第36話 五日目(5)

文字数 5,124文字

「ここで話をしましょう。」
先に足を止めたのは森田。目に入った虫に苦しんでいたマカラは、涙の滲む目を無理に開いた。目の前に広がるのは学生と緑が飾る中庭、羽虫も踊るそこ。公園から遠くない帝都大学の構内である。マカラが微かに頬を緩めたのは嘗ての生業を思ったから。
しかし、まず気付くべきはそこが屋外ということ。決して屋内には付いて行かず、怪しい動きがあればすぐに逃げる。一人で神経を尖らせていたマカラだが、彼の思う理想的な環境が用意されたのは、見知らぬ外国人を相手にする森田も同じ気持ちだったからに違いない。
「ちょっとここにいてください。嫌になったら帰ってくれていいですけど、待っていてくれたらジュースぐらい奢ります。」
森田が手で差す渡り廊下の下には、濡れていない空のベンチが幾つか並んでいる。取敢えずの居場所を教えた森田は、人懐っこい笑顔を残して何処へともなく立ち去った。

自由気ままな森田が仲間を連れて帰ってきたのは十分程してから。近付く警備員をマカラが意識し始めた頃だった。二十人はいる若者の半分がカラス族。どんなに流行っていても、黒づくめの初見の集団にいきなり心を許すのは難しい。
「お待たせしました。」「こんにちは。」「初めまして。」
森田の声に被せる様に続いた挨拶の洪水は、それでもマカラの固い口をこじ開けた。
「こんにちは。」
まずまずの反応に揃って笑顔を返した森田達は、マカラをそのままに手際よくベンチを連ね、輪をつくった。流れで始まった自己紹介は、出身地にフルネーム、趣味に特技、好きなミュージシャンに野球チーム。学生の彼らがクラス替えの度に口にしてきた内容はマカラには一切不要な情報だが、同世代に特有の笑いのツボが散りばめられている。何度か笑いのさざ波が起きると、皆の紹介が終わる頃にはマカラの頬も少しだけ緩んでいた。
最後の一人は森田。満面に笑みを浮かべた森田は、思い出した様にマカラに缶コーヒーを手渡した。まだ、温くはない。きっかけはマカラの視線だが、もっと早く気付いていたに違いない。
「今、買い出しに行ってるので、食べ物は少し待ってください。一緒にお昼ご飯を食べましょう。皆からのプレゼントです。」
報酬を小出しにするのは、きっと後を期待させて残らせるため。駆け引きの末に信頼関係を築く自信のないマカラの目は何かを語ったが、森田から別の答えを引き出した。
「この人数ですから気にしないでください。怪しいと思うかもしれませんが、もしもあなたが私達の仲間になってくれれば、これから先に仲間を増やす時の負担が減ります。仕組みは単純なんです。」
森田と缶コーヒーを見比べたマカラは、秒で缶の蓋に指を掛けた。力任せにプルトップを剥し、乾いた喉に甘い液体を馴染ませていく。もらえるものはもらう。森田の背を追った時点で、或る程度決めていたことである。
刺激に敏感になっているマカラは、カフェインで酔いながら自分のとるべき行動に思いを馳せた。避けるべきは森田達の心変わり。昼食をもらう権利を失わないために、まずは喋らなければならない。
「私はチアの子マカラといいます。」
驚きの波が立ったのはマカラの日本語が綺麗だったから。
「マカラさんは日本語が上手ですね。どこで習ったんですか?」「沖縄です。一人だけ標準語を話す女性がいました。」
弘達とのそれなりの生活を終焉に導いた洋子を自然に語る自信はないが、そもそも細かく話す理由はない。間を置かず学生の輪からの質問が相次ぐと、洋子の話題は跡形もなく消え去った。特に関心があるというより慣れだろうが、気に入られたいマカラの答えは早い。
「出身はどこですか?」「民主カンプチアです。」
「ポル・ポトの?」「そうです。」
「ひょっとして、あなたはポル・ポト派ですか?」「違います。」
「逃げてきたんですか?」「そうです。あそこにいれば、私も殺されていたと思います。」
「どうやって?」「舟です。村の仲間と逃げました。ただ、沖縄に流れ着いたのは私だけです。」
マカラが沖縄を後にしてから、ボート・ピープルは世間を騒がせ続けている。森田は新聞から得た常識を教えた。
「難民定住促進事業を知っていますか?始まって随分になりますよ。」
マカラも知らなかった訳ではない。しかし、沖縄に流れ着き、弘達のグループで安定を手に入れたと錯覚したのが大きな間違い。日本の不良の日常が母国のインテリのそれより遥かに真面だったせいだが、結果、軽微な犯罪を重ね、国に助けを求められない身になっていたのである。マカラは、叩けば埃の出る自分を飾る聞こえのいい言い訳を探した。
「私は国という仕組みを信用していません。」
子供相手の議論の狼煙としても、民主カンプチアという国名を口にしていなければ、この世の全否定である。森田がひとまず大きく頷いたのは、気を遣うべき相手が一人ではないから。
「分かりました。その話はもう少し仲良くなってからじっくりしましょう。今日はもう少し軽い話題がいいと思います。沖縄からあの公園に辿り着くまでの話を出来ますか?」
好奇心に輝く皆の瞳に、マカラは内頬肉を噛んだ。まだ美しい若者達を前にして、すっかり汚れてしまった自分が急に恥ずかしくなったのである。顎を引いた森田は、両手を合わせて微笑んだ。
「あまり話したくなさそうですね。いいです。それも分かります。じゃあ、まず私に質問させてください。確かにこんなにたくさん知らない人がいて、ただ自分のことを話せと言われても無理だと思います。」
マカラに断る理由はない。話をするだけで昼食がもらえるのである。森田は、まだ心が通っていないマカラの目を見据えた。
「あなたはこう思っているんじゃないですか?自分の様な格好の人間に他人が話しかけて来て、急にご飯を奢るなんてありえない。」
侮辱的な響きにマカラが今までとは違う沈黙をつくると、森田は笑顔を見せた。種明かしを期待させているのは明らか。
「あなたはこうも思っているんじゃないですか?相手がどんな人間でもいいからご飯が食べたい。」
森田は笑顔をいよいよ大きくして、マカラの強張る顔を覗き込んだ。
「家族のことを思って、寂しい気持ちになっていませんか?もう何が言いたいか分かりますよね。」
謎かけの答えが見えたマカラは、短いが、しかし心からの笑顔を見せた。愚劣な生活を強いられた人間にとって、知性を試されることは至福、快楽ですらある。森田が待っていたのはこの瞬間。
「そうです。私が口にしたのは、あなたの置かれた状況を考えれば絶対に当たることばかりです。それが分かるのは、あなたが私達と同じ人間だからです。人間には、どんな国で育っても生き物として共通した部分があって、生活の根幹に関わる部分であればあるほど正解する確率は高くなります。」
どこか理屈っぽく聞こえるのは、この理論がまだ幼いから。展開が読めないマカラは森田の言葉の行方を見守った。
「人間は同じ種なので、似たゴールを目指します。でも、ゴールに辿り着く人間が増えれば、いつか競争が生まれます。どこかで制御しないと悲しい未来が待っているのは、あなたにも分かりますよね。」
森田がどんなに表情をつくろうと、マカラに感じ入るところはない。
「嫌がらずに最後まで聞いてください。大事なことです。私は、去年面白い論文を読みました。人類を絶滅させないためには、世界中が中国みたいに一人っ子政策をとらないといけないんだそうです。そこまでは分かりますが、その人は更に自家用車に乗らない様にと書いています。工場が倒産すれば公害問題も解消するらしくて、これを実行するために道徳教育を徹底する必要があるんだそうです。」
気まぐれに眺めた皆の目は森田とマカラの顔の間を行き交っている。長い前置きが必要な、おそらくは退屈な本題の始まりである。
「普通に考えれば分かりますが、戦争がある世の中で国力が減る人口管理に舵を切るのは自給自足が望めない場合だけです。アース・オーバー・シュートデイというものが公表されていて、これは地球が一年に生み出す生物資源を人間が使い果たす月日ですが、最初はクリスマスだったのにもう何か月も早くなっています。地球規模だととっくに限界が来ているということです。でも、アメリカやソ連の様な大きな国が困るのはずっと先です。国力のない私達は、やはり国力のない他の国がどうなろうと、大国にリスクが迫るまでは彼らの求める仕組みの下で生き延びるしかありません。道徳教育で一体何が変えられると思いますか?」
ただ昼飯を待つマカラが目を伏せると、森田は笑顔を思い出した。
「どうしました?何か気に入らなかったらすいません。でも、いいですか。それならどうします?おそらく、あなたが思うことは偉い人がもう実践していますが、例えば、あなたが政治家なら何をすると思いますか?」
嬉しそうな森田は十分な間をつくったが、マカラが何を答える筈もない。それはそれでこの問いに対する反応の典型である。
「まず、一部の優秀な民間人の利益が安定して膨らむ仕組みをつくります。皆が優秀だと認める民間人がお金をもらっても、誰も文句を言いません。お金を儲けた人達は市場競争の理論で次の層、それなりに優秀な中間層に利益を分配します。ここが一番の肝です。民間人は経済的にリスクのある赤字で苦しむ人にお金を分ける必要はありません。借金のある人は赤字が解消しないと満足できませんが、借金のない人は黒字が増えるだけで喜びます。これなら最小限の投資で見掛けの幸せを演出できます。」
森田は、合わせた掌を揉みながらマカラに微笑んだ。
「ただ、それだけでは駄目です。皆、毎日いろんな不満を口にしています。ルールを決めて、あらゆる方向に気を配らないと駄目です。解決できない根本的な問題にはお金をかけず、すぐに効果が得られるものを選んで、多くの人と達成感を共有するのがコツです。」
皆と視線を交わし、空気を確かめた森田は小さく頷いた。
「分かりますよね。全部、人間が必要とする資源に関係ありません。何も出来ないからです。言ってしまえば、核ミサイルが発射された後の最後の数分間をどれだけ楽しく暮らせるかを追求してるんです。よく言う世界終末時計は人類滅亡までの時間で、ミサイルが発射されるまでじゃありません。目に見えないミサイルがもう発射されていると思ったらいいんです。」
マカラは子供の生意気に付き合いで頷いたが、二十一世紀の政治を知らない森田は身を乗り出した。話は佳境に入ったのである。
「戦争に負ける訳にはいきませんし、人口を減らすために人を殺す訳にもいきません。一部の職業を潰して多くの家族を路頭に迷わせた上に、選挙で落選することも同じです。だから、皆で今まで通りの生活を続けて、成り行きに任せている。放っておいても、いつか食料不足や疫病で大量に人が死ねば、地球に蔓延る悪の根源は減るんです。自分もその一人だと思えばストイックで、本当に責任のある立場の人が選びそうな倫理的な答えでしょう。でも私は嫌です。皆で生き残りたい。じゃあ、どうしたらいいと思いますか?」
マカラがかたちだけ眉を潜めると、森田は笑い出した。皆の笑顔も輝きを増したので、マカラの適当な態度はここでも正解ということ。
「絶対的な答えではなくて、マシな答えを探すんです。無駄だと諦めずに落としどころを探す。地球規模の問題なら地球規模で相談して、皆で納得して、いい意味で諦めるんです。」
結論とは言えない理屈を耳にして、マカラはやはり沈黙を守った。
「口で言うのは簡単ですよね。だから、私達はまず世界の友達のネットワークをつくろうとしています。旅行客だろうと難民だろうと、宗教の枠組を越えて誰でもです。小さいことに思えるかもしれませんが、活動する意思のある一人は何もする気のない一人とはまったく違います。それが十人、百人、千人になれば、社会に響く大きな声になります。あなたもその一人。あなたと知合いになろうとした時点で、また一歩ゴールに近付いているんです。」
革命の怖さを知るマカラが控えめに笑うと、森田はおどけて見せた。
「でも、私達は別に政治家になりたい訳じゃありません。同じ時代に生きる世界中の人と話し合ったら、どこまで出来るか知りたいだけです。人生は一回だけって、思春期に思いませんでしたか?」
マカラに微笑んだ森田が両手で左胸を押さえると、二人を囲む輪に混ざる何人かは満更でもない目を見せた。

その後、横たわったままの宗祖はマカラが何を語ったかを呟き続けたが、内容もかける時間も殆どが昨日と同じ。賀喜はそうと指摘する度に宗祖からゆっくりと睨まれ、謝っては許された。
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