第18話 三日目(5)

文字数 1,913文字

宗祖が乾いた唇を難しそうに閉じると、鶴来と賀喜はずっと気に掛けていたカーテンを揃って眺めた。外が騒がしかったのである。
由美子の棺が開かれる瞬間を思った二人がこの三十分程で信じたのは、総代が日本人ではないということぐらい。宗祖の継ぎ接ぎの様な話はあまりに大袈裟で、情報の密度のブレも大きい。すべて嘘だった方が、総代が漏らした宗祖の病状と合致して腑に落ちる。それでも月城の指示に従う鶴来と賀喜は、唇を執拗に気にする宗祖が遠い記憶を声に変えるのをただひたすら待った。

時間は数分前に遡る。風に踊るブルー・シートに覆われた世界で、月城達は土の中から現れた棺を見下ろしていた。昨晩の清水の説明によれば、納められた遺体の腐敗は進行している。孤独死の先に待つ光景として珍しくないが、月城や中村にとってはとっくに忘れた昔。眉を上げた月城が数歩下がると、中村と剣道フリークスも倣った。強行犯係は幸運にも門外漢である。
残された清水率いる鑑識係の面々は、職責を果たすため、決して動かない棺の写真を撮りながら次々と地に膝をついた。最初に蓋に手を掛けた清水は、腕組みする月城を見上げると念を押した。
「本当にクリーム塗らないでいいですか?」「構わない。」
清水達は臭い対策のためにバニラが香るスキンクリームを鼻の下に塗っている。製造終了の報にまとめ買いしたものだが、つまりなくても回るということ。嗅覚は侮れないので、所詮気休めである。清水は、弔意で目の光の消えた鑑識係の皆と順に視線を合わせると、棺に向き合った。
「開けます。」
一声上げた清水は蓋に掛けた指を滑らせ、いい位置を探した。釘は打たれていない。何の気持ちも見せない清水は、トランクでも開ける様に檜の蓋を開けた。
息を止めていた皆は義務感で身を乗り出し、棺の中を覗いた。検体を簡単に採れるとすれば、欲しいのは邪悪なスムージー。
しかし、事実は予想を裏切った。最初に漏れたのは短い驚きの声。次いで、状況を理解した者の声にならない声。鶴来と賀喜が聞いた雑音の正体である。
皆の目に映ったのは、棺の中に横たわる六十歳前後の女性。間違いなく職場のイベントの写真で微笑んでいた彼女だった。つまり、そのままということ。
どう見ても眠っているだけで、死んでいるとは思えない。開けたのは棺の蓋ではなく寝室のドアで、差し込んだ光で目を覚ましそう。それ程までに由美子の肌は美しく、永遠を感じさせた。
月城の目までロマンチックに輝くと、使命感に駆られた清水が鑑識係のトリビアを口にした。
「エンバーミングです。防腐剤が効いてます。気温の影響も大きいですね。」
エンバーミングは、主にキリスト教徒が死体を長く保存する場合に採る死体の処理方法。宗教的多元主義は深遠である。俄かに魔法から醒め切らない皆の前で、清水は淡々と仕事の手を進めた。
「汁ものがないですね。」
最後尾で控えていた中村は、今朝、清水が挙げた対策のひとつを口にした。
「じゃあ、ご遺体をそのまま回収しようよ。」
月城がするべき指示を中村が見掛け横取りしたのは、漠然と捜査が空振りに終わる予感がしたから。責任の所在をぼかすのである。察した月城が中村の厚意を受け入れ、そのままの言葉を力強く復唱すると、鑑識係は一斉に動き出した。白い納体袋の準備に写真撮影。強行犯係は引き続いて高みの見物である。
準備が整うと、清水は由美子の体の下に担架の一端を押し込んだ。死後硬直を忘れた由美子の腕の角度は自由になるので、いよいよ生きている様。
「土葬って分かんないけど、ばらばらになったりしないんだ。」
中村の心配に答えたのは、由美子の重さをまだ掴めていない清水。
「持ち上げても臭いがしないですし、大丈夫そうですよ。」
他の鑑識が手を添えると、撓る由美子の体は簡単に担架に包まれ、流れ作業で納体袋に納められた。病気と長年戦った彼女は、死んでまで体にメスを入れられる。月城が由美子に向かって両手を合わせたのは、人としてごく自然の反応である。皆が続くと、後で拝むつもりの清水は、気持ちの区切りをつける様に音を立て、ファスナーを閉めた。勉が生涯を捧げた女性の亡骸は、この瞬間、捜索令状に記載された検体になったのである。

「何だったんでしょうね。」
理由を知る賀喜が首を傾げて微笑むと、唇の何かを気に掛けるのを止めた宗祖は眉間に皺を寄せた。鶴来が顔を覗き込んでも、自分の世界に籠る宗祖に気持ちは届かない。
「アノ人ハ…。」「総代のことですか?」
僅かに身を寄せた賀喜が言葉を重ねると、宗祖はかすれた声で呟き続けた。
「アノ人ハ、自分ノ人格ヲツクッタスベテヲ、若イ時ニ一回捨テテシマッタンデス。ソレハ、トテモ怖イコトナンデス。」
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