど、もう少し同じ夜が続く。
13―8)
そのような経緯を経て、飴野はアルファオーガズム教団なるものの存在を知ることになった。この組織を調べ、その組織と対峙して、この組織と交渉したりする。この先、飴野の捜査はその作業に費やされるだろう。
アルファオーガズム教団、略してアルファ教団という組織がこの失踪事件の大きな鍵を握っている。
そうであるのだから、飴野がこの組織のことを知ることになる過程、それをどのようなシーンとして描くか、作家のセンスを問われる部分であったろうと思う。特にミステリー作家としての腕前が。
さりげなく、しかしそれなりに印象的に。
果たして私のその仕事は正解であったのか、読み返しながら、いや、これを書いているときからずっと自問自答していた。
教団が何らかのトラブルを抱えているということを、予感させてはいけなかったのではないだろうか。つまり、刑事である美々の口からアルファ教団の存在を知るという展開が、物語の面白さを損なってしまう可能性。
それでは警察がマークするほどの怪しい組織という印象を読者に与えてしまうことになるだろう。
犯人は佐倉だ、というミスリードをしていたかったのに、あっさりと違う可能性を提示してしまった気がするのだ。
そんな反省や後悔など、読者は知りたくもないであろうが。しかし自作を読み返せば、そういう類のことばかりを思い出すものである。
アルファ教団は公序良俗に反する組織である。性的な意味において非常にアブノーマルで、デンジャラスで、不気味な組織。
しかし、実際のところ、それだけの組織である。
その事実もこれからの展開でのちのち明らかになっていくことであるが、また先回りして言及しておくと、この教団は別に外の世界に対して攻撃的ではない。
何か大いなる目標を掲げる組織でもない。世の中を変えたりとか、革命を志したりとか、そのような野望など皆無。
いわば規模の大きな秘密クラブといった程度。暴力的なこととは無縁の組織。これがアルファ教団の実態である。
いや、確かに男と女の関係を切り裂くことはあるだろう。そこに足を踏み入れてしまった男たちは、女に背を向けて独りで生き始めるのであるから。
何せ目指されるのはアナルオーガズム体得。それを約束して会員を集めているわけである。アルファ教団は全ての女性の敵。
その事実を前に飴野は思ったわけだ。「婚約者がこんな組織に関わっていたのだ。佐倉が彼に殺意を抱くのも仕方がない。やはり犯人は彼女であったか」と。
それと同時に若菜という男性についての彼の印象も決された。
その男はアルファ教団という自己啓発セミナーに救いを求めた人物。若菜は佐倉との関係にも悩んでいた。彼は一種の不能者であったに違いないという推測。
飴野は若菜という男を大変に侮っているかもしれない。それはホロスコープを見てすぐに。
そして今、彼がアルファ教団の会員ではないかという可能性が浮上して更に。
弱い男に違いない。そのような誤解の中に陥ったのだ。
しかしそれは間違い。捜査をしていくうちに、若菜真大はそのような人物ではなかったことが明らかになる。
彼が想像もしていなかった事実に突き当たることになるわけだ。それこそミステリーというジャンルの一つのパターン。
しかし若菜真大という男性の正体。最初の占星術では読み取ることの出来なかった具体的事実を、探偵飴野が知るのはまだもう少し先。
そこに行きつくには、幾つもの列車を乗り換え、運河を舟で進み、気が遠くなるくらいに街を歩き回る必要があるだろう。
そのとき彼の頬を死がかすめたり、誰かの唇がかすめたり、鳥の翼がかすめたり。