第22話 四日目(1)

文字数 2,668文字

「子は、左の場合には、日本国民とする。出生の時に父が日本国民であるとき。」…国籍法(昭和二十五年五月四日法律第百四十七号)の条文

前日の会議がどれだけ遅くなっても、朝の捜査会議の始まる時間は同じ。人並み外れてタフな月城以外の皆の瞼は重い。鶴来と賀喜は欠伸を耐えながら今日の役割を確認すると、宗祖に大城洋子の話を聞くため、教団に向けて出発した。剣道フリークスも教団に向かったのは、その他の要注意人物一式の追加調査のため。若手に経験を積ませたい月城の方針で、仕事の配分は確かにアンバランスである。
四人が分乗する二台の覆面パトカーが滑り込んだのは霊園側の駐車場。極寒の日曜の朝に墓参りをする影はない。凍える外気に身を投じた鶴来と賀喜は、例の彼を探して周囲を見渡した。彼とは寛人。昨日の捜索が子供の世界に落とした影が気になったのである。
初めて教団を訪れて以来、必ず姿を見せた彼だが、この日はどこにも姿が見えない。ひたすら事務棟を目指す剣道フリークスに遅れるのも厭わず、鶴来と賀喜は視線を散らしながら足を進めた。
賀喜の曇った表情に光が差したのは、遠くの木陰から不意に男の子が現れた瞬間。今日は半袖半ズボンの寛人一人である。小さなポケットに両手を入れる彼が子供なりに渋い顔で目指しているのは、見る限り賀喜達の方。
「先に行ってて。」
振返った剣道フリークスは、言われて初めて昨日の五匹の子猿の一匹がいることに気付いた。但し、悪態をつかれた浦野にとっても、この寒さの中の半袖半ズボンの可愛さは無敵。立止まりはしたものの口元が緩むだけ。やはり笑顔の岡部が声を発すると、剣道フリークスは賀喜の指示通りに寒椿の先へ消えていった。
ペースを変えることなく歩き続け、笑顔で待ち構える鶴来と賀喜の正面で足を止めた寛人は、自分から近寄っておきながら大袈裟に二人から顔を逸らした。いつになく不貞腐れた態度は何か言いたいことがあるとしか思えない。
「おはよう、寛人君。」「おはようございます。」
賀喜が優しい笑顔を向けると、寛人は遠くを見たまま挨拶を返した。今日も反射神経は健在だが、このタイミングで寛人が一人でいることは不穏な兆候。賀喜は小さな心の内を探った。
「今日は何?何かあるから来てくれたんだよね。」
基本的に遠くを眺める寛人は、不満げに二人の表情を二度、三度と盗み見た。愛らしさに胸の苦しくなった賀喜が膝に手を突き、身を屈めると、空気の揺れで動きを察した寛人は、近くに迫る賀喜の顔を見つめた。
「暴力は駄目だよね。」
大きな瞳には力が込もっている。賀喜は、一瞥した鶴来が頷くと、悩める少年のために笑顔をつくり直した。
「そうだね。決まってるじゃない。」「誰か叩いた?」
鶴来も笑顔で質問を被せると、寛人は視線の先を変えた。
「僕はしないよ。でも、昨日、友達が他の子を叩いた。」「いつもの皆?」
「うん。喧嘩になって、栗原君が平野君を叩いて。」「ああ、それで今日いないんだ。」
「うん。どうしたらいいと思う?」「どうだろう。難しいな。」
子供の世界の喧嘩は日常茶飯事なので忘れるのが一番としか言い様がないが、一人ぼっちになった彼にとっては大事件。誰でもいいから相談したくなるのは当然である。鶴来が考える振りに逃げると、答えが欲しい寛人は真剣な眼差しを賀喜の顔に向けた。
「ひょっとして、栗原君を逮捕する?」
幼い飛躍に鶴来と賀喜は声を上げて笑ったが、寛人の表情は変わらない。大真面目の彼は、子供サイズの世界観のままに喋り続けた。
「そんなに強くじゃないよ。ただ、喧嘩になって。」
賀喜は寛人に付き合って真剣な眼差しを見せた。口元の笑みは微かに残っているが、大事なのは誠意である。
「寛人君。ボクシングでお金をもらってる人は、誰かを叩いたらナイフとかを使ったのと同じになるけど、普通の人はそうはならないんだよ。じゃあ、子供ならどうかな。」
聞き慣れない設定に、寛人は見せかけの眉間の皺を忘れた。
「栗原君は強いよ。」
過去の栗原君の暴力は超子供級なのだろうが、子供の世界で規格外でも生物学的には知れている。賀喜は笑顔を抑えて首を傾げた。
「平野君は怪我をした?」「ううん。でも、泣いてたよ。結構、痛かったんだよ。」
「それだけ?」
思考停止に陥った寛人は、ただ賀喜の顔を見つめた。暴力を軽視する響きの処理は子供によっては難しい。きっと、寛人の中では小さなモラル・ハザードが起きている。
「今日は誰も来なかったから、栗原君が叩いたせいだと思ったけど。」
実際は、捜査の噂が大人の耳に入り、ホット・パルスを寛人から遠ざけたに違いない。栗原君が平野君に謝ろうが、少なくとも捜査の決着がつくまで寛人は一人に決まっている。あるいは永遠に救われない寛人を眺めた鶴来は、子供のためのシンプルな答えを探した。
「寛人君。」「何?」
「暴力は絶対にダメだよ。だから、法律で罰があるんだ。牢に入ったり、罰金を払ったりとか。ね。でも、どこまでが暴力かは難しくてさ。例えば、赤ちゃんが隣りの赤ちゃんの顔に手を当てても暴力だと思う?」
寛人の黒目がゆっくりと右上に上がると、鶴来は、笑顔のまま顎を引き、大人が期待した通りに動く寛人を観察した。
「本人の考えがしっかりしてないと、やっぱり捕まえるとこまでは難しいんだよ。だから、偉い人が皆で話し合って、大人になったら捕まえるって決めたんだ。先生達が厳しく暴力は駄目だって言ってるのは将来のために教えてくれてるだけで、子供が誰かを叩いたって、すぐに捕まったりしないんだ。皆には内緒だけどね。」
抜け殻になった様に目を見開いていた寛人は、先生の言葉が正しいという基本的なゴールに安心したのか、途端に目線を下げた。真っ直ぐな目が捉えたのは鶴来の笑顔。
「あのさ。」「何、何?」
話し掛けられていない賀喜が笑顔で身を乗り出すと、一度は気を取られた寛人はやはり鶴来を見据えた。納得のいく答えを見せた鶴来を頼りに思ったのかもしれない。
「お墓にいたお爺さんだけど、…。」
大人二人が距離を詰めると寛人は顔を僅かに逸らしたが、口だけは続けて動かした。
「あのお爺さんをひっくり返したの僕だよ。指紋が残ってても、僕は何もしてないから。」
鶴来と賀喜は、寛人の態度がどこか不自然だった理由に気付いた。それは犯罪の現場を荒らした罪の意識のせい。対話の先に無実が待つと知った今、寛人はやっと正直になれたのである。被害者を気遣っただけだが、小さい心には見えない重しになっていたに違いない。細やかだが切実な告白に、鶴来と賀喜は声を上げて笑った。
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