第16話 三日目(3)

文字数 3,278文字

中村と別れた鶴来と賀喜は、宗祖の部屋の前で疲れ切った総代と肩を並べた。アウターを脱ぎながら聞く限り、宗祖を他の部屋に移動させるのは無理難題で、宗祖の体調と機嫌に照らして不可能。しかし、代案を告げずに扉を開けて真っ直ぐ奥に進んだ総代は、ベッドに手を突いて宗祖の体を乗り越えると、音を立ててカーテンを閉めた。原始的だがシンプルな解答。但し、目を封じても耳がある。宗祖の耳がどんなに衰えていても、形式上、鶴来と賀喜のミッションは欠かせない。それは明らか。
「止メテクレマセンカ。」
横たわっていた宗祖は壊れそうな声を上げた。カーテンひとつ思い通りにならない老人の悲哀に一歩足を踏み出したのは鶴来。枯れた世界に笑顔を添えずにいられなかったのだが、その気持ちは賀喜も一緒である。
「すみません、宗祖様。網代警察署の鶴来です。」「賀喜です。」
声の主を探して微笑む鶴来を見つけた宗祖は、次いで賀喜を見つけ、優しい笑顔が綺麗につくられるプロセスを珍しそうに眺めた。
「アナタニハ、昨日、怒リマシタネ。」
思ったよりも宗祖の記憶は確かである。今日の仕事に意味を感じた賀喜は、自分の思ういい角度の笑顔を見せた。
「そうです。御挨拶した時に、窓の外に寛人君達が見えて笑ってしまって。宗祖様に怒られました。」
宗祖は、思い出した様にカーテンが覆い隠す窓の方へと顔を向けた。
「コノ窓ノ外ニハアノ子ガイマス。」
カーテンを暫く見つめた宗祖が声を掛けたのは総代。
「早クカーテンヲ開ケテクレマセンカ。」
宗祖の依頼は細やかだが、視線の合った総代は黙って首を横に振った。総代の誠意が意地悪に映るジレンマに、賀喜は説明を急いだ。
「宗祖様。私達、宗祖様にお聞きしたいことがあるんです。捜査に関係することなので、誰からも分からない様にする必要があります。少しの間だけカーテンを閉めたままにしてもらえませんか?」
子供だましだが、寝たきりの老人を幼稚な言葉であしらうのが大多数の若者。納得はしていない宗祖が瞳に厳しさを混ぜたまま動きを止めると、鶴来も賀喜に続いた。
「あの、昨日、お話が聞けなかったじゃないですか。他意はないんです。集中して、お話をしたいんです。」
賀喜から鶴来へと視線の先を移した宗祖は、静かに鶴来の笑顔を見つめた。それは鶴来が何かの意味を感じる程の時間。
「アナタニハ、何カ迷イノ様ナモノヲ感ジマス。」「嘘ですよ。」
慣れた調子で宗祖の言葉を遮った総代は、鶴来と賀喜のために今の宗祖を語った。
「宗祖を長くやってるうちにその気になったのかもしれません。こういうことを言うのも人前に出てほしくない理由のひとつです。」
宗祖は遠慮のない総代を無表情に眺めた。まったく怒っていないのはただ二人の結束が固いからではない。宗祖の発想は、きっと常人とは次元が違う。
「人ハ目ニ見エルモノヲ信ジル生キ物デス。私ニシカ見エナイトシテモ、私自身ガソレヲ信ジテ言葉ニスルコトハ許サレナインデスカ?」
想像にない問いかけに驚いた鶴来と賀喜の顔に光が差したが、総代の反応は逆。世迷言を喋り続けられる予感に不安が隠せない。
「それはレビー小体型認知症の典型的な症状です。あなたは立場があるんですから、思ったままに話して人を惑わせたら駄目なんです。」
病気だけで人を括ってほしくないのは、当事者全員の気持ちで間違いない。宗祖は眉間に深い皺を浮かべた。
「アナタハ、私ガイツカラソウナッタト思イマスカ?」
総代が沈黙をつくったので、宗祖が今の質問を口にしたのは初めて。あるいは、警察官を前にして総代が無駄な問答を控えたのだろうが、見掛け上、宗祖は小さな勝利を収めた。
「ソンナモノデス。私ハ自分ヲ見失ウ様ニナッテカナリニナリマスガ、何ノ問題モ起キマセンデシタ。私ガ善人ダカラ、正シイカドウカナンテ小サイコトハ、ソレホド関係ナインデス。」
嘘の様に喋る宗祖の目は若い二人の笑顔を捉えた。
「虫ヤ動物ニ世界ガドウ見エルカ知ルト科学ニナルノニ、死ヲ前ニシタ人間ニ見エルモノハ否定サレルノガ分カリマセン。自由ニナラナイ現実ガ精神世界ト同化シテイクト思エバ美シイノデハナイカト、私ハ思イマス。」
鶴来と賀喜が目を逸らさずに話を聞く姿勢を見せると、宗祖はゆっくりと瞬きをした。心に余裕が出てきたのかもしれない。
「宗教ヲヤッテイルト、心ノ弱イ人ニ過剰ニ反応サレテシマウコトガアリマス。コノ人ハソウイウモノヲ嫌ッテイマス。気持チハ分カリマスガ、今ノ私ニシタラ陳腐ナ話デス。」
宗祖は総代より常に上位で、どこか足りない総代を導くもの。それが二人の長年かけて築いた関係の様である。別に否定する気もない総代は、見えないカーテンの外を少しだけ気にかけた。
「まあ、こんな感じですから、話半分で聞いてください。」「イイカラ、出テ行ッテクレマセンカ。気分ガ悪クナリマス。」
総代を邪険に扱って頬を緩めた宗祖は、静かに天井を見上げると瞼を閉じた。

苦笑する総代が消えたローズマリーの香る暖かい部屋。中村にラインを入れてから椅子を動かした鶴来と賀喜は、宗祖を柔らかく包みこむベッドの傍らに腰を下ろした。眠った様に見える宗祖の顔を見るだけでも平気なのは、由美子の検体を採るのに時間が必要だから。そうは言っても、最優先されるのは時間稼ぎである。
月城達は期待以上に慎重に作業を進めている。宗祖は二人が傍にいることを忘れたのか、あまつさえ寝息を立て始めた。彼の精神はあらゆる束縛から解き放たれているのである。
人の耳は静寂に慣れると敏感になっていく。後ろめたさも手伝う鶴来と賀喜の繊細な耳は、そうなるべくしてブルー・シートが風にはためく音を拾った。金属が地表を削る音もそう。幾ら気を配ろうと空気の振動は止められない。
先に我慢の限界を迎えた賀喜が鶴来の表情を気に掛けた時、同時に宗祖が瞼を開いた。彼にも違和感を拭えないレベルの筈である。
「アナタ達ハ、何カ聞キタイコトガアッテ来タンデショウ。」
発した言葉がすべてなら、宗祖は音に反応した訳ではない。想像以上に耳が遠いのかもしれないが、きっと彼の体内の時の流れは離散的。音がした瞬間の記憶が飛んだのである。脳の不思議に感心した鶴来は微笑む賀喜と顔を見合わせ、次いで宗祖に笑顔を向けた。
「はい。ヴィーヴォについて伺いたくて、お邪魔しました。」「アア、ソウデスカ。」
宗祖は他人事の様な返事をすると瞼を閉じた。今からの話題に関心がないことは明らか。終わりの見えない沈黙に今日の成果が気になってきた賀喜は、香る空気を短く吸うと、自分の世界に消えた宗祖を言葉で追いかけた。
「宗祖様。本題に入る前に少しお聞きしたいことがあります。」
宗祖の皺だらけの瞼が静かに開くと、賀喜は濁った瞳を覗き込んだ。今の二人に共通する話題は限られている。
「寛人君とは血が繋がっているんですか?随分、年が離れてますけど。」
一体どれだけの記憶が頭を過ったのか、宗祖は枕のかたちを少しだけ変え、かすれた声で笑った。
「年ヲトッテ結婚モシテイナイト、教団ハドウナルノカトイウ話ガ聞コエル様ニナリマシタ。世ノ中ガ妙ニ厚カマシク見エテイケナイノデ、養子ヲモラッタンデス。」「納得です。本当に可愛いお子さんですよね。」
期待以上の反応に賀喜が笑顔で話の先を促すと、宗祖は幸せないつかを愛おしむ様に目を閉じた
「子供ハイイモノデス。親ノ勝手デコノ世ニイルダケナノニ、親ガ与エタ世界シカ知ラナイノデ、大シタコトヲシテアゲナクテモ、コチラノ気持チニ全身デ応エヨウトシテクレマス。デモ、キットイツカ変ワルンデス。笑顔ガ笑顔ト思エルコトハ、彼ラニトッテモ素敵ナコトニナッテシマウンデショウ。」
老人特有の寂寞とした物言いに鶴来と賀喜の眉が下がると、宗祖は細めた目で二人の顔を眺めた。
「総代ハネ。アノ人ハ駄目ナ人ナンデス。昔カラズットデス。」
それは総代が主人公の昔話の始まり。教団を支える男のそれは教団の物語の筈なので、鶴来と賀喜の求めるテーマから外れていない。好機を逸したくない二人は、心の見えない宗祖のために誠実な眼差しを見せた。
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