第53話 八日目(3)

文字数 3,910文字

その日、朝暾の透ける薄い布団の中で目を覚ましたマカラは、遠くで重なる笑い声に誘われる様に身を起こし、窓辺へすり寄った。引力を感じさせたのは、信者と談笑する洋子の声である。
品を問わず、笑顔の輪を広げ続ける彼女だが、実を言えば、森田達の努力も虚しく、人に同情されない仕事を見つけることは出来なかった。戸籍と性別の重さである。あてになるのは治外法権の教団施設の中だけ。善意の塊の彼らが議論の末に彼女に与えた仕事は、病院の看護助手だった。診療科は森田の断っての願いで起ち上げたホスピス科。宗教団体の設立後、自らの偽善に悩み続けた森田が辿り着いた答えである。全米ホスピス協会曰く、末期に生じる症状や患者と家族の心を含めた諸々の痛みを軽減し、支え励ますことを使命とするホスピスは、ヴィーヴォと目指すものが近い。当時の森田には本当にそう思えたのである。
森田は、何の資格もない洋子に全人的ケア、所謂、社会的な苦痛や精神的な苦痛を緩和する仕事を任せた。根拠は人生経験の多さと人当たりのよさ、勉強だけでは身に付かない人の力である。
木住野啓子はそんな洋子が初めて任されたステージⅣの胃がんの患者だった。苦渋の決断の末に選んだ化学療法は、彼女の場合は腫瘍を切除するタイミングだけを奪い、ホスピスが答えだと教えた。誰も悪くない。人間は、いつかは死ぬ様に出来ているのである。

啓子が入院して二日目の朝。白衣を適当に着こなす白い洋子は、絶対服従のマカラを連れ、共通するのは年頃ぐらいの啓子の部屋を訪れた。終の棲家を意識する啓子が桜花爛漫の絶景から顔を背け、擦り切れた声でおそらくは泣き続けるのを見かねたのである。
「木住野さん、おはよう。入るよ。」
洋子は返事を待たずに個室に入ったが、遠慮が勝つマカラは戸口で足を止めた。そもそも洋子からは見守る様に言われただけ。彼女にとって、マカラは万が一の備えである。
啓子の布団の裾を適当に整えると、洋子は音を立てて椅子に腰かけた。間髪入れず満面に笑みを浮かべ、足を組む。看護師に許される態度ではないが、初日にショックを受けた啓子の下半身への配慮を忘れなかったのは成長の証しかもしれない。
「調子はどう?」
医者も看護師もいないせいか、啓子が見せた反応は多分困惑。人見知り以前の問題である。
「邪魔でしょう。」
洋子が言葉を重ねると、逃げ場のない啓子は布団の上に出していた細い手を一瞬浮かせ、口元の皺を増やした。洋子はそれを笑顔だと思える。
「私、あなたといるのが仕事だから。ほっといたら一日居座るわよ。」
啓子が不思議な訪問者を見つめ続けると、仕切り直す様に大きく揺れた洋子は満面の笑みを見せた。
「ホスピスで面白い患者は期待してないから大丈夫。」
敢えての無神経な物言い。死に臨む者と接する類型のひとつを見た啓子は、洋子のお節介から逃げるために咲き誇る桜へと視線の先を向けた。花弁が散らなければ、今見るべきものはそれである。
「ステロイドにしたんだよね。」
ステロイドよりも痛みを消す効果の強いオピオイド系の特徴は睡魔。自我を失う恐怖と制御できない疼痛の優先度は百人百様だが、啓子の表情が魚並みになくても洋子は喋り続ける。
「私、看護師じゃないから詳しくないけど、何?ステロイドでオリンピックに行っちゃうとか?」
啓子の琴線である可能性が高いが洋子は構わない。
「話したくない?でも、ずっと一緒にいるならお互いのこと知ってた方がよくない?」
洋子は自らが発した言葉に勝手に違和感を見つけた。
「はは。ずっとって気になるね。啓子さん動けないから。でも私はそのつもり。啓子さんが追い出さないとずっといるよ。」
洋子は啓子のくすんだ瞳が自分に戻ってくるのを待った。
「どのぐらい痛いの?痛さも調べたよ。ちくちく疼く?リズムがある奴?灼熱感?灼熱よ、灼熱。えぐいよね。」
微かに視線を逸らした啓子は吐息を一瞬漏らしたが、即座に固く口を閉じた。本人にしか理由は分からないが、何が分からなくても、鼻から小さく息を吸った洋子は感じたままに喋り続ける。
「一番痛いのって深いんだよね。大きさが分かんない感じ。深い。深いって凄いよね。」
天井を見上げて自分が過去に味わった痛みを思い起こした洋子は、間もなく露骨に諦め、腹に両手を当てた。
「お腹なんて薄っぺらいのに、どこが痛いんだろね。謎過ぎ。本当にステロイドでいいの?」
洋子が口にするのは医者が最初に聞くことと変わらないが、つまり啓子がいつか通った道。共通項と言えなくはない。啓子の瞳が揺れると、洋子は何かを勝手に感じ取った。
「考え込んじゃって天才みたい。霊的苦痛とか?」
口元を引きつらせた啓子が瞼を閉じると、洋子は戸口のマカラを振返り、視線を合わせた。誰かに認めてほしかったのである。善意は理解できるマカラが頷いてみせると、洋子は微かに微笑んだ。
「私に話してごらんよ。話したいんじゃない?本に書いてたから。人生の意味とか、話し出したら止まらないみたいだよ。でしょ?私、全然聞き上手だから、試してみたら?」
瞼を開いて現れた啓子の瞳は、そのまま桜に向かった。
「下手?そうだね。うるさいよね。でも気が紛れるよ。楽しくならなくても、うるさいって暫く思えるし。同じことばっかり考えてたら、頭痛くならない?」
洋子は窓の外を眺める啓子の視線の先を追い、一本の葉桜を見つけた。薄桃色に淡く透き通る緑。春が当たり前に過ぎていく儚さと初夏の予感の混ざる雅が死に臨む啓子にどう見えているのか。啓子の横顔を眺めた洋子は気を惹けそうな言葉を絞り出した。
「桜餅が食べたい。」
やっとの答えは啓子の瞳を動かしたが、微笑みの気配もない。
「面白いと思ったけどまた違ったね。ごめんね。」
洋子が一人で溺れ続けると、啓子はやはり瞼を閉じた。頼りのマカラも首を横に振るだけ。この挑戦の先に成功は待っていない。
「自分に向いてないことってあると思うけど、私は今までやらされたことが全部向いてなかったかな。本当に嫌がらせかと思うぐらい。でも、多分間違ってるのは私で、私が駄目なだけなんだよ。嫌だったら嫌って言っていいよ。」
目を閉じたままの啓子の傍で洋子は軽く揺れた。
「何か話してほしい感じかな。」
それでも無言。洋子は、真っ白な室内と春色の窓の外を、時間をかけて隈なく眺めた。誰かといる時の洋子としては奇跡的な長さの沈黙。良からぬことを言い出すビジョンが大きく膨らんだマカラが一歩足を踏み出した時、洋子はその足音に促される様にブラウスのボタンに指をかけた。
「啓子さん。驚くかもしれないけど、ゆっくり目を開けてくれる?」
洋子は、桜が溢れる窓を背にする啓子に向かって白衣の前をはだけ、短い躊躇いを通り過ぎると下着もずらした。
言われた通りに瞼を開いた啓子は、僅かに瞳を揺らすと改めて瞼を閉じた。幾度となく瞼が開き、閉じられる時間。啓子が事件の終わりをただ待っていることに気付いた洋子は前を閉じた。
「私は気付いたらこんなになっちゃって。本当に死んだ方がマシだって思ったことが何回もあるけど。」
目を閉じた啓子は細い手をゆっくりと上げた。逃げたくなった可能性の方が高いが、とにかく気持ちが行動に現れたということ。自分の不幸の力を感じた洋子は少しだけ残酷になった。
「ごめんね。あなたといると生きていたいって本当に思う。救われてるんだと思う。」
流石に病院で言われる筈のない言葉に触れた啓子は口元を僅かに緩めたが、何を言う訳でもない。
「辛いかもしれないけど頑張って。あなたが死んだら私も流されそう。人助け。私じゃなくて、あなたの仕事だから。責任重大だよ。」
マカラの眺める先で、洋子は小枝の様な啓子の掌を白く柔らかい掌で包み込んだ。おそらく啓子はすり抜けようとしたが、洋子が指先を軽く曲げると止まる程度。静かに時が過ぎるのを待った啓子は目を伏せ、やがて洋子と同じ様に指先を曲げた。洋子は、啓子が自分の手を握ろうとしたのだと思った。

「大城さん、刺青よく使いますね。」
鶴来が漏らしたそのままの感想に、宗祖は眉のかたちを微妙に変えた。今日の宗祖は表情も豊かである。
「アノ人ハ頭ガヨカッタンデス。タダジャ起キナカッタ。」「あれみたいですよね。あの…。」
賀喜は記憶を真面目に遡る鶴来に微笑み、自分の答えを教えた。
「キューティー・ハニー。」「なんでだよ。別にハニーは刺青してないし。あれだよ。メッシ。」
「なんでサッカー?」「刺青でイメージ変わったでしょ。ちょっと怖そうな感じになってさ。」
「あれはお洒落でしょ。やっぱり女が脱ぐから空気が変わるのよ。」「ハニーって裸で敵を倒してた訳じゃないよね。知らないけど。」
まだ若い二人の会話を眺めた宗祖は口元を緩めたが、瞳に悲しい色を混ぜるまでに大した時間はかからなかった。
「大城サンハ、タダ墨ガアルトイウ訳ジャアリマセンデシタ。一度見タラ忘レラレナクナルンデス。」
天井を見上げた鶴来は間もなく好奇心に負けた。
「それ、一体どうなってたんですか?」「駄目でしょ。」
鶴来の弱さを賀喜が咎めると、宗祖はゆっくりと薄い瞼を閉じた。
「イイ人ダッタノニ周リガ酷過ギタンデス。ドウシヨウモナカッタト思イマス。本当ニ可哀ソウナコトヲシマシタ。」
言った傍から宗祖が後ろ手をついたのは、身を起こしているのが辛くなったから。気付いた賀喜がリモコンを手に取り、ベッドの角度を上げると、待っていた宗祖はゆっくりと背中を預けた。瞼を閉じた宗祖の身は賀喜の動かすまま。角度に応じて電動音の高さが変わっていく。完全に横たわった宗祖は、静かに寝息を立て始めた。いつも通りなら、昔話はまだ続く筈である。
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